第二十八話 使えなかった斜面
翌朝。
昨日までより少し早く屋敷を出ると、町の向こうにはまだ薄い霧が残っていた。
空は明るくなり始めているけれど、斜面の下や森の近くには白い靄が溜まっている。
少し前なら、こういう朝を見るたびに天気が悪いと思っていた。
今はむしろ、茶のことが頭に浮かぶ。
「なんか見方が変わったなあ」
「何がですか?」
隣を歩いていたフィオナがこちらを見る。
「あの霧、前まではまた曇ってるなって思ってたけど、今は茶に良さそうだなって思う」
「この土地の特徴を知ったからでしょうね」
「同じ景色なのにね」
「知らなければ、気づけないこともありますから」
「それはそうかも」
町の外れまで行くと、昨日から茶作りを手伝ってくれている農家のマルクが待っていた。
その隣には、見覚えのある農家が二人いる。
「おはようございます、殿下」
「おはよう。二人は?」
「近くで畑をやってる連中です。茶畑を広げるって話をしたら、見に行きたいって」
「もう話したの?」
「昨日帰ってすぐに」
「早いなあ」
「注文が来てるんでしょう? だったら早い方がいいかと思いまして」
「それはそうなんだけどさ」
昨日の夕方まで、茶畑を増やさないといけないと悩んでいた。
それが一晩経ったら、もう手伝う人まで増えている。
「じゃあ、今日はよろしくね」
「こちらこそ」
フィオナが町の外へ視線を向ける。
「まずは、以前見た場所をいくつか確認してみましょう」
「前に土地調べた時のところ?」
「はい。茶に向いていそうな場所はいくつかありましたから」
「じゃあ任せるよ。僕はどこがいいか全然分かんないし」
「一緒に見ていたではありませんか」
「見てたけど、判断してたのほとんどフィオナだったでしょ?」
「それは……そうですね」
「だから今日は専門家についていきます」
「専門家ではありませんよ」
「僕よりは詳しいから十分」
フィオナは少し困ったような顔をしたけれど、それ以上は否定しなかった。
◇
最初に向かったのは、町からそれほど離れていない低い斜面だった。
草がまばらに生えていて、少し先には細い水路が流れている。
「ここなら近くて楽そうだけど」
「水は取りやすいですね」
フィオナがしゃがみ込み、土を指で掘る。
表面の土を避け、その下まで確認する。
「ですが、少し水が残りすぎています」
「湿ってるってこと?」
「はい。今朝雨が降ったわけではありませんから」
マルクも地面を見る。
「ここは昔、畑にしようとしたことがありますよ」
「そうなの?」
「ええ。ただ、雨の多い時期になると下の方に水が溜まるんです。根が傷みやすくて、結局使わなくなりました」
「茶も駄目そう?」
「今まで見た場所と比べると、あまり良くないと思います」
フィオナが立ち上がる。
「それに、この辺りは冷たい空気が溜まりやすそうです」
「霧があるから良いってわけでもないんだね」
「何でも多ければ良いというものではありません」
「難しいなあ」
最初の候補は保留。
次へ向かう。
◇
二つ目は、町から少し離れた南側の斜面だった。
こちらは一つ目とは逆で、かなり開けている。
「ここ、日当たり良さそうじゃない?」
「そうですね」
「水はけも悪くなさそうだな」
マルクも土を確認する。
「昔は何か作ってた?」
「少しだけです。ただ……」
その瞬間。
強い風が斜面を抜けた。
「うわ」
服の裾が大きく揺れる。
フィオナの銀色の髪も風に流れた。
「……なるほど」
「風です」
「だよね」
「常にこれくらい強いと、あまり良くないと思います」
周囲に風を遮る木もほとんどない。
地面も、一つ目より随分乾いていた。
「ここも違うかあ」
「育たないとは思いませんが、最初に試した斜面ほど条件は良くありませんね」
「じゃあ無理にここにする必要もないよね」
「はい」
僕らはまた歩き出した。
◇
三つ目の場所に着いたのは、それから少ししてだった。
町の北東側。
森へ続く丘の途中にある、緩やかな斜面だった。
