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花咲く辺境の第六皇子  作者: じゃこー
第二章 辺境に芽吹く
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第四十話 戻らない商隊

「……平和だねえ」


 執務室の椅子にもたれながら、僕はそんなことを呟いた。


 窓の外には、穏やかな青空が広がっている。


 庭の木々は風に揺れ、遠くからは鳥の鳴き声が聞こえていた。


 ……うん。


 実に素晴らしい。


 最近は町の発展も順調だし、そろそろ僕ものんびり過ごせるようになるんじゃないかな。


 そんな期待を抱きながら、机の上に置かれた書類を眺める。


 ……まあ。


 その書類が減ってくれれば、の話なんだけどね。


「殿下、こちらもご確認ください」


「……うん」


 セバスチャンが、新しい書類を机の上へ置いた。


 ……増えた。


 今、確実に増えたよね?


「……ねえ、セバス」


「何でございましょう」


「最近、町の人たちが色々と自分で動いてくれるようになったでしょ?」


「はい。大変喜ばしいことでございます」


「だよね」


 僕は頷いた。


「だったら、僕の仕事もそろそろ減っていいと思うんだけど」


「それとこれとは別の話でございます」


「……ですよねえ」


 即答だった。


 ……もう少しくらい考えてくれてもいいのに。


 僕が小さくため息をつくと、隣にいたフィオナが少しだけ笑った。


「ですが、カイル様。最近は良いご報告も多いのではありませんか?」


「……まあ、それはそうなんだけどね」


 確かに、ここ最近は嬉しい話が多い。


 町の入口に近い通りでは、新しくできた宿屋に旅人が泊まるようになった。


 マルクたちの畑では、種をまく時期を変える試みが続けられている。


 バルトたちの共同作業場も、少しずつ利用する職人が増えているらしい。


 どれも、まだ始まったばかりだ。


 それでも、以前と比べれば町は随分と賑やかになった。


「そういえば、最近は商人さんも増えたよね」


 僕が尋ねると、セバスチャンが頷いた。


「はい。茶の取引が安定してきたことで、ほかの商品を扱う商人たちも町を訪れるようになっております」


「へえ。それはいいね」


「ええ。塩や鉄材など、これまで手に入りにくかった品物も、以前より仕入れやすくなっております」


「おお!」


 それは嬉しい。


 茶を売るだけじゃなく、必要なものを買えるようにもなってきたわけだ。


 ……うん。


 いい感じじゃないかな。


「ちなみに、町の収入も増えてる?」


「以前と比べれば、着実に増加しております」


「……おお!」


 僕は思わず顔を上げた。


「じゃあ、そろそろ僕のお給料も……」


「殿下」


「……はい」


「まずは、領地の運営に必要な費用を確保することが先でございます」


「……分かってるよ」


 ちょっと言ってみただけなのに。


 相変わらず、セバスチャンは厳しいなあ。


 そんなやり取りをしていると、フィオナが口元に手を添えた。


 どうやら、笑いを堪えているらしい。


「……フィオナ?」


「いえ。何でもありません」


「……本当?」


「はい」


 ……まあ、いいけどさ。


 僕は苦笑しながら、再び書類へ視線を落とした。


 穏やかな午前中。


 いつもと変わらない執務室。


 今日も、こうして平和な一日が過ぎていく。


 ……そのはずだった。


     ◇


 コンコン、と。


 扉を叩く音が響いた。


「失礼します、殿下」


 入ってきたのは、グレンだった。


 自警団の団長として町の警備を任せている、元傭兵の男性だ。


 普段から落ち着いた雰囲気の人だけれど、今日は少し様子が違った。


 表情が、妙に険しい。


「……グレン?」


「お忙しいところ申し訳ありません。少しご報告がありまして」


「うん。どうしたの?」


 僕が尋ねると、グレンは一度セバスチャンへ視線を向けた。


 それから、静かに口を開いた。


「……商隊が一つ、戻ってきておりません」


「……商隊?」


「はい」


 僕は首を傾げた。


「予定が遅れてるってこと?」


「その可能性もあります。ただ、すでに帰着予定を二日過ぎておりまして」


「……二日かあ」


 商人が予定通りに帰ってこない。


 それ自体は、そこまで珍しいことではないと思う。


 天候が悪くなったり、途中の町で取引が長引いたり。


 荷馬車を使っているなら、道の状態によって遅れることもあるだろう。


「でも、それだけなら、まだ分からないんじゃない?」


「ええ。私も最初はそう考えておりました」


 グレンが頷く。


「ですが、少し気になる話がありまして」


「……気になる話?」


「昨日、別の商人が町へ到着したのですが、その者が行方の分からない商隊を見ているそうなのです」


「……へえ」


 僕は、椅子から少し身を起こした。


「どこで?」


「西の町です。商隊はすでに取引を終え、こちらへ向かって出発していたとのことでした」


「……なるほど」


 僕は考え込む。


 西の町からここまでは、荷馬車で二日ほど。


 途中で何かあったとしても、すでに戻ってきておかしくないらしい。


「……ちなみに、誰の商隊なの?」


 そう尋ねると、グレンは少しだけ表情を曇らせた。


「殿下もご存じの商人です」


「……え?」


「以前、この町の茶を最初にまとめて買い付けてくださった方です」


「…………」


 僕は、思わず黙り込んだ。


 ……あの商人さん?


