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花咲く辺境の第六皇子  作者: じゃこー
第二章 辺境に芽吹く
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第四十一話 森に潜むもの

 ……ゴォォォ……。


 森の奥から、低い唸り声が響いていた。


 木々の間を吹き抜ける風が、頭上の葉を揺らしている。


 先ほどまで聞こえていた鳥の声はいつの間にか消え、代わりに、何か重いものが地面を踏みしめるような音が、断続的に聞こえていた。


 少なくとも、普通の獣が立てる音ではない。


「……ずいぶん近くにいるみたいだね」


 僕は声を潜めながら、木々の向こうへ視線を向けた。


 隣では、フィオナが弓を握ったまま耳を澄ませている。


「はい。正確な位置までは分かりませんが、先ほどからあまり移動していないようです」


「あまり動いてない?」


「ええ。同じ方向から何度も音が聞こえてきますので」


 どこかに留まっているのか、それとも、同じ場所を歩き回っているのか。


 どちらにしても、できれば近づきたくない相手であることに変わりはない。


 足元には、先ほど保護した男性が横たわっていた。


 衣服は泥に汚れ、右脚には血の滲んだ布が巻かれている。


 呼吸は落ち着いてきているものの、意識はまだ戻っていない。


 右目に入ってくる情報からも、疲労と脱水、それに負傷による消耗が見て取れた。


 幸い、今すぐ命に関わる状態ではなさそうだ。


 ただ、このまま森の奥へ連れていける状態でもない。


「グレン。この人を先に街道まで運んでもらえるかな」


「承知しました。二人を護送につけましょう」


 グレンはすぐに団員たちへ指示を出した。


 壊れた荷馬車から使えそうな木材を選び、持参していた布と紐で簡単な担架を作る。


 男性を乗せる際には、負傷した脚が揺れないよう慎重に固定した。


「街道まで戻ったら、まず安全な場所で休ませてあげて。その後、町へ救援をお願いできる?」


「分かりました、殿下」


「それと、森には戻ってこなくていいからね。僕らも何かあったら引き返すつもりだから」


「承知しました。皆さんも、どうかお気をつけて」


 二人は担架を持ち上げると、慎重に来た道を戻っていった。


 木々の間にその姿が消えるまで、僕らは周囲を警戒する。


 そして、完全に見えなくなったところで、グレンが口を開いた。


「……殿下。本当に、捜索を続けられますか?」


「うん。できれば、もう少し調べたいかな」


 僕は森の奥を見た。


 負傷者を一人見つけたことで、商隊の誰かが生き延びていることは確認できた。


 でも、まだ五人の行方が分かっていない。


 森の中に残された足跡を見る限り、彼らも荷馬車から移動した可能性が高いけれど、何日も帰ってこられない状況を考えると、無事だと決めつけるわけにはいかなかった。


「居場所だけでも分かれば、次にどうするか考えられるでしょ?」


「……そうですな」


「もちろん、危険すぎると思ったら引き返すよ。


 僕だって、わざわざ死にに来たわけじゃないしね」


 少し冗談めかして言うと、グレンは苦笑した。


「そのお言葉、信じておりますよ」


「……何だか、あんまり信用されてない気がするなあ」


「殿下の身を案じているのです」


「それはありがたいんだけどね」


 まあ、心配させている自覚はある。


 僕が怪我でもして帰ったら、セバスチャンやアリアに何を言われるか分からない。


 ……いや。


 今回ばかりは、怒られるくらいで済めばいい方かもしれないね。


 そんなことを考えていると、地面を調べていたフィオナが顔を上げた。


「カイル様。こちらを確認していただけますか?」


「うん?」


 近づくと、彼女は落ち葉の間に残された足跡を指差した。


 どうやら、先ほどの男性が歩いてきたものとは別に、複数人が同じ方向へ移動した跡が残っているらしい。


「こちらは、足取りが比較的揃っています。おそらく、何人かでまとまって移動したのでしょう」


「じゃあ、残りの人たちも一緒に行動してたのかな」


「その可能性は高いと思います。それに、少し気になることがありまして」


 フィオナは周囲を見回した。


「この足跡は、途中からほとんど迷わず同じ方向へ続いています。逃げ回っているというより、どこかを目指していたように見えるんです」


「……どこか、か」


 森に詳しい人間なら、身を隠せる場所を探したのかもしれない。


 そう考えていると、グレンが何かを思い出したように顔を上げた。


「そういえば、この先には古い木こり小屋があったはずです」


「木こり小屋?」


「ええ。以前、この辺りで伐採をしていた者たちが使っていた建物です。今は放置されているはずですが、壁と屋根は残っていると思います」


「それなら、避難している可能性はありそうだね」


 僕はフィオナを見た。


「この足跡、その小屋の方へ続いてると思う?」


「正確な場所は分かりませんが、方角は合っているようです」


「だったら、まずはそこを目指してみようか」


 僕らは頷き合うと、再び森の奥へ歩き始めた。


     ◇


 それからしばらくして、フィオナが突然足を止めた。


「……皆さん、伏せてください」


 その声に、僕らはすぐ近くの茂みへ身を隠した。


 直後。


 ドスン、と。


 重い足音が、すぐ近くから聞こえてきた。


 僕は枝の隙間から、そっと向こう側を覗き込む。


 そして、思わず息を呑んだ。


 木々の間を、巨大な獣が歩いていた。


 狼に似た頭部。


 黒灰色の毛並み。


 太く発達した前脚と、地面を深く抉る鋭い爪。


 四本の脚で立っているというのに、その肩は大人の人間の背丈ほどもある。身体の長さに至っては、そこらの荷馬車と大差ないかもしれない。


 ……いやいや。


 ちょっと、大きすぎない?


