少女と老師
王立魔術学院……塔の最上階に、その一室は存在していた。
壁一面をしめる窓と、それ以外の壁面を埋め尽くす本棚……特に本棚は特殊な魔術加工が施され、直射日光を受けても陳列された本に一切の影響を与えないという。
事実、男がこの部屋の主になってから、十年がたち、同じ時間、それらの本は壁一面の窓から入り込む日差しに晒され続けているが、日焼けする様子などみじんもない。
男は、窓際に佇み、地上を見下ろす。
視線の先では、生徒達が教師の指示に従って、二人一組を作り組み手を行っている真っ最中であったが、男は彼等を見ていない。
男の視線を集めているのは、ただ一人の少女……老人とマンツーマンで身体強化のイロハを教え込まれている、寺門 綾その人であった。
視線はそのままに、男は背後に控える自分の部下に声をかける。
「ラグルド・レグン教授」
「は、はい……!」
「私の、空耳でなかったとしたら……君は、彼女の囲い込みに完全に失敗したと、そう、報告したいのかね?」
「い、いえ! 完全に、では……」
額に滲む脂汗をハンカチで拭いながら、ラグルドは弁解をする。
「ただ、教室に仕組んだ、魔法陣について、何故か見抜かれてしまい……第一印象を魔術で誘導する作戦は、失敗したとした言いようがないかと……」
「何故か……その理由は把握できているのかね」
男――王立魔術学院学院長は、見た目だけならば四十にも届かない壮年の男だった。だが、ラグルドは知っている。この男が、見た目通りの年齢ではなく……黒魔女、白銀と呼ばれる大魔術師達に匹敵する怪物であると。
その怪物と密室で二人きり、という状況もさることながら、彼に対して失敗の報告をしなければならない、という事実が、ラグルドの全身の汗腺から汗を拭きださせていた。
「いえ、それが……全く、見当もつかず……」
「……レグン教授。君は、優秀な男だ」
学院長は、あくまで視線を綾に向けたまま、ラグルドに淡々と言葉をかける。
「私は、君を過去形で表現したくはない。その事を、よく覚えておくように」
「……っ!」
言葉の意味を理解し、呼吸が一瞬止まる。
余り失敗が続くなら全ての栄光は過去のものとなる……そう、目の前の怪物は言っているのだ。
「ただ、今回に限って言えば、君の失点とはいいがたい……相手はあまりに得体が知れない存在というのも事実だ」
遥か高みから綾を見下ろす学院長を、この距離で知覚している者がいる。
その男……草間 闘と視線を交差させ、学院長は指示を下す。
「念のため、彼女の寝室に仕込んだ小細工は全て解除したまえ」
綾の宿泊予定の部屋に仕込んだ、幾重もの魔術結界……魔術に対し好意的になる、という一種の思考誘導結界を解除せよという命令だった。
「は……!? し、しかし……!」
「大金と手間、双方をかけた結界なのは事実。されど、相手が授業における魔術結界をどうやって見抜いたのか、それがわからない以上……また見抜かれて、解除され、要らぬ不信感を植え付ける可能性が高い。
ならば、まっさらな状態で引き渡したほうがマシ、というものだ」
「は、ははあ……! わかりました。可及的速やかに……」
「囲い込みに関しては、追って指示する。君はいつも通りの授業を続けたまえ」
これで話は終わりだ、とばかりに手を振り、退室を促す学院長。ラグルドはこれ幸いとばかりに学長室を後にする。
結局。
ラグルドが学院長室に入ってから退室するまで、学院長の視線は遥か彼方のグラウンドに釘付けで、一度たりともラグルドに向けられることはなかった。
「……? 闘さん、どうしたんです?」
空を――そびえたつ塔のてっぺんを見つめたまま動かない闘を訝しみ、綾が声をかける。
「……ちょっとした忠告さ」
「はあ……?」
意味の分からない返答をされたが、闘がそういうのならば、綾の知らない何かがあったのだろう。綾は気を取り直して、授業の内容に集中する。
指先から髪の毛先……産毛の先に至るまで、エネルギーをいきわたらせるイメージ。それを保ったまま、ゆっくりと手足を動かす。
それは、地球系列世界の、太極拳によく似た動きだった。が、根本的なところで異なる。
太極拳がゆっくりとした動きで正しい姿勢や技の流れを体得するのに対し――綾のそれは、身もふたもない言い方をすれば、生体エネルギーを保ったまま早く動く事が出来ないだけであった。
そんな、無様の体現ともいえる動きに、タオローは決して嘲笑うことなく朗らかに笑って、
「身体強化のイロハは、既にものにしておる様じゃな」
「は、はい……!」
体に漲らせたエネルギーを保つので精いっぱいで、返事をするのも一苦労であった。
「基礎は、既に、習ってて……後は、これを、繰り返せ……って、言われて――あ!?」
長い言葉を紡いだだけで、風船がしぼむようにエネルギーが霧散していく。同時に、全身から汗が噴き出して、綾の体操服を濡らしていった。
どっと疲れが押し寄せてきて、膝に手をついて肩で息をしてしまう。
「はぁ……はぁ……!」
