第十五話 森の奥へ
目を覚ますと、窓の外はまだ暗かった。
夜が明け始めたばかりなのか、空の端がようやく薄い青色に変わりつつある。
「……」
珍しい。
フィオナに起こされる前に目が覚めた。
しかも、もう一度目を閉じようという気にもならない。
昨日は早めに寝たからだろうか。
いや、たぶん、それだけじゃない。
ベッドから身体を起こす。
昨夜まで感じていた胸の奥のざわつきは、眠っている間に消えるどころか、少し強くなっていた。
昨日見た、森の奥。
何があるのかは分からない。
それでも。
「……やっぱり、行った方がいいんだよな」
独り言を呟いたところで、扉が叩かれた。
「カイル様。朝です」
「起きてるよ」
返事をすると、扉の向こうが一瞬だけ静かになった。
「……起きていらっしゃるのですか?」
「その反応ひどくない?」
扉を開ける。
そこにはすでに外出の準備を済ませたフィオナが立っていた。
深い緑色の服に短剣を下げ、背にはヘラクレスと矢筒。
完全に森へ入る格好だ。
僕の顔を見たフィオナは、まだ少し不思議そうだった。
「本当に起きていますね」
「僕だって早起きくらいするよ」
「初めて拝見しました」
「……そんなに?」
「少なくとも、私がカイル様の護衛になってからは」
言われてみれば、そうかもしれない。
「昨日のこと、気になってたからかな」
「森ですか?」
「うん」
窓の向こうを見る。
「昨日より、ちょっと強い」
「……あの感覚が?」
「たぶん」
フィオナも窓の外を見る。
まだ朝霧の残る先に、森の輪郭だけが薄く見えていた。
「無理はなさらないでください」
「それはフィオナも同じだよ」
「私は護衛です」
「だからって無理していい理由にはならないでしょ」
「……はい」
素直に返事をした。
少しだけ。
本当に少しだけだけど。
こういうやり取りにも慣れてきた気がする。
◇
食堂へ降りると、アリアとセバスチャンはすでに起きていた。
テーブルには簡単な朝食と、森へ持っていく荷物が並んでいる。
「おはようございます、カイル様」
「おはよう」
アリアが僕を見て、一度瞬きをする。
「……お早いですね」
「二人して同じ反応しないでくれる?」
「失礼いたしました」
まったく失礼と思っていなさそうだった。
「それより、今日はこれをお召しください」
アリアが椅子の背に掛けていたローブを手に取る。
落ち着いた色の、いつもより少し厚手のものだった。
「ローブ?」
受け取ってみると、見た目ほど重くはない。
布地には、ごく細い糸で幾何学的な模様が織り込まれていた。
「地属性用?」
「ええ。カイル様は地属性ではありませんが、普段お使いになる魔法は大地や根を介するものが多いでしょう」
「まあ、たしかに」
「完全に適合するわけではありませんが、魔力の流れを整える助けにはなるはずです」
「へえ」
試しに羽織ってみると、身体へよく馴染む。厚みのわりに肩や腕も動かしやすかった。
「サイズぴったり」
「当然です」
「いつ測ったの?」
「長年お仕えしておりますので」
「怖いなあ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
相変わらずだ。
「でも、ただ森を見に行くだけだよ?」
「原因不明の異変が起きている森の奥へ、武装した護衛を連れて向かわれるのでしょう?」
「……そう言われると、戦いに行くみたいだね」
「そのつもりがない方が問題でございます」
セバスチャンが横から小さな革袋を差し出してきた。
「魔力回復用の薬品も多めに用意しております」
「二人とも僕がボロボロになる前提じゃない?」
「備えでございます」
「信用ないなあ」
「信用しているからこその備えです」
「上手いこと言うね」
セバスチャンはいつもの無表情だった。
「フィオナさんにも、こちらを」
「ありがとうございます」
フィオナには予備の弦や包帯、薬品などが渡される。
アリアは最後に二人を見回した。
「無事に帰ってきてください」
「うん」
「はい」
今度は僕も、ふざけずに答えた。
◇
日の出とほぼ同時に、町を出た。
まだ人通りは少ない。
市場もほとんど閉まっている。
少し前までなら、これが一日中続いていた。
今は朝が早いだけだ。
「帰ってきたら何食べようかな」
「もう帰りの食事ですか?」
