第三十六話 泊まる場所がない
「すみません、ちょっといい?」
声を掛けると、旅装の男性がこちらを振り返った。
「……はい?」
男性は少し不思議そうな顔をした後、僕の顔を見て目を丸くした。
「で、殿下!?」
「あはは、そんなに驚かなくてもいいよ」
「し、失礼いたしました!」
「ううん。それより、さっき泊まるところを探してるって聞こえたんだけど」
「……ああ、はい。そうなんです」
男性は困ったように笑った。
「明日、こちらで取引の約束がありまして。できれば今夜は町に泊まりたいのですが、宿がどこも埋まっているようで……」
「そっか。ちなみに、どこから来たの?」
「ここから西へ二日ほどの町です。薬草や木材を扱っておりまして、最近こちらの町でも取引が増えていると聞いたものですから」
「へえ、そうなんだ」
どうやら、この人も商売のために辺境へ来てくれたらしい。
「でも、泊まるところがないと困るよね」
「ええ。明日の取引が終われば出発できるのですが、今から町を離れるわけにもいきませんし……」
男性が後ろを振り返る。
そこには、小さな荷馬車が一台停まっていた。
荷台には布をかぶせた木箱がいくつも積まれている。
「それに、馬も連れておりますので」
「ああ、そっか」
確かに、人が寝る場所だけあればいいというわけではない。
馬を休ませる場所も必要だろうし、荷物だって置いておかなければならない。
そこで、隣にいたフィオナが口を開いた。
「荷物は、今夜も馬車に積んだままなのでしょうか?」
「できれば屋根のあるところへ移したいのですが……」
男性が肩を落とす。
「このままでは、雨が降った時に困りますし、夜の間も気になってしまいますから」
「そうですよね」
フィオナが荷馬車へ視線を向ける。
「布をかけていても、風が強ければ雨が入り込むことがあります。それに、人通りのある場所に置いておくのも心配ですね」
「ええ。まさにその通りでして」
……なるほど。
宿が足りない。
それだけの話だと思っていたけれど、どうやらもう少し複雑らしい。
「……ちょっと待っててね」
「はい?」
「泊まれる場所がないか、少し聞いてみようよ」
そう言って、僕は先ほど男性と話していた店主へ向き直った。
「ねえ、この辺りに空いてる部屋とかないかな?」
「空いてる部屋、ですか?」
「うん。宿じゃなくても、一晩泊めてもらえる場所があればいいんだけど」
店主は少し考え込んだ。
「うーん……」
腕を組み、通りの向こうを見つめる。
そして、何かを思い出したように顔を上げた。
「ああ、そういえば!」
「ん?」
「通りの奥に住んでる知り合いが、前に旅人を泊めてたことがあるんですよ」
「へえ!」
「確か、今は使ってない客間があったはずです。ただ、空いてるかどうかまでは……」
「じゃあ、聞いてみようか」
「ええ。私から話してみますよ」
店主はそう言うと、近くにいた家族へ店番を頼み、通りの奥へ歩いていった。
僕らも、その後をついていく。
しばらくして辿り着いたのは、少し古いけれど、よく手入れされた家だった。
店主が扉を叩く。
中から出てきたのは、年配の女性だった。
「あら、どうしたんだい?」
「ちょっと相談があってさ。今夜、旅の商人さんを一人泊められないかと思って」
「旅の人?」
女性は男性へ視線を向ける。
それから、僕に気づいて驚いたように頭を下げた。
「殿下まで! これはこれは……」
「ああ、気にしないで。今日はちょっと困ってる人がいてさ」
事情を説明すると、女性は少し考えてから頷いた。
「一人なら、使ってない部屋があるから泊められるよ」
「本当?」
「ああ。ただ、ちゃんと宿代はもらうけどね」
「もちろんです!」
商人が慌てて答える。
女性は笑った。
「それなら構わないよ。前にも何度か旅の人を泊めたことがあるしね」
……よかった。
これで、ひとまず寝る場所は確保できそうだ。
「でも、馬と荷物はどうしようか」
僕が尋ねると、女性は家の裏手を指差した。
「荷車なら、裏の囲いに入れられると思うよ。ただ、馬を一晩休ませるには少し狭いかもしれないねえ」
「そうなんだ」
「隣の荷運びをしてる家なら、馬を預かれるかもしれないよ」
そう言って、今度は隣家へ声を掛けてくれた。
幸い、そちらにも一頭分の空きがあったらしい。
少し時間はかかったけれど、どうにか馬と荷車を預けられることになった。
