第四十二話 帰る場所
夕暮れの街道に、冷たい風が吹いていた。
森の向こうへ傾いた太陽が、道を赤く染めている。
つい先ほどまで命懸けで走っていたことが嘘のように、辺りは静かだった。
「……さて、どうしようか」
僕は街道の脇に座り込んでいる商人たちを見回した。
森の中に取り残されていた五人と、先に保護していた一人。
これで、行方不明になっていた商隊の六人全員が揃ったことになる。
全員を助けられたのは、本当によかった。
ただ、問題が一つ。
「……さすがに、このまま歩いて帰るのは厳しいよね」
商人たちは皆、ひどく疲れ切っていた。
衣服は泥や土埃に汚れ、何日もまともに休めていなかったのか、座ったまま動こうとしない者もいる。
特に負傷している二人は、すぐに歩ける状態ではなさそうだった。
僕ら自身も、あの巨大な魔物との戦闘でかなり体力を消耗している。
……うん。
どう考えても、今日は帰れそうにないね。
「殿下」
そんなことを考えていると、グレンが近づいてきた。
「負傷者の状態を確認しましたが、やはり長距離の移動は難しいでしょうな」
「だよねえ……。町までまだ結構あるし、もうすぐ日も暮れちゃうし」
「ここで一夜を明かし、救援を待つのがよろしいかと」
「そうしようか」
僕は頷き、街道の先へ目を向けた。
町までの距離を考えると、救援を呼んだとしても、すぐに来てもらえるわけではない。
それに、あの巨大な魔物はまだ生きている。
今すぐ追いかけてくる可能性は低そうだけれど、だからといって安心できる状況でもなかった。
「グレン、団員さんを二人、町まで向かわせてもらってもいいかな?」
「救援の要請ですな」
「うん。馬車と、怪我人の手当てができる人を連れてきてもらいたいんだ」
「承知しました。二人で行動させれば、夜道でも多少は安全でしょう」
「お願い。できれば無理せず、慎重に帰ってほしいって伝えてね」
グレンは頷くと、団員たちへ指示を出し始めた。
残るのは僕とフィオナ、グレン、それから団員が一人。
商人たちを守りながら一晩過ごすには、少し心許ない人数だ。
とはいえ、僕とフィオナも戦えるし、グレンだっている。
開けた場所で警戒を怠らなければ、何とかなるだろう。
「カイル様」
隣から、フィオナが声を掛けてきた。
「少し先に、野営に向いていそうな場所がありました。街道からも近く、森の様子を確認しやすいと思います」
「お、もう見つけてくれたんだ。ありがとう」
「ただ、負傷者の方を運ぶには、少し手を借りる必要があります」
「それなら僕も手伝うよ。グレンたちにも声を掛けようか」
そうして僕らは、日が完全に沈む前に野営の準備を始めることにした。
◇
「……お前、生きてたのか」
負傷者を運ぼうとしていた時だった。
掠れた声が聞こえて、僕は振り返った。
最初に保護した商人が、担架の上で目を開けている。
その傍らには、森の小屋で救出した仲間の一人が膝をついていた。
「それはこっちの台詞だ。戻ってこないから、もう駄目かと思ったぞ」
「……悪い。途中で足をやっちまってな」
「謝るなよ。お前が外に出てくれたから、俺たちは助かったんだ」
男性は何か言おうとしたものの、途中で言葉を詰まらせた。
代わりに、仲間の腕を強く掴む。
相手も、その手を握り返していた。
しばらくの間、二人は何も言わなかった。
僕も、少し離れたところからその様子を眺めていた。
……よかった。
森の中で最初にこの人を見つけられなかったら、僕らは小屋の存在に気づけなかったかもしれない。
そう考えると、彼が必死に歩き続けてくれたおかげで、残りの五人を助けられたようなものだ。
「殿下」
商隊の代表らしい男性が、こちらへ顔を向けた。
「この度は、本当にありがとうございました。殿下がいらっしゃらなければ、我々は……」
「いいよ、もう。さっきも聞いたからさ」
僕が笑うと、男性は困ったように口を閉じた。
「それより、まずは身体を休めて。怪我もちゃんと治さないと、商売どころじゃないでしょ?」
「……はい」
「荷物のことも気になると思うけど、今は無理しない方がいいよ。あの魔物がまだいるかもしれないしね」
そう言うと、男性は少しだけ表情を曇らせた。
商人にとって、商品や荷馬車は大切な財産だ。
今回の被害は、きっと小さくない。
だから、気にするなと言って済ませられる問題ではないだろう。
