第三十七話 商人を迎える町
カン、カン、と。
乾いた音が、通りの向こうから聞こえてきた。
「……おお」
思わず足を止める。
目の前には、数日前まで静かだった通りが広がっていた。
町へ入る街道と、市場へ続く道が交わる一角。
この前、フィオナと一緒に見つけた場所だ。
あの時は、古い建物がぽつぽつと並んでいるだけだった。
けれど今は、建物の前に木材が積まれ、何人もの職人が行き来している。
屋根の上では、傷んだ板を外す作業が進められていた。
「……思ってたより進んでるね」
「そうですね。皆さん、さっそく準備を始められたようです」
隣を歩くフィオナも、興味深そうに周囲を見渡していた。
銀色の髪が風に揺れ、そこに留められた小さな髪飾りが、朝の日差しを受けて輝いている。
「この前まで、ただの空き家だったのになあ」
「それだけ、皆さんが楽しみにされているのでしょうね」
「うん。そうかもしれないね」
僕らは、作業が行われている建物へ近づいた。
すると、入り口の前で何やら相談していた女性が、こちらに気づいた。
「あっ、殿下!」
「こんにちは。作業、進んでるみたいだね」
「はい! おかげさまで!」
女性は嬉しそうに笑った。
以前、町の集会で空き家を宿にしたいと話していた人だ。
親から譲り受けた建物らしいけれど、長い間使われていなかったという。
「職人さんたちに見てもらったら、思っていたより建物の状態が良かったんです」
「へえ、それはよかったね」
「ええ。全部建て直すとなると難しかったんですが、傷んだところを直すだけなら、何とか手が届きそうで」
そう言いながら、女性は建物を見上げた。
まだ壁の一部には古い板が残っているし、屋根にも修繕が必要な場所がある。
けれど、建物の周囲は綺麗に片づけられていた。
以前は積まれていた古い荷物も取り除かれ、入り口の前には新しい木材が並べられている。
「……本当に、宿を始めるんだね」
「はい。最初は少し迷っていたんですけどね」
「迷ってた?」
「ええ。やっぱり、商売を始めるとなるとお金もかかりますし、お客様が来てくださるかも分かりませんから」
女性は少し照れくさそうに笑った。
「でも、せっかく使える家があるんです。何もしないまま古くなっていくより、もう一度誰かに使ってもらえたらと思いまして」
「……そっか」
僕は、建物を見上げた。
古い家。
長い間、誰も使っていなかった場所。
それが今、新しい宿屋になろうとしている。
……うん。
いい話だなあ。
「ちなみに、何部屋くらい作る予定なの?」
「今のところ、三部屋ですね」
「三部屋かあ」
「はい。最初から大きく始めるのは難しいですし、まずは自分で管理できるくらいにしようと思っています」
「うん。それがいいかもしれないね」
何事も、最初から無理をする必要はない。
お客さんが増えたら、その時にまた考えればいいのだ。
「食事はどうするの?」
「朝は簡単なものを用意するつもりです。ただ、夕食まですべて作るのは難しいので、近くの食堂に相談してみようかと」
「……ああ、なるほど!」
それはいい考えだ。
宿屋だからといって、全部を一人でやる必要はない。
食堂の人にとっても、お客さんが増えるなら嬉しいだろう。
「いいね。そういうやり方もあるんだ」
「ありがとうございます。まだ考えている途中ですけどね」
女性はそう言って、嬉しそうに笑った。
その時だった。
「おや、殿下じゃありませんか!」
建物の中から、聞き覚えのある声が響いた。
「……あ、バルト!」
姿を見せたのは、木工職人のバルトだった。
袖をまくり、腰にはいくつかの道具を下げている。
どうやら、作業の途中だったらしい。
「ちょうどよかった。少し中を見ていきませんか?」
「いいの?」
「もちろんです。まだ完成にはほど遠いですがね」
「じゃあ、お邪魔しようかな」
僕とフィオナは、バルトに案内されて建物の中へ入った。
◇
「……へえ」
中へ入ると、木の匂いが鼻をくすぐった。
床には新しい板が何枚か張られていて、壁際には取り外した古い木材がまとめられている。
天井を見上げると、梁がしっかりと組まれていた。
「この建物、思っていたより丈夫なんですよ」
バルトが柱を軽く叩く。