荷物も、女性の家の裏にある屋根付きの小屋へ移せるそうだ。
「……本当にありがとうございます!」
商人が深々と頭を下げる。
「いやあ、助かりました。これで安心して明日の取引ができます」
「よかったね」
僕も笑った。
「でも、お礼なら泊めてくれる人たちに言ってあげてね。僕は話を聞いただけだから」
「それでも、わざわざ探していただいて……」
「ううん。せっかくこの町まで来てくれたんだし、安心して過ごしてほしいからさ」
商人は、もう一度頭を下げた。
その後、女性と宿代や荷物の置き場所について相談を始めたので、僕らはそこで別れることにした。
「……よかったですね」
帰り道。
フィオナが、穏やかな表情でそう言った。
「うん。何とかなってよかった」
ただ。
僕は、先ほどの商人の姿を思い出していた。
今回は、たまたま部屋が見つかった。
でも、今後も同じように見つかるとは限らない。
何人も商人が来たら、それこそどうしようもなくなるだろう。
「……ねえ、フィオナ」
「はい」
「これ、ちゃんと考えないと駄目だよね」
フィオナも、静かに頷いた。
「そうですね。今回のように、町の方々のご厚意だけに頼り続けるのは難しいと思います」
「うん」
僕は夕暮れの町を見渡した。
茶を売れるようになったのは嬉しい。
商人が来てくれるようになったのも嬉しい。
でも、その人たちを迎える準備は、まだ十分ではなかったらしい。
「……明日、ちょっと調べてみようか」
「はい。私もご一緒します」
どうやら、また新しい仕事が増えそうだった。
◇
翌朝。
僕は執務室で、セバスチャンから町の宿泊事情について話を聞いていた。
「……なるほど。思っていたより少ないんだね」
「はい。以前の町の規模を考えれば、十分だったのでしょう」
机の上には、町にある宿屋の情報がまとめられている。
どれも、それほど大きな建物ではない。
今までは旅人や商人が訪れることも少なく、部屋が埋まらない日も珍しくなかったらしい。
「ですが、最近は事情が変わってきております」
「やっぱり?」
「ええ。特に商隊が重なった日には、宿泊できない方が出ることもあるようです」
「……昨日もそうだったもんね」
僕は頷いた。
商人が増えた。
それ自体はいい。
でも、今までの設備では対応できなくなり始めている。
「町の宿屋を、少し見て回ってもいいかな?」
「もちろんでございます」
「フィオナも一緒に行こうか」
「はい」
隣にいたフィオナが頷く。
「実際にどのような問題があるのか、確認してみたいです」
「うん。僕もそう思う」
僕は椅子から立ち上がった。
……最近、町へ行くことが多いなあ。
まあ、ずっと机に向かっているよりはいいんだけどね。
◇
最初に訪れた宿屋は、市場から少し離れた通りにあった。
木造の二階建て。
一階には食事をするための小さな部屋があり、二階が客室になっているらしい。
店主に話を聞くと、やはり最近は客が増えているそうだ。
「いやあ、ありがたい話ですよ、殿下!」
店主は笑いながら言った。
「前は何日も部屋が空いてることがあったんですが、最近は連日お客さんが来てくれましてね」
「へえ。それはよかったね」
「ええ。ただ……」
店主が少し困ったように笑う。
「正直、今のままだと手が回らなくなりそうでして」
「……手が回らない?」
「はい。部屋の掃除もありますし、食事の用意もありますから。客が増えると、その分だけ仕事も増えるんですよ」
「ああ、そっか」
考えてみれば、当たり前の話だった。
宿屋というのは、部屋を貸せば終わりではない。
寝具を整えて、掃除をして、食事を用意する。
客が増えれば、それだけ働く人も必要になる。
「それに、馬車を連れてくる方も多くなりましてね」
「……馬車?」
「ええ。うちの裏にも馬を預かる場所はあるんですが、何頭も続けて来られると足りなくなるんです」
「なるほど……」
僕は、店主に案内されて建物の裏へ回った。
そこには、小さな厩舎と荷車を停める場所があった。
確かに、広くはない。
馬が二、三頭いれば、それだけで随分と窮屈になりそうだ。
「馬の世話も大変そうだね」
「そうなんですよ。餌も水も必要ですし、汚れた藁も替えないといけませんから」
「……なるほどねえ」
僕は厩舎を眺めた。
馬が増えれば、世話をする人も必要になる。