「荷物については、今後どうするか考えよう。少なくとも、今すぐ取りに戻るのは危険だと思う」
「……分かりました」
男性は静かに頷いた。
それから、隣にいる仲間たちを見回す。
「まずは、全員で帰らなければなりませんからな」
「うん。それが一番だよ」
僕は頷いた。
失った荷物は、簡単には戻らないかもしれない。
でも、ここにいる六人は、全員生きて帰ることができる。
今は、それで十分だと思いたかった。
◇
日が沈む頃には、街道沿いの小高い場所に簡単な野営地ができていた。
周囲には背の高い木が少なく、森の方も見通しやすい。
地面には乾いた草が広がっていて、負傷者を寝かせるにも悪くなさそうだった。
集めた枝で風除けを作り、持参していた布や外套を敷いて休む場所を確保する。
僕も手伝おうとしたのだけれど、どうやら肩を動かすと少し痛むらしい。
「……いたっ」
「カイル様?」
「ああ、いや。ちょっと肩がね」
何でもないように答えたつもりだった。
けれど、フィオナの視線はすぐに僕の肩へ向かった。
「無理はなさらないでください。先ほども、かなり強い衝撃を受けていたでしょう」
「うん。分かってるんだけど、これくらいなら動けるかなって」
「動けることと、動かしてよいことは別です」
「……ごもっともです」
素直に手を止める。
実際、今の僕はあまり役に立てそうにない。
魔力もかなり消耗しているし、身体も重い。
こういう時に無理をして、明日もっと動けなくなるのは困る。
……仕方ない。
今日は大人しくしていよう。
それからしばらくして、小さな焚き火が起こされた。
持参していた食料と水を分け合い、商人たちにも少しずつ口にしてもらう。
十分な量とは言えなかったけれど、何も食べられないよりはずっといい。
火の傍では、商人たちが毛布に包まり、静かに身体を休めていた。
時折、仲間の様子を確かめる声が聞こえてくる。
誰かが咳をすれば、隣の人間が水を渡す。
少し寒そうにしている者がいれば、余った布を掛け直す。
皆、疲れ切っているはずなのに、互いを気遣うことだけは忘れていなかった。
……なんか、いいなあ。
僕は焚き火の傍らへ腰を下ろした。
赤い炎が揺れ、乾いた薪が小さな音を立てて弾ける。
「カイル様」
隣に、フィオナが座った。
「少しは休めましたか?」
「うん。座ってる分にはだいぶ楽になったよ」
「それならよかったです」
彼女は小さく頷くと、焚き火へ視線を向けた。
森の奥から、遠く獣の鳴き声が聞こえる。
僕は思わず、そちらへ顔を向けた。
「……あの魔物、今頃どうしてるんだろうね」
「森へ戻っていればよいのですが」
「そうだね。できれば、もう街道には出てこないでほしいなあ」
巨大な狼の姿を思い出す。
あの大きさ。
あの力。
そして、何かに怯えているような様子。
単に腹を空かせていただけでは説明できない、妙な違和感があった。
「あの魔物、ずいぶん弱ってたよね」
「はい。傷もありましたし、動きにも疲労が見られました」
「それなのに、あれだけ強かったんだからなあ……」
僕は少しだけ肩を落とした。
正直、もう一度戦いたいとは思わない。
あれほど巨大な魔物を相手にするのは、いくら何でも疲れる。
しかも、今回は逃げるだけで精一杯だった。
「……森で何か起きているんでしょうか」
フィオナが静かに呟いた。
「かもしれないね」
僕は頷いた。
以前、森の奥へ入った時にも、妙なことがいくつかあった。
あの竜。
魔物の様子。
そして、森の深部で感じた違和感。
今回の件と直接関係があるのかは分からない。
でも、少なくとも森の様子が普段と違うことは確かだった。
「……また調べないといけないのかなあ」
思わず、ため息が漏れる。
「必要になれば、そうなると思います」
「だよねえ……」
できれば、しばらく森には入りたくない。
そもそも、僕はのんびり暮らすためにこの辺境へ来たはずなんだけど。
どうしてこんなに忙しくなっているんだろう。
「……カイル様」
「ん?」
「その、今日の戦いについてなのですが」
フィオナが、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「カイル様が攻撃を受けた時、私もかなり焦ってしまいました」
「ああ、あの時ね」
僕は自分の肩へ目を向けた。
あの魔物の一撃は、確かに危なかった。
防御が間に合っていなければ、こんな怪我では済まなかっただろう。