「楽しみは必要でしょ」
「まだ森にも入っていません」
「だから今のうちに考えてるんだよ」
フィオナが小さくため息をつく。
でも、口元は少しだけ緩んでいた。
昨日と同じ森の入口へ着く。
そこから先は、僕とフィオナだけ。
木こりたちには昨日聞いた場所までで十分だった。
森の中へ入る。
朝の空気は冷たい。
地面にはまだ湿り気が残っている。
しばらくは昨日歩いた道をそのまま辿った。
「足跡、増えてる?」
昨日見つけた場所で立ち止まる。
「……ええ」
フィオナが地面を見る。
「昨夜のものがあります」
「また奥から?」
「はい」
鹿や小動物、それから魔物らしい大きな爪痕まで、ほとんどが町のある方角へ向かっている。
「やっぱり押し出されてるんだね」
「可能性は高いでしょう」
フィオナが顔を上げた。
「この先から、昨日精霊たちの反応が強くなります」
「嫌な感じ?」
「はい」
「じゃあ慎重に行こう」
「珍しくまともなことを」
「僕の評価どうなってるの?」
「改善中です」
「そっか」
先へ進む。
◇
一時間ほど歩いただろうか。
森は徐々に深くなっていった。
人が使っている痕跡も薄くなる。
木こりが入る区域を完全に越えたらしい。
フィオナは何度か足を止め、周囲の精霊へ意識を向けていた。
「どう?」
「昨日より、嫌がっています」
「何があるかは?」
「やはり分かりません」
フィオナの周囲にいた光が、森の奥へ近づこうとすると離れていく。
「魔物なら、どんな奴かくらい分からないの?」
「普通ならある程度は」
「普通じゃない?」
「……そうかもしれません」
少し嫌な言い方だった。
「戻る?」
僕が聞くと、フィオナは逆にこちらへ問い返した。
「カイル様は?」
「行きたい」
「即答ですね」
「なんか、ここまで来たら余計に」
胸の奥。
昨日からずっとあった感覚。
森へ入ってから、はっきり強くなっている。
危険を知らせるものじゃない。
むしろ、進む方向を示されているような感覚に近い。
こっちだ。
誰かにそう言われているような気さえする。
「……では、進みましょう」
「いいの?」
「私も気になります」
フィオナがヘラクレスに手を添える。
「ただし、危険と判断した場合はすぐ撤退します」
「了解」
「私が何と言おうと残る、はなしですよ」
「分かってるって」
「本当に?」
「……たぶん」
「カイル様」
「分かりました」
フィオナの視線に負けて、僕は素直に頷いた。
◇
さらに奥へ進んだ。
途中、小型の魔物を二度見かけた。
けれど戦いにはならなかった。
こちらの存在に気づいた途端、どちらも森の浅い方へ逃げてしまったからだ。
「完全に怯えてるね」
「ええ」
「そんなに強いのがいるのかな」
「少なくとも、これだけの魔物が同じ方向へ逃げる原因はあるのでしょう」
その時。
フィオナが手を上げた。
「止まってください」
僕も足を止める。
「いる?」
「……何か」
耳を澄ませる。
風が葉を揺らす音に、鳥の鳴き声。
それらに混じって、低く重い音が聞こえてきた。
何かが地面を踏んでいる。
一歩。
また一歩。
「大きい?」
「かなり」
フィオナが矢をつがえる。
僕も剣へ手を掛けた。
音が近づく。
やがて木々の間の暗がりから、大きな頭が姿を現した。
「……」
思わず言葉を失う。
竜。
そう呼ぶしかないものだった。
ただ、僕が本で見た竜とは少し違う。
四本の脚に太い尾。
そして背中には巨大な翼が折り畳まれている。
全身を覆っているのは鱗というよりも、黒い岩を何枚も重ねたような外殻だった。
頭には後ろへ向かって伸びる二本の角があり、立ち上がれば僕の何倍もの高さになるだろう。
「フィオナ」
「はい」
「知ってる?」
「……いいえ」
「僕も」
あれだけ森に詳しいフィオナも知らない。
それだけで、かなり嫌だった。
竜がこちらを見る。
金色の目。
低い唸り声。
逃げるつもりはないらしい。
「縄張りかな」
「おそらく」
「回り道できる?」
フィオナが周囲を見る。
「できなくはありません。ただ……」
「こいつが原因なら、放置もできないか」
「はい」
森の魔物や動物を町側へ追い出している原因。
そう考えるのが自然だ。
「じゃあ」
剣を抜く。
「やるしかないね」
「私が前に出ます」
「いや、僕が動き止める」
「ですが」
