第九話:禁忌
蛇宴の開始が宣言されると同時に、祭壇の上に立つ千代女さんは両手を合わせ、静かに目を閉じた。
蛇宴殿の中は、不気味なほど静まり返っている。両隣にいる日葵や、良二さんの呼吸音さえ聞こえてきそうなほどだった。
誰も口を開かない。ただ祭壇の上に立つ巫女だけが、何かを待つように祈り続けている。
それから、どれほど時間が経っただろうか。数十秒だったのか、それとも数分だったのか。静寂が極限まで張り詰めた、その時だった。
全身の肌が粟立つのを感じた。俺は思わず、息を呑んでその光景を凝視した。
祭壇の上に立つ千代女さんの周囲を、白い光がゆっくりと包み込んでいく。それは光の帯となり、やがて巨大な蛇の姿を形作った。
白蛇だった。神々しいほどの輝きを放つ巨大な白蛇が、千代女さんを守るようにその身を巡らせている。その姿はどこか朧げで、現実感に欠けていた。だが、幻覚だとは思えない。
圧倒的な存在感。見ているだけで膝を折りたくなるような神威。
――神。
脳裏に浮かんだのは、その一言だけだった。
白い蛇は、静かに鎌首をもたげる。蒼く光る瞳が、まるでこの場にいる全員を見下ろしているように見えた。
やがて、その姿がゆっくりと霞み始める。光は粒となって空気へ溶けていき、最後には完全に消え去った。
そこでようやく、俺は呼吸を忘れていたことに気付いた。大きく息を吸い込み、吐き出す。忘れていた呼吸を繰り返しながら、ふと隣を見る。
日葵もまた、俺と同じように息を呑んでいた。どうやら、あの白蛇が見えたのは俺だけではないらしい。
環世之天蛇。
伝承の中だけの存在だと思っていた神は、確かにそこにいた。その衝撃が消えないうちに、千代女さんが目を瞑ったまま静かに口を開く。
「天蛇様より神託が下りました」
誰も、何も言わない。俺はただ、千代女さんが発する次の言葉を聞き逃すまいと、耳をそばだてていた。
「神託は——禁忌を暴こうとする者」
その瞬間、全員の視線が交錯した。誰が蛇なのか。誰もが互いの表情を探っている。だが、神託を聞いた瞬間に露骨な反応を示した者はいなかった。
弁一さん。
良二さん。
冨喜さん。
日葵。
そして俺。
誰もが疑い、そして疑われている。そんな空気が場を支配していた。
「最初に、一つだけ良いかしら?」
最初に口を開いたのは冨喜さんだった。
頬に手を当てながら、祭壇の上にいる千代女さんを見つめている。
千代女さんは、静かに頷いた。
「このまま蛇宴を行えば、冥蛇様の怒りは鎮まるのよね?」
「はい」
「蛇が勝っても、人が勝っても?」
その問いに、千代女さんは一瞬だけ沈黙した。ほんの僅かな間だった。だが、何かを考えたようにも見えた。
「……はい。その通りです。蛇宴の遂行こそが、冥蛇様を鎮める条件です。勝敗そのものに意味はありません」
「それなら安心したわ」
冨喜さんは穏やかに微笑むと、安心したように胸を撫でおろした。
「もし蛇を勝たせなきゃいけないとか、人が勝たなきゃいけないとか、そういう条件があったら困るものねえ」
その言葉を聞きながら、俺は小さな違和感を覚えていた。
伝承によれば、冥蛇は人々へ疫病をもたらした存在だ。弁之助という猟師に撃たれ園崎の巫女によって封印された存在でもある。そんな存在が、本当に儀式を行うだけで満足するのだろうか。
「まあ、千代女ちゃんが嘘をつくとは思えないし」
日葵が肩を竦めながら、言葉を続ける。
「つまり、誰か一人選べば良いってことでしょ? 気楽なもんじゃん」
その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。弁一さんも、良二さんも、先ほどまでよりは、表情が柔らかくなっていた。
「……天蛇様の加護のもと、蛇宴を続けてください」
千代女さんが告げる。天蛇様の加護。その言葉には、不思議な安心感があった。あの神々しいまでの雰囲気を放っていた白蛇を見た後では、尚更だ。
「そうだな、蛇宴を進めよう」
弁一さんの言葉に、全員が同意するように頷いた。
その直後だった。
「……時間がねえんだろ」
低い声を出したのは、良二さんだった。
全員の視線が良二さんに集まる。彼の顔色は相変わらず悪く、額には薄く汗が浮かんでいる。
「千代女ちゃん。霧が到達するのは、あとどれくらいなんだ?」
良二さんの質問に、千代女さんは目を瞑り、祈るように両手を胸の前で合わせたまま答える。
「霧がこの一帯へ到達するまで、およそ二十分です」
「だったら、もう決めちまおうぜ」
焦るような口調だった。何かに追い立てられているようにも見える。そして、良二さんは俺が予想していなかった言葉を告げた。
「俺は透を指差すぜ」
「え?」
思わず声が漏れた。
