第四十一話 森に潜むもの
……ゴォォォ……。
森の奥から、低い唸り声が響いていた。
木々の間を吹き抜ける風が、頭上の葉を揺らしている。
先ほどまで聞こえていた鳥の声はいつの間にか消え、代わりに、何か重いものが地面を踏みしめるような音が、断続的に聞こえていた。
少なくとも、普通の獣が立てる音ではない。
「……ずいぶん近くにいるみたいだね」
僕は声を潜めながら、木々の向こうへ視線を向けた。
隣では、フィオナが弓を握ったまま耳を澄ませている。
「はい。正確な位置までは分かりませんが、先ほどからあまり移動していないようです」
「あまり動いてない?」
「ええ。同じ方向から何度も音が聞こえてきますので」
どこかに留まっているのか、それとも、同じ場所を歩き回っているのか。
どちらにしても、できれば近づきたくない相手であることに変わりはない。
足元には、先ほど保護した男性が横たわっていた。
衣服は泥に汚れ、右脚には血の滲んだ布が巻かれている。
呼吸は落ち着いてきているものの、意識はまだ戻っていない。
右目に入ってくる情報からも、疲労と脱水、それに負傷による消耗が見て取れた。
幸い、今すぐ命に関わる状態ではなさそうだ。
ただ、このまま森の奥へ連れていける状態でもない。
「グレン。この人を先に街道まで運んでもらえるかな」
「承知しました。二人を護送につけましょう」
グレンはすぐに団員たちへ指示を出した。
壊れた荷馬車から使えそうな木材を選び、持参していた布と紐で簡単な担架を作る。
男性を乗せる際には、負傷した脚が揺れないよう慎重に固定した。
「街道まで戻ったら、まず安全な場所で休ませてあげて。その後、町へ救援をお願いできる?」
「分かりました、殿下」
「それと、森には戻ってこなくていいからね。僕らも何かあったら引き返すつもりだから」
「承知しました。皆さんも、どうかお気をつけて」
二人は担架を持ち上げると、慎重に来た道を戻っていった。
木々の間にその姿が消えるまで、僕らは周囲を警戒する。
そして、完全に見えなくなったところで、グレンが口を開いた。
「……殿下。本当に、捜索を続けられますか?」
「うん。できれば、もう少し調べたいかな」
僕は森の奥を見た。
負傷者を一人見つけたことで、商隊の誰かが生き延びていることは確認できた。
でも、まだ五人の行方が分かっていない。
森の中に残された足跡を見る限り、彼らも荷馬車から移動した可能性が高いけれど、何日も帰ってこられない状況を考えると、無事だと決めつけるわけにはいかなかった。
「居場所だけでも分かれば、次にどうするか考えられるでしょ?」
「……そうですな」
「もちろん、危険すぎると思ったら引き返すよ。
僕だって、わざわざ死にに来たわけじゃないしね」
少し冗談めかして言うと、グレンは苦笑した。
「そのお言葉、信じておりますよ」
「……何だか、あんまり信用されてない気がするなあ」
「殿下の身を案じているのです」
「それはありがたいんだけどね」
まあ、心配させている自覚はある。
僕が怪我でもして帰ったら、セバスチャンやアリアに何を言われるか分からない。
……いや。
今回ばかりは、怒られるくらいで済めばいい方かもしれないね。
そんなことを考えていると、地面を調べていたフィオナが顔を上げた。
「カイル様。こちらを確認していただけますか?」
「うん?」
近づくと、彼女は落ち葉の間に残された足跡を指差した。
どうやら、先ほどの男性が歩いてきたものとは別に、複数人が同じ方向へ移動した跡が残っているらしい。
「こちらは、足取りが比較的揃っています。おそらく、何人かでまとまって移動したのでしょう」
「じゃあ、残りの人たちも一緒に行動してたのかな」
「その可能性は高いと思います。それに、少し気になることがありまして」
フィオナは周囲を見回した。
「この足跡は、途中からほとんど迷わず同じ方向へ続いています。逃げ回っているというより、どこかを目指していたように見えるんです」
「……どこか、か」
森に詳しい人間なら、身を隠せる場所を探したのかもしれない。
そう考えていると、グレンが何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、この先には古い木こり小屋があったはずです」
「木こり小屋?」
「ええ。以前、この辺りで伐採をしていた者たちが使っていた建物です。今は放置されているはずですが、壁と屋根は残っていると思います」
「それなら、避難している可能性はありそうだね」
僕はフィオナを見た。
「この足跡、その小屋の方へ続いてると思う?」
「正確な場所は分かりませんが、方角は合っているようです」
「だったら、まずはそこを目指してみようか」
僕らは頷き合うと、再び森の奥へ歩き始めた。
◇
それからしばらくして、フィオナが突然足を止めた。
「……皆さん、伏せてください」
その声に、僕らはすぐ近くの茂みへ身を隠した。
直後。
ドスン、と。
重い足音が、すぐ近くから聞こえてきた。
僕は枝の隙間から、そっと向こう側を覗き込む。
そして、思わず息を呑んだ。
木々の間を、巨大な獣が歩いていた。
狼に似た頭部。
黒灰色の毛並み。
太く発達した前脚と、地面を深く抉る鋭い爪。
四本の脚で立っているというのに、その肩は大人の人間の背丈ほどもある。身体の長さに至っては、そこらの荷馬車と大差ないかもしれない。
……いやいや。
ちょっと、大きすぎない?