「長い間使われていなかったわりには、柱と梁がまだしっかりしています」
「へえ、そうなんだ」
「ええ。もちろん、傷んでいるところはありますがね。そこを直せば、十分使えるでしょう」
バルトは、床の一角を指差した。
「こちらは湿気で板が傷んでいたので、張り替えているところです」
「なるほどね」
「屋根も一部直す必要がありますが、そちらは屋根仕事に慣れた職人に任せています」
「……あ、バルトが全部やるわけじゃないんだ」
「ははっ! さすがに一人では無理ですよ!」
バルトが笑う。
「俺は木工が専門ですからね。建物の修繕に詳しい連中にも手伝ってもらっています」
「そっか」
そういえば、町にはほかにも色々な職人がいる。
バルトが作った茶の輸送用木箱も、今では何人かの職人が協力して作っているらしい。
「最近、結構忙しいんじゃない?」
そう尋ねると、バルトが少し苦笑した。
「まあ、ありがたいことに仕事は増えましたな」
「やっぱり?」
「ええ。茶の箱も作らなきゃいけませんし、店から頼まれた棚や机もあります。それに、今度は宿の修繕でしょう?」
「……うわあ」
聞いているだけで忙しそうだ。
「大丈夫? 無理してない?」
「ご心配なく」
バルトは笑った。
「俺一人で全部抱え込んでいるわけじゃありませんから」
そう言って、作業中の職人たちへ視線を向ける。
「得意な仕事は人によって違いますからね。俺が木材を加工して、別の職人が組み立てをすることもあります」
「へえ」
「それに、若い連中にも少しずつ仕事を任せているんですよ」
ちょうどその時、部屋の奥から若い職人が顔を出した。
「バルトさん! こっちの板、確認してもらえますか?」
「おう、今行く!」
バルトが返事をする。
若い職人は、僕らに気づいて慌てて頭を下げた。
「で、殿下! 失礼しました!」
「あはは、気にしないで。仕事中なんでしょ?」
「は、はい!」
「頑張ってね」
「ありがとうございます!」
若い職人は、少し照れくさそうに笑ってから作業へ戻っていった。
バルトは、その背中を見送りながら言った。
「あいつも、最初は道具の使い方すら怪しかったんですがね」
「そうなの?」
「ええ。でも、最近はずいぶん上達しましたよ」
バルトは少し誇らしそうだった。
「こうして仕事が増えるのは、職人にとっても悪い話じゃありません。経験を積む機会が増えますからな」
「……なるほど」
僕は作業場を見回した。
木材を運ぶ人。
寸法を測る人。
板を削る人。
それぞれが違う作業をしている。
けれど、目指しているのは一つの建物を完成させることだ。
……面白いなあ。
最初は、バルトに茶の箱を作ってもらっただけだった。
でも今では、その技術が町の色々なところで使われている。
「……ありがとね、バルト」
「ん? どうされました?」
「いや、こうして色々やってくれて助かってるなって」
すると、バルトは少し驚いたような顔をした。
それから、豪快に笑った。
「ははっ! こっちこそ、仕事が増えてありがたいくらいですよ!」
「そっか。それならよかった」
「ええ。まだまだやることはありますからな!」
そう言って、バルトは若い職人の方へ歩いていった。
僕らも建物の外へ出ることにする。
「……頼もしいね」
僕が呟くと、フィオナが頷いた。
「そうですね。皆さん、ご自分の仕事に誇りを持っていらっしゃるようです」
「うん」
僕は、もう一度建物を振り返った。
まだ完成していない、小さな宿屋。
でも、その中では何人もの人が働いていた。
……なんだか、完成するのが楽しみになってきたな。
◇
宿屋の様子を見た後、僕らは周辺の土地を歩いていた。
ここには、宿屋のほかにもいくつかの施設を作る話が出ている。
馬を預かる場所。
荷馬車を停める場所。
それから、商人が荷物を一時的に保管できる倉庫。
ただし、まだ具体的な場所がすべて決まっているわけではない。
「……どこに何を作るかって、意外と難しいね」
僕が呟くと、フィオナが頷いた。
「そうですね。建物そのものだけでなく、そこへ向かう道も考える必要がありますから」
「うん」
僕は、町へ続く街道を眺めた。
ちょうど一台の荷馬車が、ゆっくりと通り過ぎていく。