「フィオナが一番火力あるでしょ」
ヘラクレスを見る。
「僕が止める。フィオナが撃つ」
ほんの少し考えたあと、フィオナは頷いた。
「……承知しました」
竜が地面を掻いた。
来る。
「《根走り》!」
地面へ魔力を流す。
ローブの内側がわずかに暖かくなる。
「お」
普段よりも、地面へ魔力が通りやすい。
アリアの言った通り、完全に合ってはいなくても補助にはなるらしい。
地面の下を走らせた根を竜の足元まで伸ばし、一気に地表へ突き上げる。
「《蔓縛り》!」
太い蔓が前脚へ巻きつく。
同時に。
フィオナの矢が飛んだ。
速い。
鋭い風切り音を残して飛んだ矢が、竜の目を正確に狙う。
けれど竜は頭を振り、矢を頬の外殻で受けた。
甲高い音が響き、ヘラクレスから放たれた矢が弾かれる。
「……え」
僕よりフィオナの方が驚いていた。
「弾かれました」
「見えた」
あのヘラクレスの矢が、まともに通らなかった。
そう思った次の瞬間、竜が前脚を大きく持ち上げた。
絡みついていた蔓が張り詰める。
「ちょ――」
耐える間もなく、すべての蔓がまとめて引きちぎられた。
竜はその勢いのまま僕たちへ突進してくる。
「カイル様!」
「分かってる!」
横へ飛ぶ。
巨大な身体がすぐ横を通り過ぎた。
風圧だけで身体が持っていかれそうになる。
竜が木へ激突する。
太い幹が揺れた。
普通なら止まると思う。
でも、止まったのは竜ではなく木の方だった。
太い幹が鈍い音を立てて折れ、地面へ倒れる。
「……強くない?」
「そのようですね」
「他人事みたいに」
「来ます!」
竜が尾を振る。
「っ!」
慌ててしゃがむと頭の上を黒い塊が通り過ぎる。
後ろの木が二本まとめて折れた。
「当たったら死ぬよね」
「避けてください」
「そうする!」
◇
戦い始めて数分も経たないうちに、相手がどれほど厄介なのかは嫌というほど理解できた。
外殻は硬く、巨体のわりに動きは速い。
そして何より、単純な力が桁違いだった。
「《拘束》!」
今度は植物ではなく一般魔法の鎖を竜の脚へ巻きつける。
一瞬。
ほんの一瞬だけ動きが止まる。
「今!」
フィオナがその隙を逃さず、三本の矢を立て続けに放つ。
胸、首、脚。
矢が次々に当たる。
ほとんどは弾かれる。
でも。
「そこ!」
一矢が前脚の関節にある僅かな隙間へ突き刺さった。
竜が吠える。
「通った!」
「外殻の隙間なら狙えます!」
フィオナが次の矢をつがえる。
竜がこちらへ向く。
「僕を見るなって!」
地面へ魔力を流し、竜の進行方向を持ち上げる。
「《根上げ》!」
突然隆起した地面に前脚を取られ、巨体がわずかに傾いた。
その瞬間を狙ってフィオナの矢が飛び、反対側の脚の隙間へ突き刺さる。
「グオオオオオッ!」
竜の咆哮で森の空気が震えた。
「怒った?」
「そのようです!」
耳が痛い。
一瞬、身体が硬直する。
真正面から竜が突っ込んでくる。
「カイル様!」
無理やり身体を動かして横へ飛んだものの、完全には避けきれなかった。
竜の爪がローブを掠め、その衝撃で身体が地面へ転がる。
「っ!」
「カイル様!」
「大丈夫!」
立ち上がると、脇腹に熱い痛みが走った。
手を当てると血がつく。
爪そのものは深く入っていないが、それでも皮膚は裂けていた。
もしアリアの用意したローブを着ていなかったら、これでは済まなかったかもしれない。
「アリアにお礼言わないとな」
「今は集中してください!」
「うん!」
◇
そこからは、少しずつ削るしかなかった。
僕が脚を止める。
フィオナが隙間を射抜く。
竜が拘束を力任せに引きちぎれば、今度は地面を動かして姿勢を崩し、その瞬間をフィオナが再び射抜く。
最初はほとんど通らなかった矢も、同じ場所を何度も狙えば外殻が欠ける。
「右肩!」
「はい!」
根を竜の前脚へ絡ませ、一気に横へ引く。
巨体が傾いたところへ、フィオナの矢が飛んだ。
一度目と二度目で傷ついていた場所へ、三度目の矢が正確に命中する。
黒い外殻にひびが走り、一部が砕けた。
「入った!」
矢が内側へ深く刺さる。
竜が暴れる。
「《蔓縛り》!」
首と脚、それから尾へ何本もの蔓を巻きつける。
「このまま――」
けれど竜が身体を大きく捻っただけで、張り詰めていた蔓は次々に切れた。
「やっぱ無理か!」
魔力が減っていく。
