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花咲く辺境の第六皇子  作者: じゃこー
第二章 辺境に芽吹く
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第三十一話 町の味

 まとまった量の茶を出荷してから、数日が経った。


 最近の町は、以前より少しだけ賑やかになった気がする。


 市場には見慣れない荷馬車が増え、通りを歩いていると、知らない顔を見かけることも多くなった。


 もっとも、まだ商人が大勢押し寄せるほどではない。


 それでも、少し前までほとんど同じ顔ぶれしか見なかったことを考えると、随分と変わったものだ。


 そして何より。


 最近の僕には、一つ嬉しいことがある。


「……平和だなあ」


 朝食を終えた僕は、椅子の背にもたれながら呟いた。


 窓の外では、柔らかな日差しが庭を照らしている。


 鳥の声が聞こえ、風に揺れる木々の葉が小さく音を立てていた。


 茶畑はマルクたちが管理している。


 加工場はミレアたちに任せられるようになった。


 木箱の製造だって、バルトが他の職人たちと協力して進めている。


 つまり。


「ようやく僕の出番も減ってきたんじゃない?」


「そうですね。皆さん、随分と仕事に慣れてきたようですから」


 向かいに座っていたフィオナが頷く。


「でしょ? このままいけば、僕が何もしなくても町が回るようになるかも」


「それは良いことだと思います」


「だよねえ」


 珍しく意見が一致した。


 ……いや、最近は別に珍しくもないか。


 フィオナも、僕が何を目指しているのか分かってくれている。


 だからこそ、こうして町の人たちが自分で動き始めていることを、一緒に喜んでくれるのだろう。


「じゃあ今日は、久しぶりにゆっくりしようかな」


「書類の確認は終わっているのですか?」


「……午前中には終わると思う」


「では、それが終わってからですね」


「うん。そうする」


 そんな話をしていた時だった。


 食堂の扉が開き、ふわりと甘く香ばしい匂いが漂ってきた。


「……ん?」


 思わず顔を上げる。


 扉の向こうから、一人の女性が小さな皿を持って入ってきた。


「殿下、まだいらっしゃいましたか」


「あ、ナディア」


 屋敷の料理人、ナディアだった。


 普段から厨房を取り仕切っている、明るくて世話好きな女性だ。


 料理の腕はもちろん、食材の扱いにも詳しく、茶作りを始めた頃には何度も厨房を貸してもらった。


 そのたびに少し呆れられていた気もするけど。


「ちょうどよかったです。少し味を見ていただきたいものがありまして」


「味見?」


「ええ。新しく作ってみたんです」


 ナディアが皿を机の上に置いた。


 そこには、小さく丸い焼き菓子がいくつか並んでいた。


 表面はこんがりと焼けていて、ところどころに赤茶色の粒が混ざっている。


「お菓子?」


「はい。麦粉を使って焼いたものです。中には、乾燥させた山の実を刻んで混ぜてあります」


「へえ。おいしそう」


「よろしければ、お茶と一緒にどうぞ」


 そう言って、ナディアは別の盆から二つの器を取り出した。


 湯気と一緒に、柔らかな香りが立ち上る。


「あれ、これって」


「はい。皆さんが作った茶ですよ」


「香りの強い方だよね?」


「ええ。こちらの方が合うと思いまして」


 ナディアは少し得意げに笑った。


「まずは食べてみてください」


「じゃあ、いただきます」


 焼き菓子を一つ手に取る。


 表面は少し硬いけれど、中は思ったより柔らかかった。


 噛むと、麦の香ばしさと、山の実のほのかな甘酸っぱさが広がる。


「……お」


 おいしい。


 派手な甘さではないけれど、噛むほど味が出てくる。


「これ、結構好きかも」


「本当ですか?」


「うん。甘すぎないし、食べやすい」


「ありがとうございます」


 続けて茶を一口飲む。


 すると、口の中に残っていた焼き菓子の香ばしさが、茶の柔らかな香りと一緒に広がった。


「……あれ?」


 もう一口。


