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最下層民エルフィと女王の記憶  作者: 風谷 華


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1 赤いブレスレット


あのひどい高熱で死にかけるまで、私はただの無力な少女だった。


身勝手で傲慢な婚約者フィアンセに、逆らえずに耐えるしかなかった。


ーーけれど、死の淵で脳裏にパチリと芽生えた、ある女王の記憶。


これによって、私は誰にも奪えない力を得た。

もう、我慢も、隷属もしない。


私の人生は、私のものだ。


ーー


カフェ・ルーチェの朝は、パンの香ばしい匂いに包まれている。


エルフィ・ルミナリスは裏口からカフェに入り、慣れた手つきでエプロンを結ながら冷蔵庫に貼られた、今日の仕込みメモを確認する。

赤を基調としたオシャレな店内。

テーブルが四つとカウンターがあるだけの、こじんまりした空間だ。


「エルフィ!おはよう!今日もよろしくねー!」

カフェの前を掃除して戻ってきた、オーナーのベルタが朗らかにエルフィに挨拶をした。


ベルタは五十過ぎの、がっしりとした体型の女性だ。

短く刈り込んだ白髪に、キリッとした眉。

一見怖そうだが、普段は穏やかで怒ることは滅多にない。


「ベルタさん、おはようございます!」


「今日のランチのスープ、やっぱりシチューにしようと思ってね。黒板の書き換え、お願いしてもいいかい?」


「もちろんです!今日もとびっきり、美味しそうに描いちゃいますっ!」

エルフィはニカっと笑いながら、ベルタさんに向けてピースをする。

そして、チョークを手に取り、鼻歌を歌いながら黒板にシチューの絵を描いていく。


カフェ・ルーチェは、街の中心から少し離れた路地にある。

観光客が来ることはほとんどないが、近所の常連さんが毎日のように顔を出す。

給料はお世辞にも、高いとは言えない。

でも、エルフィはこのカフェが大好きだったし、ここで働けて幸せだった。


ベルタは面接の時、エルフィの手首の赤いブレスレットを見ても、態度を変えなかった。


「明日からおいで。よろしくね」

ただそう言って、微笑んでくれた。



ほかほかと湯気が立つシチューの絵の上に、「本日のスープ:シチュー」と文字を加える。

我ながら美味しそうな出来栄えに、ふふっ、と笑みがこぼれる。


朝の街が、キラキラと動き始めていた。

石畳を馬車が走り、商人が荷物を運ぶ。

子どもたちが、元気に駆け抜けていく。


(今月のお給料で、お母さんに新しいエプロンを買ってあげれるかな……)