「あれ、狼……なのかな」
「似てはいますが、私の知る魔物とは少し違います」
フィオナは声を落としたまま答えた。
「特に前脚の発達が異常です。あの体格では、正面から攻撃を受け止めるのは難しいと思います」
「だよね。できれば、戦わずに済ませたいなあ」
実際、巨大な魔物が歩くたびに地面がわずかに揺れ、踏みつけられた枝が乾いた音を立てていた。
あの脚で殴られたら、普通の防護術ではどこまで耐えられるか分からない。
僕は、改めて魔物へ視線を向けた。
すると、右目から情報が流れ込んできた。
……あ。
今回は、ちゃんと見えるんだ。
以前、森のさらに奥で遭遇した魔物たちとは違う。
種族は大型の狼型魔物。
優れた嗅覚と強い四肢を持ち、特に突進や爪による攻撃が危険らしい。
そして、身体の状態は……。
「……あれ?」
思わず、小さく声が漏れた。
「どうされました?」
フィオナがこちらを見る。
「いや、あいつさ。思ってたより、ずっと弱ってるみたいなんだよね」
「弱っているのですか?」
「うん。かなり疲れてるし、左の後脚を怪我してる。それに、空腹もひどいみたい」
フィオナが魔物の歩き方を観察する。
しばらくして、彼女は小さく頷いた。
「確かに。左脚へ体重をかける時だけ、動きが鈍っていますね」
「でしょ? でも、それだけじゃないんだ」
気になるのは、魔物の感情だった。
強い警戒と焦燥。
そして、その奥には恐怖が混じっている。
あれほど巨大な魔物なのに、何かを恐れているらしい。
何を恐れているのかまでは分からない。
けれど、先ほど遭遇した狼型の魔物にも、どこか似たような様子があった。
偶然にしては、少し気になる。
「……カイル様」
フィオナの声で、僕は考えを中断した。
「見てください。あちらに建物が」
彼女が示した方向へ目を向ける。
木々の向こうに、小さな建物が見えた。
古い木製の壁。
苔の生えた屋根。
そして、入り口の前には不自然に木材が積まれている。
「あれが、木こり小屋?」
「おそらく」
グレンが頷いた。
僕は、もう一度巨大な魔物を見た。
魔物は、建物の周囲をゆっくりと歩き回っている。
時折、小屋へ向かって鼻先を近づけ、低い唸り声を上げていた。
どうやら、中に何かがいることを知っているらしい。
それなら、あの魔物がここを離れない理由にも説明がつく。
「フィオナ。あの小屋、中に人がいるか分かる?」
そう尋ねると、フィオナは慎重に窓の方へ視線を向けた。
しばらくして。
「……います」
彼女が小さく答えた。
「本当?」
「はい。今、窓の奥で人影が動きました」
僕は、思わず息を吐いた。
少なくとも、誰かが生きている。
ただし、巨大な魔物が周囲を歩き回っている以上、簡単に助け出せる状況ではなさそうだった。
「まずは、気づかれないように近づいてみようか」
僕らは、魔物の動きを確認しながら小屋の裏側へ回り込んだ。
◇
「……殿下?」
板の隙間から聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。
「うん。僕だよ。久しぶり……って言うには、ちょっと変な場所だね」
「……本当に、殿下なのですか?」
「そうだよ。帰ってこないから、みんな心配してたんだ」
しばらく返事がなかった。
それから。
「……ああ……」
小さく、息を漏らすような声が聞こえてきた。
「……助かった……」
その言葉には、今にも泣き出しそうな安堵が滲んでいた。
「みんな、無事?」
「はい……私を含めて、五人おります」
「そっか。実は、助けを呼びに出た人も見つけたんだよ。怪我はしてたけど、生きてるから安心して」
「……っ!」
窓の向こうで、何かが動く音がした。
「……よかった……本当に……」
しばらく、商人は言葉を続けられなかった。
僕らも、急かさずに待つ。
やがて、少し落ち着いたところで事情を聞くと、商隊は街道で巨大な魔物と遭遇し、逃げるうちに森へ追い込まれたらしい。
途中で荷馬車の一台が壊れ、残る一台も狭い道を進めなくなったため、荷物を捨てて徒歩で逃げるしかなかったそうだ。
そして、偶然見つけたこの小屋へ避難した。
ところが、魔物が周囲を離れない。
しかも、一行の中には怪我人がいた。
食料も水も残り少なくなり、追い詰められた末に、比較的動ける一人が助けを呼びに出たのだという。
「……でも、その人も怪我をしてたよ?」
僕がそう伝えると、商人は驚いたようだった。
「……怪我を?」
「うん。右脚に結構大きな傷があったんだ」
「……そんな……」
商人の声が震える。
「小屋を出た時には、怪我などしていなかったはずです。きっと、途中で何かあったのでしょう……」
「そっか。でも、命に別状はなさそうだったから、あんまり心配しすぎないでね」
「……はい」
どうやら、男性は助けを呼びに向かう途中で怪我をしたらしい。
森の中には魔物もいる。
転んだのか、何かに襲われたのか。
詳しいことは、本人が目を覚ましてから聞くしかないだろう。
「……殿下」
商人が、再び声を掛けてきた。
「申し訳ありません。町から預かった茶も、仕入れた品物も……すべて置いてきてしまいました」
「……ああ、荷物のこと?」
僕は、少し苦笑した。
「そんなの、今は気にしなくていいよ。荷物を守るためにみんなが死んじゃったら、元も子もないでしょ?」
「……ですが」
「商売の話は、無事に帰ってからにしよう。その方が僕も安心できるしね」
商人は、しばらく黙っていた。
そして。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる気配がした。
「本当に、ありがとうございます」
「うん。じゃあ、ちょっと待ってて。何とか出られる方法を考えるからさ」
僕は窓から離れ、フィオナたちのところへ戻った。
さて。
ここからが本題だ。
◇
「……正面から戦うのは、やめておきたいね」
僕が言うと、グレンも頷いた。
「ええ。あの大きさでは、こちらにも相応の被害が出るでしょう」
僕らは、小屋の裏手にある茂みへ身を隠しながら、救出方法を考えていた。
魔物は、相変わらず建物の周囲を歩き回っている。
身体は相当疲弊しているはずなのに、獲物を諦める様子はない。
おそらく、空腹も関係しているのだろう。
「今回の目的は、商人さんたちを助けることでしょ? だったら、無理に倒す必要はないと思うんだよね」
「同感です」
グレンが答える。
フィオナも頷いた。
「私も、できる限り戦闘は避けた方がよいと思います。あれほど大きな魔物を相手にすれば、負傷者を守りながら戦うのは難しいでしょうから」
「そうなんだよね」
僕は周囲の地形を見た。
小屋の西側には、木々が比較的まばらな場所がある。
一方、東側には背の高い草が茂り、その先には浅い窪地が続いていた。
どうやら、以前は水が流れていた場所らしい。
「フィオナ。あの窪地って、どこまで続いてるの?」
「涸れ沢ですね。少し遠回りになりますが、街道の方角へ続いていると思います」
「それなら、逃げ道に使えそうだね」
「はい。ただし、途中から岩場になりますので、怪我をされている方には少し歩きにくいかもしれません」
それは困る。
でも、小屋の周囲を歩き回っている魔物に見つからずに逃げるなら、身を隠せる場所を通った方がいい。
僕は、しばらく考えた。
「だったら、一度あいつを小屋から離せないかな」
「注意を逸らす、ということですか?」
「うん。例えば、反対側で大きな音を立てるとかさ」
フィオナが魔物へ視線を向けた。
「確かに、あの魔物は音にも反応しているようです」
「じゃあ、それを使ってみようか」
僕は、遠くに見える枯れ木を指差した。
「あそこの枝を落とせば、結構大きな音が出ると思うんだよね。音のした方へ向かってくれれば、その隙に小屋から出られるかもしれない」
「なるほど。ならば、商人たちは私が誘導しましょう」
グレンが答える。
「殿下とフィオナ殿には、魔物の様子を見ていただきたい」
「うん。それでお願い」
役割は決まった。
ただし、今回は時間との勝負になる。
いくら大きな音を立てても、魔物がいつまでもそちらに気を取られてくれるとは限らない。
しかも、相手は嗅覚に優れた魔物だ。
音に釣られて移動したとしても、風向きによっては商人たちの匂いに気づくかもしれない。
そこで、フィオナが風の流れを確認し、できるだけ匂いが魔物の方へ流れにくい経路を選んだ。
「……よし」
僕は、小さく息を吐いた。
「じゃあ、始めようか」
◇
僕は、地面へゆっくりと魔力を流した。
意識を向けるのは、小屋から少し離れた場所にある枯れ木。
その根元には、細い蔓が何本も伸びている。
距離は少しあるけれど、何とか届きそうだ。
蔓を伸ばし、枯れ木に引っかかっている枝の束へ絡ませる。
そして。
「……今!」
一気に引っ張った。
バキバキッ!