 それから、もう一度焼き菓子を食べる。


「なんか、一緒に食べた方がおいしくない?」


「そうなんです!」


 ナディアが嬉しそうに声を上げた。


「そこを考えていたんですよ!」


「なるほどねえ」


 フィオナも焼き菓子を口に運ぶ。


 ゆっくりと味わってから、茶を飲んだ。


「……確かに、よく合いますね」


「でしょう?」


「山の実の酸味が、茶の香りとよく合っていると思います」


「ありがとうございます」


 ナディアは満足そうに頷いた。


「実は、もう一つあるんですよ」


「まだあるの?」


「ええ。こちらも試していただけますか?」


 今度出てきたのは、薄く焼いた麦のパンだった。


 表面には細かく砕いた木の実が散らされていて、少し塩気のある香りがする。


「こっちは甘くないんだ」


「はい。こちらには、もう一種類の茶を合わせてみてください」


「渋みのある方?」


「そうです」


 言われた通りに食べてみる。


 焼いた麦と木の実の香ばしさに、ほんの少し塩気がある。


 そこへ茶を流し込むと、口の中がすっきりした。


「ああ、こっちもいいね」


「私は、こちらの組み合わせも好きです」


 フィオナが言う。


「食事に近い味なので、普段から食べられそうですね」


「そうなんですよ」


 ナディアが頷く。


「甘いものは毎日食べるには少し贅沢ですけど、こちらなら材料も揃えやすいですから」


「確かに、砂糖って高いもんね」


「ええ。町の外から買わなければなりませんから」


 ナディアが最初の焼き菓子を指差す。


「こちらも、できるだけ砂糖を使わずに作っているんです。山の実の甘みを生かせば、それほど必要ありませんから」


「なるほどなあ」


 前に市場を見て回った時も、砂糖は随分と高かった。


 それを大量に使うお菓子では、普通の町の人たちが気軽に買うのは難しいだろう。


「でも、どうして急にお菓子を作り始めたの?」


 僕が聞くと、ナディアは少し笑った。


「殿下たちが楽しそうに茶を作っていらしたので、私も何かできないかと思いまして」


「僕ら、そんな楽しそうだった?」


「ええ。厨房が使えなくなるくらいには」


「あはは……」


 それは申し訳ない。


「それに、せっかくおいしい茶ができたんです。飲むだけじゃなくて、食事と一緒に楽しめたらもっと良いでしょう?」


「うん。それは僕もそう思う」


「だから、少し試していたんですよ」


 ナディアは皿の上の焼き菓子を見た。


「ただ……」


「ん?」


「できれば、これを屋敷の中だけで終わらせたくないんです」


     ◇


「屋敷の外?」


「はい」


 ナディアが頷く。


「町の人たちにも食べてもらえたらと思いまして」


「もちろんいいと思うよ。みんなにも配ってみる?」


「いえ、そうではなくて」


「違うの?」


「できれば、町のお店で出してみたいんです」


「……お店?」


「はい。市場の近くに、知り合いがやっている食堂があるんです。そこへ持っていって、一緒に出してもらえないか相談したいと思っていまして」


「ああ!」


 なるほど。


「茶と一緒に売るってこと?」


「そうです」


「それ、いいじゃん!」


 思わず身を乗り出す。


「僕ら、今まで町の外に売ることばっか考えてたけど、別に町の中で売ってもいいんだもんね」


「ええ。私もそう思いました」


 フィオナが頷く。


「町の人たちにも、普段から楽しんでいただけると良いですね」


「でしょう?」


 ナディアは嬉しそうだった。


「それに、外へ売る茶が増えれば、町の中でも飲みたい人は増えると思うんです」


「確かに」


 今まで茶を飲んでいたのは、主に屋敷や加工場の関係者だった。


 町の人たちも試飲はしているけれど、まだ気軽に買って飲める場所があるわけじゃない。


「じゃあ、食堂で試してみようか」


「よろしいのですか?」


「もちろん。ただ、ナディアも屋敷の仕事があるでしょ? そっちは大丈夫?」


「ええ。厨房の仕事に支障が出ないよう、時間は調整します」


「それならいいと思う」


 ナディアがほっとしたように笑った。