「でも、フィオナが助けてくれたでしょ?」
「……はい」
「だったら、僕としては十分ありがたかったけどなあ」
彼女は、すぐには答えなかった。
少しだけ俯き、焚き火の炎を見つめている。
「護衛として、もっと早く気づけたのではないかと考えていました」
「うーん……。でも、それを言ったら僕だって、もっと上手く動けたかもしれないしね」
今日の戦いでは、反省することが山ほどある。
魔力の使い方。
拘束する位置。
逃げ道の選び方。
思い返せば、もっと早く判断できた場面もあった気がする。
「まあ、次に同じようなことがあったら、もう少し上手くやりたいよね」
「……そうですね」
「それに、僕だけじゃなくてフィオナも無事でよかったよ。あの魔物、フィオナの方にも何度か飛びかかってたでしょ?」
「はい。ですが、動きはある程度読めていましたので」
「さすがだね。僕なんて、途中から逃げることで頭がいっぱいだったよ」
そう言うと、フィオナの口元が少しだけ緩んだ。
「それでも、最後の逃走経路を判断されたのはカイル様です」
「……あれはもう、思いつきに近かったけどね」
「その判断がなければ、全員で逃げ切ることは難しかったと思います」
「そっか。じゃあ、お互い頑張ったってことでいいかな」
フィオナがこちらを見る。
そして、静かに頷いた。
「はい。私も、そう思います」
その返事を聞いて、僕は少し安心した。
少なくとも、今日のことを一人で背負い込む必要はない。
僕にもできることがあって、フィオナにもできることがある。
グレンや団員たちがいなければ、商人たちを無事に連れ出すことだって難しかっただろう。
……やっぱり、何でも一人でやろうとするのはよくないね。
「それにしても、疲れたなあ……」
僕は大きく息を吐いた。
「帰ったら、しばらく休みたいよ」
「それは、ぜひそうしてください」
「フィオナも一緒にね」
「……私も、ですか?」
「もちろん。フィオナだって今日はずっと走り回ってたんだから、ちゃんと休まないと」
彼女は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し考えるように焚き火へ視線を戻す。
「……そうですね。帰ったら、少し休ませていただこうと思います」
「うん。それがいいよ」
僕は笑った。
最近のフィオナは、以前より自分のことも考えるようになってきた気がする。
まだ遠慮することはあるけれど、それでも、最初に出会った頃とは随分違う。
……まあ、僕も人のことを言えるほど休むのが上手いわけじゃないんだけどね。
いや、休むのは得意か。
休む時間を確保するのが下手なのかもしれない。
……それはそれで問題だなあ。
◇
夜が深まるにつれ、野営地は静かになっていった。
焚き火の火は小さくなり、聞こえてくるのは風に揺れる草の音と、時折薪が弾ける音くらいだった。
商人たちは、ほとんどが眠っている。
グレンと団員が交代で見張りを続ける中、カイルもようやく横になった。
フィオナは少し離れた場所に腰を下ろし、眠っている人々へ視線を向けた。
先ほどまで、商人たちは互いに声を掛け合っていた。
今はその姿も静かになり、ようやく安心して休めているようだった。
全員を助けられてよかった。
その思いは、カイルと同じだった。
ただ、フィオナにはもう一つ、気になっていることがあった。
隣で眠っているカイルの肩。
応急処置は済ませたものの、時折痛むようで、横になる時にも少し顔をしかめていた。
それでも、彼は商人たちの様子を気に掛けていた。
怪我人を運ぶ時も手伝おうとしたし、自分の分の食料を減らしてまで、商人たちへ分けようとしていた。
最後には、こちらの心配までしてくれた。
……本当に、この方は。
フィオナは小さく息を吐いた。
カイルは、面倒なことを嫌う。
朝はなかなか起きないし、仕事が増えれば露骨に嫌そうな顔をする。
けれど、誰かが困っている時には、結局放っておけない。
今日だって、危険を承知で森へ入り、会ったこともない商人たちを助けに向かった。
彼にとっては、きっと特別なことではないのだろう。
必要だと思ったから、そうした。
それだけなのかもしれない。
……私も。
今日、商人たちを助けられてよかったと思っている。
誰かを守れたことが、嬉しかった。
その気持ちは、護衛としての役目とは少し違う。