乾いた枝が折れ、地面へ落ちる。
森の中に、思った以上に大きな音が響いた。
「……っ!」
巨大な魔物が、勢いよく顔を上げた。
耳を動かし、音のした方向へ鼻先を向ける。
しばらく、その場で様子を窺っていたけれど。
やがて。
ドスン。
ドスン。
ゆっくりと歩き始めた。
「……行ったね」
「はい。ですが、まだ油断はできません」
フィオナは、魔物の動きから目を離さない。
僕は小屋の裏側へ目を向けた。
グレンが、すでに商人たちの脱出を始めている。
一人目。
二人目。
そして、三人目。
小屋の裏口から人影が現れ、慎重に草むらへ入っていく。
四人目は足を怪我しているらしく、両側から肩を支えられていた。
最後に、商隊の代表が小屋から出てくる。
……よし。
全員、出られた。
あとは、沢まで移動できれば。
そう思った時だった。
「……カイル様」
フィオナの声が、少しだけ鋭くなった。
「風が、変わりました」
僕は、頬に当たる空気を感じた。
確かに、さっきまでとは向きが違う。
森の奥から吹いていた風が、今は小屋のある方から魔物へ向かって流れていた。
……まずい。
巨大な魔物が、ぴたりと足を止めた。
鼻先を持ち上げる。
何度も空気を吸い込み、周囲を確かめるように首を動かしている。
「……気づかれた?」
僕が尋ねると、フィオナは静かに頷いた。
「おそらく、匂いを捉えたのだと思います」
音で注意を逸らすことはできた。
でも、匂いまでは誤魔化せなかったらしい。
次の瞬間。
「グルルルル……!」
魔物が、低く唸った。
そして、勢いよく振り返る。
その視線の先には、小屋から出てきた商人たちがいた。
「……まずい!」
僕は立ち上がった。
「グレン! そのまま進んで!」
声を上げるのと、魔物が地面を蹴るのはほとんど同時だった。
……ドンッ!
巨体が、一気に加速する。
あれほど重そうな身体なのに、驚くほど速い。太い前脚が地面を抉り、落ち葉が勢いよく舞い上がった。
あの速度では、怪我人を抱えた商人たちなど、あっという間に追いつかれてしまう。
「《根走り》!」
僕は右手を突き出した。
魔力に反応して、魔物の進路上にあった木の根が持ち上がる。
狙うのは、前脚だ。
走っている最中なら、足を取るだけでも勢いを削げるはず。
そして。
「グルァッ!?」
伸びた根が前脚へ絡みつき、巨体が大きく傾いた。
……よし!
そう思ったのも束の間。
ブチッ!
太い根が、力任せに引き千切られた。
「……えっ」
ちょっと待って。
今の、結構しっかりした根だったんだけど!?
魔物は一瞬だけ速度を落としたものの、すぐに体勢を立て直す。
そのまま商人たちへ向かって突進しようとした。
けれど。
ヒュッ!
風を切る音が響いた。
フィオナの放った矢が、魔物の鼻先を掠める。
「ガルッ!」
魔物が反射的に顔を背けた。
その一瞬で、僕は前へ出た。
「フィオナ! とりあえず、あの人たちから離さないと!」
「はい!」
彼女はすでに次の矢をつがえていた。
こうなった以上、多少は戦わないといけないらしい。
できれば、そうならないように考えたつもりだったんだけどね。
◇
魔物が、僕らへ向き直った。
大きな口が開き、鋭い牙が覗く。
その視線には、明らかな敵意があった。
右目に入ってくる情報からも、興奮が強まっていることが分かる。
……あまり刺激しない方がよさそうだと思ってたんだけど。
もう、そんなことを言っている余裕はなかった。
「カイル様!」
フィオナが叫ぶ。
直後、魔物が地面を蹴った。
……速い!
僕は横へ飛ぶ。
巨大な前脚が、さっきまで立っていた場所へ叩きつけられた。
ドゴンッ!
鈍い衝撃音とともに、土が大きく抉れる。
飛び散った小石が頬を掠め、僕は慌てて近くの木の陰へ飛び込んだ。
あれをまともに食らえば、いくら身体を強化していたとしても無事では済まない。
少なくとも、一度受けて試してみたいとは思わなかった。
「……っ!」
再び、魔物の前脚が振り上げられた。
今度は横薙ぎ。
僕が隠れた木の幹ごと、まとめて薙ぎ払おうとしている。
……まずい!
咄嗟に、左手を突き出した。
身体の前へ魔力を集中させ、薄い防護の壁を作る。
直後。
ドガンッ!
凄まじい衝撃が、壁を通して腕へ伝わってきた。
「……っぐ!」
足が地面を滑る。
防護の表面に細かな亀裂が走り、魔力が急速に削られていく。
これは、長く持たない。
そう判断した瞬間、僕は魔法を解きながら後ろへ跳んだ。
光の壁が砕け散り、その向こうを巨大な前脚が通り過ぎる。
爪が木の幹へ食い込み、深い傷を残した。
「……危なっ!」
思わず声が出た。
相手が大きすぎるんだよ!
