9 婚約解消
翌朝、
いつものようにカフェへ出勤すると、店長のベルタが珍しく厨房の外に立っていた。
腕を組み、入口の方を見つめている。
「ベルタさん、おはようございます」
「ああ、エルフィ。ちょっといいかい」
いつもより低い声で、ベルタは声をかけた。
エルフィが首を傾げると、ベルタは周囲に客がいないことを確認してから近づいてきた。
「今日、アルドがここへ来るかもしれない」
エルフィは思わず目を瞬いた。
「アルドさんが?」
「ええ」
ベルタは短く頷く。
「朝から市場じゃ大騒ぎよ。あんたとアルド、それにマーガレットの話でね」
どうやら思っていた以上に噂は広がっているらしい。
エルフィは小さく息を吐いた。
ベルタはそんな彼女を見つめ、それから肩をぽんと叩いた。
「もし何か言われても、一人で相手しちゃだめだからね」
「ベルタさん……」
「私はね、浮気するような男が大嫌いなんだよ」
「それに、あんたはうちの大事な従業員だ。泣かされてるのを黙って見てるほど、私は優しくないからね」
「だから、あんたが黙って耐える必要はない」
ベルタは腕を組み直す。
「何かあったら私が間に入る」
ベルタは少しだけ口元を緩め、ニヤリと笑った。
「というか、あんたを泣かせるような男なら、私が箒で叩き出してやる」
エルフィは思わず吹き出した。
「ふふっ……ありがとうございます」
「そうだよ、わたしゃ強い女なんだからね」
ベルタは満足そうに頷く。
それから厨房へ向かいながら、大きく手を振った。
「さあ、開店準備だよ。今日も忙しくなるからね」
「はい!」
エルフィは返事をしながら、その背中を見つめた。
ーー
昼過ぎ、チリンチリンっとドアベルが鳴り、マーガレットが店に入ってきた。
今日の彼女は、新調したばかりらしい白地に小花柄のワンピースが華やかだった。
いつもより少しだけ背伸びをした、大人っぽいメイクをしていた。
「エルフィ!」
マーガレットは店へ入るなり、弾んだ足取りで駆け寄ってきた。
「ねえ、今日ちょっと話があるの。……すごく大事な話」
エルフィは手元の布巾を置き、厨房の方をちらりと盗み見る。
店長のベルタが腕を組みながら、険しい顔でこちらを窺っていた。
「じゃあ、座って話そうか」
二人は奥の静かなテーブル席へと腰を下ろした。
しばらくの沈黙のあと、マーガレットが意を決したように顔を上げた。
「私ね……アルドさんのことが好きなの」
エルフィは何も言わず、ただ静かに彼女を見つめる。
「最初は友達の婚約者として見てたの。でも……気づいたら好きになってた。本当にごめん」
申し訳なさそうに眉を下げてみせるマーガレット。
だが、その瞳の奥には、優越感がこれでもかとギラギラと浮かんでいた。
「それにね……アルドさんも、エルフィとの婚約を解消したいって、ずっと一人で悩んでたの。だから、私から話してほしいって頼まれて――」
「マーガ」
エルフィはその言葉を静かに遮った。
「一つだけ聞いていい? ……アルドは、今日ここに来ないの?」
マーガレットの愛らしい表情が、ぴきりと固まった。「……えっと」
「自分では言えないから、あなたを代わりに寄こしたの?」
エルフィは心の底から呆れ、小さく息を吐き出す。
(やっぱりね)
婚約を解消したいなら、堂々と自分で言いに来ればいい。
最後まで保身に走り、泥を被る役目を他人に押し付ける――どこまでもそんな男なのだ。
「わかったわ」
エルフィは、驚くほど穏やかに微笑んでみせた。
「おめでとう、マーガ」
「え……?」
今度はマーガレットが目を丸くした。
泣き喚くか、怒り狂うとでも思っていたのだろう。
予想外の祝福に完全に戸惑っている。
「ミルクティー、淹れてくるね」
エルフィが席を立とうとした、その時だった。
カランと、またドアベルが鳴った。
遅れて店内に現れたのは、アルドだった。
マーガレットの顔がパッと明るくなる。
アルドは当然のようにマーガレットの隣へ腰を下ろすと、エルフィをじっと見た。
「エルフィ」
いつも通りの爽やかな笑顔だった。
「少し、話があるんだ」
「はい。話ってなんですか?」
エルフィが促すと、アルドはまるで見せつけるようにマーガレットの肩をグッと引き寄せた。
「君との婚約を解消したい。これからは、マーガレットと一緒になるつもりだ」
店内の空気が一瞬で凍りつく。
マーガレットは勝ち誇った笑みを隠すように、頬を染めて俯いた。
「君を傷つけたいわけじゃないんだ」
アルドはさも自分が良識ある人間であるかのように言葉を重ねる。
「ただ、これからの僕には、商会を支えてくれる、身の丈の合った妻が必要なんだよ。分かってくれるよね?」
その身勝手な言い草に、厨房の奥でベルタが盛大に顔をしかめたが、アルドは全く気づいていない。
エルフィはしばらく黙ってその男を見つめ――そして、ふっと小さく頷いた。
「うん。わかったわ」
「……え?」
アルドが間の抜けた声を上げ、目を見開いた。
マーガレットも絶句している。
エルフィはただ、心からの微笑みを二人に向けた。
「わかった。それじゃあ、二人ともお幸せにね」
泣き崩れると思っていた。
引き留められると思っていた。
少なくとも、もっと取り乱すと思っていた。
だが、エルフィは笑っている。
拍子抜けしたアルドは、ひどく不満そうな顔をした。
エルフィの胸の奥で、何かがふっと軽くなった。
長い間、首を締め付け、自由を奪っていた重い鉄の鎖が、ようやく音を立てて外れた気がした。
「……そうか。なら、行くよ」
プライドを傷つけられたアルドは、どこか面白くなさそうに立ち上がる。
マーガレットも慌てて、しかし勝者の笑みを貼り付け直してそれに続いた。
二人が逃げるように店を出ていく。ドアベルが鳴り、そして、最高に心地よい静寂が戻ってきた。
しばらくして、厨房からベルタがハラハラとした様子で出てきた。
「エルフィ……大丈夫かい?」
心配そうな声。
けれど、振り返ったエルフィの顔には、これ以上ないほどの満面の笑みが浮かんでいた。
「ベルタさん」
エルフィは声を弾ませ、本心から、魂の底から言い切った。
「今、ものすごく嬉しいです!」
ベルタはぽかんと口を開けたあと、すべてを察して優しく目元を緩めた。
(終わった。ようやく、本当に……私の人生が始まるんだ)