「俺ですか?」
「ああ」
良二さんは、俺を見ないまま頷いた。
「禁忌を暴こうとしてる奴なんて、この中じゃお前が一番それっぽい」
「理由を聞いても?」
「俺は親父も、冨喜さんも、日葵ちゃんの事もよく知ってる」
良二さんは、名前を告げた人物の顔を順番に見ながら、続けて口を開く。
「禁忌っていうのが何なのかは分からねえ。けど、三人ともこの集落で普通に生きてる人間ばかりだ」
そして最後に、彼の視線が俺に固定された。
「お前だけが、外から来た」
俺を指差すと宣言した理由は、それだけだった。俺は部外者。ここにいる人たちにとって未知の存在。その事実を考えると、良二さんの言葉は否定しづらい。
「はーい」
手を挙げたのは日葵だった。
「私も透くんに一票」
「なんと」
「だって、怪しいじゃん」
そう言って、いつもの調子に戻った日葵は、歯を見せてにこやかに笑った。
「急に蛇棲ヶ迫へ現れた、謎の青年」
「いやいや、謎って……」
「しかも絶対普通じゃない」
「だから、それやめろって」
「実は、この集落に隠された禁忌を暴くためにやってきた、陰陽師の末裔とか?」
「どんな設定だよ」
思わず突っ込む。だが日葵は、先ほどまでの暗い様子から一変し、どこか楽しそうだった。
「ということで、透くんに二票だね」
日葵はそう言ってから、祖母である冨喜さんへと視線を向けた。
「ばあちゃんは?」
「私は……日葵ちゃんかしら」
「理由は……聞くまでもないか」
冨喜さんは何も言わず、意味深に微笑んで日葵を見るだけだった。
居心地が悪そうに、日葵は冨喜さんから視線を逸らす。何かを知っているようなやり取りだったので、妙に気になった。
「弁爺は?」
「そうだな……」
日葵に意見を求められた弁一さんは腕を組み、しばらく考え込む様子を見せてから口を開いた。
「日葵も怪しいとは思う」
その言葉に日葵が目を丸くする。
「え、私?」
「昔から、この地の伝承や歴史を調べていただろ。それが、禁忌を暴くという神託に当てはまるかもしれん」
「なるほど、なるほど」
かなり的を射た意見だったので、日葵も苦笑するしかなかったのだろう。禁忌というのが何を指しているのか俺にも全く分からないが、それが歴史や伝承に関連することならば確かに、と頷ける。
「だが、良二の意見ももっともだ。そう考えると……俺も透だな」
弁一さんの言葉で、結果が決まった。俺が最多得票だ。
「一応言っときますけど……俺は蛇じゃないですよ」
俺は肩を竦めながらも、とりあえずはこの儀式の趣旨に沿って反論することにした。だが、もう誰も意見を変えそうにはなかった。
俺が外部の人間である以上、この結果は当然なのかもしれない。よく知りもしない人間を疑ってしまうのは、人間の本質として避けられないことなのだろう。
ただのゲームだ。そう思おうとする。しかし、胸の奥の違和感は消えない。
本当にこれで終わるのか?
そんな不安を抱えたまま、儀式は次の段階へ進む。
「議論が済んだようですので各々、蛇と思う者を指差してください」
千代女さんが告げると、ゆっくりと全員が右手を上げ、人差し指を伸ばす。
良二さん。
弁一さん。
日葵。
議論の通り、三人の指先は俺へと向いていた。
冨喜さんは、日葵を指している。
俺も迷った末、日葵を指した。
その瞬間だった。
「ははは……」
笑い声が聞こえた。日葵だった。その姿を見て、俺はまたしても背筋が凍った。
日葵の瞳が変化していた。縦に裂けた蛇の瞳。紅い光を宿した、人ならざる目。
そして——彼女の足元から黒い靄のようなものが噴き出る。それはやがて、巨大な黒蛇となって日葵の身体に巻き付いた。
天蛇と対を成すような、黒い大蛇。その姿を見た瞬間、俺は恐怖に慄いた。そして本能的に理解してしまった。終わったのだと。
黒蛇の口から溢れ出した霧が、一瞬で蛇宴殿を飲み込む。霧……俺は知っている気がする。この霧が何をもたらすのかを。
逃げなければならない。なのに、身体が動かない。まるで見えない何かに縛り付けられているようだった。
最初に倒れたのは冨喜さんだった。大量の血を吐き、その場へ崩れ落ちる。続いて弁一さん、良二さん。そして俺も咳き込み、血を吐いてその場に倒れた。
視界が赤く染まる。意識が遠のいていく。その中で、俺は最後まで中央の祭壇を見つめていた。
霧の中から、千代女さんが姿を現す。その瞳は蛇のように細くなり、蒼い光を宿していた。
白蛇を従える巫女。黒蛇を纏う日葵。
まるで最初から、対となる存在だったかのように。
天蛇と冥蛇。
千代女と日葵。
二人は祭壇の上で向かい合い、そして手を取り合った。
その光景を最後に、俺の意識は深い闇の中へと沈んでいった。