自分で考え、自分で動き、誰かの力になれた。
以前の自分だったら、そんなことを素直に喜べただろうか。
フィオナは、眠っている商人たちを見回した。
彼らには、帰る場所がある。
家族がいる者もいるだろう。
仕事仲間や、帰りを待っている人がいる者もいるかもしれない。
そして、彼らが帰ってこなければ、心配する人たちがいる。
……帰る場所。
その言葉が、不思議と胸に残った。
フィオナにも、今は帰る場所がある。
カイルと共に暮らす屋敷。
アリアやセバスチャンがいて、朝になれば食事の用意が始まる。
町へ出れば、顔を覚えた住民たちが声を掛けてくれる。
仕事を頼まれることもあれば、何気ない世間話をすることもある。
以前は、そんな日々が自分に訪れるとは思っていなかった。
けれど今は、当たり前のように明日を考えている。
帰ったら、まずはカイルの肩を診てもらおう。
それから、使った矢の補充も必要だ。
自分の弓も、念のため確認しておきたい。
……その前に、少し休むべきでしょうか。
先ほどのカイルの言葉を思い出す。
フィオナは、自分の手を見下ろした。
指先には、弓を引き続けた疲労がまだ残っている。
腕も重い。
今は大丈夫でも、このまま無理をすれば、明日になって動きが鈍るかもしれない。
それでは、かえって困ることになる。
……そうですね。
少し休みましょう。
そう決めた時、グレンがこちらへ歩いてきた。
「フィオナ殿、そろそろお休みください。今夜の見張りは我々で続けられます」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えます」
グレンは少し意外そうに瞬きをした。
けれど、すぐに穏やかな表情で頷いた。
「ええ。お二人とも、今日は十分に働かれましたからな」
フィオナは礼を言い、カイルの近くへ戻った。
外套を掛け直してから、自分も休む場所を整える。
見上げた夜空には、星が浮かんでいた。
屋敷の窓から見るものと、同じ星空。
けれど、今夜は少しだけ違って見える。
……早く、帰りたいですね。
フィオナはそう思いながら、静かに目を閉じた。
◇
翌朝。
「……ああ、よく寝た」
目を覚ますと、空はすっかり明るくなっていた。
……いや。
明るいどころか、結構日が高い。
あれ?
「おはようございます、カイル様」
顔を上げると、フィオナがこちらを見ていた。
「……おはよう。もしかして、僕って最後まで寝てた?」
「はい。皆さん、もう朝食を済ませています」
「……そうなんだ」
どうやら、ずいぶん長く眠っていたらしい。
僕はゆっくり身体を起こした。
肩にはまだ痛みが残っているものの、昨日よりは随分楽になっている。
魔力も、ある程度は回復しているようだった。
「起こしてくれてもよかったのに」
「グレンさんから、できるだけ休ませるようにと言われていましたので」
「……なるほどねえ」
どうやら、僕だけ随分と甘やかされていたらしい。
……いや、昨日の状態を考えれば当然なのかな。
「フィオナはちゃんと寝られた?」
「はい。おかげさまで、十分に休めました」
「そっか、それならよかった」
僕は頷いてから、周囲を見回した。
商人たちは昨日よりも少し元気を取り戻しているようだった。
負傷者の二人も、今は落ち着いて休んでいる。
グレンは団員と一緒に、周辺の様子を確認していた。
どうやら、夜の間に魔物が現れることはなかったらしい。
……ひとまず安心だね。
「それで、町へ向かった二人は?」
「まだ戻っていません。ですが、道中で何もなければ、今日中には救援が到着すると思います」
「そっか。じゃあ、もう少しの辛抱だね」
そう答えたところで、フィオナが小さな器を差し出してきた。
「こちら、朝食です。少し冷めてしまいましたが」
「お、ありがとう」
受け取ると、中には簡単な粥が入っていた。
昨日の残りの食料を煮たものらしい。
豪華な食事ではないけれど、温かいものが食べられるだけでもありがたい。
「いただきます」
一口食べる。
……うん。
悪くない。
というか、昨日は疲れすぎてあまり食べられなかったから、何でもおいしく感じる気がする。
「……帰ったら、ちゃんとしたご飯が食べたいなあ」
思わず呟くと、フィオナの口元が少し緩んだ。
「そうですね。私も、屋敷の食事が恋しくなってきました」
「でしょ? やっぱり、いつものご飯が一番だよね」