さっきからかなり使ってる。
ローブのおかげで多少楽だけど、それでも限界はある。
「フィオナ、あとどれくらい?」
「矢は十分あります」
「体力の方は?」
「問題ありません」
嘘ではない。
心眼にも大きな異常はない。
ただ。
呼吸は少し速い。
額には汗。
フィオナも余裕というわけではない。
「カイル様こそ」
「まだいける」
少なくとも、今すぐ倒れるほどではない。
「じゃあ続けよう」
「はい」
竜がこちらを睨んだ。
でも、さっきまでと少し違う。
「……こいつ」
「どうしました?」
「僕の魔法を警戒してる」
僕が地面へ意識を向けた瞬間、竜がすぐに位置をずらした。
これまでは根や蔓を力で引きちぎっていたのに、今は生えてくる前に避けようとしている。
「学習している?」
「たぶん」
「厄介ですね」
「本当にね」
竜が走る。
進路を塞ぐように根を出したが、竜は直前で身体をずらして回避する。
そのまま僕へ突っ込んでくる。
「っ!」
横へ逃げても追ってくる。
「カイル様!」
フィオナの矢が目の前を横切る。
竜が反射的に顔を背ける。
その一瞬で距離を取る。
「ありがとう!」
「こちらへ!」
フィオナの方へ走る。
竜が追ってくる。
「三歩左!」
「了解!」
フィオナの声に合わせて動く。
僕が避けた直後、僕がいた場所をフィオナの矢が通り抜けた。
矢が竜の口元へ。
矢が深く刺さり、竜が苦しげに頭を振る。
「よし!」
けれど止まるどころか、竜の動きはさらに荒々しくなった。
「怒らせたかも!」
「逃げてください!」
◇
どれくらい戦っていたのか、途中から分からなくなった。
森の一部はもうぐちゃぐちゃだった。
木が折れ。
地面が抉れ。
僕が生やした根や蔓があちこちに残っている。
竜にも傷は確実に増えている。
肩、脚、首、口元。
フィオナが正確に同じ場所を狙い続けた結果だ。
それでも倒れない。
「……丈夫すぎない?」
「同感です」
フィオナが次の矢を取ろうとして、不意に動きを止めた。
「フィオナ?」
「……来ます」
竜の様子が変わった。
これまで背中へ畳んだままだった翼が、ゆっくりと左右へ開いていく。
間近で見ると、思っていた以上に大きい。
「フィオナ」
「はい」
「もしかして」
嫌な予感。
竜が翼を一度振った。
強烈な風が吹き抜け、枯れ葉や小枝が一斉に舞い上がった。
「うわっ!」
腕で顔を守る。
そして次に目を開けた時、竜の身体はすでに地面から離れていた。
「……飛んだ」
「飛びましたね」
「聞いてないよ」
「私も知りません!」
竜が木々の上まで上昇する。
「これ、まずくない?」
「かなり」
フィオナが空へ向けて矢を放った。
けれど地上とは違い、竜は翼を少し傾けただけで軌道を外す。
「速い!」
空中で旋回。
そのまま。
「来ます!」
急降下。
「《蔓縛り》!」
地面から蔓を伸ばす。
しかし、竜が通過するまでに届かない。
「っ!」
巨大な爪が地面を抉り、土と小石が弾け飛んだ。
「フィオナ!」
「大丈夫です!」
フィオナも横へ転がっていた。
そのまま立ち上がると、遠ざかっていく竜の背中へ矢を放った。
一発が刺さる。
けれど浅い。
竜が再び高度を上げる。
「……最悪」
地面にいる間なら、足元からいくらでも邪魔ができた。
空中ではそれができない。
根を伸ばしても遅い。
蔓を長く伸ばしたところで、あの速度で動く相手には簡単に避けられる。
今の僕は、竜が降りてきた瞬間を狙うしかない。
「カイル様! 右!」
「っ!」
飛ぶ。
竜の翼が通り過ぎる。
衝撃波で身体が吹き飛ぶ。
「ぐっ!」
背中から木へぶつかった。
息が詰まる。
「カイル様!」
「来るな!」
竜が僕を見ている。
フィオナが矢を連射する。
一発。
二発。
鬱陶しそうに頭を振った竜は、僕からフィオナへと標的を変えた。
「フィオナ!」
竜が彼女へ急降下する。
フィオナは矢を構えている。
狙ってる。
ギリギリまで。
「避けて!」
まだ動かない。
「フィオナ!」
放たれた矢は翼の付け根へ突き刺さる。
けれど、竜の勢いは止まらなかった。
鋭い爪がフィオナへ迫る。
「……っ!」
◇
防がないと。
でも間に合わない。
地面から根を伸ばすには遅すぎる。
そこじゃない。
どこから生やせばいい。
考えろ。
考えろ。
どうするべきか。
――地面から?
