第二話 護衛
奴隷市場を出た馬車は、帝都の大通りをゆっくりと進んでいた。
窓の外を、色とりどりの看板や行き交う人々が流れていく。
フィオナはその景色を横目に見ながら、向かい側に座る青年――カイルへと視線を戻した。
第六皇子。
何度頭の中で繰り返しても、いまいち実感が湧かない。
皇族と聞けば、豪華な衣服に身を包み、大勢の従者を引き連れているものだと思っていた。
しかし目の前の男は、先ほどから座席に深く腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「……暇だな」
ついにはそんなことまで呟いた。
フィオナは思わず眉を寄せる。
奴隷を買った直後にすることが、それなのだろうか。
「あ、そうだ」
カイルがこちらを向いた。
反射的に背筋が伸びる。
「喉、渇いてない?」
「……はい?」
「市場に結構長くいたんでしょ」
座席の脇に置かれていた鞄から、水筒を取り出す。
それを当然のように差し出され、フィオナは戸惑った。
「どうぞ」
「……私に?」
「他に誰がいるの」
「ですが」
「毒は入ってないよ」
「そのような心配をしているわけでは……」
していない、と言えば嘘になる。
フィオナは少し迷ってから水筒を受け取った。
一口だけ口に含む。
冷たい水だった。
それだけのことなのに、妙に身体へ染み込んでいく。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
カイルはそれ以上何も言わない。
フィオナは水筒を膝の上に置き、しばらくその蓋を眺めていた。
「……カイル様」
「ん?」
「先ほどのお話ですが」
「どれ?」
「領地へ向かわれるという話です」
「ああ」
カイルが嫌そうな顔をした。
それだけで、あまり良い土地ではないのだろうと察せられる。
「どのような場所なのですか?」
「僕もまだ行ったことない」
「……ないのですか?」
「ない」
堂々と言われた。
「資料なら読んだけどね。帝国の北東。山が多くて、森もかなり広いらしい。人口は少なめ。街道もあんまり整備されてない。あと魔物も多い」
「それは……」
「うん。だいぶ外れだと思う」
それを領地として与えられたというのだから、やはり先ほど言っていた「嫌がらせ」というのは冗談ではなかったらしい。
「なぜ、そのような場所へ?」
「兄上に嫌われてるから」
あっさりと言う。
フィオナは返答に困った。
「皇位継承って面倒なんだよ。僕は別に皇帝になりたくないんだけど、向こうからすると僕がどう思ってるかなんて関係ないみたいでさ」
「……皇位を望んでおられないのですか?」
「絶対嫌だ」
返事だけは早かった。
「僕、働きたくないんだよね」
「……」
「今、呆れた?」
「いえ」
「一瞬間があったけど」
「気のせいです」
カイルは笑った。
この人は、本当に皇子なのだろうか。
さっきから何度も同じ疑問が浮かんでくる。
「まあ、そういうわけで帝都から追い出されたんだ。でも、僕としては悪い話ばかりじゃない」
「と、申しますと?」
「兄上たちの顔を毎日見なくて済む」
実に晴れやかな顔だった。
「それに、自分の領地ならある程度好きにできるしね」
フィオナにはよく分からなかった。
貴族にとって、帝都から遠ざけられることは失脚に近いと聞く。
まして皇族ならなおさらだろう。
それを、この青年はどこか楽しそうに話している。
「だからさ」
カイルが座席の横へ手を伸ばした。
「フィオナにも手伝ってほしい」
「……私に?」
「護衛として買ったんだから当然でしょ」
「はい」
フィオナは小さく頷いた。
その言葉なら理解できる。
役目がある。
求められている働きがある。
ならば、それを果たせばいい。
今までと同じだ。
役に立てる限り、自分には価値がある。
「ということで、これ」
カイルが座席の下から細長い包みを取り出した。
フィオナの目が止まる。
形を見ただけで分かった。
「……弓?」
「正解」
布が解かれていく。
中から現れたのは、一本の長弓だった。
濃い褐色の本体には、銀色の装飾が細く走っている。
派手さはない。
だが、フィオナには一目で分かった。
これは、ただの弓ではない。
空気が違う。
弦に触れてすらいないのに、微かな魔力の揺らぎが伝わってくる。
「……まさか」
思わず身を乗り出した。
弓の中央。