そんな他愛のない話をしながら、僕らは救援を待った。
結局、町から馬車が到着したのは、その日の午後になってからだった。
◇
「殿下!」
街道の向こうから、聞き覚えのある声がした。
目を向けると、二台の馬車がこちらへ向かってきている。
先頭を歩いていたのは、昨日町へ向かった団員の一人だった。
「おお、来た!」
僕は思わず立ち上がった。
馬車が停まると、中から数人の町人が降りてきた。
負傷者の手当てができる者も同行してくれたらしく、すぐに二人の状態を確認し始める。
「殿下、お怪我はありませんか?」
「僕は大丈夫だよ。それより、商人さんたちをお願い」
そう答えると、近くにいたフィオナが静かに口を開いた。
「カイル様も肩を負傷されています。後ほど、確認していただけますか?」
「……あ」
思わず、彼女を見る。
フィオナは何事もなかったような顔をしていた。
……まあ、そうだよね。
隠しても仕方ないか。
手当てのできる人に肩の状態も確認してもらい、ひとまず大きな問題はなさそうだと分かったところで、帰還の準備が始まった。
負傷者の二人は、揺れが少なくなるよう寝かせて運ぶ。
残りの商人たちも、できるだけ馬車へ乗せることになった。
「殿下も、こちらへ」
グレンが馬車を示す。
「いや、僕は歩けるけど……」
「念のためです」
「……はい」
どうやら、反論するだけ無駄らしい。
僕は大人しく馬車へ乗り込んだ。
フィオナも隣へ座る。
やがて御者の掛け声とともに、馬車がゆっくりと動き始めた。
車輪が地面を転がり、乾いた土埃が舞い上がる。
遠くに見える森が、少しずつ小さくなっていった。
「……ようやく帰れるね」
「はい」
フィオナが窓の外へ視線を向ける。
その横顔は、昨日よりもずっと穏やかだった。
僕も、背もたれへ身体を預けた。
……ああ。
早くベッドで寝たいなあ。
◇
町へ戻ったのは、夕方近くになってからだった。
見慣れた建物が見えてきた時には、思わず安堵の息が漏れた。
「……帰ってきたあ」
僕が呟くと、隣のフィオナが少しだけ笑った。
「お疲れ様でした、カイル様」
「フィオナもね。いやあ、本当に疲れたよ」
馬車が町へ入ると、通りを歩いていた住民たちがこちらへ顔を向けた。
最初は何事かと不思議そうにしていた人たちも、荷台に乗っている商人たちの姿を見つけると、次々に声を上げ始めた。
「おい、あの商隊じゃないか?」
「戻ってきたのか!」
「怪我人がいるぞ! 誰か手を貸してくれ!」
馬車が停まると、近くにいた男たちがすぐに集まってきた。
負傷者を運ぶために場所を空ける者。
宿屋へ連絡に走る者。
水や毛布を持ってくる者。
皆、誰かに指示されるのを待つことなく、それぞれ動き始めていた。
僕は馬車から降り、その様子を眺める。
……すごいなあ。
少し前だったら、こんなに人が集まることもなかったかもしれない。
そもそも、商人が何日も泊まれる場所だって、今ほど整っていなかったはずだ。
それが今では、こうして皆で助け合っている。
「殿下!」
商隊の代表が、馬車から降りながら声を掛けてきた。
「この度は、本当にお世話になりました」
「うん。まずはゆっくり休んでね」
「はい。荷物のことなど、考えなければならないことはありますが……」
男性は、仲間たちを見回した。
負傷していた者も、今は町の人々に支えられながら運ばれている。
「こうして全員で戻れたことが、何よりです」
「そうだね」
僕も、自然と笑みが浮かんだ。
「また元気になったら、町に来てよ。今度はちゃんと商売の話をしよう」
男性は少し驚いたように目を見開いた。
「……また、ですか?」
「うん。今回みたいなことが起きないように、こっちでも何とかしないといけないけどね」
もちろん、無理に来てほしいとは思わない。
あんな目に遭ったのだから、もう二度と来たくないと言われても仕方がない。
けれど。
「せっかく知り合えたんだし、これっきりっていうのも寂しいじゃん?」
そう言うと、男性はしばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げる。
「……はい。必ず、また伺います」
「うん、待ってるよ」
僕は頷いた。
商人たちが宿屋へ向かうのを見届けてから、ようやく大きく息を吐く。
……よし。
これで、ひとまず僕らの仕事は終わりかな。
