第三十四話 何もしない日
……おかしい。
僕は机の上に置かれた書類を、もう一度確認した。
一枚目。
問題なし。
二枚目。
確認済み。
三枚目。
……これも終わっている。
「…………」
書類を裏返してみる。
当然、何も書かれていない。
いや、別に裏に何か書いてあってほしかったわけじゃないんだけど。
「……ねえ、フィオナ」
「はい」
「ちょっと確認してもいい?」
「何でしょうか?」
向かいで本を読んでいたフィオナが顔を上げる。
「今日の仕事って、これで全部?」
「そうですね。急ぎのものは、すべて終わっているはずですが」
「……本当に?」
「はい」
「まだどこかに書類が残ってたりしない?」
「今朝、セバスチャンさんにも確認していますので、大丈夫だと思います」
「…………」
僕は、もう一度机を見る。
書類はない。
新しい報告も届いていない。
窓の外では、小鳥が楽しそうに鳴いている。
時計を見ると、まだ午前中だった。
……これは。
「……やった!」
思わず椅子から立ち上がった。
「終わった! 今日の仕事、もう終わっちゃった!」
「……そんなに嬉しいのですか?」
「そりゃ嬉しいよ! だって、まだお昼にもなってないんだよ?」
最近はずっと忙しかった。
茶畑のことに、加工場のこと。
商人とのやり取りもあったし、ついこの間は自警団まで作った。
別に全部を僕がやっていたわけじゃないけれど、それでも領主として確認しなければならないことは多い。
それが今日は、珍しく何もない。
いや、正確には、何もないわけじゃないんだろう。
町では今も色々な人たちが働いているし、新しい問題だってそのうち出てくると思う。
でも、少なくとも今すぐ僕が対応する必要のある仕事はないらしい。
素晴らしい。
これこそ、僕が求めていた生活じゃないか。
「……よし」
僕は満足げに頷いた。
「今日は何もしない日にしよう」
「何もしない日、ですか?」
「うん。せっかく時間ができたんだし、たまにはのんびりしたいじゃん」
「それは良いと思います」
フィオナが頷く。
「最近はお忙しかったですから、少し休まれてもよろしいかと」
「でしょ? フィオナもそう思うよね」
「はい」
……あれ。
てっきり、もう少し何か言われるかと思っていた。
でも、考えてみればフィオナは、僕が本当に疲れている時には休むよう勧めてくれる。
ただ、仕事を放り出して寝ようとすると止められるだけだ。
……うん。
何もおかしくないね。
さて。
堂々と休んでいいことになったわけだけど。
「…………」
僕は窓の外を見た。
青い空。
気持ちのいい日差し。
そよそよと揺れる木の枝。
……せっかくこんなに天気がいいのに、部屋にいるのももったいない気がする。
そこで、ふと思いついた。
「ねえ、フィオナ」
「はい」
「今日さ、一緒に町へ行かない?」
「町へ、ですか?」
「うん」
フィオナが少し首を傾げた。
「何か確認したいことがあるのでしょうか?」
「いや、別に?」
「……え?」
「ただの散歩だよ。せっかく暇になったんだし、たまには遊びに行くのもいいかなって」
そう言うと、フィオナは少しだけ目を丸くした。
「……遊びに、ですか?」
「うん。最近、町に行く時って仕事のことばっかりだったでしょ?」
「そうですね……」
「だから、今日は何も考えずにぶらぶらしてみようかなって」
我ながら、いい考えだと思う。
町も以前より賑やかになったし、まだ見ていない店もあるかもしれない。
何より、今日は仕事をしなくていい。
「……私も、ご一緒してよろしいのですか?」
「もちろん。フィオナと一緒に行きたいから誘ってるんだけど」
「…………」
あれ。
フィオナが黙ってしまった。
「……フィオナ?」
「い、いえ。何でもありません」
「そう?」
「はい」
彼女は一度視線を落としてから、こちらを見た。
「それでしたら、ぜひご一緒させてください」
「うん! じゃあ決まりだね」
僕は立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。
まだ日も高い。
今から出かければ、昼食も町で食べられるだろう。
「さて、どこから行こうかなあ」
「市場はいかがでしょうか?」
「あ、いいね! 最近色々なものが増えてるみたいだし」
「はい。以前よりも品揃えが豊富になっていると聞いています」
「じゃあ、まずは市場に行こうか」
そう決めてから、僕はふと気づいた。
……待てよ。
これは本当に、ただの散歩だよね?
