第三話:再開
頭上に浮かぶ月が、俺の瞳に映し出されていた。頭を下げると、藪の中から出てきた蛇と目が合った。
どうしてだろう。これが、初めてではないような気がする。
夜の山道。行き先も決めずに愛車のスーパーカブを走らせていた俺は、転倒した後に地面へ膝をつき、そのまま蛇と睨み合っている。
幸いにも骨は折れておらず、掠り傷だけで済んだようだ。だが、愛車の方は駄目そうだった。一目見ただけで、もう走れる状態ではないと分かる。
極めつけには、二つ折りの携帯電話。電源ボタンを押しても何も反応せず、液晶の割れ具合からも故障しているのは明らかだった。
俺はなおもこちらを見つめ続ける蛇を睨み返した後、バイクに積んであった懐中電灯の光を頼りに、山道を歩き始める。
しばらく進むと、斜面を上るための石段と、その先に立つ鳥居が見えた。石段の先には灯りが漏れており、もしかしたら社務所があり、人がいるのかもしれないと思った。
俺は痛む身体を引きずるようにして石段を上がっていき、その先にある鳥居を潜る。
予想通り、その先には神社があった。社務所と思われる建物から漏れる灯りが、夜の境内をぼんやりと照らしている。
広い境内の中央には、巨大な神木がそびえ立っていた。まるで蛇を模したように、三重に巻かれた注連縄。夜空へ向かって伸びる枝葉。人の侵入を拒むように設置された囲い。
まるで神社に訪れた俺を、静かに見下ろしているかのような巨大な存在感。その荘厳な雰囲気に気圧され、思わず足を止める。
そんな俺の視界に、一人の女性が映った。社務所の前に立つ、巫女装束の女性だった。人がいたことに安堵しながら、俺は彼女へ近付いていく。
「あの、すみません」
「すぐにここを離れましょう」
唐突な言葉に、俺は呆気に取られた。
「え、離れる?」
「はい。あなたはすぐにここを離れるべきです。この集落は危険ですから」
どこか苛立っているようにも見えた。初対面の相手に向ける態度としては、不自然なくらいに。
何か嫌なことでもあったのだろうか。そんなことを考えているうちに、巫女姿の女性は俺の腕を掴み、そのまま歩き始める。
俺はされるがまま、彼女の後に付いていくしかなかった。
気のせいだろうか。まるで、俺の事情などすべて知っているかのように感じる。事故に遭ったことも、この場所に辿り着いた理由さえも。
何も聞かないまま、彼女は俺を少し離れた場所にある一軒の平屋へと連れてきた。
戸を叩くと、中から男が姿を現した。五十代ほどだろうか。鋭い眼光と鍛え上げられた二の腕が目を引く。
白髪混じりの坊主頭をガシガシと撫でながら、男は厳格そうな声で問い掛けた。
「千代女ちゃんか。こんな時間にどうされました?」
千代女ちゃん……そう呼ばれた女性は、背後にいる俺へ視線を向ける。
「彼を麓の町まで送り届けてあげてはもらえないでしょうか? バイクで転倒してしまったようです」
——え?
俺は思わず目を瞬かせた。バイクで転倒したことを、なぜ知っている?