餌だって余分に用意しなければならない。
しかも。
「……あれ?」
ふと、宿の前を通る道が気になった。
それほど広くない通りだ。
荷馬車が一台通るだけでも、歩いている人は端へ避けなければならない。
「ここに何台も馬車が来たら、結構大変じゃない?」
そう尋ねると、店主が苦笑した。
「ええ。最近は、荷物を降ろす間だけでも道が狭くなってしまいまして……」
すると、フィオナが通りへ目を向けた。
「馬車をこちらへ停める時は、どの道を通るのでしょうか?」
「大抵は、市場の方から回ってこられますね」
「……そうですか」
フィオナは、しばらく道の様子を確認していた。
それから、僕へ視線を向ける。
「カイル様。この辺りは、少し混雑しやすいかもしれませんね」
「うん。僕もそう思った」
「特に、荷馬車が増えると、歩いている方々が通りにくくなりそうです」
「だよねえ……」
僕は腕を組んだ。
宿屋を増やす。
それだけで解決する問題ではなさそうだ。
◇
次に見えてきたのは、荷物の保管場所の問題だった。
市場の一角では、何人かの商人が木箱を運んでいた。
どうやら、店の裏にある小屋へ荷物を移しているらしい。
「……あれ、何してるんだろう」
「荷物を保管されているようですね」
フィオナが答える。
近づいて話を聞いてみると、商人たちは一時的に小屋を借りているらしかった。
「明日、別の取引がありましてね。それまで荷物を置いておきたいんです」
「へえ。そういう使い方もあるんだ」
「ええ。ですが、なかなか場所が見つからなくて」
商人が苦笑する。
「最近は荷物を預けたい人も増えているようですから」
「……なるほど」
小屋の中を覗かせてもらう。
そこには、木箱や麻袋がいくつも並べられていた。
乾燥させた薬草。
染め物の材料。
そして、その隣には見覚えのある箱も置かれている。
「あ、これって……」
側面には、丘と二枚の葉を組み合わせた印。
バルトたちが作った、茶の輸送用の箱だった。
「うちのお茶だね」
「ええ。昨日仕入れたものです」
商人が頷く。
「まだ次の町へ出発しないので、こちらで預かっていただいているんですよ」
「そっか」
僕は木箱を眺めた。
……でも。
ちょっと気になることがある。
「ねえ、フィオナ」
「はい」
「お茶って、こういう場所に置いておいても大丈夫なのかな?」
フィオナも、木箱の周りへ視線を向けた。
「……少し気になりますね」
「やっぱり?」
「はい。茶葉は乾燥させていますから、湿気には気をつけた方がよいと思います」
「うん」
「それに、香りの強いものと長く一緒に保管するのも、あまり良くないかもしれません」
確かに、小屋の中には薬草の強い匂いが漂っていた。
木箱には湿気や匂いが入りにくいように工夫がされているけれど、完全に防げるわけではない。
「……なるほどなあ」
僕は、もう一度小屋を見回した。
商品を作る。
箱に詰める。
商人に売る。
そこまでは考えていた。
でも、商人が買った商品を、すぐに運び出すとは限らない。
ほかの取引が終わるまで、町に置いておくこともある。
そのための場所が必要なのだ。
「……宿だけじゃないんだね」
「そうですね」
フィオナが頷く。
「今後も商人の方々が増えるのであれば、荷物を保管する場所も必要になると思います」
「うん。しかも、商品によって置き方も違うしね」
「はい」
僕は小さく息を吐いた。
宿屋。
厩舎。
それから、倉庫。
……何だか、思っていたより大変な話になってきたなあ。
ただ。
ここまで見て回って、少し分かったこともある。
どれも、商人が増えたから必要になったものだ。
つまり、この町へ来てくれる人が増えている証拠でもある。
だったら、ちゃんと考える価値はあるはずだ。
◇
「……やっぱり、場所も考えないと駄目だね」
市場を離れたところで、僕はそう呟いた。
隣を歩くフィオナが頷く。
「そうですね。建物を増やすだけでは、通りの混雑がさらにひどくなってしまうかもしれません」
「うん。それに宿と厩舎と倉庫を、全部ばらばらの場所に作るのも不便そうだし」
そう言いながら、町の道を眺める。
市場の周辺には、すでに建物がいくつも並んでいる。
ここへさらに大きな宿や倉庫を作ろうとしても、十分な場所があるとは限らない。
しかも、荷馬車が通れる道まで考えなければならない。