仕事の確認とか、そういうのは一切しないんだよね?
「……フィオナ」
「はい?」
「今日、僕が仕事の話を始めたら止めてね」
「……分かりました」
フィオナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
町へ出ると、通りには明るい日差しが降り注いでいた。
ここ数日は雨も降っていないため、道の状態も悪くない。
市場へ向かう途中には、洗濯物を干している人や、店先を掃除している人の姿があった。
以前と比べれば、随分と人が増えたものだ。
「殿下、おはようございます!」
「おはよう。今日もいい天気だね」
「ええ! 洗濯物がよく乾きそうですよ!」
声を掛けてくれた女性に手を振る。
少し歩くと、今度は荷物を運んでいた男性が頭を下げた。
「殿下! 今日は何かご用事で?」
「いや、今日はただの散歩だよ」
「散歩ですか?」
「うん。たまにはのんびりしたくてさ」
「ははっ! それはいいですね!」
男性は笑いながら荷物を抱え直した。
……うん。
平和だ。
実に素晴らしい。
「……何だか、皆さん楽しそうですね」
隣を歩くフィオナが言った。
「そうだね。最近、町に活気が出てきた気がする」
「はい。市場も、以前より賑わっているようです」
確かに、遠くからすでに商人たちの声が聞こえている。
通りの先には、色とりどりの布が張られた露店が並んでいた。
食べ物を扱う店。
日用品を売る店。
小さな装飾品を並べた店まである。
「……へえ、あんな店あったっけ?」
「見覚えがありませんね」
「ちょっと見てみようか」
そう言いかけて、思い出す。
……あ。
今日は仕事をしない日だった。
「……まあ、店が増えた理由を調べるのはやめとこう」
「そうですね」
フィオナが少し笑った。
「今日はお休みですから」
「うん。そういうこと!」
僕らは、ゆっくりと市場を歩き始めた。
店先には、見慣れた野菜や果物が並んでいる。
その隣では、遠方から来たらしい商人が、綺麗に染められた布を広げていた。
別の店には、見慣れない形の木製品が並んでいる。
何に使うものなのか分からず眺めていると、店主が使い方を教えてくれた。
どうやら、小さな容器を重ねて収納できるようにしたものらしい。
「へえ。便利だね、これ」
「旅先でも荷物を減らせますからね!」
「なるほどなあ」
……ちょっと欲しいかも。
でも、特に使い道はない。
買っても屋敷の棚に置かれたままになりそうだ。
「……今回はやめとこうかな」
「そうですね。今のところ、必要なものではなさそうです」
「うん。フィオナもそう思う?」
「はい」
「だよねえ」
そんな話をしながら歩いていると、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「……あれ?」
思わず足を止める。
近くの食堂の店先に、焼き菓子が並べられていた。
小麦のものとは少し違う、香ばしい匂い。
表面には細かく刻まれた果実が混ぜ込まれている。
「これ、ナディアが考えてたやつじゃない?」
「そうですね。以前、試食させていただいたものに似ています」
「へえ、もう普通に売ってるんだ」
店主に尋ねると、あの日の試験販売が好評だったため、材料が揃う日に作るようになったらしい。
もちろん、毎日十分な量を用意できるわけではない。
でも、少しずつ常連客も増えているそうだ。
「今日はまだ残ってますよ、殿下!」
「本当? じゃあ、二つもらおうかな」
「ありがとうございます!」
僕は焼き菓子を受け取ると、その一つをフィオナへ差し出した。
「はい、フィオナ」
「ありがとうございます」
「せっかくだし、食べながら歩こうよ」
「はい」
焼き菓子を一口かじる。
表面は少し硬いけれど、中は思っていたより柔らかい。
噛むと、穀物の香ばしさと果実の甘酸っぱさが広がった。
「……うん、美味しい!」
「そうですね。以前いただいた時より、少し柔らかくなっている気がします」
「あ、やっぱり?」
「はい。果実の風味も、よく馴染んでいると思います」