そう思って歩き出した時だった。
すぐ近くから、荷車の車輪が跳ねる音が聞こえてきた。
「おっと!」
振り返ると、荷車を押していた男性が、地面の窪みに車輪を取られている。
積んでいた木箱が大きく揺れ、慌てて後ろの男性が支えに回った。
どうやら、道の一部が崩れていたらしい。
「……危なっ」
僕は思わず呟いた。
幸い、荷物が落ちることはなかった。
男性たちは少し苦労しながら荷車を動かし、何事もなかったように通りを進んでいく。
……そういえば。
最近、この辺りも荷車が増えたよね。
以前はほとんど人のいなかった通りにも、今では商人や住民が行き交っている。
新しい店も増えた。
工房からは作業の音が聞こえ、建築途中の家もいくつか見える。
町は、確かに変わってきている。
ただ、その一方で。
道は相変わらず狭い場所が多いし、舗装されていないところも残っている。
人や荷車が増えたことで、以前は気にならなかった不便さが、少しずつ目立ち始めていた。
「……まだまだ、やることはありそうだなあ」
「カイル様?」
「いや、何でもないよ。とりあえず帰ろうか」
「はい」
僕らは再び歩き始めた。
今は、余計なことを考えるより休みたい。
……本当に。
今日くらいは、仕事のことを忘れさせてほしい。
◇
「お帰りなさいませ、カイル様」
屋敷の扉を開けると、セバスチャンが出迎えてくれた。
その少し後ろには、アリアの姿もある。
「ただいま、セバス」
「ご無事で何よりです」
「うん。ちょっと疲れたけどね」
僕がそう答えると、アリアがこちらへ歩み寄ってきた。
「カイル様」
「……ん?」
「お怪我をされたと伺いましたが」
……あ。
もう伝わってるんだ。
「いや、まあ、ちょっと肩をね。でも大したことないよ」
「大したことがないかどうかは、確認してから判断いたします」
「……はい」
どうやら、帰って早々に怒られるらしい。
……いや、心配してくれてるんだろうけどさ。
「フィオナさん」
「はい」
「カイル様は、きちんと休まれていましたか?」
「昨夜は十分に休んでいただきました。ただ、戦闘直後は少し無理をされていたと思います」
「フィオナ!?」
思わず振り返る。
彼女は、少しだけ困ったような顔をしていた。
「事実ですので……」
「……いや、そうだけどさあ」
僕は肩を落とした。
アリアは小さく息を吐くと、今度はフィオナへ視線を向けた。
「フィオナさんも、お疲れでしょう。今日はもう、お二人ともお休みください」
「ありがとうございます、アリアさん」
「セバスチャン、後のことはお願いいたします」
「承知しました」
セバスチャンが静かに頷く。
「殿下、商隊の件につきましては、グレン殿から詳しい報告を受ける予定です。必要な手配はこちらで進めておきますので、今はお身体を休めてください」
「……ありがとう、セバス。助かるよ」
僕は素直に礼を言った。
正直、今から報告書を読んだり、今後の対応を考えたりする気力はない。
こういう時、セバスチャンたちがいてくれるのは本当にありがたい。
……やっぱり、人に任せられるって大事だね。
その後、肩の傷を改めて手当てしてもらい、僕らはようやく食堂へ向かった。
温かい料理が並んだ食卓を見た瞬間、思わず声が漏れる。
「……ああ、これだよ、これ」
フィオナが隣で少し笑った。
「そんなに嬉しいですか?」
「そりゃもう。昨日からずっと、ちゃんとしたご飯が食べたかったんだよね」
「確かに、私も楽しみにしていました」
「でしょ?」
椅子へ腰掛け、温かいスープを一口飲む。
……おいしい。
何というか、身体の奥まで温まる。
たった一日と少し屋敷を離れていただけなのに、随分久しぶりに帰ってきたような気がした。
窓の外には、夕暮れの町が広がっている。
遠くから、人々の声が聞こえてきた。
いつもと変わらない、穏やかな夕方。
僕はもう一度スープを口に運んだ。
……ああ。
やっぱり、こういう生活が一番だなあ。
◇
食事を終えた後、フィオナは自室へ戻るため、屋敷の廊下を歩いていた。
窓の外は、すっかり暗くなり始めている。
厨房の方からは、食器を片付ける音が聞こえてきた。
少し離れた部屋では、セバスチャンが誰かと話しているらしい。
聞き慣れた声。
見慣れた廊下。
いつもと変わらない、屋敷の風景。
フィオナは、ふと足を止めた。
……帰ってきたのですね。