そんなことを思いながら、エルフィは今日も働き始めた。


ーー


カフェ・ルーチェの開店と同時に、常連たちがやってきた。


毎朝コーヒーをテイクアウトする、新聞記者のダン。

パンとスープを注文し、二、三時間のんびり過ごす、老画家のグレイ。

週に三回、同じケーキとハーブティーを頼む、仕立て屋のレモー二夫人。


エルフィは常連全員の顔と注文を覚えていた。


「はい、グレイさん。いつものホットコーヒーたっぷりサイズです。シチューはもう少々お待ちくださいね」


トレイを片手に、エルフィはキビキビとコーヒーを運んだ。

エルフィのポニーテールにした金の髪が、緑の細いリボンと一緒にふわりと揺れた。


「エルフィちゃん、今日も一段と綺麗だね」


グレイは毎朝このセリフを言う。彼にとっての、朝のルーティーンの一つだ。


「ありがとうございます!グレイさんこそ、今日のネクタイ、とっても素敵ですね!」

今日もグレイが元気なことが嬉しくて、エルフィはにっこり微笑んだ。


「お、よくぞ気づいてくれた、エルフィちゃん!今朝新しいのをおろしたばっかなんだよ〜」


「オレンジ色が明るくて、よくお似合いです!」


グレイは照れ隠しに、淹れたてのコーヒーをズズーーっと飲んだ。

そして、アチチっ、と慌ててグラスの水を飲み干した。

その微笑ましい光景に、みんなが思わず笑った。



コーヒーを運んで、テーブルを拭き、新しいお客さんを出迎える。

それをエルフィは、笑顔で楽しそうに繰り返す。

エルフィは心から、この日常を楽しんでいた。


エルフィの容姿は、カフェでよく話題になった。


さらさらの金髪に明るい緑の目。すっと通った鼻筋に、綺麗な輪郭。長い手足に、シュッとしたしなやかな体型。

街のどの令嬢よりも、際立って綺麗な顔立ちに、抜群のスタイルだと、常連たちはよく言った。


「本当に不思議ねぇ……」

ある日、仕立て屋のレモー二夫人が、ため息をつきながらこぼした。

「あれほどの美貌と気品で、エーテの民だなんて。神様のいたずらかしら。もったいないわ」


悪意のない、哀れみの言葉。

エルフィはただ、困ったような微笑みを返すしかなかった。


ーー


昼過ぎ、チリンチリンっ、と軽やかにドアベルが鳴った。


「エルフィ〜〜〜ッ!!今日も元気にし、て、るぅ〜?」

弾んだ、甘い声が、カフェに広がる。


栗色の巻き髪を今日もふわふわと揺らして、マーガレットが入ってきた。

可愛らしい水色のワンピースが、よく似合っている。

マーガレットは街の宝石商の娘で、エルフィより一つ年上の十五歳。

一年前からこの店に通う、常連さんでもあり、エルフィの親友だ。



初めて店に来た時のことを、エルフィは今でも覚えている。


「こんにちは!あのっ、このカフェのケーキ、どれも美味しそうだよね!何がおすすめ?」

マーガレットの気さくさに、エルフィは驚きを隠せなかった。


同年代のエーテの民以外の女の子に、こんなに気さくに話しかけられたのは、初めてだった。

半袖のシャツを着ていたから、手首につけている赤いブレスレットにマーガレットは気づいていたはずだ。

でも、マーガレットは一人の女の子として、普通に接してくれた。


エルフィは驚いたけど、嬉しかった。


それから、マーガレットは週に何度も、カフェに来るようになった。


「エルフィって話しやすいの。なんか、すごく落ち着くんだよね」

そう言って笑うマーガレットと親友になるのに、時間はかからなかった。



「マーガ、いらっしゃい。今日もいつものミルクティーでいい?」

親友の来店が嬉しくて、エルフィは特別な大きな笑顔を見せた。


「うん!あとね、聞いてよ!昨日お父さんに、また新しいワンピースを買ってもらっちゃったぁ!」

マーガレットはいつものテーブルに座って、フリルのついた可愛らしい白い鞄を椅子に置いた。


「ほら見てっ!この生地!ここがレースになってて、ふわ〜〜って!」

ぴょんっ、と立ち上がって、マーガレットはくるくるまわった。

贅沢にレースがあしらわれたワンピースの裾が、ふわっと、まるで花が咲くように可憐に広がる。


「ねえ!さわってみて!」


「わ、柔らかい!これ絹じゃないの?すごーい!」

エルフィは身を乗り出して、滑らかな生地をさわってみた。


「そうなの!今度アルドさんと食事に行く時に着ようと思って、ねっ」

キャッと顔を恥ずかしそうに隠すマーガレット。


「え?アルドさん……と……?」


「あ、もちろん、二人きりじゃないよ。パパの仕事の関係で、食事に行くことになってるだけ。エルフィの婚約者のアルドさん、すごくいい人だよね、本当に」

キャピキャピ、と嬉しそうにマーガレットが続ける。


「そう言ってくれて、ありがとう。自慢の婚約者様だからね」

エルフィはミルクティの準備をしながら、柔らかく笑った。


「マーガこそ、いい人だよ〜。とっても優しいし、それにすごく可愛いしね」


「え〜、そんなことないよぅ。エルフィにそう言われると、嬉しいなぁ」

頬を染めながら、マーガレットが言った。