荷台には、布をかぶせた木箱が積まれていた。
「……ああいう馬車が増えるんだよね」
「そうですね」
フィオナは、荷馬車が通り過ぎる様子をしばらく見ていた。
そして、少し先にある空き地を指差す。
「カイル様。馬を預かる場所は、あちらの方がよいかもしれません」
「……あっち?」
「はい。街道から入りやすいですし、宿屋からもそれほど離れていません」
言われた場所を見る。
確かに、道のすぐ近くだ。
ここなら荷馬車が町の奥まで進まなくても済みそうだった。
「……なるほど。宿屋のすぐ隣じゃなくてもいいんだね」
「はい。むしろ、少し離れていた方がよいかもしれません」
「……どうして?」
「馬の鳴き声や、匂いなどもありますから」
「ああ、そっか!」
確かに。
宿へ泊まる人は、ゆっくり休みたいはずだ。
そのすぐ隣で馬が何頭も鳴いていたら、落ち着かないかもしれない。
「じゃあ、馬車を停める場所と宿は少し離しておこうか」
「そうですね。その方が、夜も静かに過ごせると思います」
僕は頷いた。
「……となると、倉庫はどうしようかな」
そう言いながら、周囲を見回す。
少し離れたところには、古い物置が建っていた。
以前、荷運びの仕事をしている人が、倉庫として使えないか考えていると言っていた建物だ。
「あそこは、まだ使えそう?」
「建物の状態は確認していただく必要がありますが……」
フィオナは、周囲の地面へ視線を落とした。
「場所としては、悪くないと思います」
「へえ」
「ただ、こちら側は少し地面が低くなっていますね」
そう言って、建物の横を指差す。
確かに、そこだけ緩やかに地面が下がっていた。
「雨が降った時には、こちらへ水が集まりやすいかもしれません」
「ああ、前にも言ってたね」
「はい」
フィオナが頷く。
「特に茶などを保管するのであれば、湿気には気をつけた方がよいと思います」
「……なるほど」
僕は腕を組んだ。
宿屋は、人が歩きやすい場所。
厩舎は、馬車が入りやすい場所。
倉庫は、荷物を運びやすくて、できるだけ乾燥した場所。
……うん。
ちゃんと考えると、色々あるなあ。
「……ねえ、フィオナ」
「はい」
「こういうのって、僕らだけで決めても駄目だよね」
「そうですね。実際に使われる方々の意見も聞いた方がよいと思います」
「うん。じゃあ、今度みんなで確認してみようか」
「はい」
フィオナが頷く。
僕は、周囲の土地をもう一度見渡した。
今はまだ、何もない場所が多い。
でも、ここに宿や厩舎ができたら。
商人たちが荷物を降ろして、馬を休ませて、宿で一晩過ごすようになる。
……何だか、少し想像できるようになってきた。
「……楽しみだね」
「そうですね」
フィオナが、小さく微笑んだ。
◇
それから数日後。
町には、久しぶりにまとまった雨が降った。
前日の昼頃から降り始めた雨は、夜になってもなかなか止まなかったらしい。
翌朝には空も明るくなっていたけれど、道にはまだ水たまりが残っていた。
そして、その雨は思わぬ問題を浮かび上がらせることになった。
◇
私が異変に気づいたのは、町の入口に近い通りを歩いていた時だった。
朝の空気には、まだ雨の匂いが残っている。
屋根から落ちた水滴が、地面の小さなくぼみに波紋を作っていた。
昨日から降り続いた雨のせいで、普段は乾いている場所にも水が溜まっている。
……やはり、こちらへ流れてきていますね。
私は、道の端に視線を向けた。
以前、カイル様と確認した場所。
周囲より少し低くなっている土地だ。
予想していた通り、そこには雨水が集まっていた。
ただ、思っていたよりも広い範囲がぬかるんでいる。
……これは、少し注意した方がよさそうです。
そう考えた時だった。
「おい、もう少し右だ!」
「分かってる! だが、車輪が……!」
前方から、慌ただしい声が聞こえてきた。
見ると、荷馬車が一台、道の端で動けなくなっていた。
どうやら、ぬかるみに車輪が入り込んでしまったらしい。
馬は前へ進もうとしているけれど、荷台が傾き、うまく動けずにいる。
「……あっ!」
荷台の上で、木材が大きく揺れた。
積まれていた板の一枚が、端から滑りかけている。
そのすぐ近くには、車輪を確認しようとしている男性がいた。
