5 夢の男
その夜に見た夢は、とても感傷的で、凍えるように孤独な夢だった。
王宮の長い廊下のようだった。
壁には歴代の王たちの肖像画が並び、磨き上げられた床はぼんやりと光を反射していた。
そこに女王とその夫が立っていた。
「あなたに、どうしても聞きたいことがあるの」
静かに声をかけられた夫は、ゆっくりと振り返る。
その顔には、仮面のように美しい笑顔が張り付いている。
「なんだい、私の愛しい女王」
女王は――そのあまりにも整った笑顔を見た瞬間、喉まで出かかった言葉を静かに飲み込んだ。
(――聞いても、無駄かもしれない。嘘をつかれるだけ)
女王は寂しげに、長いまつ毛を伏せる。
「いいえ、なんでもないわ」と小さく首を振った。
夫は「そうか」とだけ言って、背を向けた。
そして、作られた笑顔のまま、長い廊下の奥へ消えていった。
一人残された女王が見上げた窓の外には、重苦しい夜空が広がっていた。
星たちはすべて、暗い雲の向こうに隠れてしまっている。
(あなたは、やっぱり私を愛してなんかいないのね……)
(私の家族は、一体誰に殺されたの?)
(そして、あなたは本当に無関係なの?)
エルフィは夢の中で、切なくて胸が苦しくなった。
そこで夢は、ぷつりと途切れた。
ーー
辛い夢を見た翌日。
ランチのピークが過ぎたカフェは、静かだった。
店内に残っている客は数人だけで、コーヒーの香りとのんびりした音楽が流れていた。
そんな中、一人の男が店に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
いつものように、水とおしぼりを運び、男の顔を見たときーー。
エルフィの心臓は、ドクンっと大きな音を立てた。
その男は長い黒髪を後ろで一つに結び、濃紺のジャケットを着ていた。
装飾はほとんどされていない。
しかし、その上質な仕立ては、平民には決して手の届かないものだった。
左目の片眼鏡の奥には、アイスブルーの垂れた瞳があった。
夢の中の男だった。
いつも女王の隣にいた。
女王が信じたかったけど最後まで信じられなかった、あの男。
(ーー本当に、いたんだ)
「いらっしゃいませ。……ご注文は、お決まりですか?」
エルフィの顔を見た男の目が、ほんのわずかに見開かれた。
でもそれは一瞬のことで、男はすぐに元の綺麗な笑顔を作った。
「コーヒーを一つ。砂糖はなしで」
「かしこまりました。少々お待ちください」
エルフィはぺこりと頭を下げ、厨房へと向かった。
トレイを持つ手が、小刻みに震えていた。
脳裏に夢の光景がよみがえる。
孤独そうな女王の横顔。
偽りのように美しい笑顔。
そして――
家族の死。
(あの男が、どうしてここに?)
(あの男は、レジーナ女王を毒殺したの?)
(女王の家族を殺したのも、あの男なの?)
エルフィは、上手く息ができなかった。
厨房の隅にしゃがみ込み、ドクドクと波打つ胸を押さえた。
しかし、深呼吸をしても、震えは少しも収まらなかった。
ーー
男はゆっくりと静かにコーヒーを飲み干し、席を立った。
滞在時間は三十分ほどだっただろうか。
「美味しかった。また来るよ」
お会計を済ませながら、男は穏やかに微笑む。
「ありがとうございました」
エルフィはぎこちなく頭を下げた。
男は軽く手を振ると、そのままカフェを後にした。
男が出ていった後も、その香水の香りだけは店内に残っていた。
熟れた果実のような、濃厚で甘い香り。
どこか官能的で、一度嗅いだら忘れられない香りだった。
ーー夢の中の男と、同じ香りだった。
ーー
仕事を終えた頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。
エルフィは一人、居住区へと続く道を歩いていた。
頭の中では、昼間の出来事が何度も繰り返されている。
夢の中の男。
レジーナ女王の隣に立っていた男。
そして今日、実際にカフェへ現れた男。
(同じ人なのかもしれない……)
偶然だとは思えなかった。
けれど、だからといって確信が持てなかった。
もし同一人物だったら、そんな高貴な身分の人がどうして平民ばかりの街にいたんだろう。
エルフィは小さく息を吐いた。
「――エルフィちゃん!」
不意に名前を呼ばれ、エルフィは顔を上げる。
「わっ!びっくりした!」
居住区の入り口近くに、クロが立っていた。
「クロ?」
クロはエルフィの方へ、駆け寄ってきた。
「よかった。エルフィちゃんに会えて」
「どうかしたの?こんなところに来るなんて」
クロは周囲を見回した。
近くに誰もいないことを確認してから、小さな声で言う。
「今日、カフェに変なお客さん来なかった?」
エルフィの心臓がドキッと跳ねた。
「……変なお客さん?」
「黒髪で、背が高くて。片眼鏡をしてる男なんだけど……」
エルフィは思わず息を呑んだ。
「ああ、うん。たぶん、来たよ」
エルフィが答えると、クロの表情が曇った。
「やっぱり……」
「クロはその人を知ってるの?」
クロは少しだけ言葉に詰まった。
それから慎重に口を開く。
「最近、アルドと一緒にいるところを見たって人がいるんだ」
エルフィの呼吸が止まりそうになる。
「アルドさんと……?」
「うん」
クロは小さく頷いた。
「何をしてるのかは分からない。でもいいことじゃないと思うんだ」
「この街に貴族が来ることなんて滅多にないし……」
クロは言い淀んだ。
「ごめん。上手く言えないけど、とにかく気をつけて」
そこまで言うと、クロは真っ直ぐエルフィを見た。
金色の瞳が、揺れている。
「……うん、わかった」
エルフィは静かに頷いた。
「僕はエルフィちゃんの味方だから」
クロは少し照れたように笑った。
「何かあったら、ちゃんと頼ってよ」
その言葉に、エルフィの口元がほんの少しだけ緩む。
「ありがとう、クロ」
不意に名前を呼ばれたクロは、耳を赤くしながら頭を掻いた。
「……へへ。どういたしまして」
ーー
その夜。
寝巻き姿のリリアが、そっと部屋へ入ってきた。
「お姉ちゃん、まだ起きてたの?」
エルフィが顔を上げると、リリアはスッとエルフィのベッドに潜り込んできた。
そして、その小さな手でエルフィの手をぎゅっと握った。
「リリア?どうしたの?寂しくなった?」
「ううん。ねえ、お姉ちゃん、今日、元気なかったでしょ?」
リリアは少しだけ眉を下げ、エルフィのおでこに自分のおでこをくっつけた。
エルフィは思わず、目を瞬いた。
家族には隠していたつもりだった。
けれど、リリアには気付かれていたらしい。
「そんなこと――」
「あるよ」
リリアは小さく首を振った。
そして、エルフィをギューっと抱きしめた。
「でも、大丈夫だよ」
リリアの腕に、ぎゅっと力がこもる。
「お姉ちゃんは一人じゃないもん」
「私がいるし」
リリアは少しだけ笑った。
「お母さんもお父さんもいるし」
「村のみんなだっているよ」
エルフィは思わず吹き出した。
「ふふっ」
「あ、笑った!ふふっ」
リリアが嬉しそうに笑う。
毒から回復したばかりの手はまだ少し細い。
それでも、その手から伝わる温もりは不思議なくらい力強かった。
張り詰めていた心が、少しずつほどけていく。
窓の外では星が瞬いていた。
夢の中で見た灰色の空とは違う。
今夜の空には――
数え切れないほどの星が輝いていた。




