番外編 日常編②
お久しぶりですー!
「・・・これ。井上から」
「あらあら~よく出来た娘ね~ほんと、あんたにはもったいない!」
「・・・・・」
お茶を淹れるために階下に降りた俺は、キッチンで待ち構えていた詩織姉に白いケーキの入った箱を差し出すなりそんなことを言われ、思わず眉を顰めてしまった。が、敢えて何も反論せず沈黙を返した。井上が俺にもったいないなんて自分が一番わかってる。
そんな俺を見上げて、詩織姉がにまっと笑った。
「色ボケ太郎、暴走すんなよ!」
「・・・誰がだ」
「だってあんた、傍目強面クールそうなのに、実際は意外と熱血人情系じゃん。この前だって無意識にえろ男爵炸裂してたし」
「だから、だれがえろ男―――」
「『触れたくなる』なんて好きだと自覚する前から悶々としてる奴が違うとは言わせないわよー」
「・・・・」
だからって自分の弟を所構わず発情する犬みたいに言うな。むむっと先ほどより眉を最大限に寄せて睨みつけるが、他人には効果覿面なそれは身内にとっては屁でもない。にまにま笑いに逆襲されて、俺はまたもや何も答えずに、さっさとお茶の用意を済ませるとお盆にケーキとお茶を載せて、キッチンを出て自分の部屋へと戻ったのだった。
「くろちゃーん、久しぶり」
俺の部屋に、井上がいる。
それだけで、なんだかいつもの味気ない自分の部屋が違う空間に見える。
キッチンから井上用の紅茶、自分用のコーヒーを淹れて部屋に戻ってきた俺は、ドアを開けて目に飛び込んできた光景にふっと心和むのを感じた。
狭い6畳の部屋には余計なものは何もなく、むしろ殺風景と言っていいだろう。窓際すぐ傍のベットは壁際きちきちに置いてある。そのすぐ前には小さな丸テーブルがあり、井上はそこに腰を落ち着けてくろすけを胸に抱き上げていた。
井上の胸に抱かれたくろすけは、出会った頃より大きくなり、今やもう仔猫とはいえない大きさに成長している。性格はまだまだやんちゃで、子供だが。
喉元を優しく撫でる井上に、気持ちよさそうにゴロゴロとくろすけが喉を鳴らして髭をそよがせている。
癒しの空間に知らず目元も緩んで、そのまま扉のところに立ち尽していた俺に気づいた井上が「高橋君?」と首をかしげてくるのにはっと我に返った。
「ああ・・・なんでもない」
ふっと微笑んで首を横に振り、お盆に載せた飲み物をテーブルの上に置く。
詩織姉にからかわれて急降下した機嫌が一気に浮上したのが自分でもわかって内心苦笑した。
なぜだか顔を赤くした井上に首をかしげながら、俺は井上の真向かいに座った。
「ん」
「ありがとう」
それぞれの飲み物やケーキを目の前に置いて促すと、井上が礼を言ってくろすけを床に離した。くろすけは何かもらえるのかと期待してちょこんとその脇に行儀よく座っているが、残念だがお前が食べられそうなものはないぞ。
井上の持ってきてくれたケーキは、相変わらず美味かった。やっぱりここのケーキは好きだ。
そういえば以前作ってきてくれたキャラメルクリームもうまかったな、とふいに俺は思い出した。
「井上は、今でもお菓子をよく作るのか?」
「え?あ、うんそだねぇ、たまにね。ストレス解消に」
そんなに上手くないんだけどね、とはにかむ井上にそんなことないと首を振る。
「この前のケーキも旨かった。・・・良かったら、また、作ってきて欲しい」
「・・・・・・」
そう言うと、井上がなぜだか沈黙した。「?」と首をかしげると、「ええーっとね」と苦笑い。
「実は、ここにあったり・・・して」
と言って、お菓子の入っていた紙袋から取り出したのは透明の袋に入ってラッピングされた、クッキーだった。
「後で渡そうと思ってたんだけど・・・食べる?」
「食う」
即答すると、はいどうぞ、と渡されたそれは、ナッツが振り掛けてあったりアーモンドが載っていたりと、ぱっとみるだけでも手が込んでて美味しそうだった。
袋からひとつクッキーを取り出して口の中に放りこむと、香ばしい香りのするそれは、サクッとしたした触感が美味かった。思わず二枚、三枚と続けて食べてしまう。
「うまい」
心配そうに俺を見上げる井上にそう告げると、ほっとしたように井上が笑った。
「よかった~兄ちゃんに手伝ってもらった甲斐があった」
「お兄さん?」
「うん、うちの兄ちゃん、製菓学校行っててね、上手なんだよ」