その考えが浮かんだ瞬間、何かが引っかかった。
「そっか。そうだったんだ」
なんで。
なんで僕は、ずっと地面から生やそうとしてる?
「……」
植物は地面から生える。
当たり前だ。
根を張り、芽を出し、そこから成長する。
だから僕も、ずっとそうしてきた。
地面へ魔力を流し、そこから根や蔓を伸ばしてきた。
でも。
僕の魔法は。
大地が使ってるわけじゃない。
僕が使ってる。
地面はただ、一番簡単に魔力を通せる場所だっただけなんじゃないか。
「魔力……?」
僕の魔力が。
そこに届けば。
それでいいんじゃないか?
それだけなら。
地面に触れている必要なんて、どこにもない。
岩の隙間からだって草は生える。
倒れた木の上にも苔は広がる。
なら僕が生やす場所まで、勝手に地面だけに限定する必要はない。
僕が勝手に場所を決めていただけだ。
◇
「……そこ」
フィオナへ迫る竜の右脚へ意識を向けた。
地面から何メートルも離れた空中。
そこまで直接、魔力を伸ばす。
遠い。
地面を介した時よりも、ずっと多くの魔力を持っていかれる。
それでも、届いた。
「《蔓縛り》」
何もない空間に。
緑が生まれた。
「――!」
フィオナの目が見開かれる。
空中から突然伸びた蔓が、竜の前脚へ絡みつく。
「グオッ!?」
竜自身も予想していなかったのだろう。
急に脚を引かれ、空中で姿勢を崩す。
「フィオナ!」
もう言う必要もなかった。
矢が飛び、すでに外殻の割れていた肩へ深く突き刺さる。
竜が地面へ落ちる。
轟音とともに土煙が上がる。
「……できた」
呟いた僕自身が、一番驚いていた。
「カイル様、今のは……」
「なんだろう、僕もよく分かってない」
でも。
感覚だけは分かる。
遠くへ直接魔力を飛ばす分、消費はひどい。
さっきの一度だけで、地面から何本も蔓を出すのと同じくらい魔力を使った気がする。
でも、できる。
「なんだ」
周囲を見る。
地面も、木も、空も、岩も。
フィオナも、あの竜も。
僕の魔力さえ届くなら、どこだって起点にできる。
全部。
「ここ全部、僕の手の届く場所じゃん」
土煙の向こうで竜が再び立ち上がる。
「カイル様?」
「フィオナ」
「はい」
「今までより、ちょっと無茶できるかも」
「……嫌な予感しかしません」
「でも勝てそう」
フィオナが竜を見る。
そして僕を見る。
「では」
ヘラクレスを構える。
「お願いします」
「任せて」
◇
竜が再び空へ上がる。
今度は、地面へ戻ってくるのを待つ必要はなかった。
「左!」
飛行する竜の進路上へ直接魔力を送り、空中から蔓を生やす。
一本では止められない。
それでも竜は避けざるを得ず、進行方向を変えた。
その先にはフィオナの矢が待っている。
竜が身体を捻って矢を避ければ、今度は逆側の空間へ茨を生やした。
「次、右!」
竜は茨を避けるために翼を畳み、高度を落とす。
「今!」
フィオナが放った矢が、負傷している翼へ突き刺さった。
「グオオオッ!」
竜は怒り狂って茨を引きちぎる。
「カイル様!」
「分かってる!」
魔力がすごい勢いで減っていく。
「これ、燃費悪っ……!」
「無理をしないでください!」
「でも今止めないともっと無理!」
竜が僕へ向かって急降下する。
地面へ近づいたなら、今度はわざわざ高い魔力を使う必要はない。
「《根走り》!」
足元から突き上げた根を竜が避ける。
その逃げ先にだけ、空中から一本の蔓を伸ばした。
翼へ絡みつき、ほんの一瞬だけ飛行が止まる。
「フィオナ!」
「はい!」
一発。
続けて二発目。
三発目。
同じ翼へ。
ついに外殻が大きく砕け、竜は地面へ着地した。
「今なら地面!」
大量の根を一斉に伸ばし、脚と尾、それから傷ついた翼まで絡め取る。
竜が力任せに引きちぎろうとするたび、新しい蔓を追加した。
「させない!」
追加。
切られれば生やす。
ほどかれれば別の方向から巻きつける。
「フィオナ!」
彼女はすでに狙っていた。
ヘラクレスの弦が大きく引かれる。
傷ついた翼の付け根へ矢が深く食い込む。
竜の身体が大きく傾いた。
「よし!」
でも。
太い尾が横から迫ってくる。
「っ!」
避けきれない。