「ありがとうございます、殿下」


「でも、僕に許可を取るようなことでもないと思うけどね」


「そうでしょうか?」


「だって、ナディアが考えた料理なんでしょ? 僕が口出しするより、ナディアがやりたいようにやった方がいいんじゃない?」


 そう言うと、ナディアは少し目を丸くした。


 それから。


「……そうですね」


 嬉しそうに頷いた。


「では、遠慮なくやらせていただきます」


「うん。楽しみにしてるよ」


     ◇


 それから三日後。


 僕とフィオナは、町の市場を歩いていた。


 空は薄く曇っているものの、雨の気配はない。


 通りには買い物客が行き交い、店先からは威勢のいい声が聞こえてくる。


 以前より荷馬車が増えたせいか、道の端には荷物を積み下ろす人の姿もあった。


「……なんか、今日は人が多いね」


「そうですね。商人の方も何人かいらしているようです」


「前は、見慣れない馬車が来るだけでちょっと珍しかったのに」


「少しずつ変わってきていますね」


「うん」


 そんな話をしていると、前方から声が聞こえてきた。


「殿下!」


「あれ?」


 声のした方を見る。


 市場の一角にある食堂の前で、ナディアが手を振っていた。


「お、いたいた」


「お待ちしておりました」


「どう? 準備はできた?」


「ええ。ちょうど始めるところですよ」


 店の前には、小さな木の看板が置かれていた。


 そこには、茶と焼き菓子を一緒に楽しめることが書かれている。


「へえ、看板まで作ったんだ」


「お店の方が用意してくださったんです」


「なるほどね」


 食堂の中に入る。


 昼食の時間は少し過ぎていたけれど、何人か客が座っていた。


 奥では店主が料理を作っていて、手前の机には焼き菓子が並んでいる。


「殿下、いらっしゃいませ」


 店主がこちらに気づき、声を掛けてきた。


「お邪魔します。今日はよろしくね」


「こちらこそ。ナディアから話を聞いた時は驚きましたよ」


「何が?」


「殿下のところで作った茶を、うちでも出せるなんて思っていませんでしたから」


「ああ、そういうこと」


 僕は笑う。


「別に屋敷専用の茶ってわけじゃないからね。むしろ、たくさんの人に飲んでもらえた方が嬉しいよ」


「それはありがたいです」


 店主も笑った。


 ナディアによると、今日は試験的に少量だけ用意したらしい。


 茶は加工場から必要な分を仕入れ、焼き菓子はナディアと店主が相談して作ったものだという。


「じゃあ、僕らも何か頼もうかな」


「ええ、ぜひ」


「フィオナはどっちにする?」


「私は、香りの強い茶と焼き菓子をいただこうと思います」


「じゃあ僕は渋い方と、あの薄いパンにしようかな」


「かしこまりました」


 席に座る。


 窓の外には市場の通りが見え、行き交う人たちの声が聞こえてきた。


 少し前まで、ここはごく普通の食堂だった。


 もちろん今もそうなのだけれど。


 今日は、いつもと少し違う香りがする。


 湯気とともに漂う茶の香りだ。


「……なんか不思議だね」


「何がですか?」


「屋敷でも加工場でもないのに、茶の匂いがする」


「そうですね」


 フィオナが店内を見回す。


「町のお店で出しているのですから、当然ではありますが」


「うん。でも、まだちょっと慣れないなあ」


 そんな話をしていると、隣の席から声がした。


「お、殿下もそれを飲むんですか?」


「ん?」


 見ると、見覚えのある町の男性がこちらを見ていた。


「うん。せっかくだからね」


「俺もさっき飲んでみたんですが、なかなかいいもんですねえ」


「本当?」


「ええ。特にこっちの渋い方が好きですな。食事の後に飲むと、口の中がさっぱりします」


「ああ、それ分かる」


「殿下たちが作ったんでしょう?」


「最初は僕らも作ってたけど、今は加工場のみんなが作ってるよ」


「そうなんですか」


 男性が感心したように頷く。


「いやあ、随分と立派なものができたもんですね」


「ありがとう」


 僕がそう言うと、男性は嬉しそうに笑った。