「危ないです!」
私は、咄嗟に声を上げた。
男性がこちらを見る。
同時に、荷台の端から木材が滑り落ちた。
「うわっ!」
私は素早く駆け寄り、男性の腕を引いた。
落ちてきた木材が、すぐ横の地面へ突き刺さるように落ちる。
鈍い音が響いた。
「……っ!」
男性が息を呑む。
「だ、大丈夫ですか!?」
「はい。私は問題ありません」
私は、男性の様子を確認した。
幸い、怪我はなさそうだった。
ただ、少し顔色が悪い。
「無理に荷物の下へ入らない方がよいと思います」
「……あ、ああ。助かったよ」
男性は、何度も頷いた。
私は荷馬車へ視線を向ける。
車輪は、片側だけ深い泥に沈み込んでいた。
荷台に重い木材を積んでいることもあり、このまま馬に引かせるのは難しそうだ。
「一度、馬を落ち着かせた方がよいかもしれません」
「ああ、そうだな」
御者が頷き、馬の手綱を緩めた。
馬は荒い息を吐きながら、ゆっくりと動きを止めた。
周囲にいた人たちも集まってくる。
「まず、荷物を少し降ろそう」
「車輪の下に板を入れられないか?」
「そっちの木材、使えるぞ!」
何人かが相談を始めた。
私は、ぬかるんだ地面を確認する。
雨水は、道の片側からこちらへ流れ込んでいる。
そして、この場所で行き場を失っているようだった。
……やはり、ここが問題ですね。
荷物を軽くして車輪を引き上げたとしても、同じようなことが起きる可能性がある。
その時、道の向こうから声が聞こえてきた。
「フィオナ!」
顔を上げる。
カイル様が、こちらへ歩いてこられるところだった。
「大丈夫? 何かあったみたいだけど」
「はい。荷馬車の車輪が、ぬかるみにはまってしまったようです」
「……ああ、なるほど」
カイル様は荷馬車を見て、それから地面へ視線を落とされた。
「結構ひどいね、これ」
「そうですね。雨水がこちらへ集まってしまっているようです」
私は、水の流れてきた方向を示した。
「以前確認した時にも少し気になっていたのですが、思っていたより水が溜まりやすいようです」
「……そっか」
カイル様は、しばらく周囲を眺めていた。
その間にも、町の人たちが協力して荷物を降ろしている。
誰かが板を持ってきて、別の人が車輪の周りの泥を取り除き始めた。
「……これ、ちゃんと直した方がいいね」
カイル様が、静かに仰った。
私は頷いた。
「はい。このままでは、雨が降るたびに同じことが起こるかもしれません」
カイル様はもう一度、ぬかるんだ道を見た。
それから、周囲の人たちへ声を掛ける。
「みんな、手伝ってくれてありがとう! 怪我しないように気をつけてね」
その声に、何人かが顔を上げた。
「はい、殿下!」
「こっちは何とかなりそうです!」
「そっか。よかった」
カイル様は、少し安心したように笑われた。
私は、その横顔を見つめる。
以前なら、目の前の危険を取り除くことだけを考えていたかもしれない。
でも今は、それだけでは足りないと分かる。
荷馬車を助けること。
怪我をした人がいないか確かめること。
そして、同じことが起きないように考えること。
どれも、町の人たちを守ることに繋がっている。
……まだまだ、学ぶことが多いですね。
そう思いながら、私はもう一度、雨上がりの道を見渡した。
◇
「……なるほどねえ」
僕は、ぬかるんだ道を見つめながら呟いた。
フィオナが言っていた通り、水は周囲の高い場所から流れ込んでいるらしい。
幸い、荷馬車の方は町の人たちの協力で動かせそうだった。
でも、問題はそこじゃない。
このままだと、次に雨が降った時も同じことが起こるかもしれないのだ。
「……ちょっと、詳しい人に聞いてみようか」
「そうですね」
フィオナが頷く。
僕らは、近くで作業していた人たちへ声を掛けることにした。
すると、道路の補修を手伝った経験があるという男性が、地面の状態を確認してくれた。
「……なるほど。この辺りは、昔から水が溜まりやすいんですよ」
「そうなんだ」
「ええ。以前は馬車が通ることも少なかったので、それほど問題にはならなかったんですがね」
男性は、道の端を指差した。
「ここに水を逃がす溝を作れば、少しは改善できると思います」
「……なるほど!」
僕は頷いた。
……ん?
