第五話:毒霧
桑田家を後にした俺は、澄み切った朝の空気をいっぱいに肺へと吸い込んでから、下山を開始した。
季節は夏。まだ早朝だというのに、蝉たちは忙しなく鳴いている。
山の澄んだ空気は心地よく、手当の甲斐もあってか昨日の事故で痛む身体も幾分軽く感じられた。
とりあえず下山して、麓へ着いたら公衆電話からロードサービスへ連絡して、それからバイクを回収してもらうことにしよう。
そんなことを考えながらバイクで来た道を戻るように下山を続けていると、前方から一人の女性がやって来るのが見えた。
白い半袖シャツにグレーのチノパン。麦わら帽子を被り、首元にはピンク色のスカーフを巻いている。
背中には大きなリュックサックを背負っており、年齢は五十代くらいに見えた。
背筋は真っ直ぐ伸びていて、表情にも若々しさが残っている。
登山客だろうか。昨夜聞いた話では、この辺りに住む人の多くは七十代以上だった筈だが、少なくとも七十代には見えなかった。
すれ違いざまに軽く会釈すると、女性と目が合った。
「あら、見ない顔ですね」
気さくな声だった。話し掛けられるとは思っていなかった俺は少し驚きながらも立ち止まる。
「あ、はい。ちょっと……色々ありまして」
詳しい事情を説明するのも面倒で、曖昧に答えてしまった。
女性は気にした様子もなく、微笑んだ。
「そうなのね。これから下山するのかしら?」
「はい、そのつもりです」
「おすすめしないわ」
「……え? おすすめしない?」
思わず聞き返すと、女性は谷の方を指差して困ったように眉根を寄せる。
「ほら、ここから見えるでしょ?」
谷川の方へ視線を向けると、これから下ろうとしていた道の先が白い霧に覆われていることが分かった。景色がほとんど見えない程に。
「私も長くここに住んでいるけれど、あれほどの濃霧は滅多に見ないわ」
「……あの中を進むのって危険ですかね?」
「そうねえ。道沿いに進めば下山はできるかもしれないけれど、危険には変わりないわ。視界が悪いもの。車に追突されたりしたら大変でしょ?」
確かにその通りなのだが、俺には下山する以外の選択肢がなかった。
今さら桑田家へ戻って、霧が晴れるまで、またお世話になります! なんて言えるほど、図々しくはない。
「心配していただいてありがとうございます。でも、ちょっと事情がありまして。気を付けながら下山してみます」
「あら、そうなの?」
女性は、少しだけ困ったように笑う。
「それなら気を付けるのよ」
「はい」
軽く頭を下げてから、親切な女性に別れを告げ、俺は下山を再開した。
しばらく歩いてから、ふと思う。そういえば、この先に住んでいるのは桑田家と森上家だけだと聞いていた。
良二さんが七十五には見えない婆さん、なんて言っていた気もする。
いや、まさかな。あの人が七十五歳だというのなら、妖怪か魔女の類だろう。
そんなちょっと失礼かもしれないことを考えながら歩いているうちに、いつのまにか周囲を霧が覆っていた。その霧は、歩みを進める程にどんどん濃くなっていった。
視界が白一色になり、十メートル先すら見えなくなる。
確かに、あの女性の言う通り、この先を進んでいくのは危険なのだろう。
俺は気を引き締めてから、慎重に足を前へと進めていく。
そして――その瞬間は唐突に訪れた。
ぽたりと、何かが地面へ落ちる音がした。
最初は雨粒かと思った。だが違った。足元に、赤い点が出来ている。
え? と思いながら鼻筋に指で触れると、指先が真っ赤な血で染まった。
「……なんだよこれ」
呟いたその瞬間、胸の奥が急激に熱くなっていった。
息が詰まり、反射的に咳き込む。
口元を押さえた掌が、赤く染まっていた。
吐血。大量の血を見て、頭が真っ白になる。
何が起きている?
分からない。分からないまま、身体から力が抜けていく。
地面へ膝をつくと、全身に痺れが走った。
胸の痛みが少しずつ身体中へ広がっていく。
手も足も、思うように動かない。
ああ……。
これ……。
死ぬ……。
ぼんやりと、そう思った。
倒れ込んだ俺は、最後の力で空を見上げる。
霧の向こう側から、一瞬だけ見えた朝月夜。
その光を見つめながら、俺の意識はゆっくりと闇へ沈んでいった。
◇ ◇ ◇
沢山の人が川を渡っていた。
誰もが俯いたまま、水の中をゆっくりと進んでいる。
気が付けば、俺もその一人だった。
意識がぼんやりとしている。何かを考えようとしても、頭の中に靄が掛かったようで上手くまとまらない。
ただ、水をかき分けて足だけが前へ進む。
ふと、岸辺に誰かが立っていることに気付いた。それは巫女姿の女性だった。祈るように目を瞑り、静かに立っている。
その傍らには二匹の大蛇。
一匹は黒。
一匹は白。
白い蛇の鱗から漏れ出すように流れ出ている水が、川を作っている。
それは、どこか神々しい光景だった。
俺はその存在を認識しながらも、川を渡り続ける。
周囲の人々と同じように。
ただ静かに。
頭上の月を見つめながら。