まだこちらの事情など、何一つ話していないのに。
「事故か……それは災難だったな。バイクはどの辺りに?」
「あ、えっと……あっちにある山道の途中です」
戸惑いながらも答えると、男は小さく頷いてから家の中へと声を張り上げる。
「良二! 車の鍵を持ってこっち来い!」
「えー! なんだよ! 今から風呂入ろうと思ってたんだけど!」
「良いから来い!」
数秒後、弁一と呼ばれた男性とは別の男が姿を現す。
百八十センチを優に超える大男だった。鍛え抜かれた身体つきは、まさに筋骨隆々という言葉が相応しい。年齢は三十代前半ほどだろうか。精力的な顔つきと、触れれば刺さりそうなツンツン頭が印象的だった。
弁一さんと、良二さん。彼らがこの家の住人であるようだ。
「あれ、千代女ちゃんと……あんたは?」
「バイクで事故ったらしい。お前、軽トラ出してやれ」
「あー……そりゃ災難だな。でももう夜も遅いぜ? なんだったら家に泊まって――」
「蛇に睨まれています」
巫女の女性が発した、その一言で空気が変わった。俺以外の二人が顔を強張らせる。
蛇に睨まれる。確かに俺は、さっき藪の中にいる蛇と目が合った。
だが、それが何だというのだろう。
「あー……そうか。それなら仕方ねえな」
良二さんはそう呟きながら軽トラックへと向かう。
そして運転席へ乗り込もうとして――。
「あ!」
驚くような声を上げた。
「おいおい、なんだこれ。タイヤがパンクしてる!」
「……え?」
最初に反応を示したのは千代女さんだった。
彼女は駆け寄るように軽トラックへ近付き、タイヤを確認する。
そして、そのまま黙り込んだ。顔から血の気が引いている。
続いて、弁一さんもタイヤを覗き込む。
「こりゃダメだな。穴が空いてる。予備のタイヤは?」
「あー、そういや丁度頼もうと思ってたところだよ。今は切らしてる」
「……タイミングが悪いな」
そんな男性二人の会話を他所に、俺も近付いて確認してみる。タイヤには二つの穴が空いていた。まるで、何かに噛みつかれたような痕だった。
「こりゃあ、今日は泊まってくしかねえんじゃねえか?」
良二さんの言葉に、俺は頭を掻いた。
山奥の見知らぬ土地。交通手段はない。携帯電話も壊れている。今から徒歩で下山するのは、自殺行為に近かった。
「えーっと……すみません。ご迷惑をおかけします」
「なあに。困った時はお互い様だ」
弁一さんはそう言って、俺の肩をバシバシと強く叩いた。
「いっ……」
思わず顔が歪む。一応は怪我人なので、その力加減は勘弁してほしい。
そんな中でも、俺の視線は自然と千代女さんへと向いていた。
彼女は軽トラックの前に立ったまま、黙ってタイヤを見つめている。正に顔面蒼白といった様子だった。
「千代女ちゃん?」
良二さんが不思議そうに声を掛ける。だが、彼女は答えない。何かを必死に考え込んでいるようだった。
「どうした?」
弁一さんも尋ねる。数秒の沈黙後、千代女さんはゆっくり首を振った。
「……いえ」
その声には、明らかに力がなかった。
気になった俺が彼女を見ると、目が合った。
その瞳の奥にあった感情を、俺は上手く言葉にできない。
恐怖とも悲しみとも違う、もっと深い何か。
まるで必死に避けようとしていた未来に、追い付かれてしまった人間のような目だった。
「本当に、大丈夫ですか?」
思わずそう尋ねると、千代女さんは少しだけ驚いたような顔をしたが、その後に力なく微笑んだ。
「はい……」
嘘だとすぐに分かったが、それ以上は聞けなかった。
「それじゃ決まりだな」
弁一さんがバチンと手を叩く。
「良二、お前の部屋を貸してやれ」
「ええ?」
「文句言うな」
「俺の部屋、散らかってるんだけど」
「知るか」
そんなやり取りに、思わず苦笑が浮かんだ。
「あの、お名前を聞いてもよろしいですか?」
まだ顔色の悪い千代女さんに尋ねられ、俺はすぐに背筋を伸ばして名前を告げた。
「月代透です」
「月代透……様。どうか、安らかに。そして……ごめんなさい」
「……え? それは、どういう」
俺の問いには答えず、千代女さんは悲しそうに顔を伏せたまま、白い装束を翻してこの場から去って行ってしまう。
暗い道の先へと消えていくその背中を、俺は黙って見送ることしかできなかった。