森の中にいた時は、周囲の気配に神経を尖らせていた。
いつ魔物が現れるかも分からず、休んでいても完全に気を抜くことはできなかった。
それが今は、何も警戒せずに廊下を歩いている。
誰かが近づいてきても、身構える必要はない。
声を掛けられれば、自然に返事ができる。
そんな当たり前のことが、今では自分の日常になっていた。
……最初にこの屋敷へ来た頃は。
ここまで落ち着ける場所になるとは、思っていなかった。
与えられた部屋も、温かい食事も、初めはどこか現実味がなかった。
けれど、今は違う。
自分の部屋には、自分で選んだものがある。
明日になれば、またいつもの仕事が始まる。
町へ出れば、顔見知りの人々が声を掛けてくれるだろう。
そして、カイル様はきっと、朝になってもなかなか起きてこない。
そこまで考えて、フィオナは少しだけ口元を緩めた。
……本当に、変わりませんね。
けれど。
そんな日常が、今はとても心地よかった。
フィオナは窓の外へ視線を向ける。
夕闇の中、町のあちこちに灯りがともり始めていた。
少し前よりも、灯りの数が増えた気がする。
それだけ、この町で暮らす人が増えてきたということなのだろう。
自分も、その一人だ。
誰かに決められたわけではない。
自分の意思で、この町に残ると決めた。
そして今も、ここで暮らしていきたいと思っている。
フィオナは、静かに息を吐いた。
……帰ってこられて、よかった。
その思いを胸に、再び廊下を歩き始める。
明日は、カイル様と一緒にゆっくり休もう。
そう決めるだけでも、何だか少し嬉しかった。
◇
……さて。
ようやく自室へ戻ってきた僕は、椅子へ深く腰掛けた。
「……疲れたあ」
誰もいない部屋に、思わず声が漏れる。
ベッドはすぐそこにある。
今すぐ横になれば、きっと朝までぐっすり眠れるだろう。
……いや。
下手したら昼まで寝られるかもしれない。
それくらい疲れている。
僕はしばらく椅子に座ったまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
屋敷の窓からは、町の一部が見渡せる。
以前より建物が増え、夕暮れを過ぎても人の行き来がある。
商人が訪れるようになってから、町の雰囲気は大きく変わった。
茶の生産も、少しずつ軌道に乗ってきている。
店や宿屋も増えた。
住民たちが自分たちで始めた仕事も、以前よりずっと多くなった。
……うん。
悪くない。
最初にこの町へ来た頃を思えば、随分と暮らしやすくなったものだ。
ただ。
今日、町へ帰ってきた時の光景を思い出す。
道の窪みに車輪を取られた荷車。
狭い通りを行き交う商人たち。
怪我人を運ぶために集まってくれた住民たち。
そして、森で助けた六人の商人。
……今回の件、運がよかっただけなんだよね。
僕らが捜索に向かう判断をしていなかったら。
最初の負傷者を見つけられなかったら。
あの小屋で、商人たちが生き延びていなかったら。
何か一つでも違っていたら、全員を助けることはできなかったかもしれない。
しかも、あの巨大な魔物はまだ森にいる。
同じような事件が、もう一度起きないとも限らない。
「……困ったなあ」
僕は、小さくため息を吐いた。
商人が増えるのはありがたい。
町が賑やかになるのも、悪くない。
でも、商隊が来るたびに僕が森まで助けに行くようなことになったら、さすがに困る。
というか、絶対に嫌だ。
そんな生活を続けていたら、のんびりする時間なんてなくなってしまう。
……だったら。
そもそも、そんな事件が起きにくいようにしておくべきなんじゃないだろうか。
街道の警備を増やす。
危険な場所を調べて、必要なら整備する。
町の中だって、今のままでいいわけじゃない。
人や荷車が増えれば、道が狭いことも、建物が足りないことも、いずれ大きな問題になる。
それから……。
「……人手も足りないんだよね」
思い返せば、最近はどこへ行っても人手が足りないという話を聞く。
仕事は増えているのに、それを任せられる人がいない。
今は何とかなっていても、このまま町が大きくなったら、もっと大変になるだろう。
……ああ、もう。
考え始めたら、やることがどんどん増えてきた。
僕は思わず、天井を仰いだ。
「……これじゃ、休みたいなんてあんまり言ってられないかもね」
そう呟いてから、自分で少し驚いた。
……いや。
もちろん、休みたいよ?