「……どこか、いい場所ないかなあ」
そう呟いた時だった。
「カイル様」
「ん?」
フィオナが、少し先にある道を指差した。
「こちらの方は、いかがでしょうか?」
「……あっち?」
「はい。町へ入る道と、市場へ続く道が交わる辺りです」
言われた方向を見る。
確かに、町の外から続く道が、市場へ向かう道と繋がっている。
その周辺には、まだ建物が少ない場所も残っていた。
「……ちょっと行ってみようか」
「はい」
僕らは、そちらへ歩いていくことにした。
市場から少し離れると、人通りは落ち着いてきた。
通りの両側には家が点在しているものの、まだ空いている場所も多い。
少し進むと、道が緩やかに広がっている一角へ出た。
「……へえ」
思わず周囲を見回す。
ここからは、市場へ続く道がよく見えた。
反対側には、町の外へ向かう街道が伸びている。
荷馬車も、比較的入りやすそうだった。
「確かに、ここなら良さそうだね」
「はい。大きな荷馬車が町の奥まで入らなくても済むようになると思います」
「……ああ、なるほど!」
言われて、ようやく気づく。
商人がここで馬車を停められれば、荷物を降ろすために狭い市場の通りを進む必要がない。
もちろん、市場へ商品を運ぶ方法は別に考えなければならないけれど、小さな荷車なら大きな馬車より扱いやすいだろう。
「それに、市場も近いしね」
「そうですね。宿へ泊まる方々が買い物へ行くにも便利だと思います」
「うん。いいね」
僕は、周囲の土地を眺めた。
少し離れたところには、使われていない小屋が建っている。
その隣にも、建物のない場所が広がっていた。
「この辺り、今は何に使ってるんだろうね」
「確認してみないと分かりませんが、少なくとも農地として使われている様子はありませんね」
「うん。土地の持ち主とかも調べないといけないか」
勝手に建物を建てるわけにはいかない。
道を広げるとしても、周囲の人たちの生活に影響が出るかもしれない。
その辺りは、ちゃんと話し合う必要がありそうだ。
フィオナは、少し先まで歩いて地面の様子を確認していた。
「……カイル様」
「うん?」
「こちらは、少し低くなっていますね」
彼女が示した場所を見る。
確かに、道の端に向かって地面が緩やかに下がっている。
「雨が降った時に、水が集まりやすいかもしれません」
「ああ、そっか。倉庫を作るなら、そういうところも気をつけないとね」
「はい。茶などを保管するのであれば、できるだけ乾いた場所を選んだ方がよいと思います」
「なるほどねえ」
僕は頷いた。
フィオナは、こういうところによく気づく。
森や土地の状態を調べる時もそうだったけれど、周囲を観察するのが本当に得意だ。
「じゃあ、倉庫を作るなら少し高いところの方がいいかな」
「そうですね。雨水の流れも考えておいた方がよいと思います」
「うん。その辺りも、詳しい人に相談してみよう」
僕はもう一度、周囲を見渡した。
……でも。
何だか、いい場所だな。
市場から近い。
外から来る商人も立ち寄りやすい。
それに、まだ建物を増やす余地もある。
「……ねえ、フィオナ」
「はい」
「どうせならさ、この辺りに色々な人が集まるようになったらいいよね」
「……色々な人、ですか?」
「うん」
僕は、目の前の道を指差した。
「商人とか、旅人とか、町の人たちとかさ。ここに宿があって、ご飯を食べる場所があって、買い物もできたら便利じゃない?」
フィオナは、少し考えるように周囲を見回した。
「……そうですね。旅の方々も、必要なものを近くで揃えられそうです」
「でしょ?」
僕は笑った。
「最初は宿とか倉庫だけでもいいと思うんだけど、せっかくなら周りにも少しずつ店が増えていったらいいなって」
「……なるほど」
「そうしたら、町の人もここに来るようになるかもしれないしね」
今は、まだ静かな場所だ。
道を通る人はいるけれど、立ち止まって何かをする人は少ない。
でも、ここに宿ができたら。
宿に泊まる人が食事をするようになって。
食堂ができたら、その近くに店が増えて。
店が増えれば、町の人たちも買い物に来るようになる。
……なんか。
想像すると、ちょっと楽しい。
「……いいね。そういう場所になったら」
思わず呟く。
隣で、フィオナが小さく微笑んだ。
「はい。私も、良いと思います」