 まだ茶の販売を始めたばかりの頃。


 町で作った茶を買い取り、ほかの町で売ってみたいと言ってくれた人だ。


 最初の取引がうまくいってからは、何度もこの町を訪れてくれている。


 茶の評判が広がるきっかけを作ってくれた、大切な取引相手でもあった。


「……そっか」


 僕は小さく呟いた。


 見知らぬ商人が行方不明になったとしても、もちろん放っておけない。


 でも、知っている人だと聞くと、どうしても気になってしまう。


「……何人くらいで移動してたの?」


「荷馬車が二台。商人本人を含め、全部で六人ほどだったようです」


「六人か……」


 決して大きな商隊ではない。


 でも、六人もまとめて帰ってこないとなると、少し心配だ。


「……ほかに分かってることは?」


「今のところ、詳しいことは分かっておりません」


 グレンは首を横に振った。


「ただ、昨日到着した商人のほかにも、街道で気になるものを見たという旅人がおります」


「……気になるもの?」


「はい。荷馬車の轍が、森の方へ続いていたそうでして」


 ……森?


 僕は、思わずフィオナを見た。


 彼女も、少し表情を引き締めている。


「……それって、普通の道なの?」


 僕が尋ねると、グレンが答えた。


「以前は木材を運ぶために使われていた道があるようですが、現在はほとんど利用されておりません」


「……なるほど」


 つまり。


 本来なら街道を進んでいるはずの荷馬車が、わざわざ森の方へ入っていった可能性があるわけだ。


 ……どうして?


 道を間違えた?


 何かを避けた?