「……既に体内の無限動力から、エネルギーを引き出す事には成功しておる様じゃな。
後は、そのエネルギーを、変換する事が出来れば楽じゃて」
「変換……ですか?」
「気力体力魔力。そう言ったものに変換出来れば、今と同じ事をいくらでも繰り返せるわい」
ぐびり、と音を立てて蒸留酒を流し込み笑うタオロー。
「何なら、一口行ってみるか? お嬢さん」
「い、いえ……まだ、未成年なので……!」
「そうか、残念……見たところ、課題は山積みじゃなあ。
くみ上げたエネルギーの変換は今言った通りじゃが、乙種超人を目指すなら、身体強化の基礎のマスターに、耐熱等極環境への耐性。生体エネルギーを用いた身体治療。
五感の強化……特に、動体視力と反射神経は、一番の課題じゃな」
「は、はい……!」
改めて並べられて、綾は自分が乗り越えるべき課題の多さを自覚する。乙種超人を目指すのならば、体の中の無限動力の上に胡坐をかいている暇などありはしないのだ……!
「もう一度、最初からじゃ。全身に、エネルギーを集中させて、動く。
ゆっくり、ゆっくりとな」
「わかりました……! ゆっくり、ゆっくり……」
タオローに言われた通りに、全身にエネルギーを込めて体を動かす。
最初、押しかけ師匠の一人であったタオローに物を教わるという事に対して抵抗があったが、要らぬ心配であった。てっきり、もっとぐいぐいとくるのかと思えば……乙種超人を目指す、という綾の目標を否定することなく、こちらが求める技術を教えてくれる、優れた先導役であった。
……もっとも、踏み込んだあれこれを教えないのは、綾の技量がその段階に達していないのと、後ろで目を光らせている闘の存在があったから、なのかもしれないが。
「よっ……はっ……!」
右でパンチ、左でもパンチ……それを繰り返し、たまにキック……蛞蝓の這う様な低速で、子犬一匹殺せそうにない動作であったが、やる方は必死であった。
無様、と言っても過言ではない姿だった。実際、周囲の人間の中には、綾の姿を見て嘲笑をうかべる者達もちらほら見受けられた。
笑われても、綾は気にしない。だからどうした、という気分だ。嘲笑を何とも思わないひたむきな姿に、タオローは朗らかに笑みを浮かべて、
「ほほ……こりゃあ、無限動力抜きにしても、掘り出しもんじゃわい」
「あ、ありがとう、ございま、す……!」
「動きに余裕が出てきたら、スピードを上げるんじゃなしに、他の事も手を出してみるとええ。たとえば、話をするとかな。
常に、体にエネルギーを漲らせた状態で日常生活が送れるようになるのが理想的じゃ」
「は、はい……! それじゃあ、お聞きしたい事が、あるんですけど」
「なんじゃ?」
綾は、お言葉に甘えて、タオローと会話をすることにした。亀の歩みのような動作を決して止めることなく、とぎれとぎれに、ではあるが。
「さっき、王子様と、何を、話して、らっしゃったんです?」
「……何を、とは?」
「言葉の途中で、何か、聞き取れなくって……!」
綾自身がアハトベルンでも話題の人材なのと、悪目立ちする動作の真っ最中だったので、良くも悪くも、その会話は周囲の人間達に聞き耳をたてられていたのだが……綾は気づかなかったが、綾の言葉に反応した者が、三人いた。
タオロー老師と、王子本人、そして、黒髪の少女、カミーユである。他は、綾の言葉を額面通りに受け止め、特に注意を払う様子もなかったが、その三人は違った。
ある者は肩眉を跳ね上げ、あるも者は動きを止め。ある者は思わず視線を綾に投げかけた。
「……まあ、大して意味のない会話じゃよ。お前さんが気にする事ではない」
内心で何を思ったかをおくびにも出さず、タオローは呟いた。綾はその言葉を真に受けて、先ほど自身が耳にした不自然なノイズを、気のせいだという事にして納得してしまった。
――離れた場所で悲鳴が上がったのは、その直後の事であった。
「きゃ――!?」
「組み手の最中によそ見とは、随分と余裕のある事ですわね!」
いかに悲鳴やうめきがつきものの武術の訓練中と言っても、その悲鳴はひときわ異彩を放っていた。憎しみの籠った怒声と、ワンセットであったからだ。
思わず視線をそちらに投げかけると、そこでは腰を抜かした黒髪の少女、カミーユに対して、金髪を縦ロールにまとめた美少女、エリス・マーキュリーが、向かい合っていた。
「私のような身分卑しいものなど、眼中にない、とでも言いたいのかしら?」
マーキュリーの手の中で、真紅のブルウィップが中空を打ち、破裂音を響かせた。鞭を武器にするのが、彼女の戦闘スタイル、という事なのだろう。美しい顔を憎しみにゆがめて、マーキュリーはその鞭をカミーユに向かって振り下ろす。
常人が直撃すれば肉を引きく一撃が、カミーユの柔肌を打ち据える。カミーユはそれを、生体エネルギーを用いて何とかガードしたが、それでも痛みはあるのだろう。かすれた悲鳴が唇から漏れた。
「ひっ……!」
「さあ、お立ちなさい! 授業は、まだ終わっていないわよ!