握りのすぐ上に、小さな紋章が刻まれている。
三本の矢を束ね、その背後に星を描いた紋。
見間違えるはずがなかった。
「……ヘラクレス」
「知ってる?」
フィオナは顔を上げた。
「知っているも何も……」
エルフの里でも名を知らぬ者はいない。
神級武器職人が打ったとされる数少ない弓の一つ。
王侯貴族ですら金を積めば手に入るという品ではない。
現存していることさえ疑う者がいるほどの代物だ。
「なぜ、これを……」
「僕のだから」
「それは見れば分かります」
「怒られた」
フィオナは頭を押さえたくなった。
「そうではなく、なぜそのような物をお持ちなのですか」
「昔、ちょっとね」
またそれだ。
都合が悪くなると、この男は「ちょっと」で済ませるらしい。
「まあ、それは今度話すよ。それより持ってみて」
「……私が?」
「うん」
「これを?」
「うん」
フィオナは動かなかった。
何を言われているのか分からなかった。
「どうしたの?」
「……カイル様」
「はい」
「これはヘラクレスですよ」
「そうだね」
「神級武器です」
「うん」
「それを奴隷に持たせるおつもりですか?」
今度はカイルが黙った。
数秒。
「ああ」
何かに納得したように頷く。
「そこが引っかかってたのか」
「当然です」
「でも護衛に武器を持たせない方がおかしくない?」
「普通は奴隷に、このような武器を渡しません」
「普通の話されてもなぁ」
カイルは困ったように頬を掻いた。
「僕、弓使えないし」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ置物にしとく?」
「……」
「もったいなくない?」
この男と話していると、自分の常識の方がおかしいような気がしてくる。
カイルは弓を差し出したままだ。
「フィオナなら使えるんでしょ」
「……使えます」
「なら使ってよ」
「私がこれを持って、あなたへ向ける可能性もあります」
口にした瞬間、馬車の中が静かになった。
試すつもりだったわけではない。
ただ、それくらい警戒するのが普通だと伝えたかった。
奴隷契約があるとはいえ、抜け道が一切ないとは限らない。
少なくとも、フィオナが主人なら買ったばかりの奴隷へ伝説級の武器など渡さない。
カイルはしばらく彼女を見ていた。
「向けるの?」
「……」
「僕に」
「それは……」
答えに詰まった。
今、この男を殺したいかと問われれば、そうではない。
「今のところ、そのつもりはありません」
「じゃあいいじゃん」
「……それでよろしいのですか?」
「向けられたら、その時考える」
冗談なのか、本気なのか。
相変わらず分からない。
「それに」
カイルは少しだけ笑った。
「せっかく腕のいい弓使いを見つけたのに、安物を持たせて死なれたら困る」
「……」
「僕の命もかかってるんだから、装備にはお金かけないとね」
その理屈なら、少しだけ理解できた。
フィオナは恐る恐る両手を伸ばす。
ヘラクレスを受け取った。
「……っ」
触れた瞬間だった。
指先から伝わる魔力。
重い。
重量ではない。
長い年月を経た武器だけが持つ、言葉では説明できない重みだった。
ゆっくりと握る。
不思議なほど手に馴染む。
まるでずっと昔から自分のために作られていたかのように。
「どう?」
「……素晴らしいです」
気づけば、素直に答えていた。
「こんな弓は……初めて触りました」
「気に入った?」
「はい」
そこまで言って、フィオナは我に返る。
「……失礼しました」
「なんで謝るの?」
「いえ、その……」
「気に入ったならよかった」
カイルは満足そうに笑った。
フィオナは再び弓へ視線を落とす。
胸の奥が妙に落ち着かない。
嬉しい。
そう感じている自分に気づいてしまったからだ。
奴隷になってから、何かを与えられることはあった。
服。
食事。
寝床。
だが、それらはすべて商品として価値を保つためのものだった。
これは違う。
少なくともカイルは、自分が弓を使うことを前提に渡した。
武器として。
護衛として。
自分の技術を使わせるために。
その違いが、なぜか胸に残った。
その時だった。
フィオナの尖った耳がぴくりと動いた。
「……?」
音。
遠い。
馬車の車輪でも、街の喧騒でもない。
風を裂く、細い音。
「カイル様!」
考えるより先に身体が動いた。
テーブル越しにカイルの肩を押す。
直後。
バキンッ!