 それとも……。


「……一度、詳しく話を聞いてみたいな」


 僕が言うと、グレンが頷いた。


「実は、証言してくださった商人は、まだ町に滞在しております」


「……本当?」


「はい。新しくできた宿屋を利用されているそうです」


 ……おお。


 あの宿屋か。


 まさか、こんなところで役に立つとは。


「じゃあ、行ってみようか」


 僕は立ち上がった。


 フィオナも、すぐに席を立つ。


「私もご一緒します」


「うん。お願い」


 そう言って扉へ向かおうとしたところで、セバスチャンが口を開いた。


「殿下」


「……ん?」


「外出されるのでしたら、こちらの書類はお戻りになってからお願いいたします」


「…………」


 ……ああ。


 そうだった。


 僕は、机の上に積まれた書類を見た。


 ……うん。


 帰ってきた時に、全部消えてたりしないかな。


「……分かったよ」


 僕は苦笑した。


 どうやら、今日はのんびりしている場合ではなさそうだ。


     ◇


 町の入口に近い通りは、以前より随分と賑やかになっていた。


 荷馬車が通りやすいように整備された道。


 その脇では、馬を休ませるための囲いが使われている。


 少し離れたところには、倉庫として利用され始めた建物もあった。


 そして、市場へ続く道の傍らには、小さな宿屋が建っている。


 ……うん。


 改めて見ると、結構変わったなあ。


 ついこの前まで、ここには古い空き家があっただけなのに。


「……あ、殿下!」


 宿屋の前を通りかかると、店主の女性がこちらに気づいた。


「こんにちは。お客さん、いるかな?」


「はい。今朝も何人かお泊まりになっていましたよ」


「そっか。それはよかった」


 僕は笑った。


「それで、昨日到着した商人さんに少し話を聞きたいんだけど……」


「……商人さん、ですか?」


「うん。西の町から来た人なんだけど」


「ああ!」


 女性が頷いた。


「それでしたら、まだ中にいらっしゃいますよ」


「本当? よかった」


 女性に案内されて、僕らは宿屋の中へ入った。


 建物の中には、新しい木材の香りが少し残っている。


 奥では、一人の男性が食事を終えたところだった。


 僕らが近づくと、男性は驚いたように立ち上がった。


「で、殿下!?」


「あはは、そんなに驚かなくても大丈夫だよ」


「し、失礼いたしました!」


「ううん。ちょっと聞きたいことがあってさ」


 僕は、男性に事情を説明した。


 行方が分からなくなっている商隊のこと。


 西の町で、その商隊を見かけたという話を聞いたこと。


 すると、男性はすぐに頷いた。


「ああ、あの商隊ですか」


「うん。覚えてる?」


「ええ。確かに見かけましたよ」


 男性は、少し考えるように視線を上げた。


「あれは……四日ほど前のことだったと思います」


「四日前?」


「はい。西の町を出る時に、ちょうど同じ門を通りまして」


「……なるほど」


「私はその後、別の用事で少し遠回りをしましたので、こちらへ着いたのは昨日でしたが……」


 男性は、少し困ったような顔をした。


「まさか、まだ戻っていないとは思いませんでした」


「……そっか」


 僕は頷いた。


 四日前に西の町を出た。


 普通なら、二日ほどでこの町へ戻れるはずだ。


 ……確かに、少し遅すぎる。


「何か変わった様子はなかった?」


「……変わった様子、ですか?」


「うん。困ってる感じとか、誰かと揉めてたとか」


 男性は、少し考え込んだ。


「いえ。少なくとも、私が見た時には普通でしたね」


「……そうなんだ」


「荷物も積んでいましたし、皆さん元気そうでしたよ」


 ……なるほど。


 出発する時点では、問題はなかったらしい。


「……ただ」


 男性が、ふと思い出したように口を開いた。


「最近、街道の途中で魔物を見かけたという話は聞きましたね」


「……魔物?」


 僕は顔を上げた。


「ええ。森に近い道で、獣型の魔物を見たという旅人がいたそうです」


「……襲われたの?」


「いえ。実際に襲われたという話ではありません」


 男性は首を横に振った。


「ただ、普段はあまり魔物が出てこない場所だったので、少し気になりまして」


 ……なるほど。


 森の近くなら魔物がいること自体は不思議じゃない。


 でも、普段出てこない場所に姿を見せるとなると、少し話が変わってくる。


「……ありがとう。助かったよ」


「いえ、とんでもありません!」


 男性が頭を下げる。


 僕は軽く頷いてから、グレンへ視線を向けた。


「もう一人、気になるものを見たって人がいたんだよね?」


「はい。そちらの方にも来ていただいております」


 グレンが答える。


 どうやら、すでに話を聞けるように手配してくれていたらしい。


 ……仕事が早いなあ。


 ありがたい。


     ◇


「……荷馬車の跡、ですか?」


「ええ。森へ続く道の方に、何台か通った跡がありまして」


 次に話を聞いたのは、町と近隣の集落を行き来しているという旅人だった。


 彼は、二日前に街道の途中で不思議な轍を見かけたらしい。


「最初は、木材を運ぶ荷馬車でも通ったのかと思ったんですがね」


「……なるほど」


「ただ、あの道は最近ほとんど使われていないはずなので、珍しいなと思いまして」


 僕は頷いた。


「その場所って、どの辺り?」


「ここから西へ半日ほど行ったところです。街道の脇に、大きな古木が立っている場所がありまして」


 旅人は、机の上に広げた簡単な地図を指差した。


「その少し先に、森へ続く道があるんです」


 ……半日くらいか。


 それなら、今から向かっても十分調べられそうだ。


 すると、フィオナが口を開いた。


「……少し、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


「はい。何でしょう?」


「その道の近くには、どのような木が生えていましたか?」


「……木、ですか?」


「はい」


 フィオナが頷く。


「大きな古木のほかに、何か目印になるものはありませんでしたか?」


 旅人は少し考え込んだ。


「……そうですね。確か、道の脇に倒れた木があったような」


「倒れた木……」


「ええ。随分前からあるものだと思いますが、苔が生えていましたね」


 フィオナは、少し考えるように視線を落とした。


「……なるほど」


 その様子を見て、僕は首を傾げた。


「……フィオナ?」


「はい」


「もしかして、場所が分かるの?」


 フィオナは、静かに頷いた。


「おそらく、以前通ったことのある場所だと思います」


「……本当?」


「はい。森を調べていた時に、近くを通ったことがあります」


 ……おお。


 それは心強い。


「じゃあ、その道がどこへ続いてるかも知ってる?」


「奥までは進んでいませんが、森の中へ続いていることは覚えています」


「……なるほど」


 僕は考え込んだ。


 商隊がその道へ入ったのかどうかは、まだ分からない。


 でも、気になる情報ではある。


 しかも、普段はあまり使われていない道だという。


 ……うん。


 一度、確かめてみる価値はありそうだ。


「ありがとう。詳しく教えてくれて助かったよ」


 僕が言うと、旅人は少し安心したように笑った。


「いえ。お役に立てたなら何よりです」


 僕らは礼を言って、宿屋を後にした。


 外へ出ると、通りには相変わらず商人たちの声が響いている。


 荷物を運ぶ人。


 馬の世話をする人。


 新しい宿屋へ入っていく旅人。


 ……いつもと変わらない光景だ。


 でも、その賑わいの中で。


 帰ってくるはずの商人たちが、まだ戻ってきていない。


 そう考えると、少し落ち着かない気持ちになった。


「……グレン」


「はい」


「一度、あの分かれ道を調べてみようか」


 僕が言うと、グレンが頷いた。


「私も、その方がよいと考えておりました」


「うん。ただ……」


 僕は、町の方へ視線を向けた。


「自警団の人たちを、全員連れていくわけにはいかないよね」