でも、ちょっと待って。
「その水って、どこに流れるの?」
「……え?」
「いや、ここから水を流したら、今度は別の場所が困ったりしないかなって」
男性は、少し考え込んだ。
「……確かに、そのまま流すと下の家の方へ向かってしまいますな」
「だよね」
さすがに、道を直すために誰かの家へ水を流すわけにはいかない。
すると、フィオナが口を開いた。
「少し離れたところに、以前から使われている排水路がありましたよね」
「……ああ、あれですか」
男性が頷く。
「確かに、あそこへ繋げられるなら水を逃がせるかもしれません」
「じゃあ、そこまで溝を作ればいいのかな?」
「ただ、今の排水路の広さで十分かは確認した方がいいでしょうな」
「……なるほど」
僕は腕を組んだ。
道の水を流す。
でも、流した先でも問題が起きないようにする。
……うん。
当たり前だけど、ちゃんと考えないといけないことが多い。
「じゃあ、一度そこまで調べてもらってもいい?」
「もちろんです、殿下」
「ありがとう。必要なら、排水路の方も整備しよう」
男性が頷く。
僕は、もう一度道を見渡した。
ここは町へ入るための道だ。
商人だけじゃなく、町の人たちも使っている。
これから宿や倉庫ができれば、今よりもっと多くの人が通るようになるだろう。
だったら、ちゃんと整備しておきたい。
「……フィオナ」
「はい」
「宿とか倉庫は、それぞれ商売を始める人たちが作るでしょ?」
「そうですね」
「でも、こういう道とか排水の整備は、町全体に関係することだよね」
「はい。商人の方々だけでなく、住民の方々も利用されますから」
「うん」
僕は頷いた。
「じゃあ、そこは領地の方でやろうか」
フィオナがこちらを見る。
「道路と排水の整備、ですね」
「うん。もちろん、どのくらい費用がかかるかは確認しないといけないけどさ」
僕は苦笑した。
「宿を作るのはみんなの仕事。でも、道が使えなかったら困るのは町全体だもんね」
「……そうですね」
フィオナが、小さく微笑んだ。
「私も、その方がよいと思います」
「よし。じゃあ決まりだね」
僕は軽く頷いた。
……いやあ。
また仕事が増えたなあ。
でも、こういう仕事なら悪くない。
みんなが使う道を整える。
それで、商売を始めたい人たちが動きやすくなる。
……うん。
領主の仕事って、こういうことなのかもしれないね。
◇
それから、町の入口に近い一角では、少しずつ工事が進んでいった。
まず、ぬかるみやすかった場所の状態が調べられた。
雨水がどこから流れてきて、どこへ向かっているのか。
既存の排水路は、どのくらいの水を流せるのか。
周囲の建物や畑に影響が出ないか。
そうしたことを確認したうえで、排水のための溝が整えられることになった。
もちろん、僕が全部を考えたわけじゃない。
実際の作業方法は、道路整備に慣れた人たちが相談して決めてくれた。
必要な人手や費用については、セバスチャンにも確認してもらっている。
僕の仕事は、その計画を確認して、領地として必要な費用を出すことだった。
……いやあ。
人に任せられるって、素晴らしいね。
とはいえ、何もしなくていいわけではない。
予算には限りがあるし、ほかの仕事との兼ね合いも考えなければならない。
僕らは何度か現場へ足を運び、進み具合を確認していた。
ある日は、道の端に溝が掘られていた。
別の日には、ぬかるみやすかった地面へ砂利が敷かれていた。
そして、さらに数日後。
以前は水たまりができていた場所が、随分と歩きやすくなっていた。
「……おお」
僕は、足元を軽く踏んでみる。
以前のように、靴が泥へ沈み込むことはない。
「いい感じだね」
「そうですね。地面も、かなり安定しているようです」
フィオナが頷く。
少し離れたところでは、作業を終えた人たちが道具を片づけていた。
彼らに話を聞くと、まだ細かな手直しは必要らしい。
でも、少なくとも以前よりは使いやすくなったそうだ。
「次に雨が降った時も、様子を見ておいた方がいいですね」
フィオナが言う。
「うん。ちゃんと水が流れるかは、実際に確認しないと分からないもんね」
僕は頷いた。
道を直したからといって、すべてが終わったわけではない。
これからも使いながら、必要に応じて手を加えていくことになるだろう。
……まあ、そういうものだよね。
町づくりに、最初から完璧なんてないんだろうし。
◇
その間にも、宿屋の改装は着実に進んでいた。
最初に見に来た時には、床の一部が剥がされ、屋根にも古い板が残っていた。
それが一週間ほど経つと、新しい床板が張られ、壁の修繕も進んでいた。
さらに数日後には、窓や扉が整えられ、建物の中へ家具が運び込まれるようになった。
入り口の前に積まれていた木材も、少しずつ減っていく。
代わりに、建物の中からは新しい木の香りが漂うようになっていた。
「……へえ、随分変わったね」
僕が感心していると、宿を始める女性が嬉しそうに頷いた。
「ええ。あと少しで、お客様を迎えられそうなんです!」
「おお! もうそんなところまで来たんだ!」
「はい。寝台も用意できましたし、あとは細かなところを整えるだけですね」
女性は、建物の中へ案内してくれた。
以前は薄暗かった部屋に、明るい日差しが差し込んでいる。
床は綺麗に張り替えられ、壁も補修されていた。
小さな部屋には、木製の寝台が置かれている。
窓のそばには、荷物を置ける棚もあった。
「……おお、ちゃんと宿屋だ!」
思わず声が出る。
女性が嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「いやあ、すごいね。あんなに古かった建物が、こんなに綺麗になるなんて」
「職人さんたちが頑張ってくださいましたから」
そう言って、女性は室内を見渡した。
「私も、できるところは自分でやってみたんですよ」
「へえ、そうなの?」
「ええ。掃除や寝具の準備はもちろんですけど、家具の配置も色々考えてみました」