窓を突き破り、一本の矢が反対側の壁へ突き刺さった。
「うわ」
床へ押し倒されたカイルが声を上げる。
御者が馬を止める。
外から悲鳴。
複数の足音。
フィオナはすでにヘラクレスを構えていた。
「馬車から出ないでください」
自分でも驚くほど低い声が出た。
先ほどまでの迷いは消えている。
弓を握れば、身体が思い出す。
呼吸。
風。
距離。
敵の位置。
窓の向こう。
屋根。
後方。
少なくとも五人。
「左に二人。後ろに三人……いえ、もう一人」
「分かるの?」
「静かに」
「はい」
素直だった。
フィオナは窓枠に足を掛ける。
矢筒から一本抜き、弦につがえた。
何年ぶりだろう。
まともな弓を引くのは。
けれど、不思議と手は震えない。
むしろ。
ヘラクレスの方が、自分に合わせてくれているような感覚さえあった。
「――風よ」
小さく囁く。
空気が揺れた。
矢の周囲に、淡い緑色の光がまとわりつく。
放つ。
弦の音は、驚くほど澄んでいた。
次の瞬間。
遠くで男の短い悲鳴が上がる。
一人。
すぐさま二本目。
位置を変えようとした男の足元へ射る。
転倒。
三本目。
今度は腕。
武器が地面へ落ちる。
「殺さないんだ」
後ろからカイルの声がした。
「情報を聞き出せるかもしれません」
「なるほど」
「それと静かにしてください」
「はい」
やはり妙に素直だ。
残りの気配が動いた。
フィオナは振り返る。
「下がって!」
馬車の扉が外から蹴り開けられた。
黒装束の男が飛び込んでくる。
近すぎる。
弓では間に合わない。
フィオナが腰の短剣へ手を伸ばす。
だが、それより早かった。
「ホーリーレイ」
気の抜けるほど静かな声。
白い光が、フィオナの横を走った。
「――っ!」
男の肩を貫く。
勢いのまま吹き飛ばされ、地面へ転がった。
フィオナは固まった。
「……」
「危なかった」
カイルはいつの間にか立ち上がっていた。
右手の指先から、白い光の粒が消えていく。
「……カイル様」
「ん?」
「戦えるのですか?」
「まあ、一応」
「……」
フィオナは外を見る。
先ほどまで襲ってきていた男たちは、こちらの予想外の抵抗に動揺したらしい。
残った者たちが逃げていく。
「逃げます」
「一人捕まえてるなら十分じゃない?」
「追わなくてよろしいのですか」
「面倒だし」
「……」
この人は。
本当に。
「戦えるのであれば、なぜ私を護衛として?」
「え?」
カイルは本気で不思議そうな顔をした。
「自分で全部やるの大変じゃん」
「……」
「寝てる時とか無理だし」
「……」
「あと今、フィオナが先に気づいてくれなかったら普通に矢が飛んできてたよ」
壁に刺さった矢を指す。
「だから助かった。ありがとう」
フィオナの手が止まった。
ありがとう。
その一言。
主人から奴隷へ向ける言葉としては、ひどく不似合いだった。
「……いえ」
上手く返事ができない。
「当然のことをしたまでです」
「当然でも助かったものは助かったよ」
カイルは馬車から降りようとして――途中で振り返った。
「あ」
「何でしょう」
「フィオナ、怪我してない?」
「……」
「さっき結構無茶したでしょ」
フィオナは自分の身体を見る。
「問題ありません」
「本当に?」
「はい」
「ならよかった」
それだけ確認すると、カイルは外へ出ていった。
フィオナはその背中を見送る。
倒した敵の数でも。
弓の腕でも。
護衛として役に立ったことでもない。
最初に聞かれたのは、自分が怪我をしていないかだった。
「……変な人」
小さく呟く。
手の中には、ヘラクレス。
まだ信用したわけではない。
たった半日。
それだけで人間を信じられるほど、自分は素直ではない。
それでも。
少なくとも、今まで自分が知っていた『主人』とは少し違う。
そんなことを考えながら、フィオナは弓を握り直した。
不思議と、その手には先ほどまでの迷いがなかった。