フィオナはもう一口食べた。
その表情が、少しだけ和らぐ。
「……私は、こちらの方が好きかもしれません」
「へえ。前のより?」
「はい。甘さが控えめで、食べやすいので」
「なるほどねえ。僕も結構好きだな、これ」
そう言いながら、もう一口。
……うん。
お茶が欲しくなる味だ。
というか、ナディアもそのつもりで考えたんだった。
「……あ、お茶も買えばよかったかな」
「戻りますか?」
「いや、今日は色々見たいし、また後でもいいかな」
「そうですね」
二人で焼き菓子を食べながら、ゆっくりと市場を歩く。
特に目的地はない。
気になる店があれば立ち止まり、面白そうなものがあれば覗いてみる。
それだけのことなのに、不思議と楽しかった。
普段なら、どの店にどんな商品があるのか、商売は順調なのか、そんなことを考えてしまう。
でも今日は、そういうことを考えなくていい。
ただ、フィオナと一緒に歩いているだけだ。
……こういう日も、悪くないね。
◇
市場を一通り歩いた頃だった。
少し前を歩いていたフィオナが、ふと足を止めた。
「……ん?」
彼女の視線を追う。
そこには、小さな装飾品を並べた露店があった。
首飾りや腕輪。
色のついた石を使った耳飾り。
それから、木や金属で作られた髪飾りも並んでいる。
どれも貴族が身につけるような高価なものではなく、町の人でも手が届きそうな品物だった。
「……フィオナ?」
「はい?」
「何か気になるものあった?」
「……いえ、その」
フィオナは少しだけ言葉に迷った。
けれど、すぐに一つの髪飾りへ視線を戻す。
「……少しだけ、気になりまして」
「へえ、どれ?」
「こちらです」
彼女が指差したのは、小さな葉をかたどった髪飾りだった。
銀色の金具に、淡い緑色の石が一つ。
華やかすぎず、落ち着いた雰囲気の品物だ。
「……おお、綺麗だね」
「はい」
フィオナが頷く。
「あまり目立つものではありませんが、素敵だと思います」
「うん。僕もそう思う」
僕は、髪飾りをもう一度眺めた。
淡い緑色の石。
光の当たり方によって、少しだけ色が変わって見える。
「……あ、フィオナの目の色に似てるね」
「……私の、ですか?」
「うん。ちょっと淡いけど、似た感じの緑色じゃない?」
フィオナが髪飾りを見つめる。
それから、少しだけ目を細めた。
「……確かに、そうかもしれません」
「でしょ? 銀色の髪にも合いそうだし、結構似合うと思うよ」
「……ありがとうございます」
フィオナは小さく頭を下げた。
その様子を見ていると、何となく思いついた。
「あ、そうだ」
「はい?」
「よかったら、それプレゼントしようか?」
「……え?」
フィオナがこちらを見る。
「せっかく一緒に出かけたんだし、記念にどうかなって」
値段も、それほど高くはなさそうだった。
もちろん、気に入ってくれたなら、だけど。
フィオナは少し驚いたように髪飾りへ視線を落とす。
それから、ゆっくりと首を横に振った。
「……いえ」
「ん?」
「お気持ちは嬉しいのですが……」
そこで一度、言葉を切る。
そして、こちらを見た。
「せっかくなので、自分で買ってみたいです」
「……自分で?」
「はい」
フィオナが小さく頷く。
「自分で気に入ったものですから、自分のお金で買ってみたいと思いまして」
……ああ。
なるほど。
「そっか」
僕は笑った。
「うん、いいと思うよ!」
「……よろしいのですか?」
「もちろん! フィオナが欲しいと思ったものなんだし、自分で買うのもいいんじゃない?」
「……はい」
フィオナの表情が、少しだけ和らいだ。
彼女はもう一度髪飾りを見ると、店主へ声を掛けた。
「あの、こちらを一ついただけますか?」
「はいよ! それだね?」
「はい」
「いいもの選んだねえ。派手じゃないけど、綺麗な色だろう?」
「……はい。とても気に入りました」
店主が嬉しそうに笑う。
フィオナは腰につけていた小さな財布を取り出した。
中から硬貨を数枚取り出し、店主へ渡す。
店主は代金を確認すると、髪飾りを丁寧に包んで差し出した。
