第四話:酒宴
居間の壁に掛けられた時計は、夜の九時半を少し回っていた。
弁一さんと良二さんの住む平屋へ招かれた俺は、まず怪我の手当を受けることになった。
幸い骨折は免れていたものの、バイクから投げ出された際にできた擦り傷は思いのほか深い。傷口に消毒液が触れるたび、思わず顔が歪む。
「我慢しろ」
そう言いながら、手際よく傷を消毒していく弁一さんの手付きは慣れたものだった。
見た目や口調だけなら怖い人に見える。だが、こうして世話を焼いてくれる姿を見る限り、本来は面倒見の良い人なのだろう。
良二さんはというと、風呂へ直行したらしく、この場にはいなかった。
「名前はなんて言うんだ?」
そう尋ねられ、まだ自己紹介をしていなかったことを思い出す。
俺は痛む身体を起こし、姿勢を正した。今日はこれから彼の家に泊めてもらうことになる。礼儀だけは尽くすべきだろう。
「月代透です。大学三年で、麓にある大学へ通っています。突然のことでご迷惑をお掛けしますが、今日はお世話になります」
できるだけ丁寧に頭を下げると、弁一さんは少しだけ目元を緩めた。
「気にしなくて良い。困った時はお互い様だって言ったろ。こんな時間に徒歩で下山する方が危ない」
そう言いながら、弁一さんが包帯を結び終える。
「ほれ、終わったぞ」
「傷の手当までしてもらっちゃって……本当にありがとうございます」
弁一さんは、苦笑しながらテーブルを挟んだ向かい側へと腰を下ろす。
「そうだな。俺たちの紹介がまだだったか。俺は桑田弁一。この辺りで農業をやってる。いま風呂に入ってるのが、俺のバカ息子で良二って言う」
「人を紹介するのにバカ息子はねえだろ」
声と共に現れたのは、パンツ一丁の良二さんだった。男から見ても惚れ惚れするようなマッチョ姿に、思わず目が離せなくなってしまう。
頭を白いタオルで乱暴に拭きながら、良二さんは俺の隣へどっかりと腰を下ろした。
「良二だ。あんまり他人行儀なのは好きじゃねえ。気軽に接してくれ」
そう言って差し出された手を握る。分厚い。少し力を入れられただけで、指が折れそうなほどだった。
「話し声が聞こえてたんだが、麓の大学って日葵ちゃんと同じところじゃねえか?」
「日葵ちゃん?」
「この集落に住んでる森上冨喜さんって七十五には見えない婆さんの孫だ。確か、文化財学科だとか言ってたっけな。たぶん同じ大学だぜ」
こんな山奥から大学へ通う人がいることに少し驚いた。
だが、それ以上に俺が気になっていたのは別の人物だった。
「じゃあ、この辺りに住んでいるのはお二人と森上冨喜さん、それから日葵さん……あと、あの巫女さんですか?」
何気ない風を装って尋ねる。
「ああ、千代女ちゃんな」
良二さんはあっさり頷いた。
「前は母親もいたんだが、一か月前に亡くなってな」
「おい」
弁一さんの低い声が割って入った。
その声を聞き、良二さんは「あっ」といって口元を片手で抑える。
「口が軽いのはお前の悪い癖だぞ」
言いながら立ち上がると、弁一さんは居間と繋がるキッチンの方へと姿を消した。
良二さんは気まずそうに頭を掻いている。
「悪い。今のは忘れてくれ」
そう言うと彼も立ち上がり、廊下の奥へと消えていった。
あの巫女さんについて色々と聞いてみたかったのだが、これ以上の情報収集は難しそうだった。
そのまま居間の家具をぼんやりと眺めて待っていると、先に弁一さんが戻ってきた。
その手には、酒瓶とコップが三つ。
「飲めるか?」
「……少しだけなら」
指でほんの少しだけと示すと、弁一さんは満足そうに頷いた。
彼がコップへ酒を注ぎはじめたタイミングで、良二さんも戻ってきた。今度は裸ではなく、ちゃんと寝間着姿だった。
「お、いいね」
テーブルの酒を見るなり笑う。
「出会いに乾杯しようじゃねえか」
そうして始まった酒宴は、思った以上に賑やかなものとなった。
◇ ◇ ◇
酒の席で、俺は二人から様々な話を聞くことができた。
まず、この場所は神野山の中腹にある、蛇棲ヶ迫と呼ばれる山間集落だという。
いわゆる限界集落というやつで、麓の町が発展したことで若者たちは移り住み、今では十数名ほどの住民を残すのみらしい。
その大半が七十代以上の高齢者で、林業や農業を営みながら暮らしているという。
俺が住む神野町からは車で三、四十分ほどの距離らしい。気付かないうちに、随分と遠くまで来ていたようだ。
桑田家の二人は、森上冨喜さんという老人と共に農業を営んでいるらしい。
もっとも、集落の家々が一か所に集まっているわけではない。住民たちの家は山の斜面に点在しており、神社の周辺にあるのは桑田家と森上家だけだという。
下の方にも何軒か民家があるらしいが、歩けば三十分ほど掛かるとのことだった。
そして、俺が最も気になっていた千代女という巫女について。
残念ながら、詳しい話は聞けなかった。
分かったのは、あの神社の名前が大山神社という名前で、古くから蛇神を祀っていること。
そして、その蛇神がかつて疫病から人々を救ったという、伝承が残されていることだった。
この集落では、蛇神信仰が根付いているようだ。蛇に睨まれるというのは、神の怒りを買った証。不吉な出来事の前触れとして、恐れられているらしい。
だからこそ、千代女さんは俺を集落から追い出そうとし、弁一さん達も賛成した。だが、軽トラックのパンクによってそれは叶わなかった。
結果として、俺はこうして彼らの世話になっている。
「まあ、昔からの言い伝えってやつだ。あんまり大きい声じゃ言えないが、俺は信じちゃいねえよ。蛇神信仰とか、そういう古い仕来りみたいなのには、ちょっとうんざりしててよ」
良二さんは、酒で赤くなった顔のまま、弁一さんには聞こえない小声で俺に耳打ちしてきた。
「ただ、この辺の爺さん婆さんは違う」
そして、少しだけ真面目な顔になってから続けた。
「明日になったら、さっさと下山した方が身のためかもしれねえな」
その忠告を聞きながら、俺はコップの中で揺れる酒を見つめる。
彼の言う通り、早めに下山した方が良いのかもしれない。どう考えても、俺は余所者だ。こういう場所で目立つ行為は避けた方が良いのだろう。
その後、酒が回った二人は居間で盛大なイビキを響かせながら眠りについた。
俺も少しだけ目を閉じ、そのまま身体を休めることにした。だが、深く眠ることはできなかった。
山道で出会った蛇の瞳が、脳裏にちらついた。そして、千代女さんの青ざめた顔。初めて来たはずなのに、どこか覚えがあるような、この集落の景色。
そんなものが、頭の中にこびりついて離れなかった。
そんな事を考えている内に、やがて窓の外が白み始める。
夜が明けたのを確認した俺は、机の上に置手紙だけを残し、静かに桑田家を後にした。