「ええ。町の警備もありますから」


 グレンが答える。


「ですので、経験のある者を数人選んで向かおうかと」


「……なるほど」


 僕は頷いた。


 それなら、町の警備を続けながら調査もできる。


「じゃあ、僕も一緒に行こうかな」


 そう言うと、グレンが少し驚いたような顔をした。


「……殿下も、ですか?」


「うん」


「ですが、まだ何が起きたのか分かっておりません。危険があるかもしれませんよ」


「……それは分かってるよ」


 僕は苦笑した。


 確かに、領主が自分から危険な場所へ行くというのは、あまり褒められたことじゃないのかもしれない。


 でも。


 森の中なら、僕の魔法が役に立つ場面もあるはずだ。


 それに、あの商人さんには随分とお世話になっている。


 できることがあるなら、手伝いたかった。


「もちろん、無理はしないよ。まずは道を調べるだけだしね」


「……承知しました」


 グレンは、少し考えてから頷いた。


「ただし、危険があると判断した場合は、すぐに引き返していただきます」


「うん。分かってる」


 すると、隣にいたフィオナが口を開いた。


「……カイル様」


「ん?」


「私も、捜索へ参加させていただけませんか?」


 僕は、彼女を見た。


「……フィオナも?」


「はい」


 フィオナは、まっすぐにこちらを見つめていた。


「森の中であれば、私にもお役に立てることがあると思います」


「……うん」


「それに……」


 彼女は、少しだけ言葉を止めた。


 それから、静かに続ける。


「行方が分からなくなっている方々を、私も助けたいです」


「…………」


 僕は、少し驚いた。


 以前のフィオナだったら、きっと僕の判断を待っていただろう。


 でも今は違う。


 自分から、捜索に参加したいと言っている。


 しかも、それは命令されたからじゃない。


 自分がそうしたいと思ったからだ。


 ……うん。


 やっぱり、嬉しいね。


「……分かった」


 僕は頷いた。


「フィオナが一緒なら、すごく心強いよ」


「……ありがとうございます」


 彼女は、少しだけ表情を緩めた。


「ただし、一つお願いがあるんだけど」


「……はい?」


「一人で先に行ったりしないでね」


 フィオナが、少し不思議そうな顔をした。


「……一人で、ですか?」


「うん。何がいるか分からないし、できるだけ一緒に動こうよ」


 僕は笑った。


「フィオナが強いのは知ってるけど、だからって何でも一人でやらなくていいんだからさ」


「…………」


 フィオナは、少しだけ目を見開いた。


 それから、静かに頷いた。


「……はい。分かりました」


 その声は、どこか柔らかかった。


「では、私が道を探しますね」


「うん。頼んだよ」


 僕も頷く。


 こうして、商隊の捜索が決まった。


     ◇


 出発の準備は、思っていたより早く整った。


 グレンが選んだのは、実戦経験のある自警団員が三人。


 全員、森や街道での移動にも慣れているそうだ。


 残りの団員には、通常通り町の警備を任せる。


 もし何かあった時に備えて、屋敷との連絡方法も決めておいた。


 さらに、僕らが予定より遅くなった場合は、無理に森へ入らず、街道沿いから状況を確認するよう伝えてある。


 ……うん。


 こういうところは、ちゃんとしておかないとね。


「殿下」


 屋敷を出ようとしたところで、セバスチャンに呼び止められた。


「……ん?」


「どうか、ご無理だけはなさらぬようお願いいたします」


 その表情は、いつもより少しだけ真剣だった。


「分かってるよ」


 僕は笑った。


「危なそうだったら、ちゃんと帰ってくるから」


「……そのお言葉、忘れないでくださいませ」


「……うん」


 ……なんだか、念を押されてしまった。


 まあ、心配するのも無理はないか。


 セバスチャンにとっては、僕が危険な場所へ行くというだけでも気が気じゃないんだろう。


「大丈夫。フィオナもグレンもいるしね」


 そう言うと、フィオナが頷いた。


「はい。私も、周囲には十分気をつけます」


「頼もしいね」


 僕は笑った。


 セバスチャンは、少しだけ表情を和らげた。


「……皆様のご無事を、お祈りしております」


「うん。行ってくるね」


 僕らは屋敷を後にした。


 目指すのは、町から西へ続く街道。


 その先にある、森へ向かう古い分かれ道だ。


     ◇


 町を離れると、周囲の景色は少しずつ変わっていった。


 人の声が遠ざかり、代わりに風の音が聞こえてくる。


 道の両側には草地が広がり、その向こうには深い森が続いていた。


 久しぶりに町の外へ出たせいだろうか。


 何だか、少し懐かしい気分になる。


「……こうして外に出るのも、久しぶりだね」


 僕が言うと、隣を進むフィオナが頷いた。


「そうですね。最近は、町の中で過ごすことが多かったですから」


「うん。宿屋とか、畑とか、工房とか」


 考えてみれば、ここしばらくは町の中を歩き回ってばかりだった。


 もちろん、それも悪くない。


 でも、こうして自然の中へ出るのも、たまにはいいものだ。


「……できれば、もう少し平和な理由で来たかったけどね」


「……そうですね」


 フィオナが、静かに頷いた。


 その表情は穏やかだったけれど、視線は周囲の森へ向けられている。


 どうやら、すでに警戒しているらしい。


 僕も、少しだけ気を引き締めた。


 ここは町の中じゃない。


 魔物が出てきても、おかしくない場所なのだ。


 それに。


 今回は、行方不明になっている商隊を探しに来ている。


 ……油断はできないね。


     ◇


 昼を少し過ぎた頃。


 僕らは、目的の分かれ道へ到着した。


「……ここかあ」


 目の前には、西へ続く街道が伸びている。


 その脇から、細い道が森の中へ続いていた。


 道幅は、荷馬車が何とか通れるくらい。


 けれど、周囲には雑草が伸び、長い間使われていないことが分かる。


「……確かに、あまり人が通る道には見えないね」


 僕が呟くと、グレンが頷いた。


「ええ。木材の運搬に使われていたという話ですが、最近はほとんど利用されていないようです」


「……なるほど」


 僕は、道の入口へ視線を向けた。


 そこには、荷車が通ったらしい跡が残っている。


 ただ、時間が経っているせいか、少し分かりにくい。


「……フィオナ、どう?」


 僕が尋ねると、彼女はすでに地面へしゃがみ込んでいた。


 土の表面を確認し、草の倒れている方向を見ている。


「……少し、お待ちください」


「うん」


 僕らは、邪魔にならないように少し離れて待つことにした。


 フィオナは、道の端から中央へゆっくりと視線を動かしていく。


 それから、ある場所で手を止めた。


「……カイル様」


「ん?」


「こちらを見ていただけますか?」


 僕は、彼女の隣へ近づいた。


 そこには、細長い溝のような跡が残っていた。


「……これって、車輪の跡?」


「はい。荷馬車の轍だと思います」


「……おお」


 僕は、跡の続く方向を見た。


 確かに、街道から森へ向かうように続いている。


「……じゃあ、やっぱり荷馬車が入っていったんだね」


「そのようです。ただ……」


 フィオナは、少しだけ眉を寄せた。


「……何か気になる?」


「はい。こちらの跡なのですが……」


 彼女は、轍の一部を指差した。


 そこだけ、土が大きく削れている。


「……何だろう」


「普通に曲がったというより、急に方向を変えたように見えます」


「……急に?」


「はい。こちらの草も、同じ方向へ倒れています」


 言われてみれば、確かに。


 街道を進んでいた荷馬車が、急に森の方へ向きを変えたような跡になっている。


「……何かを避けたのかな?」


「その可能性はあります」


 フィオナが頷いた。


「ただ、まだ何があったのかまでは分かりません」


「……そっか」


 僕は、周囲を見回した。


 森の入口。


 古い道。


 その周辺に生える、背の高い草。


 ……ん?


