第三十五話:記憶
最初に感じたのは、薬品の匂いだった。鼻の奥を刺激する独特な香り。それから、規則正しく響く電子音。ゆっくりと瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。
「……ここ」
掠れた声が漏れる。どうにかして身体を起こそうとした瞬間、隣から誰かの息を呑む音が聞こえた。
「透!」
視界を横に向けると、そこには一人の女性がいた。四十代くらいだろうか。目元を赤く腫らしており、今にも泣き出しそうな顔だった。その人は、感極まるように俺の手を強く握り締めた。
「良かった……本当に良かった……」
震える声を発しながら、握られたその手がとても温かいと感じた。けれど、俺はその人が誰なのか分からなかった。
「……あの」
女性が顔を上げる。俺は少し迷ってから口を開いた。
「誰ですか?」
その瞬間、女性の表情が凍り付いた。
「……え?」
まるで絶望したかのような表情を見せる女性に、俺は申し訳なくなりながらも続ける。
「すみません、分からないんです」
「分からないって、何が?」
「えっと……全部です。ここはどこですか? というか……俺は……誰だっけ」
何も思い出せないという事実に愕然とする。混乱が頭の中を支配するのに、それほど時間はかからなかった。何も分からない。何かを思い出そうとしても、頭の中は真っ白だった。
信じられないようなものを見る目をしたまま、口元を押さえる女性。彼女は立ち上がり、慌てた様子で病室を飛び出していった。その間も、俺は何も思い出せないという事実に頭を抱えることしか出来なかった。
しばらくして、先ほどの女性と一緒に一人の男性が病室へ入ってきた。四十代後半くらいだろうか。女性より少し年上に見える。厳格そうな、落ち着いた雰囲気の人だった。
二人とも俺の事を心配するように見ていた。けれど、やはり分からない。どちらも知らない人だ。
「透……俺が誰だか分かるか?」
男性の言葉に、俺は首を横に振って応える。
「ごめんなさい」
男性は少しだけ目を閉じた。隣では、女性が変わらず今にも泣きそうな顔をしている。
長い沈黙の後、男性が小さく息を吐く。
「そうか」
それだけだった。男性の方は驚きも、怒りも、取り乱した様子もない。まるで、どこか納得しているように見えた。
「俺はお前の父親だ」
父親……そう言われても実感は湧かない。
「俺の隣にいるのが、お前の母親だ」
女性が小さく頷く。だが、やはり思い出せなかった。父も、母も、自分自身さえ。
その事実は、俺を絶望の淵へと追いやるには十分だった。自分の両親のことさえ、思い出せない。一体、なんでこんな事になっているのかという疑問が頭を過る。
「俺は……誰なんですか?」
気付けばそう尋ねていた。俺の父と告げた男性が。少し困ったように笑う。
「月代透。俺の息子だ」
月代透……それが俺の名前らしい。自分の名前を聞いても、何故かしっくり来ない。別人の名前を聞かされたように感じてしまう。
「俺……何があったんですか?」
俺の母である筈の人がびくりと肩を震わせてから、俺の質問に答えてくれた。
「透は、一週間も眠り続けたままだったのよ」
「え……一週間も?」
「ええ」
母は涙を堪えるように鼻を鳴らした。
「お医者さんは、命に別状はないって言ってたけど……でも、いつ目を覚ますか分からなくて……」
母はそこまで言って、言葉の続きを飲み込んだ。きっと心配を掛けたのだろう。そう思うのに、不思議と実感が湧かなかった。母である彼女に、こんな顔をさせてしまっている。そんな自分が少しだけ嫌になった。
その後、俺は父と母から色々な話を聞いた。一週間前の夜、俺は山の中で突然倒れたらしい。そんな俺を救ってくれたのが、大学の友人。森上日葵という名前の女性だった。
意識を失ったように倒れた俺を、彼女が救急車を呼び、救ってくれた。その後、俺はこの病院へ運ばれて一週間も目を覚まさなかった。
目が覚めてから、何度も精密検査をした。結果は、異状なし。身体にも、脳にも損傷はない。だが、記憶だけが綺麗に失われていた。医者は原因不明だと言った。けれど、父だけは何かを知っているような口ぶりだった。
「依り代の力を使ったんだな」
二人きりになった時、父はそう呟いた。
「依り代?」
「ああ……全く、いつの間に依り代となったのか知らないが、人には過ぎた力を行使したんだろう。その代償がこれか……」
父が何を言っているのか、俺にはよく理解できなかった。そんな俺を見て、父は「今は何も分からなくて良い……ただ、いつか説教だ」とだけ言った。
身に覚えのないことで説教されるのは勘弁なのだが、それと同時に説教を受けて然るべきかもしれないと納得している自分が少し不思議だった。