その言葉を聞いて、僕も笑った。
「じゃあ、まずは宿をどうするか考えないとね」
「そうですね」
フィオナが頷く。
「ただ、実際に商売をされる方々のお考えも聞いてみたいです」
「うん。それもそうだね」
僕らが勝手に決めても、そこで商売をしたい人がいなければ意味がない。
まずは、町の人たちに話を聞いてみよう。
◇
その日の午後。
僕とフィオナは、町の食堂を訪れていた。
ちょうどナディアが店主と話しているところだった。
最近は、屋敷での仕事の合間に、新しい料理や材料の使い方について相談しているらしい。
「ナディア、ちょっといい?」
「あら、殿下!」
ナディアがこちらを振り返った。
「フィオナさんも。今日はどうされたんですか?」
「ちょっと聞きたいことがあってさ」
「まあ、何でしょう?」
僕は、昨日から調べていたことを説明した。
商人が増えて宿が足りなくなっていること。
厩舎や倉庫も不足していること。
そして、町の入口に近い場所へ、そうした施設を増やせないか考えていること。
ナディアは、途中で何度か頷きながら話を聞いていた。
「……なるほど。それは確かに困りますねえ」
「うん。昨日も、泊まる場所がなくて困ってる商人がいたんだよね」
「ああ、そうだったんですね」
ナディアが少し考え込む。
「でも、最近は本当に旅の方が増えましたからね」
「食堂にも?」
「ええ。以前は町の方がほとんどでしたけど、最近は見慣れないお客様もよくいらっしゃるそうですよ」
隣にいた店主も頷いた。
「そうなんですよ。昼時なんかは、前より随分忙しくなりましてね」
「へえ……」
「ありがたいことなんですが、仕込みが追いつかない日もあるくらいです」
……なるほど。
商人が増えたことで、食堂の方も忙しくなっているらしい。
「それで、宿屋を増やしたいんだけどさ」
僕は二人を見る。
「こういうのって、やっぱり町でやりたい人を探した方がいいのかな?」
すると、ナディアが少し不思議そうな顔をした。
「……殿下」
「うん?」
「それでしたら、すでに考えている方もいらっしゃるんじゃないでしょうか?」
「……え?」
「だって、これだけ旅の方が増えているんですもの。宿を始めてみたいと思う方がいても、おかしくないでしょう?」
「……あ」
僕は、思わず声を漏らした。
……確かに。
今までは、宿が足りないと聞いて、どうやって増やそうかと考えていた。
でも、よく考えれば宿屋も商売だ。
泊まりたい人が増えれば、宿を始めたい人だって出てくるかもしれない。
「……そっか」
僕は頷いた。
「これって、新しい仕事になるんだね」
「そうですよ」
ナディアが笑う。
「宿を始める方がいれば、食事を作る人も必要になりますし、馬の世話をする仕事も増えるでしょう?」
「うん」
「それなら、やってみたいと思う方もいるかもしれませんよ」
……なるほどなあ。
フィオナも、納得したように頷いていた。
「確かに、そうですね。町の方々がご自分で始められるのであれば、長く続けていけそうです」
「うん。僕もそう思う」
すると、食堂の店主が口を開いた。
「そういえば、殿下」
「ん?」
「市場の向こうに住んでる知り合いが、前に空き家を使えないかって話してましたよ」
「空き家?」
「ええ。親から譲られた家なんですが、今は誰も住んでいなくて。何か商売に使えないか考えていたみたいです」
「へえ!」
……いるじゃん。
もう考えてる人。
「その人と、一度話してみたいな」
「でしたら、声を掛けておきましょうか?」
「うん。お願いしてもいい?」
「もちろんです!」
店主が嬉しそうに頷く。
ナディアも、何か思いついたように手を打った。
「あ、それでしたら、宿屋の方々にも一度お話を聞いてみてはいかがでしょう?」
「宿屋の人たち?」
「ええ。今のお店を広げたいと思っていらっしゃるかもしれませんし」
「……確かに」
そう言えば、今朝訪れた宿屋の店主も、最近は客が増えて忙しいと言っていた。
もしかすると、すでに何か考えているのかもしれない。
「ありがとう、ナディア。相談してよかったよ」
「あら、そんな」
ナディアが笑う。
「私は、思いついたことをお話ししただけですよ」
「いや、それが助かったんだよね」
僕は笑った。
「何でも僕が考える必要はないんだなって」
「……そうですね」
フィオナも、小さく微笑んだ。
◇