立ちなさいったら!!」
言いながら、マーキュリーの鞭打は止まらない。音の壁を突破する破裂音を響かせながら、カミーユの体をこれでもかと打ち据える。カミーユは、何とか立ち上がろうと、むち打ちに耐えながらもがき――重心の乗った足を、マーキュリーの鞭打ちで音を立てて払われた。当然、重心を崩されたカミーユは腰を打ち付けて転倒する事になる。
そこにさらに、浴びせられる鞭打の嵐……鞭の軌跡に合わせて、血の赤が飛び散るのに時間はかからなかった。振るう側はそんな事は気にも留めずに……否、気が付いたからこそ、嗜虐的な喜びを表情に滲ませながら、手を止める事はない。
「……!」
「こりゃあ、いかん」
いくらなんでも、やりすぎという者であった。綾は目を見張り、タオローが仲裁の為に足を踏み出そうとした……が、彼よりも早く動く者がいた。
嗜虐的な感情と共に振り回されていた鞭の先端が、唐突に止まり、マーキュリーの体が前のめりに傾いた。誰が自分の鞭を止めたのか、マーキュリーはその犯人を捜し視線を巡らせて……
「……!」
その怒りが、急激にしぼむんだ。周囲の人間達にもわかる程に、マーキュリーの頭を冷やさせた者の正体は――
「で、殿下……」
「…………」
金髪碧眼の美青年が、マーキュリーの背後で、鞭の先端を握りしめていた。高速で飛び交う鞭の先端を無造作に握って止めた技量は、尋常なものではなかったが……マーキュリーがその事実に気づくことはなかった。
それどころではなかったのだ。自身に向けられた、王太子の冷たい目線……何の感情も感じられないそれに、心の底から竦み上がってしまった。
「……ミス・マーキュリー。今少し、言動に気品を身に着けてほしいものだ」
感情のない目はそのままに、口元だけを綻ばせて笑みを浮かべる王太子の姿に、マーキュリーの背筋に冷たいものが流れて落ちた。それは、運動によって流れた汗によるものではなかった。
王太子は、鞭を手放してカミーユの元まで歩み寄り、手を差し伸べた。そうするのが当然と言わんばかりの、自然な動作であった。
「大丈夫かい? カミーユさん」
「は、はい……」
王太子の手を取って、立ち上がるカミーユ。その姿を見た綾は、マーキュリーの評価を改めた。
即ち――
(こってこての、貴族令嬢じゃなくって、こってこての、悪役令嬢だぁ……!)
その頃の国王とアルトエレガン。
「……とまあ、俺が認識してる範囲で起きてる現象だな……」
「……なんという……! それでは、小父さんが怒るのも無理はない……!
おひざ元でそのような騒ぎが起きていたのに、指摘されるまで気づかなかったとは……」
「まあ、それはある程度しょうがない部分はある。そういう能力っぽいしな。
それを差っ引いても……お前のやりようは、誉められた事じゃない。わかるな?」
「はい……はい……! 誰ぞ! 近衛を――」
「あー、待て待て待て。
騒ぎを大きくすると、厄介な事になる可能性が高い。ここは一旦、何が起きても対応出来るように、準備だけしとけ」
「……それは、噂に聞く、小父さんの相方の?」
「おう。闘ちゃんの勘よ」
「……ならば、今は動くべきではない、という事ですね」
「苛立たしいか?」
「ええ。己の不甲斐なさが、歯がゆいですよ……それにしても、その状況に、うちの愚息は気付かなかったのか……!?」
「いやあ、あの子はあの子で、事態を解決しようと頑張ってる方だと思うぜ?
何にせよ、俺と闘ちゃんは『超人』だから、関与できるのは口先のアドバイスだけだ。
後は、現地の人間であるお前の仕事だぜ? アレク」
「……微力を尽くします!」