部屋の奥には、小さな机と椅子が置かれている。
壁には、衣服を掛けるための木製の留め具もつけられていた。
「旅の方は荷物が多いでしょうから、できるだけ使いやすいようにと思いまして」
「なるほどねえ」
僕は頷いた。
確かに、旅人にとっては便利そうだ。
すると、フィオナが窓の方へ歩いていった。
「……こちらの窓も、綺麗に直されていますね」
「はい。以前は少し隙間風が入っていたんですが、職人さんに直していただきました」
「そうでしたか」
フィオナは窓の留め具を確かめてから、静かに頷いた。
「これなら、夜も安心して休めそうですね」
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」
女性は、少し照れくさそうに笑った。
……うん。
いい宿になりそうだね。
「ちなみに、食事の方はどうなったの?」
僕が尋ねると、女性は嬉しそうに答えた。
「それが、近くの食堂の方と話がまとまりまして!」
「おお!」
「夕食をご希望のお客様には、そちらのお店を案内することにしました」
「へえ、いいね」
「ええ。食堂の方も、お客様が増えるならありがたいと言ってくださって」
……なるほど。
宿屋ができることで、食堂の仕事も増える。
しかも、宿屋の方は無理に料理人を雇わなくてもいい。
こういう形で協力できるなら、お互いに助かるだろう。
「……なんか、いいね」
「はい?」
「いや、宿屋を作るだけじゃなくて、周りのお店とも協力できるんだなって」
女性は頷いた。
「そうですね。私一人ではできないことも多いですから」
「うん」
僕は、もう一度部屋を見渡した。
誰も使っていなかった建物。
それが今は、誰かが泊まるための場所になろうとしている。
……すごいなあ。
何もなかったところから、少しずつ形になっていく。
町づくりって、こういうところが面白いのかもしれない。
◇
さらに数日が過ぎた。
町へ続く道では、荷馬車が以前より通りやすくなっていた。
馬を一時的に休ませるための場所も、少しずつ整備が進んでいる。
ただし、まだ大きな厩舎が完成したわけではない。
もともと荷運びをしていた人たちが、使っていなかった囲いを直し、馬を預かれる場所を増やし始めたところだ。
倉庫についても同じだった。
古い物置を修繕し、湿気を避けるために床を少し高くするなどの工夫が行われている。
こちらも、すぐに大量の商品を預かれるわけではない。
でも、以前よりは少しだけ便利になりそうだった。
そして。
その日、ついに一軒の宿屋が営業を始めることになった。
「……おお!」
僕は、建物を見上げた。
入り口の上には、新しい看板が取りつけられている。
木製の小さな看板だ。
派手な装飾があるわけではないけれど、丁寧に文字が刻まれていた。
扉の前も綺麗に掃除されていて、窓には明るい光が差し込んでいる。
「……本当に完成したんだね」
「そうですね」
隣のフィオナも、どこか嬉しそうだった。
僕らが入り口へ近づくと、中から女性が姿を見せた。
「あっ、殿下!」
「こんにちは! 今日から営業なんだって?」
「はい!」
女性が、大きく頷いた。
「ようやく、お客様を迎えられるようになりました!」
「おめでとう!」
「ありがとうございます!」
女性は、本当に嬉しそうだった。
その表情を見ていると、僕まで嬉しくなってしまう。
「いやあ、頑張ったね」
「ええ。大変なこともありましたけど……」
女性は、少しだけ建物を振り返った。
「こうして形になると、やっぱり嬉しいですね」
「うん」
僕も頷く。
建物の中には、三つの客室。
小さな食事のための場所。
そして、旅人が荷物を置ける棚や、簡単な家具。
どれも決して豪華ではない。
でも、丁寧に整えられていた。
「……いい宿だね」
僕が言うと、女性が少し驚いたような顔をした。
それから、嬉しそうに笑った。
「……ありがとうございます、殿下」
その声には、少しだけ感慨深い響きがあった。
長い間使われていなかった家。
そこへ再び人を迎えようとしている。
きっと、色々な思いがあるんだろう。
「……あ、そうだ」
僕は、ふと思い出した。
「宿代って、ちゃんと決めた?」
「はい。近くの宿屋の方にも相談して、無理のない金額にしました」
「そっか。それならよかった」
「ええ。最初は、少し安めにしようかとも考えたんですが……」
女性は少し苦笑した。
「それだと、長く続けられないかもしれないと思いまして」
「……ああ、なるほど」
確かに。
お客さんに来てもらうことも大切だけど、商売を続けられなければ意味がない。
「うん。自分でちゃんと考えて決めたなら、それがいいと思うよ」
「ありがとうございます」
女性は頷いた。
そして、少し緊張したように入り口の方へ視線を向ける。
「……あとは、お客様が来てくださるといいんですが」
「……そっか」
僕は思わず笑った。
「最初のお客さん、楽しみだね」
「はい。でも、ちょっと緊張しますね」
「大丈夫だよ。きっと来てくれるって」
そう言いながら、僕は通りの方へ目を向けた。
町へ続く道。
その向こうには、商人たちが行き交っている。
……うん。
ここなら、きっと誰かが立ち寄ってくれるはずだ。
◇
その日の午後。
僕とフィオナは、再び宿屋の近くを通りかかっていた。
別に、最初のお客さんが来たかどうかを確認するために戻ってきたわけじゃない。
……いや。
少しは気になってたけど。
「……あれ?」
ふと、宿屋の前に人影が見えた。
旅装の男性が一人。
背中には大きな荷物を背負い、手には小さな袋を持っている。
どうやら、宿を探しているらしい。
「……おっ」
僕は思わず足を止めた。
男性が、宿屋の入り口へ近づく。
「すみません」
声を掛けると、中から女性が姿を見せた。
「はい、いらっしゃいませ!」
「今夜、泊まれる部屋はありますか?」
「はい! 空いておりますよ」
……おお!