横腹へ強い衝撃を受け、身体が浮く。
「カイル様!」
地面へ叩きつけられる。
「……っ、痛」
息を吸う。
脇腹の傷が再び開いた。
熱い血が服の内側へ広がる。
「カイル様!」
「大丈夫!」
「大丈夫では――」
「来る!」
竜は今度はフィオナへ向かっていた。
立ち上がろうとした脚が少し震える。
それでも、ここでフィオナだけに任せるわけにはいかない。
「《蔓縛り》!」
地面から何本もの蔓を伸ばして竜の脚へ絡ませる。
一瞬。
完全には止まらなくても、その一瞬でフィオナは横へ抜けた。
爪が空を切る。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして!」
痛い。
魔力もかなり減っている。
それでも、まだ動ける。
◇
戦況は、少しずつこちらへ傾き始めていた。
竜の片翼はすでにまともに動かず、飛び上がっても以前ほど高度を維持できない。
黒い外殻にも何か所もの亀裂が走り、その隙間にはフィオナの矢が刺さっている。
ただし、こちらにも余裕はなかった。
僕は魔力をかなり消耗し、身体のあちこちが痛む。
フィオナも左腕に浅い傷を負い、脚には転倒した時の擦り傷ができていた。
それでも。
彼女の目から集中は消えていない。
「カイル様」
「ん?」
「胸」
竜を見る。
胸部。
最初からフィオナが何度も狙っていた場所だ。
分厚い外殻には、これまでの矢と茨によって大きなひびが入っている。
「割れる?」
「あと一撃あれば」
「分かった。隙を作る」
竜がこちらを見る。
低い唸り。
たぶん向こうも分かってる。
次で終わらせるつもりだ。
「来る」
翼を畳み、頭を低くした竜が真正面から走り出した。
フィオナがヘラクレスを構える。
「カイル様」
「うん」
「三秒ください」
「長いなあ」
「お願いします」
「しょうがない」
僕は前へ出た。
「カイル様!」
「三秒でしょ!」
竜との距離が一気に縮まる。
一秒。
「《根走り》!」
前脚へ根を巻きつけるが、竜はそのまま引きちぎる。
二秒。
「《蔓縛り》!」
脚、首、尾へ同時に絡ませた蔓も、一つずつ力任せに切られていく。
それでも僅かに速度は落ちた。
「まだ!」
空中。
竜の顔のすぐ横へ茨を生やした。
目を守ろうとして、竜がわずかに顔を逸らす。
三秒。
「フィオナ!」
「――はい!」
弦が鳴った。
矢が一直線に飛ぶ。
胸部のひび割れた外殻へ。
刺さる。
深く。
「……!」
竜の身体が止まった。
けれど、倒れない。
胸に矢を刺したまま咆哮し、再び暴れようとする。
「まだ……!」
フィオナが次の矢へ手を伸ばす。
でも僕は胸へ刺さった一本の矢が見えていた。
遠い。
でも。
ずっと分かりやすい。
すでにそこには、明確な起点がある。
「……あ」
矢へ向かって魔力を伸ばす。
直接空間を狙う時よりも、ずっと楽に場所を捉えられた。
「そこなら……届く」
魔力が矢へ触れる。
すると矢の軸から一本の細い茨が芽を出した。
「……カイル様?」
「もうちょっと」
二本。
四本。
八本。
さらに枝分かれしていく。
竜の胸を這い、割れた外殻の隙間へ入り込み、そのまま脚や首、翼へ広がっていく。
「グオオオオオオオッ!」
竜が暴れる。
茨が切れる。
でも。
「生えろ」
切られても、また。
「逃がさない」
矢を中心に増殖した茨が、何重にも竜の身体を包み込む。
暴れれば暴れるほど棘が外殻の亀裂や傷へ食い込み、巨体の動きが少しずつ鈍っていった。
フィオナと目が合う。
「……あと少し」
「はい」
彼女は最後の一矢を取り、ヘラクレスを引き絞った。
狙うのは胸。
最初の矢が刺さっている、そのすぐ横。
フィオナが静かに息を止める。
そして放った。
「――っ!」
矢は茨の隙間を抜け、ひび割れた外殻を貫いて深く突き刺さった。
その瞬間、僕の魔力が二本の矢を繋いだ。
茨が一気に広がる。
黒い外殻を覆い、首を巻き、脚を縛り、傷ついた翼まで飲み込んでいく。
さっきまで激しく暴れていた竜が、ついに動きを止めた。
そして胸元。
フィオナの矢が刺さった場所から、一輪の赤い花が静かに開いた。
「……」
静かだった。