「あれ、狼……なのかな」


「似てはいますが、私の知る魔物とは少し違います」


 フィオナは声を落としたまま答えた。


「特に前脚の発達が異常です。あの体格では、正面から攻撃を受け止めるのは難しいと思います」


「だよね。できれば、戦わずに済ませたいなあ」


 実際、巨大な魔物が歩くたびに地面がわずかに揺れ、踏みつけられた枝が乾いた音を立てていた。


 あの脚で殴られたら、普通の防護術ではどこまで耐えられるか分からない。


 僕は、改めて魔物へ視線を向けた。


 すると、右目から情報が流れ込んできた。


 ……あ。


 今回は、ちゃんと見えるんだ。


 以前、森のさらに奥で遭遇した魔物たちとは違う。


 種族は大型の狼型魔物。


 優れた嗅覚と強い四肢を持ち、特に突進や爪による攻撃が危険らしい。


 そして、身体の状態は……。


「……あれ?」


 思わず、小さく声が漏れた。


「どうされました?」


 フィオナがこちらを見る。


「いや、あいつさ。思ってたより、ずっと弱ってるみたいなんだよね」


「弱っているのですか?」


「うん。かなり疲れてるし、左の後脚を怪我してる。それに、空腹もひどいみたい」


 フィオナが魔物の歩き方を観察する。


 しばらくして、彼女は小さく頷いた。


「確かに。左脚へ体重をかける時だけ、動きが鈍っていますね」


「でしょ? でも、それだけじゃないんだ」


 気になるのは、魔物の感情だった。


 強い警戒と焦燥。


 そして、その奥には恐怖が混じっている。


 あれほど巨大な魔物なのに、何かを恐れているらしい。


 何を恐れているのかまでは分からない。


 けれど、先ほど遭遇した狼型の魔物にも、どこか似たような様子があった。


 偶然にしては、少し気になる。


「……カイル様」


 フィオナの声で、僕は考えを中断した。


「見てください。あちらに建物が」


 彼女が示した方向へ目を向ける。


 木々の向こうに、小さな建物が見えた。


 古い木製の壁。


 苔の生えた屋根。


 そして、入り口の前には不自然に木材が積まれている。


「あれが、木こり小屋?」


「おそらく」


 グレンが頷いた。


 僕は、もう一度巨大な魔物を見た。


 魔物は、建物の周囲をゆっくりと歩き回っている。


 時折、小屋へ向かって鼻先を近づけ、低い唸り声を上げていた。


 どうやら、中に何かがいることを知っているらしい。


 それなら、あの魔物がここを離れない理由にも説明がつく。


「フィオナ。あの小屋、中に人がいるか分かる?」


 そう尋ねると、フィオナは慎重に窓の方へ視線を向けた。


 しばらくして。


「……います」


 彼女が小さく答えた。


「本当?」


「はい。今、窓の奥で人影が動きました」


 僕は、思わず息を吐いた。


 少なくとも、誰かが生きている。


 ただし、巨大な魔物が周囲を歩き回っている以上、簡単に助け出せる状況ではなさそうだった。


「まずは、気づかれないように近づいてみようか」


 僕らは、魔物の動きを確認しながら小屋の裏側へ回り込んだ。


     ◇


「……殿下?」


 板の隙間から聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。


「うん。僕だよ。久しぶり……って言うには、ちょっと変な場所だね」


「……本当に、殿下なのですか?」


「そうだよ。帰ってこないから、みんな心配してたんだ」


 しばらく返事がなかった。


 それから。


「……ああ……」


 小さく、息を漏らすような声が聞こえてきた。


「……助かった……」


 その言葉には、今にも泣き出しそうな安堵が滲んでいた。


「みんな、無事?」


「はい……私を含めて、五人おります」


「そっか。実は、助けを呼びに出た人も見つけたんだよ。怪我はしてたけど、生きてるから安心して」


「……っ!」


 窓の向こうで、何かが動く音がした。


「……よかった……本当に……」


 しばらく、商人は言葉を続けられなかった。


 僕らも、急かさずに待つ。


 やがて、少し落ち着いたところで事情を聞くと、商隊は街道で巨大な魔物と遭遇し、逃げるうちに森へ追い込まれたらしい。


 途中で荷馬車の一台が壊れ、残る一台も狭い道を進めなくなったため、荷物を捨てて徒歩で逃げるしかなかったそうだ。


 そして、偶然見つけたこの小屋へ避難した。


 ところが、魔物が周囲を離れない。


 しかも、一行の中には怪我人がいた。


 食料も水も残り少なくなり、追い詰められた末に、比較的動ける一人が助けを呼びに出たのだという。


「……でも、その人も怪我をしてたよ?」


 僕がそう伝えると、商人は驚いたようだった。


「……怪我を?」


「うん。右脚に結構大きな傷があったんだ」


「……そんな……」


 商人の声が震える。


「小屋を出た時には、怪我などしていなかったはずです。きっと、途中で何かあったのでしょう……」


「そっか。でも、命に別状はなさそうだったから、あんまり心配しすぎないでね」


「……はい」


 どうやら、男性は助けを呼びに向かう途中で怪我をしたらしい。


 森の中には魔物もいる。


 転んだのか、何かに襲われたのか。


 詳しいことは、本人が目を覚ましてから聞くしかないだろう。


「……殿下」


 商人が、再び声を掛けてきた。


「申し訳ありません。町から預かった茶も、仕入れた品物も……すべて置いてきてしまいました」


「……ああ、荷物のこと?」


 僕は、少し苦笑した。


「そんなの、今は気にしなくていいよ。荷物を守るためにみんなが死んじゃったら、元も子もないでしょ?」


「……ですが」


「商売の話は、無事に帰ってからにしよう。その方が僕も安心できるしね」


 商人は、しばらく黙っていた。


 そして。


「……ありがとうございます」


 深く頭を下げる気配がした。


「本当に、ありがとうございます」


「うん。じゃあ、ちょっと待ってて。何とか出られる方法を考えるからさ」


 僕は窓から離れ、フィオナたちのところへ戻った。


 さて。


 ここからが本題だ。


     ◇


「……正面から戦うのは、やめておきたいね」


 僕が言うと、グレンも頷いた。


「ええ。あの大きさでは、こちらにも相応の被害が出るでしょう」


 僕らは、小屋の裏手にある茂みへ身を隠しながら、救出方法を考えていた。


 魔物は、相変わらず建物の周囲を歩き回っている。


 身体は相当疲弊しているはずなのに、獲物を諦める様子はない。


 おそらく、空腹も関係しているのだろう。


「今回の目的は、商人さんたちを助けることでしょ? だったら、無理に倒す必要はないと思うんだよね」


「同感です」


 グレンが答える。


 フィオナも頷いた。


「私も、できる限り戦闘は避けた方がよいと思います。あれほど大きな魔物を相手にすれば、負傷者を守りながら戦うのは難しいでしょうから」


「そうなんだよね」


 僕は周囲の地形を見た。


 小屋の西側には、木々が比較的まばらな場所がある。


 一方、東側には背の高い草が茂り、その先には浅い窪地が続いていた。


 どうやら、以前は水が流れていた場所らしい。


「フィオナ。あの窪地って、どこまで続いてるの?」


