第六話:邂逅
空に浮かぶ朝月夜が視線を横切った瞬間、嫌な予感がした。
このまま下山を強行し、あの濃霧の中へ飛び込むのは危険だ。そんな確信にも似た感覚が胸の奥から湧き上がり、俺の足は自然と歩みを止めていた。
理由は分からない。けれど、どうしても前へ進む気になれなかった。俺は踵を返し、来た道を引き返し始める。
しかし、戻ったところでどうする?
また桑田家で世話になるのか?
そんなことを考えながらも、とにかく霧から離れなければという焦りだけがあった。
足早に山道を進む。桑田家まであと十分ほどで着くな……そんな事を考えながら、桑田家がある平地へと到着する間際だった。
俺は偶然、平地の手前に森の奥へと続いている細い小道を見つけた。下山する時には気付かなかった道だ。
この先には何があるのだろうかと、好奇心に負けた俺は、そのまま小道へ足を踏み入れた。
しばらく森の中を歩いていくと、水の流れる音が強くなり始めていることに気付いた。
そこには川が流れていた。まさか、こんな場所に川があったなんて、全然気づかなかった。
周囲を見回した俺は、思わず足を止める。川の岸辺に、緑色のテントが張られていた。
誰かいるのだろうか。そう思った直後、テントの中から一人の女性が姿を現す。
歳は俺より下に見えた。高校生くらいだろうか。黒縁の眼鏡を掛けた、整った顔立ちの女性。
寝起きなのだろう。肩まで伸びた黒髪を手櫛で何度も整えている。小柄な体躯に、大きな丸い瞳。白いポロニットとジーンズというシンプルな服装だった。
俺がジーっと見つめていると、女性は俺の存在に気付き、こんなことを言ってきた。
「お? だれ? 痴漢?」
第一声がそれだった。思わず脱力してしまう。
「いや、痴漢ではないです」
「じゃあ変態?」
「なんでそうなる」
「だってさ、一人で趣味のキャンプを楽しんだ翌朝、起きたら知らない男がキャンプの外に立ってるんだよ? 変態か痴漢のどっちかだと思うじゃん」
彼女の言い分も分からない事はないが、俺は変態でも痴漢でもないので反論するほかない。
「変態でも痴漢でもないです。色々と事情があって、フラフラ歩いていたらここに辿り着いただけです」
「あー、分かった!」
彼女は思いついたように人差し指を立ててから、言葉を続ける。
「自殺志願者か」
「……違う」
「死ぬなら他所でお願いね」
「だから違う」
俺は彼女とのやり取りに脱力したまま、とりあえず素性を明かす事にしたる。
「普通の大学生です。どこにでもいる平凡な大学生」
「はい、嘘ー」
「え?」
「私ね、そういうの分かっちゃうんだよね」
眼鏡の奥の瞳が、ゆっくりと細められる。
「君、どこにでもいる平凡な大学生じゃないでしょ」
「というと?」
「何か不思議なものに守られているような、そんな感じがする」
「なにそれ。あの巫女さんといい、君といい、この集落の女性には何か特殊能力でもあるの?」
「能力というか、私のはただの霊感みたいなもんだけどね」
彼女は肩を竦めながら、テントの外にあったアウトドアチェアに腰を落ち着かせた。
「でも千代女ちゃんと一緒にされるのはちょっとねー。あれは次元が違うでしょ……ていうか、千代女ちゃんに会ったんだ?」
俺は頷くことで肯定する。不思議だった。初対面のはずなのに、この子には妙な話しやすさがある。
「会ったよ。何も話してないのに、俺がバイク事故に遭ったことを知ってた」
「あー、千代女ちゃんってそういうところあるよね」
彼女はアウトドアチェアに座ったまま、大きく伸びをして見せる。その仕草が、なんとなく猫みたいだなと思った。
「さすがは天蛇様の依り代って感じ」
「天蛇様?」
「あれ? 聞いてないんだ。環世之天蛇様。蛇棲ヶ迫を襲った疫病から人々を救った蛇神様。私たちの信仰の対象で、癒しと生を司る神様。今でもこの集落を守ってくれてるって言われてる」
そういえば、蛇神信仰がどうだとか、良二さんからそんな話を聞いた気がする。
「詳しいんだね」
「まあね」
ふふふんと鼻を鳴らしながら、女性は得意げに胸を張る。
「この辺に長く住んでるし、大学でも文化財学科で史科学を学んでるし」
「え? 大学生?」
思わず口から出た。見た目から高校生くらいだと思ったのだが。そんなことを思っていると、抗議するような視線が彼女から飛んでくる。
「森上日葵。二十一歳」
日葵と名乗った女性は胸を張ったまま宣言する。
「キャンプが趣味の、どこにでもいる美少女大学生ですけど?」
森上日葵。確か、この集落から俺と同じ大学に通っていると良二さんが話していた人の名前だった。
正直、大学生には見えない。その感想は胸の内に留めておく。
「大学生には見えないって思ったでしょ」
「いやいや」
「思った」
「思ってない」
「思った」
「……少しだけ」
「よろしい」
なぜか満足そうだった。
「あ、俺は月代透ね。同じ大学かな。文化財学科じゃなくて文化学科だけど」
「月代?」
日葵が小さく首を傾げる。
「うん……どうかした?」
「いや、別に」
そう言いながらも、彼女はどこか引っ掛かったような表情を浮かべていた。
「月代透ねえ……」
やがて何かを納得したように頷くと、日葵はニヤリと笑う。なんだろう、妙に居心地が悪い。まるで心の中を読まれているみたいだ。
「えーっと、なんか居心地悪いんで話を戻していい?」
「なんで居心地悪いのか気になるけど、どうぞ」
「この場所の歴史も気になるんだけど、それより先に解決しないといけない問題がある」
「ふむふむ」
「俺、これからどうしたらいい?」
日葵は数秒沈黙した。
そして。
「うわあー……」
露骨に引いた顔をする。
「こんなあからさまに迷ってる人、初めて見た! おもしろー」
事実なので否定できない。
「というか、そもそも、なんで透くんはここに来たの?」
「簡単に説明すると、適当にバイクを走らせてたら迷ってしまって、下山しようにも霧が濃くて危ないなーと戻って来たって感じで」
「なんか、色々説明が省かれている気がするけど、まあ迷った事には違いないんだ……霧? 霧が濃いの?」
「うん。なんか、嫌な感じがする霧なんだよな……」
「……ふーん」
何か気になることでもあるのか、日葵は考え込むように視線を落とした。
「……とりあえず透くんの事情は分かったよ。まあ、こんな山の中を迷われて崖から落ちて死にましたーなんて後味悪いし」
そう言って日葵はアウトドアチェアから立ち上がり、こんな提案をしてきた。
「私の家に来る?」
「え?」
「ばあちゃんもそろそろ帰ってるだろうし」
それは願ってもない提案だった。昨日よりかは良くなったとはいえ、身体もまだ痛む。少なくとも、あの何か危険なものを感じる正体不明の霧が消えるまでは、落ち着ける場所が欲しい。
「お願いします」
俺が頭を下げると、日葵はヒラヒラと手を振りながら言った。
「気にすんなー」
変な子だ。だけど、すごく良い奴なんだろうなと思った。