それから数日後。
僕らは、町の宿屋の店主や、商売を始めたいと考えている人たちと話をすることになった。
といっても、大袈裟な会議ではない。
町の集会に使っている建物へ集まってもらい、それぞれの考えを聞いてみるだけだ。
もちろん、フィオナも一緒。
セバスチャンにも、土地や建物の確認について手伝ってもらうことにした。
「それで、今日は集まってくれてありがとう」
僕がそう言うと、集まった人たちが軽く頭を下げた。
「最近、商人が増えてきたでしょ?」
「ええ。ありがたいことです」
「うん。でも、宿とか荷物を置く場所が足りなくなってきてるみたいなんだよね」
何人かが頷く。
すでに、その問題を感じている人も多いらしい。
「それでさ、もし新しく宿とか倉庫を作ってみたい人がいるなら、話を聞いてみたいんだ」
そう言うと、一人の男性が手を上げた。
「殿下、よろしいでしょうか」
「うん。どうぞ」
「実は、うちの宿でも部屋を増やそうかと考えておりまして」
「……あ、やっぱり?」
「ええ。最近は泊まりたいという方が多いものですから。ただ、改装するとなると費用もかかりますし……」
「なるほどね」
別の女性も口を開いた。
「私は、使っていない家を持っているんです」
「へえ」
「今は誰も住んでいないので、手を入れて宿にできないかと思っていたんですが」
「いいね!」
「ただ、実際にお客様を迎えるとなると、色々と準備が必要でしょう?」
「うん。そうだよね」
さらに、別の男性からも話が出た。
「私は荷運びの仕事をしているんですが、最近、荷物を一時的に預かってほしいと頼まれることが増えまして」
「……荷物を?」
「ええ。今は知り合いの小屋を借りたりしてるんですが、ちゃんと保管できる場所があれば、仕事にできるんじゃないかと思ってるんです」
「へえ……!」
……すごいな。
僕が考えるより前から、みんな色々と考えていたらしい。
その後も、いくつか意見が出た。
馬を預かる場所を増やしたい人。
旅人向けに食事を出してみたい人。
空き家を改装して店を始めたい人。
もちろん、全員がすぐに商売を始められるわけではない。
お金の問題もある。
建物の状態も確認しなければならない。
それに、実際に客が来てくれるかどうかも分からない。
でも。
少なくとも、やってみたいと考えている人はいる。
「……ねえ、みんな」
僕は、一度話を区切った。
「ちょっと、場所のことで相談したいんだけど」
そう言って、セバスチャンに用意してもらった簡単な町の地図を広げる。
「この辺りなんだけどさ」
僕は、昨日フィオナと見てきた場所を指差した。
町へ入る街道と、市場へ続く道が交わる辺り。
まだ建物が少なく、空いている土地も残っている一角だ。
「ここに宿とか、馬を預かる場所とか、荷物を置ける場所が増えたら便利じゃないかなって思ってるんだよね」
集まった人たちが、地図を覗き込む。
「……ああ、なるほど」
「確かに、ここなら馬車も入りやすいですね」
「市場にも近いですし」
何人かが頷いた。
そこで、フィオナが口を開く。
「ただ、建物を増やすのであれば、道の広さも考えた方がよいと思います」
「道、ですか?」
「はい」
フィオナは地図の一角を示した。
「大きな荷馬車が何台も停まるのであれば、人が歩く場所と、荷物を降ろす場所を分けられた方が安全だと思います」
「……なるほど」
「それに、こちらは少し土地が低くなっていますので、雨が降った時には水の流れにも気をつける必要があります」
宿屋の店主が頷く。
「確かに、あそこは雨の後にぬかるむことがありますね」
「そうなんですか?」
「ええ。以前、荷車の車輪がはまってしまったこともあります」
……ああ、やっぱり。
フィオナの見立ては正しかったらしい。
「じゃあ、その辺りも確認した方がいいね」
僕は頷いた。
「場所を決める前に、土地の持ち主とか、道の状態とかをちゃんと調べよう」
「はい、殿下」
セバスチャンが答える。
「あと、建物を直すならバルトたちにも相談してみるといいと思う」
僕が続ける。
「使える木材とか、どこを補強した方がいいかとか、職人の人たちなら分かるだろうしね」
「それはありがたいです!」
空き家を持っている女性が嬉しそうに答えた。
「うん。ただ、実際に商売をするのはみんなだからさ。費用とか、どうやって運営するかは、ちゃんと考えてみてほしいかな」