「涸れ沢ですね。少し遠回りになりますが、街道の方角へ続いていると思います」


「それなら、逃げ道に使えそうだね」


「はい。ただし、途中から岩場になりますので、怪我をされている方には少し歩きにくいかもしれません」


 それは困る。


 でも、小屋の周囲を歩き回っている魔物に見つからずに逃げるなら、身を隠せる場所を通った方がいい。


 僕は、しばらく考えた。


「だったら、一度あいつを小屋から離せないかな」


「注意を逸らす、ということですか?」


「うん。例えば、反対側で大きな音を立てるとかさ」


 フィオナが魔物へ視線を向けた。


「確かに、あの魔物は音にも反応しているようです」


「じゃあ、それを使ってみようか」


 僕は、遠くに見える枯れ木を指差した。


「あそこの枝を落とせば、結構大きな音が出ると思うんだよね。音のした方へ向かってくれれば、その隙に小屋から出られるかもしれない」


「なるほど。ならば、商人たちは私が誘導しましょう」


 グレンが答える。


「殿下とフィオナ殿には、魔物の様子を見ていただきたい」


「うん。それでお願い」


 役割は決まった。


 ただし、今回は時間との勝負になる。


 いくら大きな音を立てても、魔物がいつまでもそちらに気を取られてくれるとは限らない。


 しかも、相手は嗅覚に優れた魔物だ。


 音に釣られて移動したとしても、風向きによっては商人たちの匂いに気づくかもしれない。


 そこで、フィオナが風の流れを確認し、できるだけ匂いが魔物の方へ流れにくい経路を選んだ。


「……よし」


 僕は、小さく息を吐いた。


「じゃあ、始めようか」


     ◇


 僕は、地面へゆっくりと魔力を流した。


 意識を向けるのは、小屋から少し離れた場所にある枯れ木。


 その根元には、細い蔓が何本も伸びている。


 距離は少しあるけれど、何とか届きそうだ。


 蔓を伸ばし、枯れ木に引っかかっている枝の束へ絡ませる。


 そして。


「……今!」


 一気に引っ張った。


 バキバキッ!


 乾いた枝が折れ、地面へ落ちる。


 森の中に、思った以上に大きな音が響いた。


「……っ!」


 巨大な魔物が、勢いよく顔を上げた。


 耳を動かし、音のした方向へ鼻先を向ける。


 しばらく、その場で様子を窺っていたけれど。


 やがて。


 ドスン。


 ドスン。


 ゆっくりと歩き始めた。


「……行ったね」


「はい。ですが、まだ油断はできません」


 フィオナは、魔物の動きから目を離さない。


 僕は小屋の裏側へ目を向けた。


 グレンが、すでに商人たちの脱出を始めている。


 一人目。


 二人目。


 そして、三人目。


 小屋の裏口から人影が現れ、慎重に草むらへ入っていく。


 四人目は足を怪我しているらしく、両側から肩を支えられていた。


 最後に、商隊の代表が小屋から出てくる。


 ……よし。


 全員、出られた。


 あとは、沢まで移動できれば。


 そう思った時だった。


「……カイル様」


 フィオナの声が、少しだけ鋭くなった。


「風が、変わりました」


 僕は、頬に当たる空気を感じた。


 確かに、さっきまでとは向きが違う。


 森の奥から吹いていた風が、今は小屋のある方から魔物へ向かって流れていた。


 ……まずい。


 巨大な魔物が、ぴたりと足を止めた。


 鼻先を持ち上げる。


 何度も空気を吸い込み、周囲を確かめるように首を動かしている。


「……気づかれた?」


 僕が尋ねると、フィオナは静かに頷いた。


「おそらく、匂いを捉えたのだと思います」


 音で注意を逸らすことはできた。


 でも、匂いまでは誤魔化せなかったらしい。


 次の瞬間。


「グルルルル……!」


 魔物が、低く唸った。


 そして、勢いよく振り返る。


 その視線の先には、小屋から出てきた商人たちがいた。


「……まずい!」


 僕は立ち上がった。


「グレン! そのまま進んで!」


 声を上げるのと、魔物が地面を蹴るのはほとんど同時だった。


 ……ドンッ!


 巨体が、一気に加速する。


 あれほど重そうな身体なのに、驚くほど速い。太い前脚が地面を抉り、落ち葉が勢いよく舞い上がった。


 あの速度では、怪我人を抱えた商人たちなど、あっという間に追いつかれてしまう。


「《根走り》!」


 僕は右手を突き出した。


 魔力に反応して、魔物の進路上にあった木の根が持ち上がる。


 狙うのは、前脚だ。


 走っている最中なら、足を取るだけでも勢いを削げるはず。


 そして。


「グルァッ!?」


 伸びた根が前脚へ絡みつき、巨体が大きく傾いた。


 ……よし!


 そう思ったのも束の間。


 ブチッ!


 太い根が、力任せに引き千切られた。


「……えっ」


 ちょっと待って。


 今の、結構しっかりした根だったんだけど!?


 魔物は一瞬だけ速度を落としたものの、すぐに体勢を立て直す。


 そのまま商人たちへ向かって突進しようとした。


 けれど。


 ヒュッ!


 風を切る音が響いた。


 フィオナの放った矢が、魔物の鼻先を掠める。


「ガルッ!」


 魔物が反射的に顔を背けた。


 その一瞬で、僕は前へ出た。


「フィオナ! とりあえず、あの人たちから離さないと!」


「はい!」


 彼女はすでに次の矢をつがえていた。


 こうなった以上、多少は戦わないといけないらしい。


 できれば、そうならないように考えたつもりだったんだけどね。


     ◇


 魔物が、僕らへ向き直った。


 大きな口が開き、鋭い牙が覗く。


 その視線には、明らかな敵意があった。


 右目に入ってくる情報からも、興奮が強まっていることが分かる。


 ……あまり刺激しない方がよさそうだと思ってたんだけど。


 もう、そんなことを言っている余裕はなかった。


「カイル様!」


 フィオナが叫ぶ。


 直後、魔物が地面を蹴った。


 ……速い!


 僕は横へ飛ぶ。


 巨大な前脚が、さっきまで立っていた場所へ叩きつけられた。


 ドゴンッ!


 鈍い衝撃音とともに、土が大きく抉れる。


 飛び散った小石が頬を掠め、僕は慌てて近くの木の陰へ飛び込んだ。


 あれをまともに食らえば、いくら身体を強化していたとしても無事では済まない。


 少なくとも、一度受けて試してみたいとは思わなかった。


「……っ!」


 再び、魔物の前脚が振り上げられた。


 今度は横薙ぎ。


 僕が隠れた木の幹ごと、まとめて薙ぎ払おうとしている。


 ……まずい!


 咄嗟に、左手を突き出した。


 身体の前へ魔力を集中させ、薄い防護の壁を作る。


 直後。


 ドガンッ!


 凄まじい衝撃が、壁を通して腕へ伝わってきた。


「……っぐ!」


 足が地面を滑る。


 防護の表面に細かな亀裂が走り、魔力が急速に削られていく。


 これは、長く持たない。


 そう判断した瞬間、僕は魔法を解きながら後ろへ跳んだ。


 光の壁が砕け散り、その向こうを巨大な前脚が通り過ぎる。


 爪が木の幹へ食い込み、深い傷を残した。


「……危なっ!」


 思わず声が出た。


 相手が大きすぎるんだよ!