「毎度あり!」
「ありがとうございます」
フィオナは品物を受け取った。
その手元を見ながら、僕も何となく嬉しくなった。
彼女が自分の欲しいものを見つけて、自分で買った。
ただ、それだけのことなんだけど。
……何だか、いいなあ。
「……カイル様」
「うん?」
「少し、つけてみてもよろしいでしょうか?」
「もちろん!」
フィオナは包みを開き、髪飾りを取り出した。
銀色の髪を片側へ寄せ、耳の少し上で留めようとする。
ただ、慣れていないのか、少し手間取っているようだった。
「あれ、難しい?」
「……少しだけ」
「店主さん、これってどうやって留めるんですか?」
「ああ、それならね」
店主が簡単に使い方を教えてくれた。
髪を少しまとめてから、金具を開いて挟むらしい。
言われた通りにすると、今度はうまく留まった。
「……これで、どうでしょうか?」
フィオナがこちらを向く。
銀色の髪の間で、淡い緑色の石が小さく輝いていた。
……おお。
「うん! やっぱり似合ってる!」
「……そうでしょうか?」
「うん。髪の色が綺麗だから、緑がすごく映えるね」
「…………」
フィオナが、ほんの少しだけ目を見開いた。
それから、そっと髪飾りに触れる。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
でも、その口元には確かに笑みが浮かんでいた。
「気に入った?」
「はい」
フィオナは静かに頷く。
「……とても」
その返事を聞いて、僕まで嬉しくなってしまった。
「そっか。いい買い物したね」
「はい」
フィオナは、もう一度髪飾りに触れた。
その仕草が、何だか少し新鮮だった。
普段の彼女は、あまり自分の服装や装飾品を気にする様子がない。
もちろん、身だしなみはいつも整っている。
でも、こうして何かを選んで嬉しそうにしている姿は、あまり見たことがなかった。
……うん。
今日は誘ってよかったな。
◇
市場を出る頃には、日が少し傾き始めていた。
昼食も町で済ませ、気になる店も一通り見て回った。
特に何か大きな買い物をしたわけではない。
結局、僕が買ったのは食べ物くらいだ。
でも、フィオナは髪飾りを一つ買った。
歩いている間も、時折その飾りに触れている。
「……そんなに気に入った?」
何となく尋ねると、フィオナが少しだけ恥ずかしそうに視線を落とした。
「……はい。自分で選んだものですから」
「そっか。よかったね」
「はい」
彼女は少しだけ微笑んだ。
……いやあ。
何というか。
フィオナが楽しそうだと、僕も嬉しくなるなあ。
「さて、どうしようか」
「まだ、お時間はありますね」
「うん。このまま屋敷に帰るのも、ちょっともったいない気がするんだよね」
僕は周囲を見回した。
町の向こうには、緩やかな丘が続いている。
その斜面には、最近広がり始めた茶畑も見えた。
……あ。
「ねえ、フィオナ」
「はい」
「あの丘まで行ってみない?」
「丘、ですか?」
「うん。天気もいいし、ちょっとのんびりするには良さそうじゃない?」
フィオナは丘の方を見た。
それから、静かに頷いた。
「……いいですね」
「じゃあ行こうか」
「はい」
僕らは市場を離れ、町外れへと続く道を歩き始めた。
途中から、周囲の建物が少なくなっていく。
人の声も遠ざかり、代わりに草木の揺れる音が聞こえてきた。
丘へ続く道は緩やかだった。
足元には背の低い草が生え、ところどころに小さな花が咲いている。
風が吹くたびに、草が波のように揺れた。
「……気持ちいいね」
「そうですね。風も穏やかです」
「こういう日は、外に出たくなるよね」
「……先ほどまでは、何もしない日と仰っていましたが」
「あはは。散歩くらいはいいでしょ?」
「そうですね」
フィオナが少しだけ口元を緩める。
そんなやり取りをしながら、僕らは丘を上っていった。
◇
丘の上からは、町がよく見えた。
家々の屋根。
市場の広場。
町を抜ける道。
少し離れた場所には、新しく作られた加工場も見える。