 少しして、別の客が店に入ってきた。


「おい、ここで新しい茶が飲めるって聞いたんだが」


「ああ、出してるよ。そこの席に座ってくれ」


 店主が答える。


 どうやら、話を聞いて来たらしい。


「……もう噂になってるんだ」


「そうみたいですね」


 フィオナが少し驚いたように言う。


 その後も、一人、また一人と客が入ってきた。


 最初は茶を試してみたいという人が多かったけれど、焼き菓子を見て一緒に注文する人も増えていく。


「お、これうまいな」


「甘さが控えめで食べやすいね」


「俺はもう少し甘い方が好きだけどなあ」


「このパン、茶と合うじゃないか」


 店内のあちこちから、そんな声が聞こえてきた。


 ナディアは時々客に話を聞きながら、何かを小さな紙に書き留めている。


「……あれ、ナディア何してるんだろ」


「感想を聞いているようですね」


「ああ、なるほど」


 しばらく眺めていると、ナディアがこちらへやってきた。


「殿下、お味はいかがですか?」


「うん。やっぱりおいしいよ」


「ありがとうございます」


「でも、みんな結構好みが違うんだね」


「そうなんですよ」


 ナディアは楽しそうに頷いた。


「香りの強い茶を好む方もいれば、渋みのある方が良いという方もいらっしゃいますし、お菓子も同じです」


「甘さが足りないって言ってる人もいたね」


「ええ。でも、今の材料ではこれくらいがちょうどいいと思っています」


「砂糖が高いから?」


「それもあります。甘くするのは簡単ですけど、その分だけ値段を上げなければなりませんから」


「ああ……」


 それはそうだ。


 おいしいものを作れても、買ってもらえなければ商売にならない。


「それに、毎日食べるものなら、あまり高くない方がいいでしょう?」


「うん。僕もそう思う」


「ただ、もう少し工夫はできそうですね」


 ナディアが手元の紙を見る。


「焼く時間を変えたり、使う実を少し変えたり。色々試してみたいです」


「楽しそうだね」


「ええ。とても」


 その返事は、迷いのないものだった。


「自分の作ったものを、おいしいと言ってもらえるのは嬉しいですから」


「……そっか」


「それに、料理って食べてもらって初めて分かることも多いんですよ」


 ナディアが店内を見る。


 茶を飲みながら話している人。


 焼き菓子を分け合う人。


 もう一皿注文しようか悩んでいる人。


「私はおいしいと思っていても、食べる人がどう感じるかは分かりませんからね」


「なるほどなあ」


「だから、こうして直接感想を聞けるのは楽しいんです」


 ナディアは、少し照れたように笑った。


「屋敷の厨房では、なかなかできないことですから」


 それを聞いて、何となく納得した。


 ナディアはずっと屋敷で料理を作ってきた。


 もちろん僕らも感想は伝えていたけれど、それだけでは分からないこともあるのだろう。


 色々な人が食べて。


 それぞれ違うことを言って。


 その中から、次に作るものを考える。


 きっと、そういうことが好きなんだ。


「じゃあ、またやろうよ」


「え?」


「こういうの。今日だけじゃなくてさ」


 僕が言うと、ナディアが少し驚いたような顔をした。


「……よろしいのですか?」


「もちろん。町の人も喜んでるし、ナディアも楽しそうだしね」


「ありがとうございます」


 ナディアが嬉しそうに笑う。


「ただ、毎回私がここへ来るわけにもいきませんからね」


「ああ、屋敷の仕事もあるもんね」


「ええ。ですから、こちらのお店の方にも作り方を覚えていただこうと思っています」


「それいいね」


「材料の分量や焼き方をまとめておけば、ほかのお店でも作れるようになるでしょうし」


「……なんか、ミレアと似たようなこと言ってる」


「あら、そうですか?」


「うん。茶を作る時も、誰が作っても同じ味になるようにしてたからさ」


「それは料理も同じですよ」


 ナディアが笑う。


「お店で出すなら、いつ来ても同じものが食べられる方がいいでしょう?」


「確かに」


 そう考えると、町で売るものを作るって結構大変だ。


