第十九話 町を続けるために
屋敷を出ると、空は薄い雲に覆われていた。
雨が降りそうというほどではないけれど、青空が広がる気配もない。
この辺境へ来てから、こういう空を見ることが多い気がする。
「今日も曇りか」
「この辺りでは珍しくありませんね」
隣を歩くフィオナが空を見上げる。
「もっと晴れてほしいなあ」
「カイル様は晴れがお好きなのですか?」
「洗濯物も乾くし、道もぬかるまないし」
「理由が随分と生活寄りですね」
「暮らしてるんだから大事でしょ」
「それはそうですが」
そんな話をしながら、坂を下って町へ向かう。
屋敷へ来たばかりの頃に比べれば、この道も随分歩きやすくなった。
最初は雨が降るたびに泥だらけになっていたけれど、排水用の溝を作って、崩れやすい場所には石を敷いたことで多少ましになっている。
もちろん、立派な街道と呼べるほどではない。
それでも、荷車が車輪を取られる回数は減ったらしい。
「おはようございます、カイル様」
途中ですれ違った男性が頭を下げる。
「おはよう」
以前、道の修繕を手伝ってくれた人だった。
少し離れたところでは、二人の男が溝に溜まった落ち葉を取り除いている。
僕が頼んだわけじゃない。
町の人たちで決めて、定期的に掃除することにしたらしい。
「ちゃんと続いてるね」
「排水路ですか?」
「うん」
作っただけで放っておけば、すぐに詰まる。
でも今のところは大丈夫そうだ。
「皆さん、自分たちで管理されていますから」
「こういうのが増えると楽なんだけどなあ」
「やはりそこなのですね」
「大事だって」
フィオナが小さく笑う。
でも、本当に大事なことだった。
僕がいなければ何もできない町では困る。
それは僕が面倒だからというだけじゃない。
もちろん、それもあるけど。
◇
町の中央へ入ると、以前より人の姿が増えていた。
人口そのものが増えたわけではない。
道が少し良くなり、水の問題も落ち着いたことで、外に出て動く人が増えたのだと思う。
小さな広場の端では、野菜や干し肉を並べた露店がいくつか出ていた。
「お、殿下」
声を掛けてきたのは、以前も何度か話した店主だった。
「今日は何か買っていかれますか?」
「まだ何も決めてない」
「でしたら、これなんてどうです?」
差し出されたのは、小さな赤い実だった。
「何これ?」
「山の方で採れたもんです。酸っぱいですけど、煮るとそこそこ食えますよ」
「そこそこなんだ」
「砂糖があればもっと美味いんですがねえ」
「砂糖か」
値段を聞いてみる。
思っていたより高かった。
「やっぱり高いね」
「この辺じゃ作れませんからね。商人が来た時に買うしかないんで」
「最近、商人は?」
「前よりは来ますよ。ただ、まだ月に何度かってところです」
店主は肩を竦める。
「向こうも、わざわざここまで来て売れるもんが少ないですから」
「帰りに持っていくものもないしね」
「そういうことです」
なるほど。
商品を持ってきても、帰りが空荷では効率が悪い。
少しくらい道を直したところで、それだけで商人が増えるわけじゃない。
「ありがとう」
「いえいえ」
店を離れてから、さっきの言葉を思い返す。
「帰りに持っていくものがない、か」
「気になりますか?」
「うん」
町で暮らすだけなら、ある程度は何とかなる。
畑があって、森があって、水もある。
最低限の食料や薪なら、自分たちで用意できる。
でも、それだけでは町の中だけで物が回り続けることになる。
「フィオナ」
「はい」
「この町って、外に何売ってる?」
「木材や毛皮はありますね」
「それくらい?」
「薬草も少量なら」
「でも、町を支えるほどじゃないよね」
「そうですね」
木材は重い。
道が悪ければ運ぶだけで大変だし、森を切り尽くすわけにもいかない。
毛皮や薬草も安定して大量に取れるものではない。
「暮らせるようにはなってきたけど、これじゃ増えないんだよなあ」
「増えない?」
「人も、お金も、できることも」
フィオナがこちらを見る。
「今やってるのって、壊れてたものを直してるだけなんだよ」
水が出なかったから、水を戻した。
道がひどかったから、通れるようにした。
畑の状態が悪かったから、少しずつ改善した。
どれも必要なことではある。
でも、それで新しい価値が生まれたわけではない。
「今までは、悪いところを普通に戻してた感じ」
「では、これからは?」
「普通より先に行きたい」
言ってみてから、少しだけ大げさだった気がした。
「……まあ、すごい町にしたいとかじゃないけど」
「今、少し格好よく聞こえたのですが」
「忘れて」
「もう聞きました」
フィオナが笑う。
僕も少し笑ってから、辺りを見回す。
「何か、この町でしか作れないものがあればいいんだけど」
「この町でしか?」
「うん。ここに来ないと手に入らないとか、ここで作った方がいいとか」
それがあれば、外から商人が来る理由になる。
売れればお金が入り、仕事も増える。
仕事があれば、人も増やせるかもしれない。
「簡単に言うけど、それが分かれば苦労しないんだよなあ」
「そうですね」
フィオナも周囲を見る。
すぐ近くにあるのは、小さな市場と、古い建物と、遠くまで続く畑。