 しかも、一撃が重い。


 正面から受け止めるのは危険だし、かといって、ただ避け続けるだけでは商人たちの方へ向かわれてしまう。


 僕が考えている間にも、魔物は再び身体を低く沈めた。


 今度は、こちらではない。


 少し離れた沢の方。


 ……あ。


 グレンたちがいる方向だ。


「フィオナ! あいつ、また商人さんたちを狙ってる!」


「分かっています!」


 フィオナは一歩横へ移動すると、ヘラクレスを引き絞った。


 狙うのは、巨体の側面。


 肩の後ろ、前脚の動きに合わせて毛皮が薄くなる部分だ。


 弦が鳴る。


 ヒュッ!


 放たれた矢が、魔物の肩へ突き刺さった。


「ガァッ!」


 魔物が吠え、反射的にこちらへ顔を向けた。


 だが、フィオナはすでに次の位置へ移動していた。


 矢を放った場所に留まれば、狙われる。


 彼女はそれをよく理解しているらしい。


 木々の間を滑るように移動し、魔物の視線が追いつく前に次の矢をつがえる。


 その動きには無駄がない。


 ……さすがだね。


 ただ、見惚れている場合じゃない。


 僕は魔物の動きを確認した。


 フィオナの矢は確かに命中した。


 でも、魔物の動きはほとんど鈍っていない。


 厚い毛皮と筋肉に阻まれ、深くは刺さっていないらしい。


 もっと強く攻めるなら、方法がないわけではない。


 以前、森の奥で竜と戦った時のように、空中から直接茨を発生させ、相手の動きを強引に封じることもできるだろう。


 さらに、フィオナが急所を狙えば、あの巨体にも致命傷を与えられるかもしれない。


 ただし、遠くの空間へ直接魔力を送り込む方法は、消耗が激しい。


 それに、相手が暴れれば周囲の木々まで巻き込みかねない。


 今はすぐ近くに、逃げている商人たちがいる。


 僕らだけなら取れる戦い方も、今は簡単には選べなかった。


 何より、あの魔物を倒すために全力を使い切ってしまえば、その後の帰り道で何かあった時に対応できなくなる。


 ……うん。


 やっぱり、ここで決着をつけるのは得策じゃないね。


「フィオナ! これ以上、同じやり方で止めるのは厳しいかも!」


「私もそう思います!」


 彼女は魔物の動きを追いながら答えた。


「それに、あの魔物は私たちより、逃げている方々を気にしています!」


「やっぱり?」


「はい。攻撃を受けるとこちらへ向きますが、すぐに沢の方を見ています」


 ……なるほど。


 だったら、僕らが何度攻撃したところで、商人たちを見失わない限り追跡を諦めないかもしれない。


 今の僕らは、魔物を倒さない代わりに延々と相手をし続けるという、あまり賢くないことをしているわけだ。


 それは困る。


 すごく困る。


 僕は、もう一度周囲を見回した。


 木々の間を走る涸れ沢。


 その先にある岩場。


 そして、沢の奥へ続く細い地形。


 ……ん?


 そういえば。


 さっきフィオナが、途中から岩場になるって言ってたよね。


「フィオナ! さっきの沢、岩場の先はどうなってるの?」


 フィオナは、少しだけ驚いたような顔をした。


 けれど、すぐに周囲の地形を確認する。


「岩場の奥、ですか?」


「うん。商人さんたちが通れる道はある?」


「……あります。ただ、かなり狭い場所がありまして……」


 彼女は、一瞬だけ考え込んだ。


 そして。


「……あ!」


 顔を上げた。


「カイル様。もしかして……」


「うん。あの魔物って、かなり大きいでしょ?」


 僕は、再び巨体へ視線を向けた。


「だったらさ。僕らが通れて、あいつが通れない場所があれば……」


「追跡を振り切れるかもしれません!」


 フィオナが答える。


 今まで、僕らは魔物をどうやって止めるかばかり考えていた。


 でも、本当に必要なのは、全員が安全に逃げることだ。


 だったら、無理に足止めする必要もない。


 魔物が追ってこられない場所へ逃げればいい。


 ただし、それには一つ条件がある。


 怪我人を含めた全員が、その場所を通り抜けられること。


 そして、魔物より先にそこへ到着することだ。


「フィオナ。そこまで案内できる?」


「はい。沢を進んだ先に、岩壁の間を抜ける場所があります。少し狭いですが、人間であれば通れるはずです」


「その岩場、あいつが回り込める場所はある?」


「……少なくとも、近くにはありません。岩壁はかなり長く続いていますので、迂回するには大きく遠回りする必要があると思います」


 それなら、使えるかもしれない。


 もちろん、魔物がまったく追ってこられないとは限らない。


 でも、あの巨体で岩場を大きく迂回するより、僕らが狭い道を通り抜ける方が早いはずだ。


 しかも、魔物はすでにかなり疲れている。


 左後脚も負傷していることを考えると、険しい岩場を登ったり、遠回りしたりするのは簡単ではないだろう。


「……よし!」


 僕は頷いた。


「じゃあ、作戦変更しよう!」


     ◇


「グレン!」


 僕は、できるだけ大きな声で呼びかけた。


 少し離れた沢の向こうで、グレンが振り返る。


「殿下!」


「そのまま沢を進んで! 途中に狭い岩場があるはずだから、そこを目指してほしい!」


「岩場ですか!?」


「うん! あの魔物が通れない場所へ逃げる!」


 グレンは一瞬だけ驚いたような顔をした。


 けれど、すぐに頷いた。


「承知しました!」


 彼は団員たちへ声を掛け、商人たちの進路を変える。


 負傷した男性は、二人に支えられながら何とか歩いていた。


 ただ、足元には大きな石がいくつも転がっている。平坦な道に比べれば、どうしても時間がかかるだろう。


 ……まずいな。


 このままだと、あの魔物の方が先に着いてしまうかもしれない。


 その時。


「グルルルル……!」


 巨大な魔物が、再び唸った。


 僕らの会話が聞こえたのか。


 それとも、商人たちが動いたことに気づいたのか。


 いずれにしても、魔物は再び沢の方へ顔を向けていた。


 ……こっちも、急がないと。


「フィオナ!」


「はい!」


「もう少しだけ、あいつをここに留めておこう!」


 彼女が頷き、弓を構え直す。


 僕らは魔物の正面へ出るのではなく、少しずつ距離を取りながら木々の間を移動した。


 このまま力比べを続ければ、こちらが先に消耗する。


 ならば、魔物の攻撃を正面から受ける必要はない。相手が進もうとしている場所を塞ぎ、その間に距離を取ればいい。


 僕は地面へ魔力を流し、周囲の木の根を確認した。


 そして。


「《根走り》!」


 地面が盛り上がった。


 魔物の進行方向。


 そこへ、何本もの木の根が突き出す。


 突然現れた障害物に、魔物が足を止めた。


「グルッ!?」


 そして、根を避けようと身体を捻る。


 ……よし。


 ただ。


 魔物は、すぐに進路を変え始めた。


 根を乗り越えるのではなく、その横へ回り込もうとしている。


 ……まあ、そうなるよね。


「フィオナ!」


「はい!」


 返事と同時に、弦が鳴った。


 ヒュッ!