その向こうには、茶畑が緑色の斜面を作っていた。
「……へえ」
思わず声が漏れる。
「こうして見ると、結構変わったね」
「そうですね」
フィオナも隣で町を見下ろしていた。
「以前は、あの辺りにほとんど建物がありませんでしたから」
「うん。茶畑も、最初は小さかったのにね」
見慣れた町のはずなのに、少し違って見える。
建物が増えたせいだろうか。
それとも、人が増えたからだろうか。
遠くからでも、通りを行き交う人たちの姿が見えた。
荷馬車がゆっくりと進み、その横を人が歩いている。
市場の方からは、かすかに賑やかな声が届いていた。
「……なんか、頑張ったなあ」
思わず呟く。
すると、フィオナがこちらを見た。
「はい。皆さん、とても頑張っていらっしゃいます」
「うん。本当にね」
マルクたちも。
ミレアも、バルトも、ナディアも。
それから、グレンたちも。
僕が知らないところで、きっと今も色々なことをしているんだろう。
……いや。
今日は仕事のことを考えない日だった。
「……っと、危ない危ない」
「どうされました?」
「いや、また町のこと考え始めてたなって」
「……そうでしたか」
「せっかくの休みだし、今は忘れよう」
「はい」
フィオナが頷く。
僕は、近くの草が短くなっている場所を見つけた。
「ここ、座れそうだね」
「そうですね」
「じゃあ、ちょっと休憩しようか」
僕はその場に腰を下ろした。
草の匂いが、ふわりと立ち上がる。
風が頬を撫で、少し伸びた髪を揺らした。
フィオナも、隣に腰を下ろす。
少しだけ離れた位置。
でも、話すにはちょうどいい距離だった。
「……ああ、気持ちいい」
思わず背伸びをする。
そのまま両手を後ろにつき、空を見上げた。
薄い雲が、ゆっくりと流れている。
鳥が一羽、遠くの森へ向かって飛んでいった。
……平和だなあ。
「……カイル様」
「ん?」
「本当に、今日は何もしないのですね」
「うん。何もしないよ」
「そうですか」
「フィオナは、こういうの嫌い?」
尋ねると、彼女は少しだけ考えた。
「……いえ」
それから、町の方へ視線を戻す。
「好きだと思います」
「そっか。よかった」
僕は笑った。
「僕も好きなんだよね、こういうの」
「それは、よく存じています」
「……そこは即答なんだ」
フィオナの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「カイル様は、以前からお休みになることがお好きですから」
「いや、まあ、そうなんだけどさ」
思わず苦笑する。
「でも、今日みたいなのはちょっと違う気がするんだよね」
「……違う、ですか?」
「うん。普段は仕事したくないから休みたいって思うんだけど、今日は別にそういうわけじゃなくてさ」
僕は町を見下ろした。
「ただ、こうしてのんびりしてるのが気持ちいいんだよね」
「……なるほど」
「フィオナと一緒だからっていうのもあるかもね」
「…………」
隣が静かになった。
「……フィオナ?」
「……いえ」
フィオナは少しだけ視線を落とした。
「私も、こうして過ごすのは好きです」
「そっか」
それなら、よかった。
僕らは再び町を眺めた。
風が草を揺らす。
遠くから、鳥の鳴き声が聞こえてくる。
しばらく、どちらも何も話さなかった。
でも、不思議と気まずくはない。
むしろ、こうして黙っている時間さえ心地よかった。
◇
丘の上を吹き抜ける風は、思っていたよりも柔らかかった。
フィオナは、隣に座るカイルへそっと視線を向けた。
彼は相変わらず、空を見上げている。
何かを考えているようにも見えるけれど、その表情はとても穏やかだった。
……本当に、何もしないのですね。
少し前まで、フィオナにはこうした時間の過ごし方がよく分からなかった。
何かをしなければならない。
自分に与えられた役目を果たさなければならない。
そう考えることが、あまりにも当たり前になっていたからだ。
けれど、今日は違う。
カイルに命じられて何かをしているわけではない。