そんな他愛のない会話を交わしていると、寂しくなってきたのかくろすけがにゃーお、と自己主張するように鳴いて、井上の膝の上に乗ってきた。ゴロゴロという甘える声がする。
「どしたのー?」なんて優しくその頭を撫でる井上。くろすけは我が物顔でその膝に座り込む。
なんというか、ものすごく和む風景だった。
目元を緩めてその様を見守っていると、井上と目が合った。とたん、なぜだがもぞもぞと井上が落ち着き無い様子になった。
膝が動くのでくろすけが不満そうに鳴くのに、「ごっごめんごめんっ」と謝る井上はなんだか同じ小動物みたいだ。ふっと気持ちが凪いで、井上に向かって微笑むと今度は井上はぴきりと固まってしまった。
円い瞳が、落っこちそうになるんじゃないかってくらい見開かれて、俺を見つめている。
その様子がほんとに小動物そのもので、ごくごく自然にかわいいな、という思いが湧き上がった。そう思った時には、俺はクッキーの袋をテーブルの上に置くと井上の横に場所を移動していた。それは何気ない動作だった。俺にとっては。
くろすけがなーお、と鳴く、その甘えるようなしぐさに、手のひらを伸ばしてふさふさの小さな頭を撫でてやる。すり、と顔を押し付けてくるくろすけに目を細めていると、びくり、とくろすけを膝に抱いた井上が軽く反応したのに気づいて、俺は顔を上げた。
そこに居たのは頬を染めた井上の姿で、俺は首をかしげる。
「?どうした」
「うっ、ううんっ」
ブンブンと首を左右に思い切り振ると、柔らかい髪が一緒に揺れて、唇に一筋、張り付くのが見えた。
「なんでもないっ」
慌てたようにそう言うが、俺の視線はそこに固定されてしまった。髪の毛を食べてしまってるのに、井上は気づいていないようだ。
指先を伸ばして、丁寧にその髪を除ける。触り心地のいい、その感触にふっと目を細めて、俺は、そのまま井上の頭に手を伸ばした。
「――――」
柔らかな髪を撫でる。井上の膝の上でくろすけがふぁーと呑気な欠伸をするのが目の端に入った。
「・・・井上?」
途中でがちがちな井上の様子に気づいて、俺はひょいっと井上の顔を覗き込むと、先ほどより顔を赤く染めた井上がそこに居た。
しかも何故かちょっぴり涙目だったりしたので、俺は尚更視線が離れなくなってしまった。
「・・・・!」
「みぎゃぁっ」
そんな俺を見上げていた井上が突然、ずずいっと後ずさった反動で、くろすけが井上の膝から転げ落ちてしまい、大いに不満そうな声を上げた。
「ご、ごめんごめんくろちゃんっ」
謝りながも井上はお尻で後ずさるのを止めない。そのまま部屋の隅―――ベットと壁に挟まれた一角へと逃げ込んでしまった。
「・・・なんでそんな逃げる」
俺の不満そうな声に、う、と井上は言葉を詰まらせた。
「だっ、だって高橋君の目が」
「目が?」
うーとかあーとか呻っていたが、逃がさない俺の視線に自棄になったのか、目をぎゅっと瞑ったまま言った。
「だって高橋君の目がこわいんだもん」
「・・・・・・」
思ってもいない言葉を言われて俺は固まってしまった。少なからずショックだった。
他の誰に言われるよりも、井上に言われたということがショックだ。
・・・怯えさせたのか?
今まで向けられてきた視線を思い出して、そんな目を井上に向けられるということが思った以上に胸が痛みを訴えてきた。強張った顔で井上を見下ろした俺だが、すぐにその気持ちは霧散した。
なぜなら、相変わらず井上の顔は真っ赤で、涙目で俺を見上げてきていたからだ。
「わ、わたしその目苦手なんだもん・・・っ」
俺から視線を逸らしながら、井上が言う。
「そ、その目で見つめられるとわたし、動けなくなってどきどきして恥ずかしくって、どうしたらいいかわからなくなるから嫌だっ」
「・・・井上」
首まで真っ赤にしてそんなことを叫ぶ井上の姿に、俺は溜まらなくなってしまった。
今すぐ触れたい。
相変わらず馬鹿みたいにそんなことを考えて、ふ、と距離をつめると井上の肩がびくっと揺れた。とん、と背中にベットが当って、自ら壁際に追い詰められてしまっている。小さな井上が、余計に体を縮こませて俺を見上げるその様にどくりと心臓が高鳴った。
やばい。怯える小動物みたいなその姿が、俺を刺激するなんて考えてもいないんだろう。
優しく触れたいと思うのと同時、それだけでは物足りないと訴えてくる男としての本能がじわりと突き上げてきてて、俺は思わず苦笑してしまった。