やがて竜の巨体がゆっくりと傾き、地面へ倒れる。
森に大きな音が響いたあと、それきり竜は動かなかった。
◇
「……終わった?」
息を吐いた途端、急に脚から力が抜けた。
「カイル様!」
「ちょっと魔力使いすぎた」
その場へ座り込む。
「ちょっとではありません」
フィオナがこちらへ来る。
「それより、フィオナも腕」
「私は――」
「大丈夫って言ったら怒るよ」
フィオナは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……分かりました」
「よろしい」
脇腹を見ると、やはりまだ血が出ていた。
「これ止めないとな」
薬袋へ手を伸ばしたところで、さっきの感覚を思い出す。
遠くの空中にさえ植物を生やせた。
なら、自分の身体のすぐ近くならどうだろう。
「……そういえば」
「何を?」
「ちょっと試す」
「またですか?」
「たぶん大丈夫」
「その言葉、もう信用しない方がよい気がしてきました」
傷口のすぐ近くへ魔力を集中させる。
皮膚そのものから生やすつもりはない。
ローブの裂けた部分、そのすぐ上に小さな芽を作る。
芽はすぐに葉を広げ、見慣れた薬草へ成長した。
「……」
フィオナがじっと見る。
「そこから生やすのですか」
「できた」
「できた、ではありません」
「便利でしょ?」
「戦闘直後に新しい魔法を試さないでください」
「でも薬草探す手間省けたよ」
葉を摘んで潰し、傷へ当てる。
「痛っ」
「当然です」
「優しくないなあ」
「貸してください」
「はい」
結局、自分でやるよりフィオナに任せた方が早かった。
僕の傷を処置したあと、今度は彼女の左腕を見せてもらう。
「痛い?」
「少し」
「我慢して」
「カイル様に言われるとは」
「なんで?」
「先ほどから痛いと何度も」
「痛いものは痛いよ」
薬草を当てた上から植物繊維を細く生やし、包帯の補助になるよう固定する。
傷そのものが治ったわけではない。
それでも出血はかなり抑えられた。
「……すごいですね」
フィオナが自分の腕を見る。
「さっきの使い方とは、全然違うけどね」
そう言って、倒れた竜へ目を向ける。
巨体は今も大量の茨に覆われ、胸元には赤い花が咲いていた。
綺麗だと思う。
同時に、少しだけ怖いとも思った。
「……綺麗ですね」
「うん」
フィオナも同じものを感じたらしい。
「少し、不気味ですが」
「……僕もそう思う」
同じ僕の魔法から、人を助ける薬草も生えれば、敵を締め上げる茨も生える。
今までそんなことを深く考えたことはなかった。
「まあ、生きて帰れたし、いいか」
「よくありません」
「厳しい」
「戻ったらアリアさんにも怒られてください」
「絶対怒られるなあ」
◇
しばらくその場で休み、セバスチャンが用意してくれた魔力回復薬も飲んだ。
「……まずい」
「薬ですから」
「これどうにかならないの?」
「効果があるのであれば十分でしょう」
「お茶味とかにできないかな」
「効果がなくなりそうですね」
「じゃあ果物味」
「帰ったらセバスチャンさんへ相談してください」
「そうする」
薬のおかげか、少しだけ身体が楽になった。
「戻る?」
フィオナへ聞く。
本来なら戻るべきだと思う。
二人とも負傷しているし、僕はかなり魔力を消耗した。
森の異変の原因と思われるほど強い魔物も倒した。
調査としては十分な成果だ。
それなのに。
胸のざわつきが消えていない。
むしろ、竜を倒す前よりも強くなっていた。
「カイル様?」
「まだなんだよね」
「何がですか?」
「あの感じ。まだ先に何かある」
森の奥を見る。
フィオナも同じ方向を見た。
「でも、フィオナが戻るって言うなら戻るよ」
危険だと思ったら撤退する。
昨日、そう決めた。
僕一人の根拠のない感覚だけで、無理に進むつもりはない。
フィオナは少し考えたあと、目を閉じた。
「この魔物が原因だったのなら、精霊たちの反応も変わっているはずです」
周囲の精霊へ呼びかけているらしい。
しばらくして、フィオナの眉がわずかに寄った。
「どう?」
「……変です」
「まだ嫌がってる?」
「それが……精霊が、ほとんどいません」