マーガレットとエルフィは顔を見合わせて、お互いに笑い合った。


ーー


マーガレットはその日も、二時間ほど本を読んだり、おしゃべりをしたり、のんびりした午後を過ごしていた。


帰り際に、お会計を済ませた後、ドアの前でマーガレットが言った。


「ねぇ。今度お休みの日に、一緒に中央市場に行かない?エルフィに似合いそうな布を見つけたんだよね。緑のキラキラしたやつ!」


綺麗な緑の布を想像し、一瞬エルフィの胸が弾んだ。

でもその次の瞬間、冷たい現実が頭を冷やした。

今の自分には、そんな見栄えのする布を買う余裕なんてない。


ーーけれど、エルフィはすぐにいつもの柔らかな笑顔を作り直した。


「行く行く!誘ってくれて、ありがとう。楽しみにしてるね」


「やった!じゃあ、また今度、具体的に計画立てようね〜!」


マーガレットは満足そうな表情で、ひらひらと可愛く手を振って、帰っていった。


エルフィはガラス越しに、遠ざかっていく親友の後ろ姿をじっと見送った。

おそらく市場へ行っても、自分は何も買えないだろう。

でも、親友と一緒に出かける約束したことが嬉しく、エルフィは少しだけ唇の端を綻ばせて、幸せそうに笑った。



ーー


夕方、仕事が終わる頃、婚約者のアルドが来ることになっていた。


エルフィはカウンターの拭き掃除をしながら、チラリと壁の時計を見た。


もうすぐ六時。アルドと約束した時間まで、後数分だ。

エルフィはそっとエプロンの紐を結び直して、前髪をサッと整え、ミントの香りがするリップクリームを唇に滑らせる。


ベルタが厨房から顔を出し、エルフィを見て、お熱いねぇとでも言いたげにニヤリとして、また引っ込んだ。


そしてその直後に、チリンチリンっと、ドアベルの高い音が鳴り響いた。



「エルフィ、来たよ!お待たせっ!」

爽やかな声とともに、アルドがドアを開けて入ってきた。


アルドが入ってきた瞬間、その場の空気がパッと華やいだ。


艶やかな紫の短髪に、人懐っこい笑顔が似合っている。

仕立ての良い上品な上着を、嫌味なくスマートに着こなす姿はまるで貴族のようだった。

街の誰もが口を揃えて、感じのいい爽やかな青年、と彼を噂しているのも納得だ。


エルフィはピンッと背筋を伸ばし、笑顔を作った。

「いらっしゃいませ」


「婚約者に、『いらっしゃいませ』って変じゃない?」アルドは笑った。

「相変わらずエルフィは、堅いなー」



厨房からひょっこりと顔を出したベルタが、柔らかくアルドに話しかけた。

「アルドくん、いらっしゃい!いつもエルフィによくしてくれて、本当にありがとねぇ」


「とんでもないです。ベルタさんこそ、エルフィにいつも優しくしてくれて、ありがとうございます」

アルドは胸に手を当ててお辞儀をしながら、ベルタに向かって、柔らかな笑顔で返した。


「ほら、エルフィ。仕事はもう終わりでいいから、アルドくんと帰りなさいっ」

ベルタは満足そうに何度も頷くと、気を利かせてまた厨房の奥へと引っ込んでいった。



ベルタが厨房に戻ったのを見計らい、アルドはカウンター越しにエルフィに近づいた。


先ほどまでの明るい声とは正反対の、低いぶっきらぼうな声がした。

「もう六時だろ。さっさと帰る準備をしろ。早くお前のオヤジと話をしたいんだ」


「……はい」


すぐ近くから聞こえるアルドの低い声に、ゾクっとした。

エルフィの顔はアルドに対する怒りと屈辱感でカッと赤く染まっていく。


しかしアルドはそんなエルフィを見て、エルフィの顎を指先でクイと持ち上げ、耳元に顔を寄せた。

「ほんと、素直だよな、お前」


心臓がドクンっ、と跳ね上がる。

「……っ」

アルドに敵意を抱いていることがバレたかと、エルフィは身構えるように目をぎゅっとつむった。


「俺のこと、本当に好きだよな。顔が赤いよ。俺もお前を好きだって、勘違いすんなよ!お情けで婚約してやってるんだっつーの」

「まあ、見た目だけは上等だから、連れて歩く分には丁度いいけど。まあ、所詮、薄汚いエーテの民だけどな」


耳元で囁き続けられる侮辱の言葉に、ますます顔が赤くなる。

エルフィは、アルドを睨みつけないよう、視線を足元へそらした。


そんなエルフィを見て満足したのか、アルドは爽やかな笑顔を作り直した。

「じゃあ、外で待ってるからね、エルフィ」


アルドが外に出た後、エルフィはカウンターに崩れ落ちるように手をついた。

そして少しの間、何度も、深呼吸を繰り返した。


ーー


エルフィは急いで支度をし、アルドの後を追うように店の外へ出た。

夕暮れが綺麗な街の通りを、二人は並んで歩き出した。


アルドの横顔を、こいつさえいなければ、とエルフィは隣でちらりと見た。

しばらく歩いていると、アルドもまた、エルフィをちらりと見下ろした。


「なあ、エルフィ。お前って、俺のこと――ほんと好きだよな」


「そう……ですね。でも、どうしてそう思うんですか?」

波風を立てないよう、エルフィは必死で声音を平坦に保った。


「だって、俺の顔を何度も見てるじゃないか、さっきから。相変わらず重い女だよな、お前」

 