 一本の矢が、魔物の進もうとした先へ飛ぶ。


 狙いは、地面に近い前脚。


 矢は毛皮を掠め、魔物の足元へ突き刺さった。


「ガルッ!」


 魔物が反射的に脚を引く。


 その隙に、僕は次の根を動かした。


 今度は横から。


 魔物が進もうとしている場所だけを、短く塞ぐ。


 すると、魔物は再び足を止めた。


 ……うん。


 少なくとも、さっきよりは効率がいい。


 ただし、こちらの思い通りに動いてくれるとは限らない。


 相手は決して鈍い魔物ではないのだ。


 それを思い知らされたのは、ほんの数秒後だった。


「カイル様!」


 フィオナが鋭く声を上げた。


 巨大な魔物が、突然身体を低く沈めた。


 ……来る!


 そう判断した瞬間。


 魔物は、地面を蹴った。


 ドンッ!


 凄まじい勢いで、根の壁へ突っ込んでくる。


「……えっ!?」


 木の根が、一瞬だけ巨体を受け止めた。


 けれど。


 バキバキッ!


 太い根が、まとめてへし折られた。


 ……嘘でしょ!?


 魔物は、そのまま勢いを落とさずに突進してくる。


 狙いは。


 ……僕!?


「……っ!」


 咄嗟に横へ飛ぶ。


 けれど、間に合わない。


 巨大な前脚が、視界いっぱいに迫っていた。


 僕は、反射的に魔力を前方へ集中させた。


 先ほどと同じ防護の壁。


 直後。


 ドガンッ!


 激しい衝撃が、全身を襲った。


「……っぐ!」


 足が地面から離れる。


 防護の壁が衝撃を受け止めきれず、僕の身体はそのまま後ろへ弾き飛ばされた。


 ……まずい!


 背後には、太い木の幹。


 このままぶつかったら、ただでは済まない。


 僕は咄嗟に右手を伸ばし、近くの蔓へ魔力を流した。


 蔓が腕へ絡みつき、身体を横へ引っ張る。


 直後。


 ドサッ!


 僕は地面へ転がった。


「……いったた……」


 背中と肩が、鈍く痛んだ。


 でも、木へ直接叩きつけられるよりはずっとましだったはずだ。


 ……かなり、危なかったね。


「カイル様!」


 フィオナが駆け寄ろうとする。


 けれど。


「……来ないで!」


 僕は、慌てて声を上げた。


 魔物が、まだこちらを見ていたからだ。


 その距離は、十歩ほど。


 近すぎる。


 しかも、僕が地面へ倒れていることに気づいたのか、再び身体を低く沈め始めていた。


 ……まずいな。


 この距離じゃ、起き上がるより先に飛びかかられる。


 そう思った瞬間。


 ヒュッ!