しかも、一撃が重い。
正面から受け止めるのは危険だし、かといって、ただ避け続けるだけでは商人たちの方へ向かわれてしまう。
僕が考えている間にも、魔物は再び身体を低く沈めた。
今度は、こちらではない。
少し離れた沢の方。
……あ。
グレンたちがいる方向だ。
「フィオナ! あいつ、また商人さんたちを狙ってる!」
「分かっています!」
フィオナは一歩横へ移動すると、ヘラクレスを引き絞った。
狙うのは、巨体の側面。
肩の後ろ、前脚の動きに合わせて毛皮が薄くなる部分だ。
弦が鳴る。
ヒュッ!
放たれた矢が、魔物の肩へ突き刺さった。
「ガァッ!」
魔物が吠え、反射的にこちらへ顔を向けた。
だが、フィオナはすでに次の位置へ移動していた。
矢を放った場所に留まれば、狙われる。
彼女はそれをよく理解しているらしい。
木々の間を滑るように移動し、魔物の視線が追いつく前に次の矢をつがえる。
その動きには無駄がない。
……さすがだね。
ただ、見惚れている場合じゃない。
僕は魔物の動きを確認した。
フィオナの矢は確かに命中した。
でも、魔物の動きはほとんど鈍っていない。
厚い毛皮と筋肉に阻まれ、深くは刺さっていないらしい。
もっと強く攻めるなら、方法がないわけではない。
以前、森の奥で竜と戦った時のように、空中から直接茨を発生させ、相手の動きを強引に封じることもできるだろう。
さらに、フィオナが急所を狙えば、あの巨体にも致命傷を与えられるかもしれない。
ただし、遠くの空間へ直接魔力を送り込む方法は、消耗が激しい。
それに、相手が暴れれば周囲の木々まで巻き込みかねない。
今はすぐ近くに、逃げている商人たちがいる。
僕らだけなら取れる戦い方も、今は簡単には選べなかった。
何より、あの魔物を倒すために全力を使い切ってしまえば、その後の帰り道で何かあった時に対応できなくなる。
……うん。
やっぱり、ここで決着をつけるのは得策じゃないね。
「フィオナ! これ以上、同じやり方で止めるのは厳しいかも!」
「私もそう思います!」
彼女は魔物の動きを追いながら答えた。
「それに、あの魔物は私たちより、逃げている方々を気にしています!」
「やっぱり?」
「はい。攻撃を受けるとこちらへ向きますが、すぐに沢の方を見ています」
……なるほど。
だったら、僕らが何度攻撃したところで、商人たちを見失わない限り追跡を諦めないかもしれない。
今の僕らは、魔物を倒さない代わりに延々と相手をし続けるという、あまり賢くないことをしているわけだ。
それは困る。
すごく困る。
僕は、もう一度周囲を見回した。
木々の間を走る涸れ沢。
その先にある岩場。
そして、沢の奥へ続く細い地形。
……ん?
そういえば。
さっきフィオナが、途中から岩場になるって言ってたよね。
「フィオナ! さっきの沢、岩場の先はどうなってるの?」
フィオナは、少しだけ驚いたような顔をした。
けれど、すぐに周囲の地形を確認する。
「岩場の奥、ですか?」
「うん。商人さんたちが通れる道はある?」
「……あります。ただ、かなり狭い場所がありまして……」
彼女は、一瞬だけ考え込んだ。
そして。
「……あ!」
顔を上げた。
「カイル様。もしかして……」
「うん。あの魔物って、かなり大きいでしょ?」
僕は、再び巨体へ視線を向けた。
「だったらさ。僕らが通れて、あいつが通れない場所があれば……」
「追跡を振り切れるかもしれません!」
フィオナが答える。
今まで、僕らは魔物をどうやって止めるかばかり考えていた。
でも、本当に必要なのは、全員が安全に逃げることだ。
だったら、無理に足止めする必要もない。
魔物が追ってこられない場所へ逃げればいい。
ただし、それには一つ条件がある。
怪我人を含めた全員が、その場所を通り抜けられること。
そして、魔物より先にそこへ到着することだ。
「フィオナ。そこまで案内できる?」
「はい。沢を進んだ先に、岩壁の間を抜ける場所があります。少し狭いですが、人間であれば通れるはずです」
「その岩場、あいつが回り込める場所はある?」
「……少なくとも、近くにはありません。岩壁はかなり長く続いていますので、迂回するには大きく遠回りする必要があると思います」
それなら、使えるかもしれない。
もちろん、魔物がまったく追ってこられないとは限らない。
でも、あの巨体で岩場を大きく迂回するより、僕らが狭い道を通り抜ける方が早いはずだ。
しかも、魔物はすでにかなり疲れている。
左後脚も負傷していることを考えると、険しい岩場を登ったり、遠回りしたりするのは簡単ではないだろう。
「……よし!」
僕は頷いた。
「じゃあ、作戦変更しよう!」
◇
「グレン!」
僕は、できるだけ大きな声で呼びかけた。
少し離れた沢の向こうで、グレンが振り返る。
「殿下!」
「そのまま沢を進んで! 途中に狭い岩場があるはずだから、そこを目指してほしい!」
「岩場ですか!?」
「うん! あの魔物が通れない場所へ逃げる!」
グレンは一瞬だけ驚いたような顔をした。
けれど、すぐに頷いた。
「承知しました!」
彼は団員たちへ声を掛け、商人たちの進路を変える。
負傷した男性は、二人に支えられながら何とか歩いていた。
ただ、足元には大きな石がいくつも転がっている。平坦な道に比べれば、どうしても時間がかかるだろう。
……まずいな。
このままだと、あの魔物の方が先に着いてしまうかもしれない。
その時。
「グルルルル……!」
巨大な魔物が、再び唸った。
僕らの会話が聞こえたのか。
それとも、商人たちが動いたことに気づいたのか。
いずれにしても、魔物は再び沢の方へ顔を向けていた。
……こっちも、急がないと。
「フィオナ!」
「はい!」
「もう少しだけ、あいつをここに留めておこう!」
彼女が頷き、弓を構え直す。
僕らは魔物の正面へ出るのではなく、少しずつ距離を取りながら木々の間を移動した。
このまま力比べを続ければ、こちらが先に消耗する。
ならば、魔物の攻撃を正面から受ける必要はない。相手が進もうとしている場所を塞ぎ、その間に距離を取ればいい。
僕は地面へ魔力を流し、周囲の木の根を確認した。
そして。
「《根走り》!」
地面が盛り上がった。
魔物の進行方向。
そこへ、何本もの木の根が突き出す。
突然現れた障害物に、魔物が足を止めた。
「グルッ!?」
そして、根を避けようと身体を捻る。
……よし。
ただ。
魔物は、すぐに進路を変え始めた。
根を乗り越えるのではなく、その横へ回り込もうとしている。
……まあ、そうなるよね。
「フィオナ!」
「はい!」
返事と同時に、弦が鳴った。
ヒュッ!