 エルフィは前を向いたまま、ただ静かに歩きながら返事をした。

「はい。ありがとうございます」


「ありがとうございます、ってなんだそれ」アルドはクククッと笑った。

「重い女って褒め言葉じゃないから。まあいいよ」


 しばらく歩いて、アルドが思い出したように言った。


「ところでエルフィ、楽器はできるのか?」


「……楽器、ですか?」


「そう。ピアノとか、バイオリンとか。俺の婚約者なんだから、これからお客様の前に出ることもある。楽器の一つも弾けないと、正直、困るんだよね」


 エルフィは答えなかった。


「まあ、買えないよな。エーテの民には」アルドは呆れたように鼻で笑った。

「ピアノなんて、居住区の収入じゃ一生かかっても無理か。仕方ないけどね。エーテの民だから」


「……申し訳ありません」


「責めてるわけじゃない。いや、仕方ないよ。生まれが違うんだから」


 アルドはそう吐き捨てると、またいつもの爽やかな笑顔に戻った。


「そこは仕方ないとして、せめて立ち居振る舞いだけでも磨いてくれ。顔はいいんだから、もったいない」


「ご指摘ありがとうございます。気をつけます」


「ああ。お前はそうやって、素直に俺の言うことを聞いていればいいんだよ」

アルドは満足そうに目を細め、頷いた。



居住区の入り口で、エルフィの父親であるニコラが、今か今かと二人の帰りを待っていた。


「アルドくん、遠いところ、わざわざありがとう……」

ニコラの声はわずかだが震えており、緊張が滲み出ていた。


「いえ、ニコラさんと色々お話がしたくて。お時間、ありがとうございます」

アルドはニコラに向かって、爽やかな笑みを向けた。


貧しい身なりのニコラは、恐縮し、深々と何度も頭を下げた。




この婚約には、深く、歪んだ経緯があった。


ーー始まりは、十年前の馬車事故だった。


アルドの父親であり、ヴァルト商会の会長であるイデオが事故で生死を彷徨った時、偶然居合わせたニコラが彼を救った。

通りかかったニコラは、迅速に止血をし、医者を呼んだ。

「ニコラがいなかったら、確実に手遅れになっていた」、と医者は言っていた。

会長のイデオにとって、ニコラは命の恩人となったのだった。


それから四年後。

今度はニコラに悲劇が起こる。

働く工場で爆発事故が起こり、全治一年の大怪我を負ってしまったのだ。


最下層のエーテの民が働く工場に、労災なんてものなかった。

一家が路頭に迷いかけたその時、事故の噂を聞きつけたイデオが、ニコラが復職するまで、生活費を全額支援してくれることになった。


その日、まだ少年だったアルドも、父親に連れられてニコラの家に来ていた。


父親たちが深刻そうにお金の話をしている間、八歳のアルドはずっと、一人の美しい少女を見ていた。

流れるようにサラサラの長い金髪、大きくてうるうるの神秘的な緑の瞳。

ーードクンドクンっ、とアルドの胸は生まれて初めて、激しく鳴り続けた。


家に帰るなり、アルドは父親にしがみついて頼み込んだ。

「お願い!俺、エルフィと結婚したい!」


「馬鹿かお前は!エーテの民の娘だぞ!いくら美しい娘でも、ダメだ!」

イデオは渋い顔で、当然のように拒否した。

「アルドの妻にはふさわしくない。いくらでも身分のいい、可愛い子を見繕ってやるから、諦めなさい」


「嫌だ!エルフィじゃなきゃダメなんだ!お願いだよ!」

頑なに首を振り、ボロボロと泣き続ける息子の熱意に、イデオが折れた。


こうして、アルドの強い希望により、この身分違いの婚約は成立した。



ーー


アルドが居住区の入り口で父親のニコラと話始めるのを見届け、エルフィはひと足先に家へと戻った。


ドアを開けると、リリアがバッと勢いよく飛び出してきた。

「お姉ちゃん!おかえりー!ねえねえ、聞いて、あのね、今日ね!」

にっと笑ったリリアの口元から、小さな八重歯が顔をのぞかせる。