僕は、思わずフィオナを見る。
フィオナも、静かにその様子を見守っていた。
「それは助かりました」
男性が、ほっとしたように笑った。
「ほかの宿を何軒か回ったんですが、どこもいっぱいでして」
「そうでしたか。それなら、ぜひこちらへ」
女性は、少し緊張しながらも丁寧に応対している。
「お一人様でしょうか?」
「はい。一人です」
「かしこまりました。お部屋をご案内しますね」
女性は笑顔で男性を迎え入れた。
男性も、安心したように頷く。
そして、二人は建物の中へ入っていった。
「…………」
僕は、しばらくその様子を眺めていた。
……来た。
最初のお客さんだ。
「……フィオナ」
「はい」
「来たね」
「……はい」
フィオナが、小さく微笑んだ。
「最初のお客様ですね」
「うん」
僕は、宿屋の入り口を見つめた。
少し前まで、誰も使っていなかった建物。
今では、旅人が安心して泊まれる場所になっている。
……なんか。
いいなあ。
「……よかったね」
「そうですね」
フィオナが頷く。
「店主の方も、きっと嬉しいでしょうね」
「うん」
僕も笑った。
思えば、36話では宿を探して困っている商人がいた。
あの時は、町の人たちにお願いして、何とか泊まれる場所を見つけた。
でも、今は違う。
新しく宿を始めた人がいる。
そして、その人が自分の仕事として旅人を迎えている。
……うん。
これで、少しは安心して町に来てもらえるようになるかな。
もちろん、宿が一軒増えただけで、全部の問題が解決したわけじゃない。
まだ部屋の数は少ないし、商人が一度に何人も来れば、足りなくなることもあるだろう。
でも。
最初の一歩としては、十分だと思う。
「……よし」
僕は、小さく頷いた。
「じゃあ、僕らも帰ろっか」
「はい」
フィオナが頷く。
僕らは、宿屋の前を通り過ぎた。
その時、建物の中から女性の声が聞こえてきた。
「お荷物はこちらへどうぞ。お疲れでしょうから、少しお休みくださいね」
続いて、男性の声。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
……うん。
いいね。
僕は、何となく嬉しい気持ちになりながら歩き続けた。
◇
夕方。
町の入口に近い一角には、柔らかな夕陽が差し込んでいた。
僕とフィオナは、少し離れたところから通りを眺めていた。
以前は、通り過ぎる人がほとんどだった場所。
けれど今は、少しずつ様子が変わっている。
新しくできた宿屋。
修繕が進む古い物置。
馬を休ませるために整えられ始めた囲い。
そして、以前より歩きやすくなった道。
まだまだ完成していないものも多い。
でも、それぞれの場所では人が働き、少しずつ形になっていた。
「……なんか、変わったね」
僕が呟くと、フィオナが頷く。
「そうですね。以前とは、随分雰囲気が違います」
「うん」
僕は、宿屋の方へ視線を向けた。
窓には、小さな灯りがともっている。
どうやら、最初のお客さんが部屋で休んでいるらしい。
その近くでは、荷物を運んできた男性が、別の人と何やら話していた。
少し離れた場所では、馬を引いた商人が立ち止まり、近くの人に道を尋ねている。
人が立ち止まる。
誰かと話す。
そして、また別の場所へ歩いていく。
……うん。
少しずつだけど、人が集まる場所になってきた気がする。
「……ねえ、フィオナ」
「はい」
「この前、ここに色々な人が集まるようになったらいいねって話したでしょ?」
「はい。覚えています」
「……何だか、本当にそうなりそうだね」
フィオナは、通りの向こうを眺めた。
銀色の髪が夕陽を受けて、淡く輝いている。
「そうですね。まだ始まったばかりですが……」
「うん」
「少しずつ、人が立ち寄る場所になっているように思います」
「……そうだね」
僕は、小さく笑った。
最初は、ただ宿が足りないという話だった。
だから、泊まる場所を増やせたらいいなと思った。