見るだけで価値が分かるような特別なものはない。
◇
次に向かったのは、水路だった。
以前魔物がいた上流から水を戻して以降、町の人たちが少しずつ補修を続けている。
僕が最初に根を使って応急的に支えた場所も、一部は木材や石に置き換えられていた。
「ここも変わったね」
「カイル様の根を、そのまま使い続けるわけにはいきませんから」
「枯れたら困るもんね」
「ええ」
作業をしていた男性に聞くと、今のところ大きな問題はないらしい。
ただし、水量が増える時期にはまだ不安が残るという。
「大雨が来たら、この辺はもう一回補強した方がいいな」
「それもカイル様が?」
「最初はね」
完全に任せられるところまでは、まだ時間が掛かる。
だから、少しずつでいい。
僕が最初の形を作って、町の人が自分たちで維持できる形に変えていく。
今の水路みたいに。
「全部こうなればいいんだけど」
「全部?」
「僕が最初だけ手伝って、後は町の人たちで続けられるようにする」
「カイル様が以前仰っていたことですね」
「うん」
フィオナが補修された水路へ目を向ける。
「その方が、長く続くと思います」
「でしょ?」
「ただ」
「ただ?」
「カイル様が楽をしたいという理由も、かなり含まれていますよね」
「否定はしない」
「しないのですね」
そこを否定すると嘘になる。
◇
水路を離れ、今度は畑の方へ向かう。
冬に向けた準備が始まっていて、収穫を終えた区画では土を整える作業が行われていた。
以前フィオナが確認した通り、土地そのものが完全に駄目なわけではない。
ただ、場所によって水分量や土の質にかなり差があり、育てる作物を間違えれば簡単に収穫量が落ちる。
「今年の冬は越せそう?」
畑にいた男性へ尋ねると、彼は少し考えてから頷いた。
「前よりはだいぶ楽です。倉庫も直してもらいましたし」
「食料は?」
「ぎりぎりってほどではないです。ただ、余裕があるかと言われると……」
「まだそこまでは、か」
「はい」
今あるものを食べて、生きていく。
そこからさらに、外へ売るだけの余裕を作るとなれば話は別になる。
「ありがとう」
畑を離れながら、ため息が出た。
「簡単じゃないね」
「初めから簡単だとは思っていなかったのでは?」
「思ってないけど、簡単だったら嬉しいじゃん」
「それはそうですね」
そこで気づく。
さっきからフィオナが、やけに足元を見ていた。
「何か落とした?」
「いえ」
「じゃあ何見てるの?」
フィオナは少し迷ってから、畑の土を示した。
「土です」
「土?」
「はい」
しゃがみ込み、指先で表面を軽く崩す。
湿った土が、小さくまとまって落ちた。
「昨日、雨降ったっけ?」
「夜に少しだけ」
「それでこんなに湿ってる?」
「この辺りは乾きにくいですね」
フィオナは立ち上がり、今度は風の吹く方向へ顔を向ける。
「風も?」
「ええ」
「さっきから何してるの?」
「少し、気になりまして」
「何が?」
フィオナはすぐには答えず、畑の向こうへ目を向けた。
その先には低い山があり、上の方には薄い霧が残っている。
「この土地のことを、もう少し見てみたいです」
「今まで結構見たと思うけど」
「畑や森は見ました」
「違うの?」
「はい」
フィオナは少し考えながら言葉を続ける。
「今までは、どうすれば作物を育てられるか、どこに問題があるかを見ていました」
「ああ」
「ですが今度は、逆に見てみたいのです」
「逆?」
「この土地が、何に向いているのか」
少しだけ意外だった。
これまでは確かに、悪いところを探していた。
水が多すぎる。
日照が足りない。
気温が低い。
霧が多い。
そんなものばかり。
「悪いところじゃなくて?」
「ええ」
フィオナが頷く。
「土地に合わないものを無理に育てるより、最初からこの環境を好むものを探した方がよいかもしれません」
「なるほど」
言われてみれば、その通りだ。
「何か思いついてる?」
「少しだけ」
「何?」
「まだ分かりません」
「えぇ」
「もう少し見てみないと」
「最近それ流行ってる?」
「何がですか?」
「分かりません、ってやつ」
「カイル様に言われたくありません」
即答された。
「僕そんなに言ってる?」
「かなり」
「そっかあ」
自覚はなかった。
フィオナはもう一度空を見る。
低い雲に、湿った空気。
山には薄い霧が残り、足元の土もまだ水分を含んでいる。
「明日、町の周りを少し見て回ってもよろしいですか?」
「もちろん」
「畑だけでなく、山の斜面や水の流れも確認したいです」
「僕も行く?」
「怪我が痛まないのであれば」
「もうほとんど平気」
「本当に?」
「最近その確認多くない?」
「必要ですので」
まだ完全には信用されていないらしい。
「じゃあ、一緒に行こう」
「はい」
フィオナは頷いた。
結局、その日は町を一通り歩いて屋敷へ戻ることになった。
売れるものは見つからなかったし、新しい仕事もすぐには思いつかなかった。
それでも、今までとは少しだけ見方が変わった気がする。
何が足りないのかではなく、ここには何があるのか。
明日は、それを探すことになりそうだった。




