2 夢
熱が下がってから、三日が経っていた。
エルフィは、毎晩あの奇妙な夢を見ていた。
ある夜は、自分以外の家族が乗った馬車が、崖から落ちたと告げられる夢だった。
その馬車には、両親と妹、そして飼っていた猫も乗っていた。
女はとても辛かったが、ショックがあまりにも大きすぎて涙さえ出なかった。
世界からずべての色が消え去り、白黒になった人生の中で、毎日が辛く消えてしまいたかった。
王だった父の死に伴い、女は若くして女王の座についた。
誰が敵か味方かも分からず、誰も信じられなくなった。
優しかった婚約者のことも、疑ってしまい、安心できる居場所がなくなった。
女は、両親と妹は、誰かに殺されたと思っていたから。
ある夜は、婚約者との初夜の夢だった。
婚約者はずっと優しかったが、女を抱くことはなかった。
「両親と妹が死んで傷ついている女に、無理をさせたくない」と彼は言った。
しかし二十歳で結婚して三十歳で死ぬまで、一度も彼が女を抱くことはなかった。
女はそれを寂しく感じていたが、悟られないように気をつけていた。
ある夜は、白い薔薇を夫から受け取る夢を見た。
女が一番好きだった花だ。
「あなたの笑顔が見たい」という夫に、
「ありがとう。でも心が苦しくて、ちゃんと笑えないの」と寂しそうに答えていた。
夢が進むにつれ、女はどんどん心を閉ざしていき、それと同時に、どんどん冷徹になっていった。
女の心は本当は柔らかく優しかった。
でも、女王というあまりにも重い責任が、それを奪っていった。
守るべき国民のため、女王らしく振る舞おうと、彼女は必死だった。
彼女が心を許して頼れる相手は、誰もいなかった。
夢の中の女は、どの夢でもエルフィにそっくりだった。
エルフィは自分の人生を見ていると錯覚するくらい、夢の中の女に感情移入していた。
どの夢も、不思議な夢だった。
行ったことのない場所、食べたこののないご飯、着たことのないドレス。
どれも無駄に豪奢で、ギラギラとした空気が流れていた。
夢を見るたびに、女王の高度な知識や膨大な記憶がエルフィの中に追加されていった。
――まるで、自分の前世をなぞっているかのような、奇妙で不思議な感覚。
普通だったらこの奇妙な変化を、怖がるのかもしれない。
でも、エルフィはごく自然に受け入れていた。
恐怖すら抱かず、あまりに自然に馴染みすぎている。
エルフィは、自分の頭がどこかおかしくなったのかもしれない、と思った。
ーー
熱が下がって四日目。
エルフィは一週間ぶりに、カフェに出勤した。
「エルフィ、大丈夫?本当に、無理しないでいいからね」
ベルタが心配そうに声をかけてくる。
「ベルタさん、ありがとうございます。でも、すっかり元気ですよ!一週間も休んじゃったので、そのぶん張り切って頑張ります!」
エルフィは胸の前で小さな拳をグッと握り、笑顔で元気アピールをした。
「張り切りすぎないでいいの。健康が一番なんだから。エルフィはいつも頑張りすぎなのよっ。もし、少しでも体調が悪いと感じたら、すぐ言ってね!絶対よ?」
ベルタは優しく微笑むと、仕込みのため厨房に戻って行った。
エルフィはキュッと白いエプロンのリボンを背中で結び、開店の準備に取り掛かった。
黒板に、今日のスープの絵を描きながら、エルフィはあの夢のことを考えていた。
ーー夢の中の女王は、いつも孤独そうだった。
広い宮殿には、たくさんの貴族や使用人がいるのに。
隣に優しい夫が寄り添っているのに。
いつも寂しくて、悲しくて、でも誰にもその孤独を悟られないよう必死だった。
「あっ!エルフィ〜〜!もう大丈夫なの〜〜?」
チリンチリンッとドアベルが鳴って、マーガレットが小走りにカフェに入ってきた。
「マーガ!久しぶり!もう、元気いっぱいだよ〜。心配してくれて、ありがとねぇ!」
