6 仮面の下
翌朝、まだ朝霧の残る時間だった。
家を出る準備をしていたエルフィの部屋の窓が、バンバンバンっと叩かれた。
「エルフィちゃん!」
窓を開けると、そこには息を切らしたクロが立っていた。
「クロ?どうしたの!?」
「大変なんだ、実は……」
クロは周囲を確認すると、小さな声で続けた。
「今日の夕方に、フォルデ翁のところにアルドが行くらしい」
エルフィの胸がざわつく。
「アルドさんが、フォルデ翁のところに?」
「うん。何か書類を持って行くみたいなんだ」
クロの表情は険しかった。
「詳しいことは分からない。でも、長老たちの間で少し騒ぎになってる」
エルフィは息を呑んだ。
夢の男。
アルド。
そして、フォルデ翁へ持ち込まれていた書類。
「クロっ!」
エルフィはバッと顔を上げた。
「アルドさんが来る時、私も一緒に行きたい!」
「え?」
クロが目を見開く。
エルフィは、なぜか胸騒ぎがしていた。
なぜか放っておいてはいけなかった。
「お願い」
真っ直ぐ見つめるエルフィに、クロは数秒黙り込んだ。
「分かった。エルフィちゃんがそこまで言うなら協力するよ」
クロは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「フォルデ翁に話を通しておく」
ーー
カフェのドアベルが鳴り、マーガレットがやってきた。
だが、いつもの彼女とは少し様子が違った。
明るく店に入ってくることもなく、落ち着かないように何度も視線を彷徨わせている。
「いらっしゃい、マーガ」
「う、うん」
どこか上の空な返事だった。
注文を終え、店内が静かになった頃。
マーガレットが不意に身を乗り出した。
「ねえ、エルフィ」
「なぁに、マーガ?」
「アルドさんって――やっぱり、すごくお金持ちなんだよね?」
エルフィは一瞬だけ目を瞬いた。
「そうだね。ヴァルト商会はこの街でも有数の大商会だし、アルドが跡を継げば、もっと大きくなると思う」
「そっか……」
マーガレットは視線を落とした。
指先がティーカップの縁をなぞる。
「やっぱり、そうなんだ」
その横顔はどこか寂しそうだった。
しばらくの沈黙が続いた。
「……いいな」
ぽつりと零れた声は、自分自身へ向けられた独り言のようだった
エルフィは何も聞かなかった。
代わりに、淹れたてのミルクティーを静かにテーブルへ置く。
「どうぞ。温かいうちに飲んでね」
「あ……うん。ありがとう」
マーガレットはぎこちなく笑った。
エルフィはそれ以上何も言わず、そっとその席を離れた。
ーー
カフェの仕事が終わる頃、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべたアルドがやってきた。
「エルフィ、今日帰りがけに少し翁のところに寄っていこう。翁から『補助金の書類を確認したいから、字が読めるエルフィ嬢も一緒に連れてきてくれ』と頼まれてね。サインしてもらうだけだから、すぐに終わるよ」
「……はい、わかりました」
朝のうちにクロが話を回し、翁からアルドへそう伝えてもらうよう仕込んでおいてくれたのだ。
エルフィは静かに頷き、エプロンを外した。
ーー
居住区へ到着すると、広場の大きな木の下でフォルデ翁が待っていた。
その傍らには、昨日昼間カフェに現れた黒髪の男――ギルバートが立っている。
長い黒髪を後ろで束ね、相変わらず穏やかな微笑みを浮かべていた。
(……夢の中で、何度も見た顔だ)
無意識に握り締めた拳に力が入った。
「おお、アルド君にエルフィ嬢。待っておったよ」
フォルデ翁が二人を見つけて手招きする。
「補助金の書類なんじゃけどな。サインする前に、少し確認したいことがあってな」
そしてエルフィへ視線を向けた。
「エルフィ嬢。お前さんにも一緒に文面を見てもらいたいんじゃ」
「はい」
エルフィは頷き、翁の隣へ歩み寄る。
それを見たアルドは、余裕の笑みを浮かべていた。
読み書きもおぼつかないエーテの民の娘が、行政文書を読んだところで何が分かる。
そう思っているのだろう。
「もちろんです。どうぞご確認ください」
アルドは懐から書類を取り出し、木製のテーブルへ広げた。
エルフィは静かに視線を落とす。
一枚目、二枚目、三枚目。
補助金の金額、支払い方法。
受領手続き。
どれも問題なさそうだった。
だが――。
最後のページを開いた瞬間、強い違和感が胸をよぎった。
ページの下部に並ぶ細かな文字。
普通なら読み飛ばしてしまうような小さな文字列だった。
ここに何かある。
息を殺しながら、指先で文字を追う。
そして――。
(……あった)
エルフィはゆっくりと顔を上げた。
「フォルデじい。ここの条項を読み上げてもよろしいですか?」
広場の視線が集まる。
エルフィは落ち着いた声で、その一文を読み上げた。
「『本補助金の受領をもって、甲は居住区内における全ての土地の所有権を、乙へ無償で譲渡することに同意したものとみなす』」
広場から音が消えた。
「……無償で譲渡?」
フォルデ翁が呆然と呟く。
「土地を……手放せということか?」
「そうだと思います」
エルフィは静かに頷いた。
「条文通りに解釈するなら、そうなります」
異変を察知し、周囲からざわざわと住民たちが集まり始める。
空気が一気に一触即発の緊迫感に包まれた。
だが、ギルバートは微塵も慌てなかった。
「皆さん、どうか落ち着いてください」
どこまでも穏やかで、人を安心させる声音だった。
「これは行政文書で一般的に使われる定型表現の一つです。皆さんの土地を奪う意図など、もちろんありません」
その言葉に、住民たちが顔を見合わせる。
「でしたら」
エルフィが静かに口を開いた。
ギルバートの視線が、初めてまっすぐエルフィへ向けられる。
「この条項を削除した書類を、作り直していただけますか?」
広場が再び静まり返った。
「土地を譲渡させる意思が最初からないのでしたら、この一文は必要ありませんよね」
ギルバートの顔からほんの一瞬、笑顔が消えた。
「……それは」
「できない、ということですか?」
エルフィは真っ直ぐ見つめ返した。
ギルバートは答えず、わずかに視線を伏せた。
ドンッ!
フォルデ翁が、杖を地面へ叩きつけた。
「もう十分じゃ! わしらを騙し、土地を掠め取るつもりだったんじゃな!」
それを合図に、住民たちの怒りが一気に爆発した。
「ふざけるな!」
「俺たちの土地を奪う気だったのか!」
「帰れ!」
口々に罵声を浴びせられる中、ギルバートは冷ややかに住民たちを見回した。
そして、観念したように小さく息を吐く。
「……一度、本部へ確認いたします」
彼は従者を促し、足早に広場を後にする。
完全に想定外の事態に、アルドも顔を青くしながらその後を追おうとした。
「アルドさん」
背後からのエルフィの呼び声に、アルドが弾かれたように振り返った。
「……お前」
かすれた声で、アルドは呻く。
「どうして……どうしてあんな、誰も読まないような細かい条項まで読んだんだ?」
「どうして、と言われましても……」
エルフィは不思議そうに首を傾げた。
「長老に読んでほしいと頼まれたからです」
そして、一歩も引かずにアルドを見つめ、首を傾げた。
「……何か、いけないことでもありましたか?」
アルドは言葉を失った。
握りしめられた拳が小刻みに震えている。
やがて、フォルデ翁へ深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。こちらの確認不足でした」
苦々しくそれだけを絞り出し、アルドは踵を返した。