護衛として警戒を怠っているわけでもないけれど、今すぐ対応しなければならないこともなかった。
ただ、一緒に町を歩いた。
気になった店を覗いて、焼き菓子を食べて。
そして、自分のために髪飾りを買った。
フィオナは、そっと髪に触れた。
指先に、小さな金具の感触が伝わる。
……綺麗ですね。
さっきから、何度も触れてしまっている。
別に、外れていないか心配しているわけではない。
ただ、そこにあることを確かめたくなるのだ。
自分で選んで。
自分のお金で買ったもの。
それが、今は自分の髪を飾っている。
たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
「……フィオナ?」
不意に声を掛けられた。
「はい?」
「髪飾り、気になる?」
「……いえ」
フィオナは少しだけ慌てて手を下ろした。
「外れそうだったわけではありません」
「ああ、そうなんだ」
カイルは笑った。
「いや、さっきから何回か触ってたからさ。気に入ったんだなって思って」
「……はい」
フィオナは小さく頷く。
「とても気に入っています」
「そっか。似合ってるし、買ってよかったね」
「……ありがとうございます」
また褒められてしまった。
そう思うと、何となく落ち着かない。
けれど、嫌な気持ちではなかった。
むしろ、嬉しい。
……不思議ですね。
フィオナは、そっと町の方へ視線を戻した。
風が吹く。
銀色の髪が、さらりと肩を滑った。
その時だった。
「……あ、フィオナ」
「はい?」
「ちょっと待って。髪に葉っぱついてるよ」
「……え?」
フィオナは反射的に髪へ手を伸ばした。
「こちらでしょうか?」
「いや、もうちょっと上かな」
「……こちらですか?」
「あ、違う違う。反対側」
言われた通りに手を動かす。
けれど、指先には何も触れない。
「……見つかりませんね」
「あはは。結構分かりにくいところについてるんだよね」
「そうなのですか……」
フィオナはもう一度探してみた。
しかし、やはり見つからない。
すると、カイルが少し身を乗り出した。
「ちょっと取っていい?」
「……はい」
そう答えてから、フィオナは自然と動きを止めた。
カイルの手が、ゆっくりと近づいてくる。
銀色の髪に、指先がそっと触れた。
ほんの一瞬。
髪の間に絡まっていた小さな葉を、丁寧に取り除く。
「……はい、取れた」
カイルが手を離す。
その指先には、細長い草の葉が一枚挟まれていた。
「結構しっかり絡まってたんだね」
「……ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」
カイルは何でもないことのように答えた。
そして、取った葉を風に流す。
小さな葉が、くるくると回りながら草むらへ落ちていった。
フィオナは、その様子を静かに見つめていた。
……あれ。
ふと、不思議なことに気づく。
先ほど。
カイルが手を伸ばしてきた時。
自分は、ほとんど身構えなかった。
もちろん、先に声を掛けてくれていたからというのもある。
けれど、それだけではない気がした。
髪に触れられた瞬間も、恐ろしいとは思わなかった。
むしろ、驚くほど自然だった。
……いつからでしょうか。
以前なら、誰かが自分へ手を伸ばすだけでも、その動きを注意深く見ていた。
相手が何をするつもりなのか。
自分はどう動くべきなのか。
そうしたことを、考えずにはいられなかった。
けれど。
今、隣にいる人に対しては。
そんなことを、考える必要がなかった。
「……どうしたの?」
カイルが尋ねる。
どうやら、少しの間黙ってしまっていたらしい。
「……いえ」
フィオナは首を横に振る。
「何でもありません」
「そっか」
カイルはそれ以上尋ねなかった。
再び空を見上げ、気持ちよさそうに息を吐く。
フィオナも、隣で町を眺めた。
さっきより、ほんの少しだけ肩の力が抜けている気がする。
風に揺れる草。
遠くに広がる森。
少しずつ賑やかになっていく町。
そして、その隣にいるカイル。
……落ち着きますね。
そう思った。