「わ〜、よかったぁ!すっごく心配してたんだから!あ、これ、お見舞いのお菓子持ってきたよ!」
マーガレットは小さな紙袋を、はいっ、とカウンターに置いた。
隙間から中を見ると、焼き菓子の香ばしい匂いがふわっとした。
「わあ、嬉しい!すごく美味しそう!家に帰ってから大切に食べるね、ありがとう」
「すっごい美味しいんだから。最近お気に入りのケーキ屋さんで見つけたの。あ、それと注文いいかな?ミルクティーと、ん〜……、今日はいちごのショートケーキをお願い!」
マーガレットはいつものお気に入りのテーブル席に腰掛けた。
「そうそう。エルフィ〜、聞いてよ。昨日さーー」
彼女の口からは、いつも通りキャッキャと明るい言葉が次から次へと溢れ出す。
昨日見つけた可愛いアクセサリーの話、父親に新しい靴を買ってもらった話。
エルフィは手際よくミルクティーを準備しながら、その愛おしいお喋りに笑顔で相槌を打っていく。
「ーーあっ、そうだ!」
マーガレットが何か重大なことを思い出したように言った。
「昨日アルドさんに、偶然あったよ」
「えっ?そうなの?」
カリッ、トレイを持つエルフィの指先に力が入った。
「うん、市場でね。荷物がすごく重そうだったから、パパが少し手伝ったの。アルドさんって、本当に噂通り優しいよねー。そのあとで、わざわざお茶まで奢ってくれたんだよ!」
嬉しそうに話すマーガレットの頬は、かすかに赤らんでいた。
「アルドさん、確かに優しいよね」
エルフィは温かいカップをテーブルに静かにおきながら、平静を装って言った。
「エルフィって、本当に幸せだね」
両手でほっぺを包みながら、ほぉっ、と羨ましそうに息を吐きながら、マーガレットは上目遣いでエルフィを見上げた。
「え、あ……、そうだね。ありがたいことだね」
エルフィはそれだけを穏やかに返すと、トレイをグッと抱えて、逃げるように静かに厨房へと向かった。
ーー
午後、アルドが友人二人を連れてやってきた。
一番奥のテーブルに座った。エルフィは注文を取りに行って、厨房に戻った。
飲み物を準備していると、遠くから三人の声が聞こえてきた。
「なあアルド、お前の婚約者って、ここの店員だろ?あの美人ちゃん?」
「ああ。そうだよ」
「そういえば、エーテの民なんだよな?」
「うん、そう。エーテの民だよ」
友人の一人が、あざ笑うように言った。
「大変だな。エーテの民と婚約なんて。財産根こそぎ持ってかれるんじゃないの?」
アルドは鼻で笑い、少しの間を置いてから吐き捨てるように言った。
「ないない。俺にそんなことするって何様だよ、ってんだ。まあ、しばらくの辛抱さ」
「でもあの子、綺麗だよな。俺、ぼーっと見ちゃうわ。あんな綺麗な子なら、エーテの民でも俺も婚約したいわ」
「まあな。顔はいいかもな。エーテの民だけどな」
友人たちがドッと下品に笑った。
「それで——婚約者ちゃんはお前のこと好きなのか?」
アルドは得意そうに笑った。
「ああ。重い女でさ、惚れ込まれちゃって、まじで困ってるんだよな。俺のことほんと大好きなんだよ。もう、態度がさ、わかりやすくてさ。まあ綺麗な子だから、悪い気はしないけど」
「はは、エーテの民のくせにいいご身分だな!」
「だろ。まあでも利用できるうちは利用してやろうかと思って」
男たちの気持ちの悪い笑い声が、少し離れた厨房に響いた。
エルフィは静かにトレイを持ち、一番奥のテーブルへと向かった。
「お待たせいたしました。ホットコーヒー三つです」
何事もなかったかのように、三人の前にそれぞれのカップを置いていく。
アルドが、ふっ、と振り返り、爽やかな顔を作ってエルフィを見上げた。
「ああ、ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