一本の矢が、魔物の進もうとした先へ飛ぶ。
狙いは、地面に近い前脚。
矢は毛皮を掠め、魔物の足元へ突き刺さった。
「ガルッ!」
魔物が反射的に脚を引く。
その隙に、僕は次の根を動かした。
今度は横から。
魔物が進もうとしている場所だけを、短く塞ぐ。
すると、魔物は再び足を止めた。
……うん。
少なくとも、さっきよりは効率がいい。
ただし、こちらの思い通りに動いてくれるとは限らない。
相手は決して鈍い魔物ではないのだ。
それを思い知らされたのは、ほんの数秒後だった。
「カイル様!」
フィオナが鋭く声を上げた。
巨大な魔物が、突然身体を低く沈めた。
……来る!
そう判断した瞬間。
魔物は、地面を蹴った。
ドンッ!
凄まじい勢いで、根の壁へ突っ込んでくる。
「……えっ!?」
木の根が、一瞬だけ巨体を受け止めた。
けれど。
バキバキッ!
太い根が、まとめてへし折られた。
……嘘でしょ!?
魔物は、そのまま勢いを落とさずに突進してくる。
狙いは。
……僕!?
「……っ!」
咄嗟に横へ飛ぶ。
けれど、間に合わない。
巨大な前脚が、視界いっぱいに迫っていた。
僕は、反射的に魔力を前方へ集中させた。
先ほどと同じ防護の壁。
直後。
ドガンッ!
激しい衝撃が、全身を襲った。
「……っぐ!」
足が地面から離れる。
防護の壁が衝撃を受け止めきれず、僕の身体はそのまま後ろへ弾き飛ばされた。
……まずい!
背後には、太い木の幹。
このままぶつかったら、ただでは済まない。
僕は咄嗟に右手を伸ばし、近くの蔓へ魔力を流した。
蔓が腕へ絡みつき、身体を横へ引っ張る。
直後。
ドサッ!
僕は地面へ転がった。
「……いったた……」
背中と肩が、鈍く痛んだ。
でも、木へ直接叩きつけられるよりはずっとましだったはずだ。
……かなり、危なかったね。
「カイル様!」
フィオナが駆け寄ろうとする。
けれど。
「……来ないで!」
僕は、慌てて声を上げた。
魔物が、まだこちらを見ていたからだ。
その距離は、十歩ほど。
近すぎる。
しかも、僕が地面へ倒れていることに気づいたのか、再び身体を低く沈め始めていた。
……まずいな。
この距離じゃ、起き上がるより先に飛びかかられる。
そう思った瞬間。
ヒュッ!
風切り音が響いた。
フィオナの放った矢が、魔物の頬へ突き刺さる。
「ギャウッ!」
魔物が顔を背けた。
その瞬間、フィオナは僕の腕を掴み、強引に引き起こした。
「走れますか!?」
「……うん!」
僕は、痛む肩を押さえながら立ち上がる。
フィオナに引かれるようにして、木々の間へ走り込んだ。
背後では、魔物が怒りに満ちた唸り声を上げている。
……いやあ。
本当に、手強いな。
まともに戦い続けたら、いつか必ずこちらが負ける。
しかも、残っている魔力も決して多くはない。
だからこそ、今度こそ逃げ切らないと。
◇
「……カイル様。あちらです!」
フィオナが、沢の奥を指差した。
木々の向こうに、灰色の岩壁が見えていた。
沢はその手前で少し曲がり、岩の間へ細く続いているらしい。
「あそこ?」
「はい。岩壁の間に、人が通れる隙間があります!」
「……よし!」
目的地が見えてきた。
あとは、全員がそこを通り抜けられればいい。
ただ、背後からはまだ重い足音が響いている。
あの魔物も、簡単に追跡を諦めるつもりはないらしい。
僕は右目へ意識を向けた。
魔物の疲労は、確実に増えていた。
左後脚の負傷も、追跡を続けるうちに悪化しているらしい。
それでも、まだ十分に動ける状態だった。
「……フィオナ」
「はい」
「もうすぐ岩場だけど、僕らが先に逃げ込んだら、商人さんたちが危ないよね」
「……そうですね。あの魔物が先に追いついてしまうかもしれません」
僕は、少し考えた。
僕らだけなら、今すぐ岩場へ飛び込んでもいい。
でも、後ろには怪我人を連れた商人たちがいる。
だから、全員が通り抜けるまで、魔物を引きつけておく必要があった。
「じゃあ、もう少しだけ頑張ろうか」
そう言うと、フィオナが頷いた。
「はい。ただし、今度は無理に受け止めようとなさらないでください」
「……うん。さっきので懲りたよ」
僕は、少しだけ苦笑した。
「できれば、もうあんなのは食らいたくないかな」
「私も、そうしていただきたいです」
フィオナの声には、いつもより少しだけ強い調子が混じっていた。
……うん。
心配かけちゃったな。
「じゃあ、僕らも離れすぎないようにしよう」
「はい」
僕らは互いの位置を確認しながら、再び走り始めた。
岩場までは、もう少し。
その間、魔物を商人たちへ近づけないこと。
それが、今の僕らにできる一番大切な仕事だった。
◇
岩場へ到着すると、そこではグレンたちが商人を通しているところだった。
目の前には、二つの岩壁が向かい合うようにそびえている。
その間には、人が一人ずつ通れる程度の細い隙間があった。
しかも、岩の間は少し曲がっているため、奥の様子はよく見えない。
岩壁は沢の両側に長く続き、上部はかなり急な斜面になっていた。あの巨体が登ろうとしても、簡単ではなさそうだ。
……おお。
これは、確かにあの魔物には厳しそうだね。
「殿下!」
グレンが、こちらへ駆け寄ってきた。
「どう? 通れそう?」
「はい。団員に先を確認させました。少し狭いですが、反対側の木こり道へ繋がっているようです」
「……よかった!」
僕は、思わず息を吐いた。
これなら、行き止まりということはない。
あとは、商人たちが通り抜けるだけだ。
ただし、問題もあった。
入り口付近は比較的広いものの、奥へ進むほど狭くなっている。
大きな荷物を持って通るのは難しそうだ。
しかも、怪我人を支えながらとなると、かなり慎重に進む必要がある。