 風切り音が響いた。


 フィオナの放った矢が、魔物の頬へ突き刺さる。


「ギャウッ!」


 魔物が顔を背けた。


 その瞬間、フィオナは僕の腕を掴み、強引に引き起こした。


「走れますか!?」


「……うん!」


 僕は、痛む肩を押さえながら立ち上がる。


 フィオナに引かれるようにして、木々の間へ走り込んだ。


 背後では、魔物が怒りに満ちた唸り声を上げている。


 ……いやあ。


 本当に、手強いな。


 まともに戦い続けたら、いつか必ずこちらが負ける。


 しかも、残っている魔力も決して多くはない。


 だからこそ、今度こそ逃げ切らないと。


     ◇


「……カイル様。あちらです!」


 フィオナが、沢の奥を指差した。


 木々の向こうに、灰色の岩壁が見えていた。


 沢はその手前で少し曲がり、岩の間へ細く続いているらしい。


「あそこ?」


「はい。岩壁の間に、人が通れる隙間があります!」


「……よし!」


 目的地が見えてきた。


 あとは、全員がそこを通り抜けられればいい。


 ただ、背後からはまだ重い足音が響いている。


 あの魔物も、簡単に追跡を諦めるつもりはないらしい。


 僕は右目へ意識を向けた。


 魔物の疲労は、確実に増えていた。


 左後脚の負傷も、追跡を続けるうちに悪化しているらしい。


 それでも、まだ十分に動ける状態だった。


「……フィオナ」


「はい」


「もうすぐ岩場だけど、僕らが先に逃げ込んだら、商人さんたちが危ないよね」


「……そうですね。あの魔物が先に追いついてしまうかもしれません」


 僕は、少し考えた。


 僕らだけなら、今すぐ岩場へ飛び込んでもいい。


 でも、後ろには怪我人を連れた商人たちがいる。


 だから、全員が通り抜けるまで、魔物を引きつけておく必要があった。


「じゃあ、もう少しだけ頑張ろうか」


 そう言うと、フィオナが頷いた。


「はい。ただし、今度は無理に受け止めようとなさらないでください」


「……うん。さっきので懲りたよ」


 僕は、少しだけ苦笑した。


「できれば、もうあんなのは食らいたくないかな」


「私も、そうしていただきたいです」


 フィオナの声には、いつもより少しだけ強い調子が混じっていた。


 ……うん。


 心配かけちゃったな。


「じゃあ、僕らも離れすぎないようにしよう」


「はい」


 僕らは互いの位置を確認しながら、再び走り始めた。


 岩場までは、もう少し。


 その間、魔物を商人たちへ近づけないこと。


 それが、今の僕らにできる一番大切な仕事だった。


     ◇


 岩場へ到着すると、そこではグレンたちが商人を通しているところだった。


 目の前には、二つの岩壁が向かい合うようにそびえている。


 その間には、人が一人ずつ通れる程度の細い隙間があった。


 しかも、岩の間は少し曲がっているため、奥の様子はよく見えない。


 岩壁は沢の両側に長く続き、上部はかなり急な斜面になっていた。あの巨体が登ろうとしても、簡単ではなさそうだ。


 ……おお。


 これは、確かにあの魔物には厳しそうだね。


「殿下!」


 グレンが、こちらへ駆け寄ってきた。


「どう? 通れそう?」


「はい。団員に先を確認させました。少し狭いですが、反対側の木こり道へ繋がっているようです」


「……よかった!」


 僕は、思わず息を吐いた。


 これなら、行き止まりということはない。


 あとは、商人たちが通り抜けるだけだ。


 ただし、問題もあった。


 入り口付近は比較的広いものの、奥へ進むほど狭くなっている。


 大きな荷物を持って通るのは難しそうだ。


 しかも、怪我人を支えながらとなると、かなり慎重に進む必要がある。


「グレン! 荷物は全部置いていっていいよ! 人が通ることだけ考えて!」


「承知しました!」


 グレンは、すぐに商人たちへ指示を出した。


 水袋や必要な道具だけを残し、それ以外の荷物は岩場の手前へ置いていく。


 そして、一人ずつ岩の間へ入っていった。


 ……一人。


 ……二人。


 ……三人。


 順調に進んでいる。


 ただ、四人目。


 足を怪我した男性が、岩の隙間へ入ろうとしたところで動きが止まった。


「……っ!」


 男性が、痛みに顔を歪める。


 どうやら、岩に身体を寄せる際に負傷した脚へ力がかかってしまったらしい。


「大丈夫ですか!?」


 グレンが声を掛ける。


「……すみません……足が……」


 男性は、荒い息を繰り返していた。


 ……まずい。


 僕は、背後を振り返った。


 森の奥から、重い足音が近づいてくる。


 ドスン。


 ドスン。


 ……近い。


 もう、あまり時間がない。


「……フィオナ」


「はい」


「僕らで、もう少しだけ時間を稼ごう」


 そう言うと、彼女は頷いた。


「はい。ですが、ここからは長く持ちません」


「分かってる。全員が通り抜けたら、僕らもすぐに逃げよう」


 魔力の残りは決して多くない。


 フィオナの矢も、随分と減っている。


 それに、あの魔物はまだ動ける。


 まともに戦えば、僕らが先に力尽きるだろう。


 だから。


 ほんの少しだけ。


 全員が岩の間を通り抜けるまで。


 それだけでいい。


「……行こうか」


「はい」


 僕らは、岩場の手前へ戻った。


 そして。


 木々の間から、巨大な魔物が姿を現した。


     ◇


「グルルルル……!」


 低い唸り声が、岩壁へ反響する。


 魔物は、僕らの姿を見つけると足を止めた。


 その視線が、一度だけ岩の間へ向けられる。


 ……あ。


 気づいたな。


 岩場の奥には、まだ商人たちがいる。


 このままでは、魔物がそちらへ突進してしまうかもしれない。


「……フィオナ」


「はい」


「ここは、通さないようにしよう」


 彼女は、静かに頷いた。


「分かりました」


 ヘラクレスが、ゆっくりと引き絞られる。


 僕も、右手を前へ出した。


 魔物が、地面を蹴る。


 ……来る!


「《根走り》!」


 魔物の進行方向へ、太い根を突き上げた。


 けれど、今度の魔物はすぐに跳び越えようとする。


 ……やっぱり、覚えられてる。


 だったら。


 僕は、もう一度魔力を流した。


 ただし、今度は根を上へ伸ばすのではない。


 魔物が着地しようとしている場所。


 そこにあった細い根を、横へ引っ張る。


 地面が、わずかに崩れた。


「グルッ!?」


 魔物が、着地の瞬間に身体を揺らす。


 その隙に。


 ヒュッ!


 フィオナの矢が放たれた。


 狙いは、左前脚の付け根。


 矢が毛皮を貫き、魔物が大きく吠える。


「ガァァッ!」


 巨体が、勢いよくこちらへ向き直った。


 ……よし。


 注意は、こっちへ向いた。


 ただし。


 次の瞬間。


 魔物は、今までとは違う動きを見せた。


 正面から突進してくるのではなく、身体を横へ捻り、僕らの右側へ回り込もうとしたのだ。


 ……え?


 僕は、思わず目を見開いた。


 そこには、岩場の入り口がある。


 しかも。


 まだ、最後の商人たちが通り抜けていない。


 ……まずい!


「フィオナ!」


 声を上げるより早く、彼女は動いていた。


 魔物の進路へ回り込む。


 そして。


 ヒュッ!


 矢が、魔物の顔の横を掠めた。


「ガルッ!」


 魔物が反射的に顔を背ける。


 その隙に、僕は岩場の入り口へ走った。


「グレン! あと何人!?」


「……二人です!」


 岩の向こうから声が返ってくる。


 ……あと二人!


 僕は、背後を振り返った。


 巨大な魔物が、再びこちらへ向かってくる。


 この距離だと、もう一度根を伸ばしても間に合わないかもしれない。


 だったら。


 僕は、左手を前へ突き出した。


 魔力を集中させ、岩場の入り口を守るように防護の壁を展開する。


 魔物が、それへ向かって突進してきた。


 ドガンッ!


 激しい衝撃が、腕へ伝わる。


「……っ!」


 足が地面を滑った。


 防護の表面に、ひびが走る。


 ……まずい。


 これ以上は!


「カイル様!」


 フィオナの声。


 直後、魔物の顔の横へ矢が突き刺さった。


「ギャウッ!」


 魔物が一瞬だけ頭を振る。


 その隙に、僕は魔法を解いて後ろへ下がった。


 少しだけ、時間を稼げた。


 ただ、もう限界が近い。


 僕は、岩の間を見た。


 最後の商人が、ようやく奥へ進んでいくところだった。


 ……あと少し。


 あと、ほんの少しだけ。


 その時。


 巨大な魔物が、再び身体を低く沈めた。


 ……来る!


 僕は、右手へ魔力を集中させる。


 けれど。


 魔物は、さっきとは違う方向へ走り始めた。


 僕らの横を抜けるように。


 岩場の入り口へ。


 ……あ。


 まずい。


 これは、止めきれない!


「フィオナ!」


「はい!」


 返事と同時に、彼女が僕の横へ並んだ。


 そして。


「カイル様、あの脚を!」


 フィオナが短く叫ぶ。


 その視線は、魔物の左後脚へ向けられていた。


 ……なるほど!


 僕は、すぐに彼女の意図を理解した。


 あの脚は、すでに深く傷ついている。


 右目から伝わってくる情報でも、負傷はかなり悪化していた。


 だったら、無理に身体全体を止める必要はない。


 ほんの一瞬。


 あの脚へ負担をかけ、速度を落とせればいい。


「……分かった!」


 僕は、残っている魔力を地面へ流した。


 魔物が踏み込もうとしている場所。


 そのすぐ手前へ、細い根を伸ばす。


 今までのように脚を絡め取ろうとはしない。


 ただ、着地の瞬間に足元を乱す。


 それだけを狙った。


「《根走り》!」


 地面が、わずかに盛り上がる。


 魔物の前脚が、その根を踏みつけた。


 巨体が、一瞬だけ揺れる。


 そして。


 左後脚が、強く地面へ踏み込まれた。


 ……今!


 フィオナが、弓を引き絞る。


 ヘラクレスの弦が、鋭く鳴った。


 ヒュッ!