エルフィは事務的にそれだけを告げ、仕事用の笑顔でその場をすぐに離れた。
ーー
仕事が終わり、エルフィは居住区への帰り道を一人で歩いていた。
広場へ繋がる路地を曲がったところで、突然、大きな怒鳴り声が聞こえてきた。
見ると、ふくよかでいかにも金持ちそうな商人が、一人の老人に向かって声を荒げていた。
老人の手首には、赤いブレスレットがあった。
ーーまた、エーテの民が言いがかりをつけられている。
エルフィは直感的に、そう思った。
「おい、じいさん!俺の荷物に傷がついたぞ!ほら、よくここを見ろ!なあ、きっちり弁償してくれよ!」
エルフィは、拳をギュッと握り、覚悟を決めて一歩踏み出した。
ーーその時だった。
「どうかなさいましたか?老人に声を荒げて、みっともないですよ」
どこからかアルドがサッと現れて、老人を庇うようにその前に立ちはだかった。
アルドは商人の荷物を確認して、静かに言った。
「この荷物の傷は、随分と古い傷に見えます。それに、たとえ荷物を入れる木箱に傷がついても、中身が無事なら問題ないでしょう。荷物を落としたわけでもないんですよね?」
「え、いや、それはーー」
気まずそうに、商人は視線を逸らした。
「この老人とすれ違った時、荷物は落ちていませんでした。これほどの傷がつくような接触は、物理的にしていませんよね?」
正論を突きつけられ、商人はグッと黙った。
「きっと、何かの勘違いでしょう。さあ、お互い無かったことにして、気持ちよく帰りませんか」
アルドは商人を見つめ、爽やかに微笑んだ。
商人は大きく舌打ちをしながら、荷物を抱えて小走りにその場を去っていった。
老人はアルドに深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、ヴァルト商会の若様。本当に、本当に助かりました」
周りで成り行きを見守っていたエーテの民たちが、次々と駆け寄ってきた。
「じいさんを助けてくださって、ありがとうございます」
「若様は、本当にいいお方だ……」
「若様がいなかったら、どうなっていたことか」
「いつも私たちのような者にも気にかけてくださって、本当に、ありがとうございます!」
「当然のことをしたまでですよ。お気になさらず」
口々に感謝を伝えるエーテの民たちに、アルドは穏やかに微笑んだ。
やがて彼らを背にアルドが歩き始めた方向に、エルフィがいた。
「あ、エルフィ。仕事帰りかい?送って行くよ。ほら、おいで」
アルドはごく自然に、エルフィの隣を歩き始めた。
「ああいうの、嫌いなんだよね。弱い者イジメする奴なんてさ」
アルドが明るく言った。
「アルドさんは、優しいですね……」
エルフィは目を丸くして、アルドを見つめ、ぽつりと言った。
アルドはエルフィを見て、満足そうに笑っていた。あの爽やかな、よそ行きの笑顔で。
――やがて路地に入り、周囲に誰もいないことを確認した瞬間。
アルドが、ふっと声を落とした。
さっきまでの爽やかな響きが消え、ガサついた低い声で言う。
「……なーんてね。まあ、ああやって少し手を貸してやるだけで、あいつらは勝手にありがたがってくれるんだから。チョロいよな〜」
アルドは可笑しそうに肩をすくめ、隣を歩くエルフィの顔を覗き込んできた。
「あの老人たちの顔、見た? 『ヴァルト商会の若様は神様だ』って言いたげなマヌケな面。あんな簡単に信用されちゃってさ、正直、笑っちゃいそうだったよ。――まぁ、エーテの民の癖に、俺みたいな高貴な人間に助けてもらえるんだ。当然の反応かもしれないけどさ」
「二人だけの秘密の冗談」を共有するように、アルドはクククと笑った。
アルドはエルフィのことを、完全に信用しきっていた。