全員が頷く。
「もちろん、困ったことがあったら相談してね。使える土地の確認とか、町として手伝えることはあると思うから」
「ありがとうございます、殿下!」
そうして、話し合いはひとまず終わった。
すぐに何かが完成するわけではない。
でも、何人かはその場で相談を始めていた。
「うちの空き家、倉庫としてなら使えるかもしれませんね」
「だったら、一度見せてもらえませんか?」
「馬車を置く場所は、もう少し広い方がよさそうだな……」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
……うん。
いい感じだ。
僕が一人で何かを決めなくても、みんなが自分で考えている。
それが、何だか嬉しかった。
◇
集会が終わった後。
僕とフィオナは、屋敷へ戻る道を歩いていた。
夕方の町には、仕事を終えた人たちの姿が増え始めている。
市場の方からは、まだ商人たちの声が聞こえていた。
「……ねえ、フィオナ」
「はい」
「僕、ちょっと勘違いしてたかもしれない」
「……勘違い、ですか?」
「うん」
僕は、先ほどの話し合いを思い出した。
「宿が足りないって聞いた時、どうやって増やそうかって考えてたんだけどさ」
「はい」
「よく考えたら、僕が全部作る必要ないんだよね」
フィオナが頷く。
「そうですね。実際に商売をされる方々が、ご自分で考えていらっしゃいましたから」
「うん。しかも、もう色々考えてる人がいたしね」
「はい」
僕は少し笑った。
「何だか、僕よりみんなの方が先に気づいてることも多そうだなあ」
「それだけ、皆さんが町のことを考えていらっしゃるのでしょう」
「……そっか」
確かに、そうなのかもしれない。
マルクは茶畑のことを。
ミレアは加工場のことを。
バルトは職人たちの仕事を。
ナディアは料理や食堂のことを。
グレンは町の警備を。
それぞれが、自分の仕事について考えている。
そして、今度は宿屋を始めたい人や、倉庫を作りたい人まで現れた。
少し前までは、僕らが何かを始めるたびに、町の人たちへ協力をお願いしていた。
でも、今は少し違う。
みんなが、自分で何かを始めようとしている。
「……何だか、町が勝手に大きくなってるみたいだね」
そう呟くと、フィオナが少しだけ口元を緩めた。
「ですが、それは良いことなのではありませんか?」
「うん。僕もそう思う」
僕は笑った。
「むしろ、すごくありがたいよ」
もちろん、何も考えなくていいわけではない。
道の整備も必要になるし、建物の安全も確認しなければならない。
お金の問題だってある。
でも、少なくとも。
僕が全部を決めて、全部を動かさなくても、町は少しずつ変わっていく。
……うん。
これこそ、僕が目指していた形なのかもしれない。
「……あ、そうだ」
「はい?」
「フィオナ、昨日見つけた場所だけどさ」
「はい」
「いつか本当に、色々なお店が並ぶようになったら面白いよね」
フィオナは、少し考えてから頷いた。
「そうですね。今はまだ静かな場所ですが……」
「うん」
「少しずつ人が集まるようになれば、きっと今とは違う景色になるのでしょうね」
「……そうだね」
僕は、その光景を想像してみた。
街道から荷馬車がやってきて。
宿屋には旅人が泊まり。
食堂からは美味しそうな匂いが漂って。
その周りに、色々な店が並ぶ。
……うん。
結構いいんじゃないかな。
「楽しみだね」
「はい。私も楽しみです」
フィオナが穏やかに微笑んだ。
◇
数日後。
僕とフィオナは、再び町の入口に近い通りを歩いていた。
今日は特に用事があったわけではない。
ただ、近くまで来たので少し様子を見てみようと思っただけだ。
「……あれ?」
ふと、見覚えのある建物の前で足を止める。
以前は誰も使っていなかった、小さな空き家。
その前に、何人かの人が集まっていた。
よく見ると、木材を当てながら建物の寸法を測っている。
「……何してるんだろう」
「確認してみますか?」
「うん。ちょっと気になるね」
僕らが近づくと、一人の女性がこちらに気づいた。
「あっ、殿下!」
「こんにちは。何してるの?」
「この前お話しした、宿のことなんです!」
「……宿?」
「はい。まずは、この建物が使えるかどうか確かめてみようと思いまして」
……ああ!