「グレン! 荷物は全部置いていっていいよ! 人が通ることだけ考えて!」
「承知しました!」
グレンは、すぐに商人たちへ指示を出した。
水袋や必要な道具だけを残し、それ以外の荷物は岩場の手前へ置いていく。
そして、一人ずつ岩の間へ入っていった。
……一人。
……二人。
……三人。
順調に進んでいる。
ただ、四人目。
足を怪我した男性が、岩の隙間へ入ろうとしたところで動きが止まった。
「……っ!」
男性が、痛みに顔を歪める。
どうやら、岩に身体を寄せる際に負傷した脚へ力がかかってしまったらしい。
「大丈夫ですか!?」
グレンが声を掛ける。
「……すみません……足が……」
男性は、荒い息を繰り返していた。
……まずい。
僕は、背後を振り返った。
森の奥から、重い足音が近づいてくる。
ドスン。
ドスン。
……近い。
もう、あまり時間がない。
「……フィオナ」
「はい」
「僕らで、もう少しだけ時間を稼ごう」
そう言うと、彼女は頷いた。
「はい。ですが、ここからは長く持ちません」
「分かってる。全員が通り抜けたら、僕らもすぐに逃げよう」
魔力の残りは決して多くない。
フィオナの矢も、随分と減っている。
それに、あの魔物はまだ動ける。
まともに戦えば、僕らが先に力尽きるだろう。
だから。
ほんの少しだけ。
全員が岩の間を通り抜けるまで。
それだけでいい。
「……行こうか」
「はい」
僕らは、岩場の手前へ戻った。
そして。
木々の間から、巨大な魔物が姿を現した。
◇
「グルルルル……!」
低い唸り声が、岩壁へ反響する。
魔物は、僕らの姿を見つけると足を止めた。
その視線が、一度だけ岩の間へ向けられる。
……あ。
気づいたな。
岩場の奥には、まだ商人たちがいる。
このままでは、魔物がそちらへ突進してしまうかもしれない。
「……フィオナ」
「はい」
「ここは、通さないようにしよう」
彼女は、静かに頷いた。
「分かりました」
ヘラクレスが、ゆっくりと引き絞られる。
僕も、右手を前へ出した。
魔物が、地面を蹴る。
……来る!
「《根走り》!」
魔物の進行方向へ、太い根を突き上げた。
けれど、今度の魔物はすぐに跳び越えようとする。
……やっぱり、覚えられてる。
だったら。
僕は、もう一度魔力を流した。
ただし、今度は根を上へ伸ばすのではない。
魔物が着地しようとしている場所。
そこにあった細い根を、横へ引っ張る。
地面が、わずかに崩れた。
「グルッ!?」
魔物が、着地の瞬間に身体を揺らす。
その隙に。
ヒュッ!
フィオナの矢が放たれた。
狙いは、左前脚の付け根。
矢が毛皮を貫き、魔物が大きく吠える。
「ガァァッ!」
巨体が、勢いよくこちらへ向き直った。
……よし。
注意は、こっちへ向いた。
ただし。
次の瞬間。
魔物は、今までとは違う動きを見せた。
正面から突進してくるのではなく、身体を横へ捻り、僕らの右側へ回り込もうとしたのだ。
……え?
僕は、思わず目を見開いた。
そこには、岩場の入り口がある。
しかも。
まだ、最後の商人たちが通り抜けていない。
……まずい!
「フィオナ!」
声を上げるより早く、彼女は動いていた。
魔物の進路へ回り込む。
そして。
ヒュッ!
矢が、魔物の顔の横を掠めた。
「ガルッ!」
魔物が反射的に顔を背ける。
その隙に、僕は岩場の入り口へ走った。
「グレン! あと何人!?」
「……二人です!」
岩の向こうから声が返ってくる。
……あと二人!
僕は、背後を振り返った。
巨大な魔物が、再びこちらへ向かってくる。
この距離だと、もう一度根を伸ばしても間に合わないかもしれない。
だったら。
僕は、左手を前へ突き出した。
魔力を集中させ、岩場の入り口を守るように防護の壁を展開する。
魔物が、それへ向かって突進してきた。
ドガンッ!
激しい衝撃が、腕へ伝わる。
「……っ!」
足が地面を滑った。
防護の表面に、ひびが走る。
……まずい。
これ以上は!
「カイル様!」
フィオナの声。
直後、魔物の顔の横へ矢が突き刺さった。
「ギャウッ!」
魔物が一瞬だけ頭を振る。
その隙に、僕は魔法を解いて後ろへ下がった。
少しだけ、時間を稼げた。
ただ、もう限界が近い。
僕は、岩の間を見た。
最後の商人が、ようやく奥へ進んでいくところだった。
……あと少し。
あと、ほんの少しだけ。
その時。
巨大な魔物が、再び身体を低く沈めた。
……来る!
僕は、右手へ魔力を集中させる。
けれど。
魔物は、さっきとは違う方向へ走り始めた。
僕らの横を抜けるように。
岩場の入り口へ。
……あ。
まずい。
これは、止めきれない!
「フィオナ!」
「はい!」
返事と同時に、彼女が僕の横へ並んだ。
そして。
「カイル様、あの脚を!」
フィオナが短く叫ぶ。
その視線は、魔物の左後脚へ向けられていた。
……なるほど!
僕は、すぐに彼女の意図を理解した。
あの脚は、すでに深く傷ついている。
右目から伝わってくる情報でも、負傷はかなり悪化していた。
だったら、無理に身体全体を止める必要はない。
ほんの一瞬。
あの脚へ負担をかけ、速度を落とせればいい。
「……分かった!」
僕は、残っている魔力を地面へ流した。
魔物が踏み込もうとしている場所。
そのすぐ手前へ、細い根を伸ばす。
今までのように脚を絡め取ろうとはしない。
ただ、着地の瞬間に足元を乱す。
それだけを狙った。
「《根走り》!」
地面が、わずかに盛り上がる。
魔物の前脚が、その根を踏みつけた。
巨体が、一瞬だけ揺れる。
そして。
左後脚が、強く地面へ踏み込まれた。
……今!
フィオナが、弓を引き絞る。
ヘラクレスの弦が、鋭く鳴った。
ヒュッ!