「……あれ?」


 ふと、少し離れた地面が気になった。


 そこだけ、草が妙な方向へ倒れている。


「フィオナ、あっちは?」


 僕が尋ねると、彼女が視線を向けた。


 そして、すぐに立ち上がった。


「……確認してみます」


 フィオナが歩き出す。


 僕らも、その後をついていった。


 近づいてみると、そこにはいくつもの跡が残っていた。


 人の足跡。


 馬の蹄の跡。


 そして。


「……え?」


 僕は思わず声を漏らした。


 地面に、大きなくぼみがあった。


 人の足跡でも、馬の蹄でもない。


 太い爪のようなものが、土を深くえぐっている。


「……これって」


 僕が尋ねると、フィオナが静かに答えた。


「……魔物の足跡だと思います」


 ……やっぱり。


 僕は、思わず息を呑んだ。


「……結構大きくない?」


「そうですね」


 フィオナは、慎重に足跡を確認していた。


「少なくとも、普通の狼よりは大きいと思います」


「……なるほど」


 僕は、その跡を見つめた。


 こんなものが街道の近くにいたのなら、荷馬車が慌てて道を変えたとしても不思議じゃない。


 ……でも。


 何だか、引っかかる。


「……ねえ、フィオナ」


「はい」


「これ、商隊を襲った魔物なのかな?」


 フィオナは、少し考えてから首を横に振った。


「……まだ分かりません」


「……そっか」


「ただ、少なくともこの辺りに大きな魔物がいたことは確かだと思います」


 ……なるほど。


 僕は、森の奥へ視線を向けた。


 木々が生い茂り、奥の様子はよく見えない。


 昼間だというのに、森の中は薄暗かった。


 ……嫌な感じだなあ。


「……グレン」


「はい」


「この先、少し調べてみようか」


 グレンは、森の入口を確認してから頷いた。


「承知しました。ただし、全員で固まって進みましょう」


「うん。そうだね」


 僕は頷いた。


 フィオナも立ち上がり、弓へ手を伸ばす。


 その動きは、いつもより静かだった。


 ……うん。


 ここからは、気をつけないとね。


     ◇


 森の中へ入ると、空気が少し変わった。


 街道では暖かかった風が、ここではひんやりと感じられる。


 木々の枝が頭上を覆い、地面には落ち葉が厚く積もっていた。


 古い道は、ところどころ草に覆われている。


 それでも、荷馬車が通ったらしい跡は残っていた。


 フィオナは、その跡を確認しながら先へ進む。


 僕とグレンたちは、少し距離を取って後に続いた。


「……まだ続いてる?」


 僕が尋ねると、フィオナが頷いた。


「はい。少なくとも、荷馬車はこの先まで進んでいるようです」


「……なるほど」


 僕は、周囲の木々を見上げた。


 道の両側には、太い幹を持つ木が並んでいる。


 地面には、木の根が複雑に伸びていた。


 ……こういう場所なら、僕の魔法も使いやすそうだね。


 何かあった時に備えて、周囲の植物の位置を意識しておく。


 ただし、森全体を自由に操れるわけではない。


 魔法を使うにも、距離や魔力の問題がある。


 ……まあ、無理せずやろう。


 そんなことを考えていた時だった。


「……カイル様」


 フィオナが、突然足を止めた。


「……ん?」


 僕も立ち止まる。


 彼女の耳が、わずかに動いていた。


「……どうしたの?」


「……何か、聞こえます」


 ……音?


 僕は耳を澄ませた。


 風に揺れる葉の音。


 遠くで鳴く鳥の声。


 それから……。


 ……ガサッ。


 茂みが揺れる音。


「……あ」


 僕は、森の奥へ視線を向けた。


 ……ガサガサッ。


 今度は、少し大きな音が響いた。


「……皆さん、下がってください」


 フィオナが、静かに言った。


 その声に、グレンたちも動きを止める。


「……何かいるのか?」


 グレンが尋ねる。


「はい。こちらへ近づいてきています」


 フィオナは、すでに矢を一本取り出していた。


 僕も、少しだけ身構える。


 ……来る。


 そう感じた、次の瞬間。


 茂みが、大きく揺れた。


「……っ!」


 そこから飛び出してきたのは、灰色の毛並みを持つ獣型の魔物だった。


 狼に似た姿。


 けれど、普通の狼より一回り大きい。


 口元には鋭い牙が並び、前脚には太い爪が伸びている。


 ……うわ。


 結構大きいな。


「……全員、構えろ!」


 グレンが声を上げた。


 団員たちが武器を抜く。


 フィオナも、弓を引き絞った。


 ただ。


 僕は、その魔物の様子を見て少し違和感を覚えた。


「……ん?」


 魔物はこちらを睨んでいる。


 牙を剥き、低く唸っている。


 けれど。


 視線が、妙に落ち着かない。


 僕らを見る。


 森の奥を見る。


 また僕らを見る。


 ……何だろう。


 こっちを襲おうとしているというより、何かから逃げてきたみたいな……。


「……カイル様!」


 フィオナの声が響いた。


 魔物が、突然地面を蹴った。


「……っ!」


 次の瞬間。


 大きな身体が、こちらへ向かって飛びかかってくる。


 ……速い!


「《根走り》!」


 僕は、咄嗟に右手を突き出した。


 地面から伸びていた木の根が、魔力に応じて動き出す。


 何本もの根が、魔物の前脚へ絡みついた。


「グルァッ!?」


 魔物の身体が、大きく傾く。


 けれど。


 勢いまでは、完全に止められなかった。


 絡みついた根の一本が、音を立てて千切れる。


「……うわっ!」


 思わず声が出た。


 ……結構力が強い!