低い木や草が生えている。
ところどころ石も見える。
平らな畑に比べれば、明らかに使いにくそうな土地だ。
「ここ?」
「はい」
フィオナが斜面を上がっていく。
僕らもその後を追った。
足元には、落ち葉が積もってできた柔らかい土がある。
その下は少し砂混じりで、水が溜まりにくそうだった。
斜面の横には森があり、風もさっきほど強くない。
それでも完全に遮られているわけではなく、葉がゆっくり揺れる程度には空気が流れている。
「ここは、何か作ってたの?」
僕が聞くと、マルクが首を横に振った。
「ほとんど何も」
「何も?」
「畑にするには斜めすぎるんですよ。石もありますし」
「なるほど」
「麦や野菜を作るなら、もっと平らで作業しやすい土地がありますからね。わざわざここを使う理由もありませんでした」
「じゃあ、今まで使い道なかったんだ」
「そうなりますな」
フィオナは少し先まで歩き、斜面の下を見る。
まだ朝の霧が薄く残っている。
「水はけは良さそうです」
「うん」
「森が近いので土も悪くありません。風も強すぎませんし、朝には霧も出ています」
「日差しは?」
「昼頃にはもう少し入ると思いますが、先ほどの場所ほど強くはならないでしょう」
聞けば聞くほど。
最初に茶がよく育った斜面に近い。
「……ここ、かなり良さそうじゃない?」
「私もそう思います」
「マルクは?」
急に名前を呼ばれたからか、マルクが少しだけ目を丸くした。
「俺ですか?」
「農家の意見も聞きたいし」
「そうですな……」
マルクは少し歩き、土を手に取る。
それから周囲を見回した。
「普通の畑なら、正直ここを選ぼうとは思いません」
「だよね」
「ですが、あの茶が斜面を好むなら話は別でしょう」
「じゃあ試してみる?」
「それが一番早いでしょうな」
「僕もそう思う」
◇
試験畑から、状態のいい茶の株をいくつか持ってきていた。
まだ本格的に植えるわけではない。
場所ごとの違いを見るための確認だ。
斜面の上。
中央。
少し下。
それぞれに植えてみる。
僕が土へ手を触れる。
魔力を流す。
根がゆっくりと土の中へ伸びていく。
新しい葉が開き。
枝が少しずつ増えた。
でも。
一気に大きくはしない。
今回は、この土地でどう育つのかを見るためだ。
「このくらいでいいかな」
「はい。十分だと思います」
フィオナが株の周りを見る。
「少し様子を見ましょう」
「すぐ全部植えなくていいの?」
「場所そのものはかなり良いと思いますが、斜面の上と下では条件が違います」
「ああ、さっきの湿気みたいな?」
「はい。実際に育ててみた方が確実です」
「了解」
前なら。
僕はたぶん、一番良さそうな場所を見つけた時点で全部植えていたと思う。
でも、ここ数日で少し学んだ。
同じ葉でも違う。
同じ時間でも違う。
同じ土地に見えても違う。
急いで広げて、後から全部やり直す方が面倒だ。
だったら最初に少し確認した方がいい。
「カイル様」
「ん?」
「少し成長されましたね」
「急にどうしたの?」
「以前でしたら、すぐ斜面一面に生やそうとされていた気がします」
「……僕も今ちょうど同じこと考えてた」
「そうでしたか」
「でも理由は『やり直す方が面倒だから』だけどね」
「やはりカイル様ですね」
「そこ呆れるところ?」
「褒めています」
「本当に?」
「半分ほどは」
「半分かあ……」
マルクたちが笑っていた。
◇
その後も、いくつかの場所を見て回った。
結果として。
最初の大きな斜面と、その奥にある二つの土地を候補にすることになった。
どれも、これまではほとんど利用されていない場所だった。
「これだけあれば、注文分は足りそう?」
町へ戻る途中、マルクに聞く。
「すぐ全部を茶畑にする必要はありませんよ」
「そうなの?」
「まずは必要な分だけ広げて、売れ行きを見ながら増やした方がいいでしょう」
「ああ、それもそうだね」
「それに、茶だけ作るわけにもいきませんから」
