13 偽りの愛
アルドがエルフィと婚約解消して、数日後のことだった。
カフェ・ルーチェの入り口のドアベルが、どこかくたびれた音を立てて鳴った。
「いらっしゃいま――」
顔を上げたエルフィは、言葉を止めた。
そこに立っていたのは、アルドだった。
けれど、かつて彼が好んでまとっていた上質な仕立ての上着はどこにもない。
泥に汚れた衣服、乱れた髪。
目の下には、どす黒い隈がくっきりとあった。
その姿は、かつて爽やかな若様として街の人々から持て囃されていた男とは、まるで別人だった。
「エルフィ……」
ガラガラの声で、彼は言った。
「少し、話をしたい」
異様な空気を感じたベルタが、すぐに厨房から姿を現した。
「悪いけど、出ていってくれ!エルフィにした仕打ちを忘れたのかい?」
「少しでいい。本当に、少しだけでいいんだ……!」
アルドの声は、暗く震えていた。
エルフィはしばらく彼を見つめ、静かに頷いた。
「分かりました。お店に迷惑かけたくないので、外で聞きます」
「エルフィ、話を聞く必要なんてないのよ」
ベルタが心配そうに声をかける。
「大丈夫です。すぐ戻りますから」
エルフィはエプロンをつけたまま、アルドの後を追って店の外へ出た。
陽の落ちかけた路地裏で、アルドはゆっくりと振り返った。
「僕は……本当にお前のことが好きだったんだ」
エルフィは何も言わず、黙って聞いていた。
「六年前、初めてエルフィを見かけたあの日から。だからこそ、周囲からエーテの民だと反対されても、押し切って婚約までこぎつけたんだ。全部、エルフィのためにやってやったことだったんだ」
「エルフィだって、僕のことが好きだっただろう? 分かってるよ。エルフィが僕にベタ惚れだったことは、ちゃんと分かってるんだ」
アルドはエルフィに、一歩近づいた。
「だから……結婚してやる。一緒にいてやる。愛してやる」
エルフィは、一瞬だけ目を細めた。
全てを失ってなお、この男はまだ、自分を所有物だと思っている。
自分が求めれば、エルフィは喜んで手を差し伸べると信じている。
その浅ましさが、気持ち悪かった。
「……マーガのことは、いいんですか?」
「え……?」
「この前、私の目の前で、マーガレットを選んだって言いましたよね。これからは彼女が隣に立つって、ご自分でそう決めたんじゃないですか?」
緑の瞳で真っ直ぐ見つめられ、アルドの顔が歪んだ。
「あ、あれは違うんだ! あの時はあいつに唆されて、仕方がなく……! 僕が本当に心から愛しているのは、今でもお前だけなんだよ、エルフィ!」
お金がなくなってマーガレットに捨てられたから、今度は都合よく「愛しているのはお前だけ」と言い出す。
その汚い言葉を、エルフィは静かに切り捨てた。
「あの、申し訳ないんですけど」
エルフィの声は、驚くほど冷静だった。
「私、アルドさんのこと、ずっと大嫌いでした」
アルドの身体が凍りついた。
「六年前、あなたが身勝手な目で私を見たその瞬間から――ずっと、心の底から大嫌いでした」
「……嘘だ」
アルドの唇が震えた。
「お前は、、重いくらいに僕を――」
「あなたの機嫌を損ねないために、好きだという演技をしていただけです」
エルフィは静かに告げた。
「あなたのことを、好ましく思ったことなんて、一度だってありません」
アルドは完全に言葉を失った。
自分が握っていたはずの、主導権。
愛されていたという、自惚れ。
それらがすべて、ただの演技だったのだと突きつけられたのだ。
「お引き取りください。そして、二度と私の前に来ないでください」
アルドはしばらくの間、幽霊のように立ち尽くしていた。
やがて、彼の口から、ひどく掠れた声が漏れた。
「……そうか」
さっきまで必死に張り合おうとしていた虚勢が、すっと消えていく。
「僕は……最初は本当に、お前を大切にしようと思っていたんだ」
エルフィは黙っていた。
「初めて会った時、本当に綺麗だと思った。エーテの民だなんて関係ないって、本気で思っていた。でも……周りから毎日毎日、身分の低い女を連れていると笑われ続けて、だんだん嫌になってきたんだ」
アルドは自嘲するように笑った。
「エルフィが嫌いになったんじゃない。エルフィがエーテの民だというその事実が、耐えられなくなったんだ」
「……」
「エルフィを自分の所有物のように扱って、傷つけていたのは分かっていた。分かっていても、そうして引きずり下ろさなければ、自分のプライドが保てなかったんだ。やめられなかった。……本当に、情けないな」
風が、二人の間を通り抜けていく。
「でも、エルフィを愛していたことだけは、本当だった」
アルドは、泣きそうな顔で微笑んだ。
「幸せになってくれ。すまなかった」
それだけを絞り出すように告げると、アルドは背を向けた。
とぼとぼとした足取りで、薄暗い路地の向こうへ去っていく。
カフェに戻ると、カウンターの奥から、ベルタがそっと顔を出した。
「……コーヒー、飲む?」
「……いただきます。ありがとうございます」
湯気が、静かに立ちのぼる。
その温かさを見つめながら、エルフィはようやく、長かった六年間が本当に終わったのだと知った。