特別なことをしているわけではない。
何かを達成したわけでもない。
ただ、こうして座っているだけ。
それでも、今はこの時間が心地よかった。
フィオナはそっと目を閉じた。
耳に届くのは、草木の揺れる音と、遠くの町から聞こえる人々の声。
隣には、カイルの気配がある。
それだけで、十分だった。
◇
「……そろそろ帰ろっか」
空を見上げていた僕は、ゆっくりと体を起こした。
日が随分と傾いている。
このままのんびりしていると、屋敷に戻る頃には暗くなってしまいそうだ。
「そうですね」
フィオナも頷く。
僕は地面についていた手を払って、立ち上がろうとした。
その時だった。
「……カイル様」
「ん?」
隣を見る。
フィオナが、こちらを見ていた。
「あの……」
「どうしたの?」
彼女は少しだけ言葉に迷ったようだった。
何か言いかけて、口を閉じる。
それから、もう一度こちらを見る。
「……もう少しだけ、ここにいてもよろしいですか?」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
フィオナが、少しだけ目を伏せる。
「いえ、その……」
「あ、ごめん。嫌とかじゃないよ!」
慌てて言う。
「ちょっと意外だっただけ。もちろん、まだ時間あるし、全然いいよ」
「……ありがとうございます」
フィオナの表情が、少しだけ和らいだ。
「何か気になるものでもあった?」
「……いえ」
彼女は町の方へ視線を向ける。
「ただ、もう少しこの景色を見ていたいと思いまして」
「……そっか」
僕も町を見下ろした。
夕陽が、建物の屋根を赤く染めている。
茶畑の斜面には長い影が伸び、その向こうの森は少しずつ暗くなり始めていた。
確かに、綺麗な景色だ。
「うん。じゃあ、もうちょっとのんびりしようか」
「……はい」
僕はもう一度、草の上に腰を下ろした。
フィオナも、隣に座ったまま町を眺めている。
その横顔は、どこか満足そうだった。
……珍しいな。
フィオナが自分から、もう少しここにいたいと言ってくれるなんて。
でも、考えてみれば。
最近、こういうことが少しずつ増えてきた気がする。
この前の自警団の訓練でも、また教えてみたいと言っていた。
今日だって、自分で気に入った髪飾りを買った。
そして今は、もう少しここにいたいと言ってくれた。
……いいことだなあ。
僕は、何となく嬉しくなった。
「……ねえ、フィオナ」
「はい」
「今日、楽しかった?」
そう尋ねると、フィオナがこちらを見た。
「……はい」
少しだけ間を置いて、答える。
「とても楽しかったです」
「そっか!」
思わず笑う。
「僕も楽しかったよ。たまにはこういう日もいいね」
「はい」
「……また、こういう日作ろうか」
フィオナが少し目を丸くした。
「……よろしいのですか?」
「もちろん。仕事が落ち着いたら、またどこか行こうよ」
僕は笑った。
「今度は、フィオナが行きたいところでもいいしね」
「……私が、ですか?」
「うん。今日だって僕が誘ったんだし、次はフィオナが決めてもいいじゃん」
彼女は少し考え込んだ。
それから、町の向こうに広がる森へ視線を向ける。
「……それでしたら」
「うん?」
「今度は、森の近くまで歩いてみませんか?」
「森?」
「はい。以前から、少し気になっている場所があるんです」
「へえ、そうなんだ!」
思わず身を乗り出す。
「どんなところ?」
「小さな泉がある場所なのですが、周囲に綺麗な花が咲くことがあるんです」
「へえ! それはちょっと見てみたいな」
「はい。町からも、それほど遠くありませんので」
「じゃあ、今度行ってみようよ!」
「……はい」
フィオナが微笑んだ。
今度は、さっきよりもはっきりと。
それを見て、僕も自然と笑ってしまう。
「……あ、でも」
「どうされました?」
「今度こそ、本当に仕事抜きで行こうね」
「そうですね」
「泉を見て、花を見て、のんびりして帰ってくるだけ」
「はい」
「……途中で珍しい植物とか見つけても、仕事の話はしないからね」