「ただいま、リリア。もう、どうしたの、そんなに慌てちゃって」

リリアの笑顔が可愛くて、リリアを抱きしめた後、頭をわしゃわしゃと撫でた。


「市場にね、子猫がいたの!白くて小さくて、ふわふわで!すっごく可愛かったの!」

リリアは左右に三つ編みにした金のおさげをブンブン揺らしながら、興奮して身を乗り出して話す。

勢いがありすぎて、お気に入りのピンクのカチューシャが斜めにズレている。


リリアはエルフィの手を引っ張って中に入る間、ずっと喋っていた。


「子猫、そんなに可愛かったの?よかったねぇ」


「そうなの!めちゃくちゃ可愛かったの!ね〜え〜、お姉ちゃん……子猫、飼いたいなぁ……!」」

リリアはエルフィの両手をキュッと握り、ブンブン振り回した。


「私じゃなくて、お母さんに聞かないと。ねっ」


「えーーー、お母さん、絶対ダメって言うじゃん!お姉ちゃんからいい感じにお願いしてみてよ〜」

上目遣いで、リリアは訴えかける。


「私もダメだと思うわよ。子猫のお世話はリリアが思ってるより、大変よ。命を育てるって、責任重大なんだからっ!」


「えー!そんなの分かってるよー!リリア、ちゃんとお世話できるし〜!」

リリアはぷうっ、と膨れたが、すぐに無邪気な笑顔に戻って、エルフィの腕に抱きついていた。



キッチンからはマーサの優しい鼻歌が聞こえてくる。

クツクツという鍋の音と一緒に、家いっぱいに広がる、夕食のミネストローネの甘い匂い。


エルフィは胸の奥がじんわりと満たされるのを感じながら、「私も手伝うね」とマーサのいるキッチンへと足を向けた。


ーー


夕食を終え、食卓の片付けをしている時に、父親のニコラが重い口を開いた。

リリアはニコラの膝の上で、くるんっと丸くなってくつろいでいる。


「エルフィ、マーサ。最近、街で妙な噂が広がっているのを、知っているかい?」


父親の深刻そうな声に、膝の上のリリアも不安そうに、ニコラを見上げた。


ニコラは声をトーンダウンさせ、居住区のみんなが怯えながら囁き合っている、その噂を切り出した。


「レジーナ女王陛下が、宴の席で急死されたらしいんだ。病死と言われているけど、毒殺を疑う声もある。なんにせよ、我々エーテの民に、この赤いブレスレットを着けるよう義務付けた女王が亡くなったことは事実だ」


「当然の報いだ!これで我々の暮らしもマシになるさ!」と、居住区の広場で叫ぶ若い男たちの様子を、エルフィは思い出した。


だが、ニコラは喜ぶわけでもなく、眉間に皺を寄せながら続けた。

「若い連中は女王陛下が亡くなって喜んでいるが、長老のフォルデ翁はひどく心配していた。『次の王が、もっと冷酷なお方だったら大変じゃ』とね。もしかしたら、今まで以上に強く弾圧されることになるかもしれないからね」


父親の重苦しい声を聞きながら、エルフィはそっと自分の手首に視線を落とした。

いつも手首にある、この赤いブレスレット。

エーテの民と、他の民族と明確に区別できるようにするためのもの。


エーテの民はもともと最下層の民族として扱われていた。

でも、それの境界は曖昧で、他の民族との交流も今よりあったし、差別も少なかった。

それが突然、レジーナ女王陛下がエーテの民に赤いブレスレットの着用を義務付けた。

十年前、エルフィがわずか四歳の時のことだった。



ーー


その夜、エルフィは猛烈な高熱に襲われ、ベッドの上で悶え苦しんでいた。

夕食の後から身体がだるかったが、夜中になって体温が急に高くなったのだ。


「エルフィ、エルフィ!しっかりしてっ、目を開けて!」

母親のマーサの焦る声が、どこか遠くの暗いところから、かすかに聞こえてくる。


高熱のせいで、身体中の骨や関節の節々が軋むように、激しく痛む。

感じたことのない寒さで全身がブルブル震え、意識が朦朧としてくる。


(怖いーー、私はもう死んでしまうのかな……?)