 僕が魔力を込め直そうとした、その時。


 ヒュッ、と。


 鋭い風切り音が響いた。


 一本の矢が、魔物の肩へ突き刺さる。


「ギャウッ!」


 魔物が悲鳴を上げた。


 その隙に、グレンが前へ出る。


「殿下、少し下がってください!」


「……うん!」


 僕は一歩後ろへ下がった。


 同時に、地面へ伸ばしていた根へさらに魔力を流す。


 魔物の後脚へ、別の根が絡みついた。


「……フィオナ!」


 僕が声を掛けるより早く、彼女は次の矢をつがえていた。


 銀色の髪が、風に揺れる。


 けれど、その視線は少しもぶれていない。


 魔物が身体を起こそうとした、その瞬間。


 再び、弦が鳴った。


 放たれた矢は、吸い込まれるように魔物の首元へ突き刺さった。


「……っ!」


 魔物の身体が、大きく跳ねる。


 そして。


 ドサッ、と。


 重い音を立てて、地面へ倒れ込んだ。


「…………」


 僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 ……終わった?


 倒れた魔物は、もう動かない。


 フィオナが慎重に近づき、状態を確認する。


「……大丈夫です。もう動きません」


「……そっか」


 僕は、小さく息を吐いた。


 ……いやあ。


 久しぶりの実戦だったけど、やっぱり緊張するね。


「……フィオナ、すごいね」


 思わず呟くと、彼女がこちらを振り返った。


「……ありがとうございます」


 その声は、普段と変わらず穏やかだった。


 ……うん。


 相変わらず、頼もしいなあ。


 僕は、倒れた魔物を見つめた。


 普通の狼なら、あんなに簡単に木の根を引き千切ったりしないだろう。


 やっぱり、魔物というのは厄介だ。


 ……ただ。


「……ねえ、フィオナ」


「はい」


「さっきの魔物、ちょっと変じゃなかった?」


 そう尋ねると、彼女も静かに頷いた。


「……はい。私も気になっていました」


「……やっぱり?」


 フィオナは、倒れた魔物へ視線を向ける。


「こちらへ襲いかかってくる前から、何かを警戒していたように見えました」


「……うん」


「それに、森の奥から出てきた時には、すでに少し傷を負っていたようです」


「……え?」


 僕は、思わず魔物を見た。


 フィオナが示したのは、後脚の付け根にある傷だった。


 そこには、何かで引っかかれたような跡が残っている。


 けれど、その傷は先ほどの戦闘でついたものではない。


「……これ、僕らがやった傷じゃないよね」


「はい。少し前についたものだと思います」


 ……なるほど。


 つまり、この魔物は僕らと戦う前から怪我をしていたわけだ。


「……ほかの魔物と争ったのかな?」


「その可能性はあります」


 フィオナが頷いた。


「ただ、何に襲われたのかは分かりません」


 ……そっか。


 僕は、森の奥へ視線を向けた。


 そこには、薄暗い木々が続いている。


 先ほどまで、何も気にせず歩いていた場所。


 でも今は。


 その奥に、何かがいるような気がしてならなかった。


     ◇


「……殿下」


 しばらくして、グレンが声を掛けてきた。


「先へ進まれますか?」


「……うん」


 僕は、少し考えた。


 魔物が出てきた。


 しかも、その魔物は何かから逃げているように見えた。


 これ以上進めば、もっと危険なものに出会うかもしれない。


 ……でも。


 まだ、商隊の行方は分かっていない。


「……もう少しだけ、調べてみよう」


 僕は頷いた。


「ただし、無理はしない。何かおかしいと思ったら、すぐに引き返そう」


「承知しました」


 グレンが頷く。


 フィオナも、静かにこちらを見た。


「……カイル様」


「うん?」


「私が、先を確認します」


「……大丈夫?」


「はい。ただ、皆さんから離れすぎないようにします」


 その言葉を聞いて、僕は少し笑った。


「……うん。お願い」


 フィオナが頷く。


 こうして、僕らは再び森の奥へ進み始めた。


 足元には、荷馬車が通ったらしい跡が続いている。


 途中には、折れた枝や、踏み荒らされた草も残っていた。


 どうやら、かなり急いで移動したらしい。


 ……何があったんだろう。


 僕は、周囲の木々を見回しながら歩いた。


 その時だった。


「……カイル様」


 フィオナが、再び足を止めた。


「……ん?」


「こちらを」


 彼女が指差した先。


 そこには、一本の木が立っていた。


 ……いや。


 正確には、立っていたというより。


 **途中から、大きく傷ついていた。**


「……え?」


 僕は思わず足を止めた。


 木の幹には、深い傷が刻まれている。


 それも、一つや二つではない。


 何本もの溝が、まるで鋭い爪で引っかかれたように続いていた。


「……これ、何?」


 僕が尋ねると、フィオナが静かに首を横に振った。


「……分かりません」


 彼女は、傷の位置を確かめるように木を見上げた。


 ……高い。


 僕の背丈より、ずっと上だ。


「……普通の獣じゃ、届かないよね」


「……そうですね」


 フィオナの表情が、少しだけ険しくなった。


「かなり大きなものだと思います」


 ……なるほど。


 僕は、無意識に息を呑んだ。


 さっきの魔物でも、こんな高いところへ傷をつけるのは難しそうだ。


 つまり。


 この森には、あれより大きな何かがいる可能性がある。


 ……嫌な予感しかしないなあ。


 ただ、そんなことを考えていた時だった。


「……殿下!」