矢が、一直線に飛んでいく。
そして。
ザシュッ!
「ガァァッ!」
魔物が、大きく吠えた。
左後脚が、地面を捉えきれずに滑る。
巨体が、一瞬だけ傾いた。
……よし!
僕は、すぐに次の魔法へ意識を向けた。
ただし、今度は魔物を縛るためではない。
岩場の入り口。
その両側にある木々の根を、岩壁へ沿わせるように押し出す。
何本もの根が絡み合い、通路の手前に低い障害物を作った。
魔物は、反射的に進路を変えようとした。
けれど、すでに勢いがついている。
しかも、左後脚を負傷しているため、急な方向転換が難しい。
「グルァッ!?」
巨体が、岩壁へ接触した。
ガリッ!
鋭い爪が岩の表面を削り、小さな石が飛び散る。
……よし!
「フィオナ! 今のうちに!」
「はい!」
僕らは、同時に岩の間へ飛び込んだ。
背後では、魔物が低く唸っている。
そして。
ドガンッ!
巨大な身体が、岩場の入り口へぶつかった。
「……っ!」
僕は、思わず振り返った。
岩の隙間には、魔物の頭部が入りかけていた。
けれど、その肩が左右の岩壁へ引っかかっている。
魔物は何度か身体を押し込もうとしたものの、岩の間へ入り込むことはできなかった。
しかも、無理に押し込めば傷ついた後脚へ負担がかかるらしい。
巨体が、少しずつ後退していく。
……よかった。
これなら、逃げられる。
ただし、完全に安心するわけにはいかない。
魔物が岩場を迂回して追いかけてくる可能性は、まだ残っている。
僕は、岩壁の上を見上げた。
高さはかなりある。
しかも、表面は急な斜面になっていて、あの巨体が登れるようには見えなかった。
左右へ続く岩壁も、ここからでは端が見えないほど長い。
迂回するとすれば、かなりの距離を移動する必要があるだろう。
そして。
右目に入ってくる魔物の状態は、先ほどよりさらに悪化していた。
強い疲労。
左後脚の損傷。
そして、変わらない警戒と恐怖。
……どうやら。
あいつも、これ以上無理をするつもりはなさそうだ。
「……フィオナ」
「はい」
「そろそろ、行こうか」
そう言うと、彼女が頷いた。
「はい。ですが、まだ気を抜かないでくださいね」
「分かってるよ」
僕らは、岩の間を進み始めた。
◇
岩の間は、思っていた以上に狭かった。
左右の壁が肩のすぐ近くまで迫り、場所によっては身体を横に向けなければ通れない。
足元には細かな石が転がっていて、急いで進もうとすると滑りそうになる。
……いやあ。
これは、怪我人には大変だっただろうな。
ただ、狭い場所を抜けて少し進むと、岩壁の間隔がゆっくりと広がり始めた。
その先には、細いながらも人が歩ける道が続いている。
どうやら、以前は木こりたちも利用していた道らしい。
そして、その道の途中で。
「……殿下!」
グレンが、こちらへ駆け寄ってきた。
「ご無事でしたか!」
「うん。何とかね」
僕は、軽く手を上げた。
「みんなは?」
「全員、通り抜けました。今は少し先で休ませております」
「……そっか!」
僕は、思わず笑った。
これで、ひとまず商人たちの救出は成功だ。
あとは、町へ帰るだけ。
……まあ、それが一番大変かもしれないけど。
「……カイル様」
フィオナが、静かに声を掛けてきた。
「お怪我はありませんか?」
「……ああ」
僕は、少しだけ肩を回してみた。
……うん。
痛い。
結構、痛い。
「ちょっと、肩をぶつけちゃったかな」
「……見せてください」
フィオナは、すぐに近づいてきた。
僕の腕を慎重に持ち上げ、肩の状態を確認する。
「大きな傷はないようですが、かなり強く打たれたのではありませんか?」
「まあ、ちょっとね。でも、動かせるし、大丈夫だと思うよ」
フィオナは、少しだけ眉を寄せた。
「……無理はなさらないでください」
「うん。帰ったら、ちゃんと診てもらうよ」
そう答えると、彼女はようやく少しだけ表情を緩めた。
「……お願いします」
……なんだか、怒られてしまった。
いや、怒っているというより、心配してくれているのか。
「ありがとう、フィオナ」
「……いえ」
彼女は、静かに頷いた。
「私も、カイル様がご無事でよかったです」
……うん。
やっぱり、フィオナがいてくれてよかった。
正直、一人だったらどうなっていたか分からない。
あの魔物の動きを読み、的確に矢を放ち、逃げ道まで見つけてくれた。
僕の魔法だけでは、きっと無理だっただろう。
「……ねえ、フィオナ」
「はい」
「さっきの最後の矢、すごかったね」
そう言うと、フィオナが少しだけ驚いたような顔をした。
「……そうでしょうか?」
「うん。あの状況で脚を狙うなんて、僕には思いつかなかったよ」
フィオナは、少しだけ視線を落とした。
それから、静かに答える。
「カイル様が、あの魔物の状態を教えてくださったからです」
「……うん?」
「左脚を怪我していると分かっていましたので、動きを止めるならそこしかないと思いました」
「……そっか」
確かに、最初に魔物の状態を伝えたのは僕だった。
でも、その情報をどう生かすか考えたのはフィオナだ。
僕一人では、あそこまでうまく立ち回れなかったと思う。
「やっぱり、二人だと心強いね」
僕が呟くと、フィオナが少しだけ微笑んだ。
「私も、そう思います」
その声は、どこか柔らかかった。
◇
岩場を抜けてしばらく歩くと、ようやく古い木こり道へ出ることができた。
森の中とはいえ、先ほどまでの岩場に比べれば随分と歩きやすい。
商人たちも、ようやく少しだけ安心した表情を見せていた。
「……殿下」
商隊の代表が、静かに声を掛けてきた。
「うん?」
「改めて、お礼を言わせてください」
商人は、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「ううん。まだ帰り道の途中だし、お礼は町に戻ってからでいいよ」
「……ですが」
「それに、みんなが生きててくれたことが一番だからね」
そう言うと、商人はしばらく黙っていた。
そして。
「……はい」
小さく頷いた。
その目には、少しだけ涙が浮かんでいた。
僕は、周囲を見回した。
商人たち五人。
グレンと団員。
そして、僕とフィオナ。
全員、いる。
最初に保護した男性も、今頃は街道で休んでいるはずだ。