全身が熱く、特に脳の内側が熱くて、熱くて、苦しくて、涙がポロポロと出て止まらない。


「お母さん……、私、もうダメかも……ごめんなさい……」

「エルフィ!頑張って、頑張るのよ!あと少し、あと少しだから…っっ……お願い、耐えて……!」


ボロボロと泣きながら、マーサはゴツゴツした手で、エルフィの手をぎゅっと握って祈り続けた。

その母の温もりを、この世界との境界線として感じながら、エルフィの意識は真っ暗な暗闇へ、ゆっくり、ゆっくりと落ちていった。


ーー


地獄のような高熱にうなされながら、エルフィは不思議な夢を見ていた。


気がつくとエルフィは、キラキラと輝く巨大な宮殿の中にいた。

そこで開かれていたのは、煌びやかな大夜会だった。


目の前には、百人を超える着飾った貴族たちがいた。

女性たちが着ている色とりどりの豪華なドレスは、美しくて眩しかった。

ピカピカに光る勲章をつけた、軍服の紳士が偉そうに胸を張って談笑している。

高価な香水の匂いが鼻の奥を突き刺し、エルフィは吐きそうになり、ぐっとこらえた。


ふと、視線を上げた。

高い位置にある、豪奢な金の王座に、一人の女が腰掛けていた。


艶やかな金髪に、深く澄んだ緑の目をした、三十歳前後の女性だった。

凛とした気高さがあり、背筋を伸ばし、静かな微笑みをたたえてじっと皆を見ている。

その姿は、とても冷たく、そして怖そうに見えた。


ーーその顔を見た瞬間、エルフィの心臓がドグッっと跳ねた。

その女の顔は、自分にそっくりだった。

いや、エルフィがこのまま年齢を重ねたら、きっとこの女そっくりに成長するだろう。

そう感じてしまうほど、その女性はエルフィに酷似していた。


その女のすぐそばに、一人の男が寄り添っていた。


艶やかな黒髪を後ろで一つに結んだ、穏やかそうな男だった。

彼は人当たりの良い笑顔を作り、挨拶にくる貴族たちに優しく何か話をしている。



不意に男が振り返り、座っている女へと甘い微笑みを向けた。

鋭く切れ上がった左目につけられた片眼鏡モノクルが、シャンデリアの光を鈍く反射している。

その奥にある青い瞳が、細められた。


「陛下、今夜は特別なワインが手に入ったのです。ぜひ、お飲みください」


男は銀の杯に赤いワインを注ぎ、女へ差し出した。

熟した果実の甘い、濃厚な香りが、エルフィの鼻の奥まで届いてきた。


エルフィにそっくりな女が、その杯を受け取ろうと、静かに手を伸ばしーー。


そこで唐突に、夢はプチンっ、と音を立てて途切れた。


ーー


エルフィは、ゆっくりと、重い瞼を開けた。


「エルフィっ!!わかる?お母さんよ」


すぐ目の前に、真っ赤な目をしたマーサがいた。


「……お、かあさん……」


「よかった、本当によかった……!エルフィ、よく頑張ったわね、もう大丈夫よ」

エルフィの掠れた声を聞いて、マーサは子供のように、ワンワンと声をあげて泣き崩れた。


母親の泣き声が響く中、エルフィの意識はまだ夢と現実のはざまでぼーっとしていた。

あまりにも生々しい、夢を見た。


あの王座に腰掛けていた冷たそうな女。

彼女は、父親が夕食の後話をしていた、女王なのだろうか。

ーーだとしたら、なぜ。


なぜ、女王と最下層のエーテの民の私が、双子のようにそっくりな顔をしていたのか。

ただの夢なのか。

それとも、本当の世界でも、レジーナ女王は私に似た顔をしていたのだろうか。


現実のレジーナ女王の顔を確かめたくても、高貴な身分の姿絵は、平民が滅多に目にできるものではない。

答えのない問いに、エルフィの胸はザワザワと蠢いた。


あの女王の姿、そしてそばにいた穏やかそうな男。

絵のように美しく、だからこそ気味の悪い二人の姿が、どうしても頭から離れなかった。


ーー



「三日も熱が引かなかったんだよ。ほんとに、心配したんだから」

マーサがホッとしたような、優しい声で言った。


「三日も!? あ、お母さん、カフェ・ルーチェには連絡してくれた?」

「もちろんしたわよ。店長のベルタさんが、ひどく心配してくれてたわ」


「そう、だよね……次出勤した時にお詫びしないとなぁ」


 エルフィはシーツをはぎ、ベッドから身体を起こした。

 まだ本調子じゃないのか、視界がかすかにふらつく。



「今はお詫びよりも、とにかくちゃんと食べて元気にならないとね」

 マーサが優しく微笑みながら立ち上がった。

「今、温かいスープを温めなおしてくるから」


「……ありがとう、お母さん」

パタパタと台所へ走っていく母親の背中を見ながら、生きててよかった、とエルフィは深く噛み締めていた。

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