 少し先を調べていた団員が、声を上げた。


「こちらへ!」


 僕らは、急いでその場所へ向かった。


 そして。


「…………」


 僕は、思わず立ち止まった。


 そこには、一台の荷馬車があった。


 ……いや。


 荷馬車だったもの、と言った方が近いかもしれない。


 片側の車輪が壊れ、荷台は大きく傾いている。


 馬を繋いでいたらしい革紐は千切れ、周囲には木箱や麻袋が散乱していた。


 荷台の側面には、深い傷が残っている。


 まるで、何か大きなものが無理やり引っかいたような跡だった。


「……これって」


 僕は、ゆっくりと近づいた。


 壊れた荷台の下。


 そこには、見覚えのある木箱が落ちていた。


 側面に刻まれた印。


 丘と、二枚の葉。


「……あ」


 思わず声が漏れる。


「……うちのお茶の箱だ」


 フィオナも、静かに頷いた。


「はい。バルトさんたちが作られたものですね」


「……うん」


 僕は、その箱を見つめた。


 間違いない。


 この町で作られた茶の輸送箱だ。


 それが、こんな森の奥に落ちている。


 ……ということは。


「……やっぱり、ここを通ったんだね」


「そのようです」


 フィオナが答える。


 僕は、壊れた荷馬車を見上げた。


 ……でも。


「……人がいないね」


 そう。


 荷馬車は残っている。


 荷物も散乱している。


 けれど、肝心の商人たちの姿がない。


 周囲には血の跡も見当たらなかった。


 もちろん、それだけで無事だとは言えない。


 でも、少なくとも。


 ここで全員が倒れているわけではないらしい。


「……フィオナ」


「はい」


「何か分かりそう?」


 彼女は頷くと、荷馬車の周囲を調べ始めた。


 地面。


 草。


 折れた枝。


 そして、落ちている荷物。


 しばらくして、フィオナが一つの麻袋を持ち上げた。


「……カイル様」


「うん?」


「こちらは、食料を入れていた袋のようです」


「……食料?」


「はい。中には、乾いたパンの欠片が残っています」


 ……なるほど。


 僕は、周囲に落ちている荷物を見回した。


 茶の箱。


 鉄材を入れていたらしい木箱。


 布を巻いた荷物。


 商品らしいものは、まだかなり残っている。


 でも。


 食料や水を入れていたらしい袋は、ほとんど見当たらなかった。


「……もしかして」


 僕は、フィオナを見る。


「商人さんたちが、必要なものだけ持って逃げたのかな?」


「その可能性はあります」


 フィオナが頷く。


「ただ、もう少し調べてみないと……」


 そう言いながら、彼女は荷馬車の後ろへ回った。


 そして。


「……あ」


 小さく声を漏らした。


「……どうしたの?」


 僕が近づくと、フィオナが地面を指差した。


 そこには、いくつもの足跡が残っていた。


 人間のものだ。


 しかも、複数人分。


「……これって」


「はい。何人かが、こちらへ歩いていったようです」


 フィオナが、森の奥へ視線を向けた。


 足跡は、木々の間へ続いている。


 道らしい道は、ほとんどない。


 ただ、草が踏み倒され、枝が折れている場所があった。


「……急いで移動したみたいだね」


「そうですね」


 フィオナは、少し考えるように足跡を確認していた。


「……ですが、全員が同じ速さで歩いていたわけではなさそうです」


「……え?」


「こちらの足跡だけ、少し不規則なんです」


 そう言って、彼女は地面の一角を示した。


 確かに、ほかの足跡とは違って、片方だけ深く沈み込んでいる。


「……誰か、怪我してたのかな?」


「その可能性があります」


 ……なるほど。


 僕は、森の奥へ視線を向けた。


 商人たちが、自分の足で逃げた。


 しかも、その中には怪我をしている人がいたかもしれない。


 ……だったら。


「……まだ、生きてる可能性はあるよね」


 僕が呟くと、フィオナが頷いた。


「はい。少なくとも、ここから移動できた方々がいるようです」


 ……そっか。


 少しだけ、希望が見えてきた。


 もちろん、安心するにはまだ早い。


 でも。


 商人たちが生きている可能性があるなら、探す価値は十分にある。


「……グレン」


「はい」


「ここから先は、もっと慎重に進もう」


 僕が言うと、グレンが頷いた。


「承知しました」


 そして、団員たちへ指示を出す。


 周囲を警戒する者。


 荷馬車の状態を確認する者。


 帰り道を見失わないよう目印を確かめる者。


 それぞれが、すぐに動き始めた。


 ……うん。


 頼もしいね。


 僕も、もう一度壊れた荷馬車を見た。


 そこには、この町で作られた茶の箱が落ちている。


 以前なら、こんな場所まで町の商品が運ばれることなんて、ほとんどなかっただろう。


 でも今は違う。


 町で作ったものが、遠くの町へ運ばれていく。


 その代わりに、ほかの町の商品がこちらへ届く。


 そうやって、少しずつ外の世界と繋がってきた。


 ……だからこそ。


 その道を通る人たちが、安心して帰ってこられるようにしたい。


 僕は、小さく息を吐いた。


「……行こうか」


 そう言って、森の奥へ足を向けようとした。


 その時だった。


「……お待ちください」


 フィオナが、突然声を上げた。


 その声は、先ほどまでとは少し違っていた。


「……フィオナ?」


 僕が振り返ると、彼女は森の奥を見つめていた。


 耳が、わずかに動いている。


「……何か、聞こえます」


 ……また?