 ただ、おいしいものが一つできればいいわけじゃない。


 同じものを作り続けられて。


 材料が手に入って。


 買ってもらえる値段で。


 それを作る人がいて。


 ようやく、一つの商売になる。


「……みんな、すごいなあ」


「どうされました?」


「いや、僕だったらおいしいもの作れた時点で満足しちゃいそうだなって」


 ナディアが笑う。


「それも一つの楽しみ方だと思いますよ」


「そう?」


「ええ。でも、私はできれば、もっとたくさんの人に食べてもらいたいんです」


 そう言って、また店の方へ戻っていった。


     ◇


 その日の試験販売は、予想していたよりも好評だった。


 用意していた焼き菓子は夕方になる前に売り切れ、茶もほとんど残らなかったらしい。


 もっとも、何も問題がなかったわけではない。


「うーん……」


 店の奥で、ナディアが帳面を見つめていた。


「どうしたの?」


「少し計算をしていたんです」


「計算?」


「ええ。今日売れた分と、使った材料の量を比べていまして」


「ああ、売上か」


「そうです」


 ナディアが頷く。


「今日は試しなので材料を少し多めに用意したんですが、このまま毎日続けるなら、もう少し考えないといけませんね」


「何か問題あった?」


「山の実です」


「山の実?」


「ええ。今は保存していたものを使っていますけど、いつでも同じ量が手に入るわけではありませんから」


「ああ……そうか」


 森で採れるものにも季節がある。


 採れない時期になれば、当然使えなくなる。


「それに、乾燥させたり保存したりする手間もありますからね。材料代だけで値段を決めるわけにもいきません」


「なるほどねえ」


 店主も横から頷いた。


「それから、今日は少し厨房が忙しかったですね」


「そうなの?」


「ええ。普段の食事を作りながら焼き菓子まで用意するとなると、今の設備では少し大変でして」


「じゃあ、毎日やるなら作り方も考えないと駄目か」


「そうなりますね」


 僕は少し考える。


 おいしいから売れる。


 でも、売れるからこそ作るのが大変になる。


 ……何だか、最近どこかで聞いた話だ。


「また同じことになってない?」


「何がですか?」


 フィオナがこちらを見る。


「茶が売れた時もさ、売れたのは嬉しいけど作る量が足りないってなったじゃん」


「そうでしたね」


「今回はお菓子が売れたけど、今度は材料と厨房が足りないって」


「……確かに、似ていますね」


 フィオナも少し口元を緩めた。


「商売というのは、そういうものなのかもしれません」


「嬉しいけど、忙しくなるんだねえ……」


「殿下」


 ナディアが笑う。


「今日はまだ、私たちが少し試しただけですよ」


「……あ」


「これからどうするかは、お店の方とも相談して決めますから」


「そっか」


 そうだった。


 今回、僕が何かを始めたわけじゃない。


 ナディアが考えて。


 食堂の店主と相談して。


 自分たちで試してみた。


 だから、これからどうするかも、まずは本人たちが考えればいい。


「じゃあ、僕は応援してるよ」


「ありがとうございます」


「何か困ったことがあったら相談してね」


「ええ。その時はお願いします」


 ナディアが笑った。


 その後も、二人は材料の仕入れ方や作業の分担について話し合っていた。


 今度は地元の農家に、果実の保存について聞いてみようという話も出ている。


 マルクにも相談してみるらしい。


 ……あれ。


 また僕の知らないところで、話が繋がっていきそうだな。


     ◇


 食堂を出た頃には、夕方になっていた。


 市場では店じまいを始める人もいるけれど、通りにはまだ多くの人が行き交っている。


 少し離れた場所では、荷馬車を止めようとしていた商人と、通りを歩いていた男性が何やら言い合っていた。


「だから、ここに止められたら通れないって言ってるだろ!」


「荷物を降ろすだけだ! すぐ済む!」


「さっきからそう言ってるじゃないか!」


 周囲の人たちも困った様子で足を止めている。