でも、実際に動き始めてみると、それだけではなかった。
宿を作るために、職人たちの仕事が増えた。
宿で食事を出すために、近くの食堂との繋がりが生まれた。
馬を預かる場所や倉庫を作ろうとする人もいる。
そして、道を整えたことで、以前より荷馬車も通りやすくなった。
……何だか、不思議だなあ。
一つのことを始めると、そこから別の何かが生まれていく。
それも、僕が全部考えたわけではない。
町の人たちが、自分で考えて、自分で動いている。
僕らは、その手助けをしているだけだ。
「……ねえ、フィオナ」
「はい?」
「次は、何ができると思う?」
そう尋ねると、フィオナが少し考えた。
「……そうですね」
彼女は、宿屋の方へ視線を向ける。
「旅の方々が増えるのであれば、食事や日用品を扱うお店も増えるかもしれませんね」
「……ああ、確かに!」
僕は頷いた。
「宿に泊まる人だって、ご飯を食べたり買い物したりするもんね」
「はい」
「じゃあ、そのうち食堂とか、お店とかができるのかな」
「そうかもしれません」
フィオナが微笑む。
「……楽しみですね」
「うん。楽しみだね」
僕も笑った。
その時だった。
街道の方から、荷馬車が一台やってきた。
荷台には、いくつもの麻袋や木箱が積まれている。
御者の男性は、少し周囲を見回すと、道の脇にいた住民へ声を掛けた。
「すみません、この辺りに馬を休ませられる場所はありませんか?」
「ああ、それなら少し先ですよ!」
住民が、街道沿いの一角を指差す。
「最近、預かってくれる人がいるんです」
「そうですか! 助かります!」
男性は礼を言い、荷馬車をゆっくりと進めていった。
僕らは、その様子を見送った。
「……おお」
思わず声が漏れる。
「もう使われ始めてるんだね」
「そうですね」
フィオナが頷く。
「少しずつですが、町を訪れる方々の役に立っているようです」
「うん」
僕は、通りの向こうを見つめた。
まだ建物は少ない。
店も、それほど多くない。
けれど、確かに人の流れが生まれ始めていた。
以前は、ただ通り過ぎるだけだった場所。
今は、そこで立ち止まる人がいる。
泊まる人がいて、働く人がいて、新しい商売を始めようとする人がいる。
そして、その人たちが、また別の人を呼び込んでいく。
「……なんか、いいね」
僕は小さく呟いた。
「はい」
フィオナが、穏やかに微笑んだ。
「私も、そう思います」
夕陽が、ゆっくりと沈んでいく。
新しくできた宿屋の窓には、温かな灯りがともっていた。
その明かりを目印にするように、旅装の男性が一人、通りを歩いていく。
少し先では、仕事を終えた職人たちが道具を片づけていた。
彼らの笑い声が、夕暮れの空気に混じって聞こえてくる。
……うん。
今日も、町は少しだけ変わった。
きっと明日も、何かが変わるんだろう。
僕らが知らないところでも、誰かが何かを始めている。
そう考えると、何だか少し楽しみになってきた。
「……さて」
僕は軽く背伸びをした。
「そろそろ帰ろっか」
「はい」
フィオナが頷く。
僕らは、屋敷へ続く道を歩き始めた。
背後には、新しい宿屋の明かり。
その周囲では、今日も人々の声が響いている。
まだ小さな変化にすぎない。
けれど、その一つひとつが、この町の新しい日常になっていく。
そんなことを考えながら、僕は隣を歩くフィオナへ視線を向けた。
「……また、少し賑やかになりそうだね」
「そうですね」
フィオナは、静かに頷いた。
「きっと、これからもっと賑やかになりますよ」
僕は笑った。
「……うん。そうなるといいね」
こうして、町へ続く道の傍らに、小さな宿屋が一軒生まれた。
人を迎えるための場所。
商人が荷物を下ろし、旅人が足を休める場所。
そして、そこからまた新しい仕事が生まれていく場所。
この町は、少しずつ変わり始めていた。
今度は、外から訪れる人たちを迎え入れながら。