 矢が、一直線に飛んでいく。


 そして。


 ザシュッ!


「ガァァッ!」


 魔物が、大きく吠えた。


 左後脚が、地面を捉えきれずに滑る。


 巨体が、一瞬だけ傾いた。


 ……よし!


 僕は、すぐに次の魔法へ意識を向けた。


 ただし、今度は魔物を縛るためではない。


 岩場の入り口。


 その両側にある木々の根を、岩壁へ沿わせるように押し出す。


 何本もの根が絡み合い、通路の手前に低い障害物を作った。


 魔物は、反射的に進路を変えようとした。


 けれど、すでに勢いがついている。


 しかも、左後脚を負傷しているため、急な方向転換が難しい。


「グルァッ!?」


 巨体が、岩壁へ接触した。


 ガリッ!


 鋭い爪が岩の表面を削り、小さな石が飛び散る。


 ……よし!


「フィオナ! 今のうちに!」


「はい!」


 僕らは、同時に岩の間へ飛び込んだ。


 背後では、魔物が低く唸っている。


 そして。


 ドガンッ!


 巨大な身体が、岩場の入り口へぶつかった。


「……っ!」


 僕は、思わず振り返った。


 岩の隙間には、魔物の頭部が入りかけていた。


 けれど、その肩が左右の岩壁へ引っかかっている。


 魔物は何度か身体を押し込もうとしたものの、岩の間へ入り込むことはできなかった。


 しかも、無理に押し込めば傷ついた後脚へ負担がかかるらしい。


 巨体が、少しずつ後退していく。


 ……よかった。


 これなら、逃げられる。


 ただし、完全に安心するわけにはいかない。


 魔物が岩場を迂回して追いかけてくる可能性は、まだ残っている。


 僕は、岩壁の上を見上げた。


 高さはかなりある。


 しかも、表面は急な斜面になっていて、あの巨体が登れるようには見えなかった。


 左右へ続く岩壁も、ここからでは端が見えないほど長い。


 迂回するとすれば、かなりの距離を移動する必要があるだろう。


 そして。


 右目に入ってくる魔物の状態は、先ほどよりさらに悪化していた。


 強い疲労。


 左後脚の損傷。


 そして、変わらない警戒と恐怖。


 ……どうやら。


 あいつも、これ以上無理をするつもりはなさそうだ。


「……フィオナ」


「はい」


「そろそろ、行こうか」


 そう言うと、彼女が頷いた。


「はい。ですが、まだ気を抜かないでくださいね」


「分かってるよ」


 僕らは、岩の間を進み始めた。


     ◇


 岩の間は、思っていた以上に狭かった。


 左右の壁が肩のすぐ近くまで迫り、場所によっては身体を横に向けなければ通れない。


 足元には細かな石が転がっていて、急いで進もうとすると滑りそうになる。


 ……いやあ。


 これは、怪我人には大変だっただろうな。


 ただ、狭い場所を抜けて少し進むと、岩壁の間隔がゆっくりと広がり始めた。


 その先には、細いながらも人が歩ける道が続いている。


 どうやら、以前は木こりたちも利用していた道らしい。


 そして、その道の途中で。


「……殿下!」


 グレンが、こちらへ駆け寄ってきた。


「ご無事でしたか!」


「うん。何とかね」


 僕は、軽く手を上げた。


「みんなは?」


「全員、通り抜けました。今は少し先で休ませております」


「……そっか!」


 僕は、思わず笑った。


 これで、ひとまず商人たちの救出は成功だ。


 あとは、町へ帰るだけ。


 ……まあ、それが一番大変かもしれないけど。


「……カイル様」


 フィオナが、静かに声を掛けてきた。


「お怪我はありませんか?」


「……ああ」


 僕は、少しだけ肩を回してみた。


 ……うん。


 痛い。


 結構、痛い。


「ちょっと、肩をぶつけちゃったかな」


「……見せてください」


 フィオナは、すぐに近づいてきた。


 僕の腕を慎重に持ち上げ、肩の状態を確認する。


「大きな傷はないようですが、かなり強く打たれたのではありませんか?」


「まあ、ちょっとね。でも、動かせるし、大丈夫だと思うよ」


 フィオナは、少しだけ眉を寄せた。


「……無理はなさらないでください」


「うん。帰ったら、ちゃんと診てもらうよ」


 そう答えると、彼女はようやく少しだけ表情を緩めた。


「……お願いします」


 ……なんだか、怒られてしまった。


 いや、怒っているというより、心配してくれているのか。


「ありがとう、フィオナ」


「……いえ」


 彼女は、静かに頷いた。


「私も、カイル様がご無事でよかったです」


 ……うん。


 やっぱり、フィオナがいてくれてよかった。


 正直、一人だったらどうなっていたか分からない。


 あの魔物の動きを読み、的確に矢を放ち、逃げ道まで見つけてくれた。


 僕の魔法だけでは、きっと無理だっただろう。


「……ねえ、フィオナ」


「はい」


「さっきの最後の矢、すごかったね」


 そう言うと、フィオナが少しだけ驚いたような顔をした。


「……そうでしょうか?」


「うん。あの状況で脚を狙うなんて、僕には思いつかなかったよ」


 フィオナは、少しだけ視線を落とした。


 それから、静かに答える。


「カイル様が、あの魔物の状態を教えてくださったからです」


「……うん?」


「左脚を怪我していると分かっていましたので、動きを止めるならそこしかないと思いました」


「……そっか」


 確かに、最初に魔物の状態を伝えたのは僕だった。


 でも、その情報をどう生かすか考えたのはフィオナだ。


 僕一人では、あそこまでうまく立ち回れなかったと思う。


「やっぱり、二人だと心強いね」


 僕が呟くと、フィオナが少しだけ微笑んだ。


「私も、そう思います」


 その声は、どこか柔らかかった。


     ◇


 岩場を抜けてしばらく歩くと、ようやく古い木こり道へ出ることができた。


 森の中とはいえ、先ほどまでの岩場に比べれば随分と歩きやすい。


 商人たちも、ようやく少しだけ安心した表情を見せていた。


「……殿下」


 商隊の代表が、静かに声を掛けてきた。


「うん?」


「改めて、お礼を言わせてください」


 商人は、深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました」


「ううん。まだ帰り道の途中だし、お礼は町に戻ってからでいいよ」


「……ですが」


「それに、みんなが生きててくれたことが一番だからね」


 そう言うと、商人はしばらく黙っていた。


 そして。


「……はい」


 小さく頷いた。


 その目には、少しだけ涙が浮かんでいた。


 僕は、周囲を見回した。


 商人たち五人。


 グレンと団員。


 そして、僕とフィオナ。


 全員、いる。


 最初に保護した男性も、今頃は街道で休んでいるはずだ。


 これで、六人全員の生存を確認できた。


 怪我をしている人もいる。


