第十話:虚言
朝月夜を見上げた瞬間だった。脳裏に、二匹の大蛇の姿が浮かんだ。
白き天蛇。黒き冥蛇。
それを皮切りに、膨大な記憶が頭の中へ流れ込んできた。
知らないはずの景色。知らないはずの会話。知らないはずの痛み。
そして――知らないはずの死。
まるで誰かの人生を、勝手に見せられているようだった。
断片的な映像が、次々と脳裏を駆け抜ける。蛇宴殿。神託。毒霧。血を吐きながら倒れる人々。そして、祭壇の上で向かい合う二人の女性。
頭がズキズキと痛む。現実とは思えない感覚に襲われながらも、俺は足を止めなかった。
小道へと足を踏み入れると、川のせせらぎが聞こえはじめる。
そして、この先には――緑色のテントがある。そんな予感に導かれるように、俺は歩き続ける。
やがて、川辺に張られた緑色のテントが見えた。そこにいるのは、森上日葵。俺と同じ大学に通う、文化財学科の大学生。蛇宴で蛇役となった少女。
テントの中から顔を覗かせた彼女を見た瞬間、脳裏で声が蘇った。
(お、だれ? 痴漢?)
そんな馬鹿げた台詞まで、鮮明に思い出される。
「お、だれ? 痴漢?」
全く同じ言葉が、日葵の口から発せられた。
俺は呆然と、その場に立ち尽くした。夢じゃない。偶然でもない。俺は知っている。この光景を。この会話を。この先に起こることを。
そして――この先に待つ死を。
一体、何が起きている?
なんで時間が巻き戻っている?
まさか、長い夢でも見ていたのか?
普通ではありえない状況に、俺は混乱していた。自分でも、顔が青ざめているのが分かるくらいに。
「えっと……なに? なんか顔色悪くない?」
日葵が首を傾げながら、俺の顔を覗き込んできた。記憶にはない、知らない台詞だった。だが、それよりも俺は目の前にいる彼女が恐ろしかった。
日葵は俺の記憶にある通り、いつもと変わらない顔をしている。明るくて、少し変わっていて、親しみやすい女子大生。
けれど、俺は知っている。その笑顔の奥に、あの黒い大蛇がいたことを。
俺はこれからどうすればいい? 何をすればいい?
混乱した頭では、うまく思考がまとまらない。
ただ、一つだけ分かっていることがある。本当にこの先、また同じ展開が待っているのだとしたら、その結末を回避しなければならない。
でなければ、俺は死ぬ。
この場所から逃げるという考えが一瞬浮かんだが、すぐに駄目だと悟る。
千代女さんの話では、既に冥蛇の毒霧が神野山を覆いつつある。蛇宴から逃げたところで、やがて毒を孕んだ霧に呑まれて死ぬだけだ。
それに、納得のいかない事が一つある。
冷静になれと自分に言い聞かせながら、考えを巡らせる。
千代女さんは言っていた。蛇宴を遂行すれば、冥蛇の怒りは鎮まると。冨喜さんの質問に対して勝敗は関係ないと、はっきり言っていたはずだ。
だが、現実は違った。日葵が蛇側として勝利した瞬間、蛇宴殿は毒霧に包まれて、俺は死んだ。
千代女さんが嘘をついていたのか?