 僕は、すぐに足を止めた。


 グレンたちも武器へ手を伸ばす。


 森の中は、静かだった。


 風に揺れる枝。


 葉が擦れる音。


 そして。


 ……ザッ。


 何かが、地面を引きずるような音。


「…………」


 僕は、息を潜めた。


 ……ザッ。


 ……ザッ。


 ゆっくりと。


 けれど、確かに近づいてくる。


 フィオナが、弓へ矢をつがえた。


 グレンも、剣を抜く。


 僕は周囲の木々へ視線を向け、すぐに魔法を使えるよう意識を集中させた。


 ……来る。


 そう思った、次の瞬間。


 茂みが、大きく揺れた。


「……っ!」


 僕は、思わず身構えた。


 けれど。


 そこから現れたのは、魔物ではなかった。


「……え?」


 一人の男性だった。


 旅装の服は破れ、顔には泥がついている。


 片足を引きずり、木の幹に手をつきながら、必死に歩いていた。


 そして。


 僕らの姿を見つけた瞬間。


「……あ……」


 男性の目が、大きく見開かれた。


「……ひ、人……?」


 かすれた声。


 それから、男性は何かを言おうとして口を開いた。


 けれど、言葉にならない。


「……大丈夫!?」


 僕は、急いで駆け寄ろうとした。


 すると、フィオナが一歩先に動いた。


 男性の身体が、ゆっくりと傾く。


「……っ!」


 倒れ込む直前。


 フィオナが、その身体を支えた。


「……大丈夫ですか?」


 男性は、荒い息を繰り返していた。


 額には汗が浮かび、唇は乾ききっている。


 どうやら、かなり消耗しているらしい。


「……み、水……」


 男性が、かすれた声で呟いた。


「水だね。ちょっと待って」


 僕は、持ってきていた水袋を取り出した。


 フィオナが男性の身体を支え、少しずつ水を飲ませる。


 男性は、何度か咳き込んだ後、ようやく落ち着いたようだった。


「……ありがとうございます……」


「ううん。気にしないで」


 僕は、男性の様子を確認した。


 足には、何かで切ったような傷がある。


 すでに布が巻かれていたけれど、血が滲んでいた。


「……グレン、手当てをお願いできる?」


「承知しました」


 グレンが、団員へ声を掛ける。


 その間にも、男性は必死に何かを伝えようとしていた。


「……な、仲間が……」


「……仲間?」


 僕は、顔を上げた。


 男性は、震える手で森の奥を指差した。


「……まだ……奥に……」


「……奥にいるの?」


 僕が尋ねると、男性が小さく頷いた。


「……に、逃げたんです……」


「……逃げた?」


「……あれが……来て……」


 男性の声が、震えていた。


 フィオナが、静かに口を開く。


「……何があったのですか?」


 男性は、何かを思い出したように顔を歪めた。


「……荷馬車が……」


 荒い呼吸。


「……襲われて……」


 そして。


「……魔物が……」


 僕は、思わず息を呑んだ。


 ……やっぱり。


 商隊は、魔物に襲われたのか。


「……どんな魔物だったの?」


 僕が尋ねると、男性は首を横に振った。


 その動きは、ひどく弱々しかった。


「……ち、違う……」


「……え?」


「……あれは……」


 男性は、震える手で僕の服を掴んだ。


 その目には、はっきりと恐怖が浮かんでいた。


「……普通の……魔物じゃ……」


「…………」


 僕は、言葉を失った。


 男性は、必死に続きを話そうとした。


 けれど。


「……っ……」


 その身体から、急に力が抜けた。


「……大丈夫!?」


 フィオナが、男性を支え直す。


 呼吸は続いている。


 どうやら、意識を失ってしまったらしい。


「……カイル様」


 フィオナが、静かに僕を見た。


「……うん」


 僕は頷いた。


 男性は見つかった。


 少なくとも、商隊の一人は生きていた。


 ……でも。


 ほかの人たちは、まだ森の奥にいる。


 しかも。


 彼らを襲ったのは、普通の魔物ではないという。


「……グレン」


「はい」


「この人を、安全なところまで運ぼう。手当ても必要だしね」


「承知しました」


 グレンが、団員たちへ指示を出し始めた。


 僕は、もう一度森の奥へ目を向けた。


 木々が生い茂り、その先はほとんど見えない。


 先ほど見つけた、大きな爪痕。


 何かに怯えていたような魔物。


 そして。


 今、目の前で意識を失った男性の言葉。


 ……普通の魔物じゃない。


 それが、何を意味しているのか。


 僕には、まだ分からなかった。


 ただ。


 その時だった。


 ……ゴォォ……。


 森の奥から、低い音が響いた。


「…………」


 僕は、思わず息を止めた。


 風の音ではない。


 木が軋む音でもない。


 何か大きなものが、喉の奥で唸っているような。


 そんな音だった。


 ……ゴォォォ……。


 今度は、少しだけはっきりと聞こえた。


 グレンが、ゆっくりと剣を構える。


 団員たちも、周囲を警戒し始めた。


 フィオナは男性を支えたまま、森の奥を見つめていた。


 その表情は、今まで見たことがないほど真剣だった。


「……フィオナ」


 僕が声を掛けると、彼女がこちらを向いた。


「……はい」


「……今の、聞こえた?」


 フィオナは、静かに頷いた。


「……はい」


 そして。


 森の奥へ視線を戻した。


「……カイル様」


「……うん?」


 彼女は、弓を握り直した。


「……おそらく、まだ近くにいます」


 ……近くに?


 僕は、もう一度森の奥を見た。


 木々の向こうには、何も見えない。


 ただ、薄暗い森が続いているだけだ。


 ……それでも。


 確かに、何かがいる。


 そんな気配だけは、はっきりと感じられた。


 そして、その奥には。


 まだ帰ってきていない商人たちがいる。


「…………」


 僕は、ゆっくりと息を吐いた。


 ……どうやら。


 思っていたより、ずっと大変なことになっているらしい。


 森の奥から、もう一度。


 低い唸り声が響いた。

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