そういえば、集会で空き家を宿にしたいと言っていた人がいた。
「もう動き始めたんだ!」
「ええ。まだどうなるか分かりませんけどね」
女性が笑う。
「バルトさんの工房にも相談して、建物の状態を見てもらうことにしたんです」
「へえ。いいね!」
近くにいた男性が、手に持っていた道具を下ろした。
「今は、どこを直せば使えるか調べてるところですよ」
「なるほど。結構古い建物だもんね」
「ええ。でも、柱はまだしっかりしているみたいです」
男性が壁を軽く叩く。
「全部建て直すよりは、手を入れて使った方がよさそうですね」
「そっか」
僕は建物を見上げた。
古い木の壁。
少し色あせた屋根。
今はまだ、ただの空き家だ。
でも、ここが宿になったら。
遠くから来た商人や旅人が泊まるようになるのだろう。
「……楽しみだね」
思わず呟く。
女性が嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます! うまくいくように頑張ってみます」
「うん。何か困ったことがあったら相談してね」
「はい!」
僕らは、その場を後にした。
少し歩いたところで、フィオナが口を開く。
「……もう動き始めているのですね」
「うん。僕もびっくりした」
振り返ると、空き家の前ではまだ作業が続いていた。
建物の寸法を測る人。
屋根の状態を確認する人。
手元の紙に何かを書き込んでいる人。
誰も、僕に指示されたから動いているわけではない。
自分たちで考えて。
自分たちで相談して。
新しい仕事を始めようとしている。
「……なんか、いいなあ」
僕は小さく笑った。
少し前まで、何もなかった場所。
今はまだ、建物がぽつぽつと並んでいるだけの静かな通りだ。
でも。
ここに宿ができたら。
泊まる人が増えて。
その人たちを相手に商売をする人が現れて。
少しずつ、店が増えていくかもしれない。
そうなったら、きっと今とは全然違う景色になるんだろう。
「……フィオナ」
「はい」
「今度ここを通る時には、何か変わってるかもしれないね」
フィオナが、通りの向こうを眺める。
それから、静かに頷いた。
「……そうですね」
銀色の髪が、風に揺れた。
「私も、楽しみです」
僕は、もう一度通りを見渡した。
町へ続く道。
その脇に建つ、小さな空き家。
まだ使われていない土地。
そして、新しい仕事を始めようとしている人たち。
今はまだ、何も完成していない。
宿も、厩舎も、倉庫も。
これから作られていくものばかりだ。
けれど、その場所には、確かに新しい動きが生まれていた。
茶を作ることで、商人が増えた。
商人が増えたことで、泊まる場所が必要になった。
そして今度は、その必要に応えるために、新しい商売が始まろうとしている。
何か一つが変わると、別の何かも変わっていく。
……町が大きくなるって、こういうことなのかもしれないね。
僕は、隣のフィオナを見る。
「……じゃあ、帰ろっか」
「はい」
僕らは、屋敷へ続く道を歩き始めた。
背後からは、建物の寸法を測る人たちの声が聞こえてくる。
そこに宿ができるのは、まだ少し先のことだろう。
その周りに店が並ぶようになるのは、もっと先かもしれない。
それでも。
いつか、この辺りにたくさんの人が集まるようになったら。
今日のことを思い出して、きっと少し嬉しくなるんだろうな。
そんなことを考えながら、僕は賑やかな市場の方へ目を向けた。
町へ入ってくる人たちの足音が、今日も街道から聞こえていた。