自分に言い聞かせるように言う。
すると、フィオナが少しだけ笑った。
「……それは、少し難しいかもしれませんね」
「え、なんで?」
「カイル様は、植物を見るとつい気になってしまわれますから」
「……否定できない」
思わず肩を落とす。
フィオナは、また少しだけ口元を緩めた。
……まあ、いいか。
そういうのも含めて、きっと楽しいだろうし。
◇
やがて、夕陽が森の向こうへ沈み始めた。
空の色が、少しずつ変わっていく。
淡い青色から、柔らかな橙色へ。
そして、遠くの雲の端には薄い紫色が混じり始めていた。
町の家々からは、夕食の支度をしているのだろう、細い煙が上がっている。
市場の賑わいも、ここからでは随分と遠くに感じられた。
ぽつり、ぽつりと。
家々の窓に、小さな灯りがともり始める。
「……綺麗だね」
「そうですね」
フィオナが、静かに頷く。
銀色の髪が、夕陽を受けて淡く輝いていた。
その横には、今日買ったばかりの髪飾り。
小さな緑色の石が、最後の日差しを受けてきらりと光る。
……うん。
やっぱり、よく似合ってる。
「……フィオナ」
「はい?」
「その髪飾り、またつけてくれる?」
そう尋ねると、フィオナは少しだけ驚いたようだった。
「……はい」
彼女はそっと、髪飾りに触れた。
「私も、またつけたいと思っています」
「そっか」
僕は笑った。
「じゃあ、楽しみにしてるね」
「……はい」
フィオナも、小さく微笑んだ。
それから、僕らはしばらく何も話さなかった。
けれど、その沈黙は不思議と心地よかった。
並んで座り、同じ景色を眺める。
たったそれだけの時間。
でも、今日はそれが何より楽しかった。
思えば、朝から特別なことは何もしていない。
町を歩いて。
店を覗いて。
焼き菓子を食べて。
髪飾りを一つ買って。
こうして丘の上で、のんびりしていただけだ。
……いや。
結構色々してるな。
何もしない日、というには少し違うかもしれない。
でも。
誰かに頼まれたわけでもない。
何かを解決する必要があったわけでもない。
ただ、自分たちがそうしたかったから、そうしていただけだ。
それなら、こういう日があってもいいんじゃないかな。
僕は隣を見る。
フィオナは、夕暮れの町を眺めていた。
その表情は、とても穏やかだった。
最初に出会った頃の彼女を思い出す。
あの時は、何を考えているのか分からないことも多かった。
いつもどこか緊張していて、自分の希望を話すこともほとんどなかった。
でも、今は。
自分の好きなものを選んで。
行きたい場所を話して。
もう少しここにいたいと、言ってくれる。
……うん。
少しずつだけど、変わってきたんだなあ。
「……カイル様?」
「ん?」
「どうかされましたか?」
「ああ、いや」
僕は少し笑った。
「今日は誘ってよかったなって思ってさ」
フィオナが、こちらを見る。
「……私も」
「うん?」
彼女は少しだけ言葉を探すように間を置いた。
それから、静かに続けた。
「今日、ご一緒できてよかったです」
「……そっか」
何だか、胸の奥が少し温かくなった。
「うん。僕もだよ」
そう答えると、フィオナは柔らかく微笑んだ。
その笑顔を見ながら、僕は思う。
きっと、これからも忙しい日は続くんだろう。
町はまだまだ大きくなるだろうし、考えなければならないことだって増えていくはずだ。
それでも。
たまには、こうして何もしない日を作りたい。
仕事のことを忘れて。
町のことも、少しだけ忘れて。
ただ、隣にいる人と同じ時間を過ごす。
そんな日が、もっとあってもいいと思う。
風が吹いた。
草が静かに揺れ、フィオナの銀色の髪がさらりと流れる。
今度は葉っぱも絡まなかった。
僕らは顔を見合わせ、何となく笑った。
夕陽が、ゆっくりと沈んでいく。
町の灯りが、一つ、また一つと増えていく。
その景色を、僕らは並んで眺めていた。
何かを話さなければならないわけでもなく。
どこかへ急ぐ必要もなく。
ただ、もう少しだけ。
この時間が続けばいいなと、思いながら。
実はこういう話が一番好きです。