「え?」
僕には精霊の姿ははっきりとは見えない。
それでも、これまではフィオナの周りに集まる淡い光がいくつも見えていた。
今はそれすらない。
「この先に?」
「はい。先ほどまでとは明らかに違います」
「じゃあ、やっぱりこいつだけが原因じゃなかった?」
「少なくとも、それだけではないようです」
僕たちは顔を見合わせた。
「……行く?」
「少しだけ確認しましょう。ただし、無理はしません」
「うん」
「何かあれば、すぐ戻ります」
「了解」
◇
倒れた竜を越え、さらに森の奥へ進んだ。
そして、少し歩いただけで異変に気づいた。
「……静かだね」
「はい」
さっきまで聞こえていた鳥の声も、虫の羽音も、遠くの魔物の鳴き声も消えている。
聞こえるのは、風が葉を揺らす音だけだった。
「動物もいない?」
「気配がありません」
「魔物は?」
「……それもありません」
おかしい。
あれだけ多くの魔物や動物が森の外へ押し出されていた。
普通なら、原因に近づくほど何かが増えていきそうなものだ。
なのに実際は逆だった。
「さっきの竜も、ここには入ってこなかったのかな」
僕が呟くと、フィオナが足元へ目を向けた。
しばらく周囲を確認したあと、顔を上げる。
「……足跡がありません」
「え?」
「先ほどの個体のものも、他の大型魔物のものも。この辺りへ入った痕跡が見当たりません」
竜は、この場所を守っていたのか。
それとも。
ここへ入ること自体を避けていたのか。
「分からないね」
「はい」
さらに奥へ足を進める。
胸のざわつきは強くなっていた。
それなのに、不思議と恐怖はない。
むしろ、ようやく何かに近づいてきたような感覚がある。
「……近い」
「何がですか?」
「分かんない」
「カイル様」
「本当に分からないんだって。でも、さっきより近づいてる感じがする」
フィオナは困ったような顔をしたものの、それ以上は何も言わなかった。
◇
「カイル様、待ってください」
しばらく歩いたところで、フィオナが足を止めた。
「何かある?」
「これを」
彼女がしゃがみ込み、地面を覆っていた苔を手で払う。
その下から石が現れた。
「岩?」
「……いえ」
さらに苔を取り除くと、その表面が不自然なほど平らなことが分かる。
僕も隣へしゃがみ込んだ。
「これ、削られてる?」
「そのようです」
端がまっすぐに揃っている。
自然にできた岩には見えない。
「人工物?」
「おそらく」
「他にもあるかも」
二人で周囲の苔や落ち葉を少しずつ払っていく。
最初の石から少し先に、もう一つ。
さらにその先にも同じような石があった。
どれも一定の間隔で並んでいる。
フィオナが立ち上がり、その並びを目で追った。
「……道?」
「みたいだね」
ほとんどが苔と土に埋もれ、ところどころ草まで生えている。
どれほど昔に作られたものなのかは分からない。
それでも、誰かが意図して並べた石畳であることだけは確かだった。
道は誰もいない森の奥へ向かって、まっすぐ続いている。
「地図にあった?」
「ありません」
「木こりの人たちも知らなかったよね」
「はい」
「……そっか」
石畳の先へ目を向ける。
木々が重なり、その向こうに何があるのかは見えない。
けれど胸の奥にあった曖昧な感覚は、もうはっきりしていた。
この先だ。
「カイル様」
「うん」
「今日は――」
フィオナが言いかけて、途中で止めた。
「……いえ」
「何?」
「カイル様が、行きたいと仰るのだろうと思いまして」
「分かってきたね」
「付き合いも長くなりましたので」
「だから、そんなに長くないって」
フィオナが少しだけ笑う。
けれどすぐに石畳へ視線を戻した。
「ただし、危険だと感じた場合は本当に戻ります」
「分かってる」
「先ほどの戦闘以上のものが現れた場合は即撤退です」
「それは僕も賛成」
「では、行きましょう」
フィオナがヘラクレスを握り直し、僕も剣を持つ。
魔物の気配も、動物の声もない森の中。
苔に埋もれた古い石畳だけが、さらに奥へ続いている。
僕たちは周囲を警戒しながら、その道をゆっくりと歩き始めた。
第1章もまもなく終わりです