何を言っても自分のことを盲目的に好きでいてくれる、従順な愛玩動物。
そう確信しているからこそ、その醜い本音を隠すこともない。
「アルドさんは、頭がいいですから……」
エルフィは長いまつ毛をふせ、気弱そうにつぶやいた。
「私には難しいことは分かりません。でも、アルドさんは立派な人ですから」
「あはは、お前は本当にバカで素直だな。でもそういうとこ、嫌いじゃないよ」
アルドは満足そうに目を細め、馬鹿にしたような笑みを浮かべたまま、エルフィの頭をポンポンと撫でた。
ーー
家に着いたら、今日もリリアが玄関で待っていた。
「あ、お姉ちゃん!おかえり!お〜そ〜い〜!」
「ただいま。遅くなってごめんね。はい、これ。美味しそうでしょ〜」
エルフィは、もらった焼き菓子の袋を差し出した。
「わっ! なに、なにこれ!?いい匂い〜!」
「マーガから。お見舞いって、もらったんだよ〜。リリア、全部食べていいからね」
「やったぁーー!お姉ちゃん、大好き!いっただっきぃ〜〜」
袋をパッとエルフィから受け取ると、リリアはルンルンとスキップで奥の部屋へと去っていった。
エルフィはその小さな後ろ姿を見送りながら、愛おしさに少しだけ目元を緩めた。
ーー
翌朝、リリアの様子がおかしいことに気づいた。
手が痺れて、感覚がいつもと違って鈍いのだという。
「お姉ちゃん……手が変なの。動きにくいの。怖いよ……」
リリアは小さな両手を見つめ、涙をポロポロと零していた。
エルフィはリリアの手を取り、指先を小さく押しながら、その反応を確かめた。
(ーーあれ?なんで私、対処の仕方を知っているんだろう?)
疑問を抱いた瞬間、エルフィの頭の中で、女王の記憶が知識が、エルフィに次の行動を促してくる。
ーー遅効性の、特殊な神経毒だ。
(毒?ーーまさか、マーガの焼き菓子?うそっ、嘘でしょ?そんなわけ……ない……よね……っ)
最悪の想像が頭をよぎり、エルフィの背中に嫌な汗がツーっと流れる。
大好きな親友の笑顔が思い出され、胸が激しく締め付けられた。
「リリア、ここ最近、誰かから何かもらわなかった?食べ物でも、なんでもいいから教えて!」
「えっと、昨日お花もらったよ。すごく綺麗な、紫のやつ」
エルフィはすぐリリアの部屋に行った。
リリアのベッドのすぐ横に、花瓶があった。
薄紫の花が活けてある。
花は満開だった。
近づくと、ねっとりとした甘い香りがした。
ーー頭の中で、何かが弾けた。
蜜に毒がある、珍しい植物。
密閉された部屋でその香りを長時間吸い込み続ければ、毒が神経にじわじわ蓄積する。
標的に、長期間激しい苦痛を与え、殺すこともできる。
あまりにも、悪趣味な毒だ。
(これだ。間違いない。マーガのお菓子じゃなくて、この花だーー!)
エルフィは迷わず花瓶を掴んで、窓の外に向かって乱暴に投げ捨てた。
「紫の花、誰にもらったの?」
エルフィはリリアのいるダイニングに戻って、聞いた。
「えっとね……、知らないおじさん。背が高くて、大きな帽子をかぶってたよ。エーテの民の可愛い子にあげる、って言われた」
エルフィはリリアを、もう一度しっかり観察した。
血の気の引いた白い肌。ブルーの唇。
目の下には毒素によってできた青黒い隈があった。
(許せない……!私の可愛いリリアに、なんてことを!)
エルフィは頭の奥底に流れ込んできた膨大な知識から、この毒を中和するための解毒薬を引きずり出した。
「リリア、少し横になっていて。」
「お母さん、リリアをお願い!私ちょっと森に行ってくる!それからすぐ、近所の家を回って! もしリリアと同じ紫の花を貰った子がいたら、今すぐ捨てるように伝えて!!」
「えっ!? ちょっと、エルフィ、どういうこと――」
驚くマーサの声を無視して、エルフィは急いで玄関を飛び出した。