「……あれ、大丈夫かな」


「少し様子を見ましょうか」


 フィオナがそちらへ視線を向ける。


 けれど、僕らが近づく前に、近くの店主が二人の間に入った。


「まあまあ、そんなところで喧嘩するなよ。荷物なら向こうの空き地で降ろせるだろ?」


「ああ、そうなのか?」


「そうだよ。こっちの道を塞がれると困るんだ」


「……分かった。悪かったな」


 商人が馬車を動かす。


 通りはすぐに元の賑わいを取り戻した。


「……なんか、こういうのも増えそうだね」


「そうですね」


「商人が増えるのはいいけど、道が混むのは困るなあ」


「今後は、荷物を積み下ろす場所も考えた方がよいかもしれません」


「そうだね。今はまだ何とかなってるけど」


 少し前まで、こんなことを考える必要すらなかった。


 そもそも荷馬車がほとんど来なかったから。


 でも、これからは違う。


 人が増えれば。


 物も増える。


 それに合わせて、新しい問題も出てくるのだろう。


「……町が大きくなるって、結構大変なんだなあ」


「ですが、良い変化もたくさんありますよ」


「うん。それはそうだね」


 フィオナの言う通りだ。


 今日だって、今までなかったものが一つ生まれた。


 町の人たちが、茶を飲みながら食事を楽しむ場所。


 それはきっと、この町にとって良い変化なんだと思う。


     ◇


 屋敷へ戻る途中、僕らはもう一度市場の方を振り返った。


 空は夕焼けに染まり、家々の屋根が柔らかな橙色に照らされている。


 通りの向こうでは、仕事を終えた人たちが連れ立って歩いていた。


 店先からは夕食の支度をする匂いが漂い、どこかで子供の笑い声が聞こえる。


 その中に。


 ふわりと、あの香りが混ざっていた。


「……あれ?」


「どうされました?」


「茶の匂いしない?」


 フィオナも少しだけ足を止める。


「……そうですね」


 風上を見る。


 さっきまで僕らがいた食堂の窓から、白い湯気が上がっていた。


 どうやら、まだ茶を出しているらしい。


「ああ、そっか」


 思わず笑ってしまう。


「何だか、ちょっと不思議だね」


「何がですか?」


「今まではさ、茶の匂いがする場所って屋敷か加工場くらいだったでしょ?」


「そうですね」


「それが、今は普通のお店からもするんだなって」


 フィオナが食堂の方を見る。


 窓の向こうには、茶を飲みながら話している人たちの姿があった。


 机の上には、小さな焼き菓子の皿も置かれている。


「町の人たちにも、少しずつ広がっているのですね」


「うん」


 最初は、この町で売れるものを作りたいと思っただけだった。


 商人が来てくれるように。


 町の外からお金が入ってくるように。


 そのために、茶を育ててみた。


 でも今は。


 茶を作る人がいて。


 それを運ぶ箱を作る人がいて。


 その茶に合う料理を考える人まで現れた。


 そして、町の人たちがそれを楽しんでいる。


「……なんか、いいね」


「はい」


 フィオナが頷く。


「私も、そう思います」


 その声は、とても穏やかだった。


 僕はもう一度、食堂の方を見る。


 窓の向こうで、誰かが茶の器を持ち上げた。


 隣にいた人が何かを言い、二人で笑っている。


 きっと、あの人たちにとっては何でもない時間なんだろう。


 仕事が終わって。


 少し休んで。


 おいしいものを食べながら、誰かと話す。


 ただ、それだけのこと。


 でも。


 そういう時間が増えていくなら、この町はきっと今よりもっと暮らしやすい場所になる。


「……帰ろっか」


「はい」


 僕らは再び歩き出す。


 背後からは、まだ市場の賑わいが聞こえていた。


 夕暮れの風に乗って、麦の香ばしさと茶の柔らかな香りが漂ってくる。


 それは、ほんの少し前までこの町にはなかった香りだった。


 そして今では。


 誰かの一日の終わりに、当たり前のように溶け込み始めていた。

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