 疲れきっている人もいる。


 それでも。


 全員、生きて帰ってこられた。


 ……本当によかった。


「……じゃあ、行こうか」


 僕が言うと、全員が頷いた。


 僕らは、街道へ向かって歩き始めた。


     ◇


 夕暮れが近づくにつれ、森の中は少しずつ暗くなっていった。


 木々の隙間から差し込む光が赤みを帯び、足元には長い影が伸びている。


 先ほどまで聞こえていた魔物の唸り声は、もう聞こえない。


 ……静かだね。


 本当に、あれだけの戦いがあったとは思えないくらいだ。


 ただ、その静けさの中で、僕は少しだけ考え込んでいた。


 あの巨大な魔物。


 最後まで、僕らへ襲いかかろうとしていた。


 でも。


 そもそも、どうしてあんな場所にいたんだろう。


 右目から見えた情報では、かなり疲弊していた。


 左後脚には、深い傷もあった。


 そして、何かを恐れているようだった。


 あれほど大きな魔物が、いったい何を怖がっていたのか。


「……カイル様」


 フィオナが、隣へ並んだ。


「少し、気になることがありまして」


「ああ。もしかして、あの魔物のこと?」


 フィオナが頷いた。


「はい。あの魔物、最後まで非常に警戒している様子でした」


「うん」


「私たちを襲っている最中も、何度か森の奥へ視線を向けていました」


 ……やっぱり。


 僕も、それは気になっていた。


 特に、岩場へ逃げ込んだ後。


 魔物はしばらく入り口の近くをうろついていたけれど、結局は追ってこなかった。


 もちろん、岩の隙間を通れなかったことが一番大きいだろう。


 けれど、それだけではない気がする。


「実はさ、あいつ、かなり怖がってたみたいなんだよね」


「……怖がっていた?」


「うん。何を怖がってたのかまでは分からないけどさ」


 僕は、森の奥へ視線を向けた。


「もしかして、何かから逃げてきたのかな」


 フィオナは、しばらく黙っていた。


 それから、静かに口を開く。


「その可能性はあると思います」


「……だよね」


「ただ、今の段階では何とも言えません。単に、別の魔物との争いに敗れただけかもしれませんし」


「それもそうだね」


 僕は頷いた。


 確かに、その可能性もある。


 でも。


 先ほど遭遇した狼型の魔物。


 そして、今回の巨大な魔物。


 どちらも、何かから逃げているような様子だった。


 偶然にしては、少し気になる。


「帰ったら、グレンたちと相談してみようか」


「はい。私も、その方がよいと思います」


 フィオナが頷く。


「今後も、街道の近くで同じようなことが起きるかもしれませんから」


「……そうだね」


 僕は、小さく息を吐いた。


 今回、商人たちは運よく助けられた。


 でも、もしまた同じことが起きたら?


 今度も僕らがすぐに気づけるとは限らない。


 町が大きくなり、外の世界との取引が増えた。


 それ自体は、すごく嬉しいことだ。


 けれど、その分だけ。


 町の外で起きることも、少しずつ無関係ではなくなってきている。


 ……考えなきゃいけないことが、また増えたなあ。


「……カイル様」


 フィオナが、静かに声を掛けた。


「うん?」


「今日は、本当にお疲れさまでした」


 僕は、少しだけ笑った。


「フィオナもね」


「……はい」


 彼女も、穏やかに微笑んだ。


「帰ったら、ゆっくり休みたいですね」


「……おお」


 僕は、思わず顔を上げた。


「フィオナからそんなこと言うなんて、珍しいね」


「そうでしょうか?」


「うん。いつもなら、大丈夫ですって言いそうだから」


 そう言うと、フィオナは少しだけ視線を落とした。


 それから、静かに答える。


「今日は、少し疲れましたので」


「……そっか」


 僕は、思わず笑った。


「じゃあ、帰ったら一緒に休もうか」


「……はい」


 彼女が頷く。


 ……うん。


 何だか、嬉しいな。


 こうして、自分の状態をちゃんと伝えてくれるようになったことが。


 以前なら、疲れていても無理をしていたかもしれない。


 でも今は違う。


 少しずつ、変わってきてるんだね。


 そんなことを考えながら、僕らは街道へ向かって歩き続けた。


 やがて、木々の向こうに開けた場所が見えてくる。


 そこには、先ほど負傷者を運んでいった団員たちの姿があった。


「……殿下!」


 こちらに気づいた団員が、驚いたように顔を上げる。


「ご無事でしたか!」


「うん。何とかね」


 僕は、軽く手を振った。


 そして。


「みんな、見つかったよ」


 そう伝えると、団員たちは一瞬だけ言葉を失った。


 それから。


「……本当ですか!?」


「うん。全員、生きてた」


「……よかった……!」


 団員の一人が、大きく息を吐いた。


 これで、六人全員が揃った。


 負傷者がいるため、今日中に町へ戻るのは難しいだろう。


 けれど、街道まで戻ることはできた。


 あとは、救援を待ちながら安全な場所で休めばいい。


 僕は、夕暮れの街道を見渡した。


 遠くには、町へ続く道が伸びている。


 その先には、僕らの町がある。


 宿屋も。


 市場も。


 畑も。


 工房も。


 みんなが、少しずつ作り上げてきた町だ。


 そして今は。


 その町を目指して、帰ろうとしている人たちがいる。


 僕らが助け出した、商人たちだ。


 ……うん。


 帰ろう。


 僕らも。


 商人さんたちも。


 みんなで。


 そう思った時だった。


 フィオナが、静かに僕の隣へ並んだ。


「……カイル様」


「うん?」


「今日は、本当にありがとうございました」


 僕は、少しだけ首を傾げた。


「……何が?」


「皆さんを助けることができましたから」


 そう言って、彼女は穏やかに微笑んだ。


 僕は、少しだけ笑った。


「それは、フィオナもでしょ?」


「……はい」


「だから、お礼はお互い様だね」


 そう言うと、フィオナは少しだけ目を見開いた。


 それから。


「……そうですね」


 静かに頷いた。


 僕らは、夕陽の差し込む街道を眺めた。


 森の奥からは、もう唸り声は聞こえない。


 鳥の鳴き声。


 風に揺れる葉の音。


 そして、遠くで鳴く虫の声。


 いつもの森だった。


 少なくとも、今はそう見えた。


 けれど。


 あの巨大な魔物が、何を恐れていたのか。


 なぜ、普段は森の奥にいるはずの魔物たちが、街道の近くまで出てきていたのか。


 その答えは、まだ分からない。


 森のさらに奥深く。


 木々が幾重にも重なり、陽の光さえ届かない場所で何が起きているのか。


 僕らは、まだ知らなかった。

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