これで、六人全員の生存を確認できた。
怪我をしている人もいる。
疲れきっている人もいる。
それでも。
全員、生きて帰ってこられた。
……本当によかった。
「……じゃあ、行こうか」
僕が言うと、全員が頷いた。
僕らは、街道へ向かって歩き始めた。
◇
夕暮れが近づくにつれ、森の中は少しずつ暗くなっていった。
木々の隙間から差し込む光が赤みを帯び、足元には長い影が伸びている。
先ほどまで聞こえていた魔物の唸り声は、もう聞こえない。
……静かだね。
本当に、あれだけの戦いがあったとは思えないくらいだ。
ただ、その静けさの中で、僕は少しだけ考え込んでいた。
あの巨大な魔物。
最後まで、僕らへ襲いかかろうとしていた。
でも。
そもそも、どうしてあんな場所にいたんだろう。
右目から見えた情報では、かなり疲弊していた。
左後脚には、深い傷もあった。
そして、何かを恐れているようだった。
あれほど大きな魔物が、いったい何を怖がっていたのか。
「……カイル様」
フィオナが、隣へ並んだ。
「少し、気になることがありまして」
「ああ。もしかして、あの魔物のこと?」
フィオナが頷いた。
「はい。あの魔物、最後まで非常に警戒している様子でした」
「うん」
「私たちを襲っている最中も、何度か森の奥へ視線を向けていました」
……やっぱり。
僕も、それは気になっていた。
特に、岩場へ逃げ込んだ後。
魔物はしばらく入り口の近くをうろついていたけれど、結局は追ってこなかった。
もちろん、岩の隙間を通れなかったことが一番大きいだろう。
けれど、それだけではない気がする。
「実はさ、あいつ、かなり怖がってたみたいなんだよね」
「……怖がっていた?」
「うん。何を怖がってたのかまでは分からないけどさ」
僕は、森の奥へ視線を向けた。
「もしかして、何かから逃げてきたのかな」
フィオナは、しばらく黙っていた。
それから、静かに口を開く。
「その可能性はあると思います」
「……だよね」
「ただ、今の段階では何とも言えません。単に、別の魔物との争いに敗れただけかもしれませんし」
「それもそうだね」
僕は頷いた。
確かに、その可能性もある。
でも。
先ほど遭遇した狼型の魔物。
そして、今回の巨大な魔物。
どちらも、何かから逃げているような様子だった。
偶然にしては、少し気になる。
「帰ったら、グレンたちと相談してみようか」
「はい。私も、その方がよいと思います」
フィオナが頷く。
「今後も、街道の近くで同じようなことが起きるかもしれませんから」
「……そうだね」
僕は、小さく息を吐いた。
今回、商人たちは運よく助けられた。
でも、もしまた同じことが起きたら?
今度も僕らがすぐに気づけるとは限らない。
町が大きくなり、外の世界との取引が増えた。
それ自体は、すごく嬉しいことだ。
けれど、その分だけ。
町の外で起きることも、少しずつ無関係ではなくなってきている。
……考えなきゃいけないことが、また増えたなあ。
「……カイル様」
フィオナが、静かに声を掛けた。
「うん?」
「今日は、本当にお疲れさまでした」
僕は、少しだけ笑った。
「フィオナもね」
「……はい」
彼女も、穏やかに微笑んだ。
「帰ったら、ゆっくり休みたいですね」
「……おお」
僕は、思わず顔を上げた。
「フィオナからそんなこと言うなんて、珍しいね」
「そうでしょうか?」
「うん。いつもなら、大丈夫ですって言いそうだから」
そう言うと、フィオナは少しだけ視線を落とした。
それから、静かに答える。
「今日は、少し疲れましたので」
「……そっか」
僕は、思わず笑った。
「じゃあ、帰ったら一緒に休もうか」
「……はい」
彼女が頷く。
……うん。
何だか、嬉しいな。
こうして、自分の状態をちゃんと伝えてくれるようになったことが。
以前なら、疲れていても無理をしていたかもしれない。
でも今は違う。
少しずつ、変わってきてるんだね。
そんなことを考えながら、僕らは街道へ向かって歩き続けた。
やがて、木々の向こうに開けた場所が見えてくる。
そこには、先ほど負傷者を運んでいった団員たちの姿があった。
「……殿下!」
こちらに気づいた団員が、驚いたように顔を上げる。
「ご無事でしたか!」
「うん。何とかね」
僕は、軽く手を振った。
そして。
「みんな、見つかったよ」
そう伝えると、団員たちは一瞬だけ言葉を失った。
それから。
「……本当ですか!?」
「うん。全員、生きてた」
「……よかった……!」
団員の一人が、大きく息を吐いた。
これで、六人全員が揃った。
負傷者がいるため、今日中に町へ戻るのは難しいだろう。
けれど、街道まで戻ることはできた。
あとは、救援を待ちながら安全な場所で休めばいい。
僕は、夕暮れの街道を見渡した。
遠くには、町へ続く道が伸びている。
その先には、僕らの町がある。
宿屋も。
市場も。
畑も。
工房も。
みんなが、少しずつ作り上げてきた町だ。
そして今は。
その町を目指して、帰ろうとしている人たちがいる。
僕らが助け出した、商人たちだ。
……うん。
帰ろう。
僕らも。
商人さんたちも。
みんなで。
そう思った時だった。
フィオナが、静かに僕の隣へ並んだ。
「……カイル様」
「うん?」
「今日は、本当にありがとうございました」
僕は、少しだけ首を傾げた。
「……何が?」
「皆さんを助けることができましたから」
そう言って、彼女は穏やかに微笑んだ。
僕は、少しだけ笑った。
「それは、フィオナもでしょ?」
「……はい」
「だから、お礼はお互い様だね」
そう言うと、フィオナは少しだけ目を見開いた。
それから。
「……そうですね」
静かに頷いた。
僕らは、夕陽の差し込む街道を眺めた。
森の奥からは、もう唸り声は聞こえない。
鳥の鳴き声。
風に揺れる葉の音。
そして、遠くで鳴く虫の声。
いつもの森だった。
少なくとも、今はそう見えた。
けれど。
あの巨大な魔物が、何を恐れていたのか。
なぜ、普段は森の奥にいるはずの魔物たちが、街道の近くまで出てきていたのか。
その答えは、まだ分からない。
森のさらに奥深く。
木々が幾重にも重なり、陽の光さえ届かない場所で何が起きているのか。
僕らは、まだ知らなかった。