落ち着け。衝動を押さえ込んで、そっとその柔らかい頬に指を伸ばした。ぴく、と井上が反応して、おずおずと俺を見上げてくる。その瞳を覗き込んで、俺は囁いた。吐息に、熱が篭るのがわかる。
「俺は井上の、その顔が好きだ」
「・・・・・っ」
「俺のこの目が嫌いだとしたら、それは井上のせいだ。・・・前にも言った。
好きだと言われる気分になると。・・・間違ってるか?」
「・・・・・・!」
井上の円い瞳が見開かれて、頬に指す朱色が更に赤くなる。
柔らかい頬を指先で撫でると、そのあたたかな感触に何とも言えない気持ちになる。片頬をそっと掌で覆い、俺は更に囁いた。頭の中が熱にうかされたようだった。
「俺は、その井上の瞳を見ると井上に触れたくてたまらなくなる」
「・・・・・・・!!!」
ぶわっとまたまた井上の顔が一気に赤くなった。円い瞳の中に、自分と同じ熱がないか探りながら、俺は訊いた。
「触っていいか?」
「・・・・・っ」
井上の瞳が潤む。でも、拒否の色がそこにないことに気を強くして、俺は頬に手をやったまま返事を待った。井上の口から、答えが聞きたかった。
「た、たかはしくんのえっち」
「・・・・・・」
しばらくして返ってきたその言葉に、おい、これはわざとなのか?と井上を見て思った。
そんな赤い顔で、涙目で潤んだ瞳で睨まれて、そんなかわいらしい台詞を言われて、煽られない男なんているんだろうか。少なくとも、俺には無理だ。
そして、今の俺はそれが許される立場にいる・・・わけだ。
そんないやらしい考えが脳裏を占めて、俺はついつい口元が緩むのを抑えることが出来なかった。
びく、とそんな俺の顔を見上げて肩を揺らした井上が、とっさにどこかへ逃げようと身体を捻るのを、俺は反射的にその手首を取って確保した。だいたい、そこ部屋の端っこだ。逃げ場所なんて元からどこにもない。
「・・・だから、なんで逃げるんだ」
「だっ、だってまた・・・!その目、苦手だって言った!」
だからそれは自業自得だって言ってるだろう。
じたばたと暴れる井上の髪を苦笑しながら丁寧に梳くと、だんだん力が抜けていくのがわかった。
怯える動物と同じだな。と言っても動物にこんなに、心乱されることなんてないが。
いつものあの、警戒心のない無防備な表情が覗いて、愛しい気持ちが胸を衝いた。
その衝動に逆らうことなく、俺は軽く手首を引いて井上の身体を抱きこんだ。
小柄な井上の身体はすっぽりと俺の胸の中に納まる。そのことが余計に愛しさを募らせて、ぎゃーと奇声を発して逃げようともがく井上の頭を押さえ込むと腕の中から井上の抗議が入った。
「さっ、触りすぎー!」
「・・・嫌なのか?」
敢えて顔を覗き込んで聞く。自分でも意地が悪いな、と思った。拒否の言葉など想像してもいなかったからだ。
「・・・恥ずかしいって、言った」
唇を尖らせて、拗ねたようなその表情に、俺はふ、と微笑んだ。
馬鹿だな井上。嫌じゃないなら、その言葉は抑制にはならない。むしろ困る顔が可愛くて、もっとしたくなる。
脳内が熱に浮かされたようになるなか、ああ、こればっかりは詩織姉の言うとおりだったな。と俺は思った。
俺は立派に色ボケだ。
井上が可愛くて、愛しくて、その気持ちが増えるたび触れたくなる。もっともっとと際限なく求めてしまう。ぬくもりを手放したくなくて、ぎゅう、ともう一度抱きしめると諦めたように井上がことりと頭を預けてくるから、俺はもうどうしようもなくなってしまった。
もっと触れたい。
両手で小さな頬を包み込んで、井上の顔を仰向けさせる。ぎょっとした瞳が戸惑うように揺れて、俺を見つめる。頼りなげな、でも俺を怯えることなくまっすぐ見据えるその円い瞳。
少し開いた、小さな唇。
吸い寄せられるように、俺は唇を近づけた、その時―――
「ただいまー!愛那ちゃん来てるって!?」
・・・玄関先から聞き覚えのある大声が聞こえて、俺は思わずがくっとして井上の肩先に顔を埋めてしまった。脳内で瞬間罵詈雑言が漏れる。
くそっ詩織姉め、茜姉に知らせやがったな・・・!
「えっえっあの??」という何が起こったんだか慌てふためく井上の様子を押し付けた頭上の気配から感じとりながら、俺は、二人の時間が終を告げたことを知った。
なぜなら、あの茜姉が俺たちを放っておいてくれるはずがないからだ・・・
案の定しばらくすると「紘大ーっ!」という大声とともに階段を上ってくる音が響いて、俺ははあっと諦めのため息をついたのだった。