できれば明日も明後日も、何もせずに過ごしたい。
朝はゆっくり起きて、おいしいご飯を食べて。
気が向いたら町を散歩して、疲れたら昼寝をする。
そんな生活が理想なのは、今も変わらない。
でも。
目の前の面倒事を放っておいた結果、後になってもっと大きな面倒事が増えるのは、それ以上に嫌だった。
道が悪いままなら、荷車が増えるほど問題も増える。
人手が足りなければ、仕事が増えるほど誰かに負担が掛かる。
警備が足りなければ、また商隊が襲われるかもしれない。
そうなってから慌てて対処するくらいなら、今のうちに手を打っておいた方が、きっと楽だ。
……うん。
やっぱり、そうだよね。
僕は椅子の背にもたれ、もう一度窓の外へ目を向けた。
町の灯りが、夜の中にぽつぽつと浮かんでいる。
あの一つ一つの下に、人が暮らしている。
働いて、ご飯を食べて、家へ帰って。
明日になれば、またそれぞれの日常が始まる。
今日助けた商人たちも、今頃は宿屋で休んでいるだろう。
フィオナも、アリアも、セバスチャンも、この町で暮らしている。
……ここまで来たんだ。
せっかくなら、もっと暮らしやすくしたい。
安心して商売ができて、仕事を探している人が働けて、皆が普通に生活できる。
そんな町になれば、僕自身もきっと楽になるはずだ。
……いや、結局そこなんだけどさ。
でも、それでいいと思う。
僕がのんびり暮らすために、町のみんなものんびり暮らせるようにする。
そのために、今ちょっと頑張る。
……うん。
悪くない考えじゃないかな。
そんなことを考えていると、扉が軽く叩かれた。
「カイル様、まだ起きていらっしゃいますか?」
フィオナの声だった。
「起きてるよ。どうしたの?」
「お部屋の灯りがついていましたので。肩の具合はいかがですか?」
「もうだいぶ楽だよ。ありがとう」
扉を開けると、フィオナが廊下に立っていた。
どうやら、様子を見に来てくれたらしい。
「もうお休みになるのかと思っていました」
「そのつもりだったんだけど、ちょっと考え事しててさ」
「考え事、ですか?」
「うん。これからの町のこと」
そう答えると、フィオナは少し意外そうな顔をした。
「……カイル様が、ご自分から?」
「そんなに珍しい?」
「いえ。ただ、今日はもう何も考えたくないと仰ると思っていましたので」
「……それは、実際そうなんだけどね」
僕は苦笑した。
「でも、今回みたいなことがまた起きたら嫌じゃん? だったら、今のうちにできることをやっておいた方がいいかなって」
フィオナは、静かに僕の話を聞いていた。
「街道もそうだし、町の道だってまだまだだし。人も足りないし……。何だか、放っておくと後で大変になりそうなんだよね」
「……そうですね。町が大きくなれば、今までとは違う問題も増えてくると思います」
「でしょ? だから、ちょっと本腰を入れてみようかなって」
言ってから、少しだけ照れくさくなった。
今までだって仕事はしてきたけれど、自分から本腰を入れるなんて言うのは、何だか僕らしくない気がする。
「まあ、できるだけ僕の仕事が増えないようにしたいんだけどね」
付け加えると、フィオナの表情が少し和らいだ。
「それも、大切だと思います」
「お、分かってくれる?」
「はい。カイル様だけでなく、町の皆さんが無理なく仕事を続けられることも必要でしょうから」
……なるほど。
そういう考え方もあるのか。
「確かに、そうだね」
僕は頷いた。
町が大きくなっても、誰か一人が無理をし続けるようでは困る。
僕だけじゃない。
グレンも、バルトたちも、町で働いている人たちも同じだ。
仕事を増やすだけではなく、仕事を任せられる人も増やしていく。
そうすれば、今よりもっと色々なことができるようになるかもしれない。
……うん。
何だか、少し楽しみになってきたな。
「フィオナ」
「はい」
「これから、またちょっと忙しくなるかもしれないけど……一緒に頑張ってくれる?」
フィオナは、すぐに頷いた。
「もちろんです。私も、この町をもっとよくしていきたいと思っています」
「そっか。ありがとう」
その返事が、何だか嬉しかった。
僕はもう一度、窓の外を眺めた。
まだ小さな、辺境の町。
建物も道も、整っていないところばかりだ。
きっと、これからも面倒なことは山ほどある。
それでも。
ここには、帰ってきたいと思える場所がある。
その場所をもっとよくしていくことは、案外悪くないのかもしれない。
「……さて、それじゃあ明日から――」
「カイル様」
「ん?」
「まずは、今日しっかりお休みください」
フィオナが、穏やかな声でそう言った。
僕は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「……そうだね。さすがに今日は休ませてもらおうかな」
「はい。それがよいと思います」
フィオナの口元が、少しだけ緩む。
僕も笑い返してから、窓の外へ最後に一度だけ目を向けた。
夕闇に包まれた町には、いくつもの灯りがともっている。
あの灯りが、これからもっと増えていくのだろうか。
もしそうなったら。
この窓から見える景色も、今とは随分違うものになるのかもしれない。
……まあ。
それを考えるのは、明日からでいいよね。
今夜はとりあえず、ゆっくり眠ろう。
僕らが帰ってきた、この町で。