そうして、病院で目を覚ましてから数日が過ぎた。相変わらず記憶は戻らなかったが、父と母とも少しずつ打ち解けていった。
小さい頃のアルバムを見せてくれたり、昔話を沢山聞かせてくれた。家族旅行の話、俺の子供の頃の失敗談、好きだった食べ物、嫌いだった勉強。色々なことを教えてくれた。そんな話をしていく中で、この二人が両親で良かったなという思いが俺には芽生えていた。
それと同時に、こうも思う。失ってしまった記憶は戻らないのかもしれない。それでも、自分という存在を取り戻して、いつかこの二人を心の底から安心させてあげたいと。そんな事を思う俺に、二人は根気強く付き合ってくれた。
「焦らなくていい。記憶が無くなろうとも、透は透だ」
父のその言葉だけは、不思議と胸に残った。
そして、目覚めてから一週間が過ぎた日の午後だった。
病室の扉が開く。いつも通り、両親が来たのだと思った。でも、そこにいたのは黒縁眼鏡をかけた見知らぬ女性だった。
「こんにちはー」
肩まで伸びた黒髪。どことなく、活発そうな雰囲気を感じる。なぜだろう、彼女の姿を見た時、初対面の筈なのに安心感が胸の内へと広がった。
「こんにちは」
俺も挨拶を返した。すると、女性は少しだけ寂しそうに笑った。
「あーあ、本当に忘れちゃったんだ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいけどさー、こんなかわいい子、忘れるかね普通」
そう言って、女性はベッド横にある椅子へ腰掛ける。
「私、森上日葵ね」
その名前には聞き覚えがあった。確か、意識を失った俺を救ってくれた女性だ。
「聞いてます。救急車を呼んでくれたって。ありがとうございました」
「……うーん、なんかやりにくいなあ。ねえ、とりあえず敬語やめてよ。なんか寂しくなっちゃう」
そう言って、本当に寂しそうな顔をするもんだから、俺は少しでも彼女を笑顔にしたくて無言で頷いた。
「……分かった。えっと、俺は君のことなんて呼んでた?」
「普通に、日葵って呼び捨てだったよ。初対面から、馴れ馴れしい感じだったね」
「え、そうなの? 俺ってそういう感じだったのか」
「うん、最初は君のこと痴漢だと思った」
「はあ? 痴漢? なんで?」
「だって、私が川岸でキャンプしてたら急に現れてさ、襲われるーって思っちゃったよね」
「なにそれ……変な出会い方」
「それは同感」
そこまで話して、ようやく彼女……日葵の顔に笑顔が浮かんだ。その事が俺には嬉しかった。
「はあ……全部忘れちゃうとかさ、本当に。あそこまでの事をしておいて、ちょっとかっこつけすぎじゃない?」
「え? どういうこと?」
「いや、こっちの話。一応、伝えおくけどさ。約束した通り、玄蛇様の信仰を復活させようと動いてるよ。蛇棲ヶ迫の皆も協力してくれてる」
「日葵と、なんか約束してたんだ。でもごめん、やっぱり何を約束していたのか思い出せない」
「謝らなくて良いよ。透くんは、謝らなくて良い……思い出さなくたって良い」
どうしてだろう、日葵は何かを迷っているようだった。先ほどから、落ち着きなく足をブラブラさせている。
「ねえ、もうこのまま何も思い出さずに……」
そこまで言って、日葵は言葉を止めた。首を左右に振り、俯いたまま口元に小さな笑みを浮かべる。
「そんなの……やっぱり駄目か。ズルいよね、そんなの」
「……どうかしたの?」
何かを吹っ切ろうとするかのように、日葵はバッと顔を上げた。
そして、一人の名前を口にする。
「千代女ちゃん」
その瞬間だった。ドクン、と心臓が大きく跳ねた。息が詰まる。胸が苦しい。何故か涙が出そうになる。頭では何も覚えていない筈なのに、心が勝手に動きはじめているような感覚。
「千代女ちゃん、待ってるよ。一緒にここに来るかって聞いたんだけどさ、会いに行きたいけど君が迎えに来るって言ってたから、それを信じて待ち続けるって。健気だよね」
「……俺はその人を、待たせてるの?」
「うん、そうだよ。透くん……すべては千代女ちゃんの為だったんでしょ? なら、千代女ちゃんの事だけは思い出してあげなきゃダメなんじゃないの?」
そう言われても、待ってくれている千代女という女性の顔も俺は思い出せない。でも、思い出したい。その衝動だけが心の底から湧き上がってくる。
「思い出せない……でも、どうしてだろう……俺はその人に、凄く会いたい。会わなきゃいけない……そんな気がする」
「なら、行くしかないじゃん!」
日葵はポケットからキーケースを取り出すと、車の鍵を俺に見せてニヤリと笑った。
彼女の意図を察した俺は、病室のベッドから抜け出す。
そして、差し出された日葵の手を取り病室から抜け出した。