千代女さんへの疑念を抱きながら、俺は過去の記憶をなぞるように日葵と会話を交わした。
日葵の提案を受け、森上家へと向かう為に小道を抜ける。
やがて桑田家が建つ平地へ辿り着くと、そこには前回と同じ顔ぶれが集まっていた。
桑田弁一さん、桑田良二さん、森上冨喜さん。
そして——園崎千代女さん。
「お、透じゃないか」
最初に声を掛けてきたのは弁一さんだった。急に流れ込んできた記憶とほぼ同じ展開。同じ人物。同じ場所。だが、一つだけ明らかに違うことがあった。
俺の視線は、ただ一人の人物へと向けられた。巫女装束を纏う女性、園崎千代女。
彼女だけが俺の記憶と違っていた。記憶では、彼女は俺を見た瞬間に驚いていた筈だ。だが、今の彼女は違う。驚いている様子はまるで見られない。むしろ、俺が現れることを知っていたかのように、静かにこちらを見つめている。
その後も、俺は注意深く周囲を観察した。誰がどのタイミングで、何を言うのか。どんな表情をするのか。どんな行動を取るのか。
記憶と照らし合わせながら確認していく。そして、確信へと至る。俺の記憶と異なる振る舞いをしているのは、千代女さんだけだ。
彼女に、聞きたいことが山ほどあった。その機会は、すぐに訪れた。俺と話があるという千代女さんの言葉を受け、他の面々が先に神社へ向かい、その場に俺と千代女さんだけが残された。
俺の記憶通りであれば、彼女はこう言うはずだ。
(あなたは霧の中で死んだはずです)
そして、蛇宴について説明を始める流れとなった筈だ。
「これから、蛇宴という儀式を執り行います」
しかし、千代女さんはまるで余計な手順を省くかのように、本題へ入った。だから俺は、口を挟まずにはいられなかった。
「部外者だから巻き込みたくなかったと――そんな話はしてくれないんですね」
千代女さんの動きが止まり、その目がゆっくりと見開かれた。その反応を見るだけで十分だった。やはり、知っている。彼女も覚えている。俺が見た光景を。俺が経験した死を。
「透様……本当に貴方は、一体何者ですか?」
掠れた声で呟いた千代女さんに、俺は返す刀で言い返す。
「それはこっちの台詞ですよ」
思わず語気が強くなってしまうのを感じながら、言葉が溢れるのを止められそうになかった。
「千代女さん。一体何が起きてるんですか?」
自分でも、驚くほど感情的になっていた。
「なんでまた、同じ時間が繰り返されてるんですか?」
あれは夢じゃない。白昼夢でもない。
時間が巻き戻った。そう考える以外に、説明がつかなかった。
「透様も、レーテを渡ったはずなのに……」
意味を理解できない、小さな呟きに苛立ちが募ってしまう。
「また意味の分からない事を……レーテってなんです?」
だが、彼女は何も説明してはくれなかった。ただ険しい表情で、俺を見るだけ。ならば、俺から言うしかなかった。
「蛇宴の説明は必要ありません」
俺は一歩前へ出る。
「俺はもう儀式の内容を知っているんです」
言葉が止まらない。
「貴方は言いましたよね」
胸の奥から怒りが込み上げてくる。
「蛇宴を遂行すれば、冥蛇の怒りは鎮まるって」
拳を握り締める。
「霧は晴れるって!」
視界の奥に、あの光景が蘇る。
毒霧。
血。
死。
「でも違った!!」
思わず叫んでいた。
「蛇役である日葵が勝った瞬間、蛇宴殿は冥蛇による毒霧に包まれた! 俺たちは死んだ! 話が違うじゃないですか!」
千代女さんのすぐ目の前に立ち、彼女を睨みつける。
今にも掴みかかりそうになる衝動を、必死に抑えることしかできなかった。
そこまで言っても、千代女さんは特に何も反論してこなかった。
弁明もしない。ただ困惑と警戒が入り混じった表情で俺を見ている。
まるで理解できない存在を見るかのように。それが余計に腹立たしかった。
「俺はもう、貴方を信じられません」
絞り出すようにそう言った。
千代女さんは、しばらく黙っていた。
そして。
「……結構です」
静かにそう答えた。
くるりと踵を返す。その背中からは、拒絶の意志が感じられた。
「私は貴方に信じてもらうために、ここにいるのではありません」
振り返らないまま言葉を続ける。
「私は使命を全うするだけです」
「使命?」
「はい。その使命を果たすためなら、犠牲は厭いません……たとえ、貴方に恨まれようとも」
その言葉を最後に、千代女さんは神社へ向かって歩き出した。
俺はその背中を見つめ続ける。引き止めることもできず、その場に立ち尽くした。
絶望にも似た感情が、胸の奥へ沈んでいく。
そして悟る。今の俺にとって、千代女さんは味方ではないのだと。
むしろ――敵なのかもしれないと。