「うん。それは僕も思ってた」
茶が売れたからといって、町の畑を全部茶に変えるなんてできない。
麦も。
野菜も。
家畜の餌も。
ここで暮らしていくためには必要だ。
「普通の畑に向いてる土地は今まで通り使って、茶はこういう斜面に植えればいいのか」
「そうできれば理想ですな」
「今まで使ってなかった場所なら、他の畑を減らさなくてもいいしね」
「ええ」
ふと、振り返る。
さっき見た斜面が遠くに見えた。
今まで誰も畑にしようと思わなかった土地。
斜めで。
霧が出て。
日当たりもそれほど強くなくて。
普通の作物には使いにくかった場所。
少し前なら。
たぶん、僕も「使いにくい土地だな」で終わっていた。
でも今は違う。
「なんか面白いね」
「何がですか?」
フィオナが聞く。
「あそこ、今まで使えない場所だったんでしょ?」
「そうですね」
「なのに茶には向いてる」
「ええ」
「土地そのものが悪かったわけじゃなかったんだね」
向いているものを、知らなかっただけ。
それだけだった。
フィオナが少しだけ後ろを振り返る。
「以前、私が言ったことと同じですね」
「何だっけ?」
「今まで育てていたものと、相性が悪かっただけかもしれない、と」
「ああ」
思い出した。
この土地に何が足りないのかではなく。
何があるのかを見る。
そこから始めた。
「本当にそうだったんだなあ」
「はい」
また少しだけ。
フィオナの表情が和らいだ。
◇
町へ戻った頃には、話がもう少し進んでいた。
「殿下、茶を植える場所が決まったって本当ですか?」
「……早くない?」
市場の近くで声を掛けてきたのは、別の農家だった。
「マルクから聞きまして」
「マルク?」
横を見る。
「途中で一人、町に戻しました」
「いつの間に」
「人手が必要になると思いましたので」
「みんな僕より先に動くようになってない?」
「良いことではありませんか?」
フィオナが言う。
「良いことだけど、ちょっと置いてかれてる感じするなあ」
「殿下が全部やる必要がなくなるんでしょう?」
マルクが笑う。
「確かに、それはかなりいいね」
「でしょう?」
集まってきた農家たちと簡単に話をする。
茶を植えるのは、これまで使っていなかった斜面を中心にする。
食料を作っている畑はなるべく減らさない。
最初から全部を植えるのではなく、必要な分から少しずつ広げる。
栽培方法は、今までの試験で分かったことをマルクたちが中心になって共有する。
僕の魔法は、最初の株を増やすためには使う。
でも、その後は。
できるだけ町の人たち自身で育ててもらう。
「それで大丈夫かな?」
僕が聞くと、何人かが顔を見合わせた。
最初に頷いたのはマルクだった。
「やってみましょう」
「うん。お願い」
「こちらこそ。新しい畑が持てるならありがたいですよ」
「畑っていうか斜面だけどね」
「今までは何にも使えなかった斜面です」
「ああ」
そうか。
僕らだけじゃない。
農家の人たちにとっても。
今まで価値がなかった場所が、仕事になる。
「じゃあ、明日から少しずつ始めようか」
「はい」
◇
夕方。
屋敷へ戻る前に、もう一度だけ町の外を見る。
遠くの斜面には、今日立てた目印の杭がいくつも並んでいた。
その周りでは、まだ何人かの農家が土地を見ている。
どこから道を通すか。
どこに水を流すか。
どこまでを最初の畑にするか。
そんな話をしているらしい。
「もう明日の相談してるね」
「ええ」
「僕、何も言ってないのに」
「皆さん、自分たちの仕事として考え始めているのでしょう」
「……そっか」
風が斜面を通り抜ける。
朝まで残っていた霧はもう消えていた。
今はまだ、草と低い木が生えているだけの土地。
茶畑と呼ぶには、何も始まっていない。
それでも。
並んだ杭を見ていると、そこに緑の列が続いていく景色がなんとなく想像できた。
今まで使えなかった場所が。
これから誰かの仕事になる。
町の外れに。
新しい畑が生まれようとしていた。




