第三十四話:祈福
天から無数の光の粒が降り始めた。流星群にも似た光。それは山を越え、街を越えて、世界中へと降り注いでいく。
俺には分かった。あれは記憶だ。月の記憶が、光の粒となって世界中に降り注いでいる。
神代から積み重ねられてきた歴史。忘れ去られた神の存在。失われた真実。その全てが、人々の認識へ流れ込んでいる。
世界が思い出していく。忘れていたものを。失っていたものを。消してしまったものを。
そして、俺はその存在を認識した。遥か遠く、けれど確かに存在している。
それは、あまりにも巨大だった。世界そのものを覆い尽くしてしまう程に、膨れ上がっていた。恐怖の大王と呼ばれ、やがて世界を無で飲み込む存在。忘却の果てに膨れ上がった神。無そのものとなった神。
だが、その力が少しずつ小さくなっていくのが分かった。月の光を浴びて、人々が思い出すたび、存在を認識するたび、膨張し続けていた無が、本来の姿へと戻っていく。
『ククク……やり遂げたか、月に導かれし者よ』
ふいに、声が聞こえた気がした。それは恐ろしいようでいて、でも不思議と嫌いになれない、そんな不思議な感覚に陥る声だった。
そして、呆然と降り注ぐ光を見つめる俺の目の前に、何かがいる気がした。それは、目には見えない。けれど、確かにそこにいる。
無を司る神。
忘れられた神。
追放された神。
神代の時代ですら、その姿を認識できなかった神。
その名は……。
「玄蛇」
その名を口にした瞬間、世界が震えたような気がした。
長い眠りから目覚めるように、あるいは、失われていた欠片を取り戻すように。
天から降り注ぐ光が、更に強く輝きを増していく。
記憶も、歴史も、神の名も、その全てが解き放たれていく。
行き場をなくして彷徨っていた数多の魂が、無へと還っていく。
人々が思い出していく。かつてこの地には三柱の神がいたことを。
生を司る天蛇。
死を司る冥蛇。
無を司る玄蛇。
忘れられていた神の存在が、再び世界へ刻まれていく。世界を覆い尽くそうとしていた巨大な存在が、更に小さくなっていく。膨れ上がった無が、本来あるべき姿へ戻っていく。暴走した力ではなく、世界を構成する理の一つとして。
それと同時に、俺の記憶が零れ落ちていくのを感じる。人の身には過ぎる力を行使した依り代の代償は、恐ろしい速度で俺の記憶を忘却していく。
でも、これで良かった。もう世界は終わらない。そう確信できた。
恐怖の大王はもう現れない。世界が無に飲み込まれることもない。それならば円環はもう必要ない。世界を守るための儀式も必要ない。巫女姿をした女性……彼女を永遠の牢獄から解放することが出来た。
「……良かった」
自然と呟きが漏れる。その瞬間、膝から力が抜けた。視界が大きく揺れ、地面に倒れる。
「透くん!!」
誰かが背後で、誰かの名前を叫んだ。声の主が誰なのか、透とは誰なのか分からない。俺自身を形作っていたものが、次々と失われていく。
家族。
友人。
自分の過去。
大切だったはずのもの。
それらが砂のように零れ落ちていく。
怖い。信じられない程に、怖かった。けれど、不思議と後悔はなかった。
一人の女性の姿が脳裏へ浮かぶ。
長い黒髪。透き通るような白い肌。凛とした瞳。朱色の袴。初めて会った時、その人は俺を巻き込まないように遠ざけた。蛇に睨まれた不吉な存在として、この場所から追い出そうとした。
けれど、俺たちは何度も繰り返す世界で出会い続け、そして敵対する事になった。
その過程で、俺は彼女が誰よりも優しいこと、誰よりも責任感が強いこと、そして自分を犠牲にしてまで世界を救おうとしている事を知った。そんな彼女を見捨てて、俺は一度逃げた。その後悔だけは忘れたくなかった。でも、それすらも俺は忘れてしまうのだろう。
救いたかった。世界なんかどうでも良くて、ただ彼女を救いたかった。今まで見た彼女の様々な表情が、脳裏に浮かんでは消えていく。すべてが終わったら、いつか迎えに行くと彼女に告げた気がする。でも、その約束を果たすことはできないかもしれない。
驚いたような表情で、顔を赤らめていた彼女の顔……それすらも消えていく。悲しい……その感情だけが残る。最後に、どうしても伝えたかった。使命なんて関係なく一人の人間として生きてほしいと。
巫女である必要はない。
依り代である必要もない。
世界のために死ぬ必要もない。
普通に暮らして、ささやかでもいいから幸せになってほしい。
俺は最後の力を振り絞って月に願う。
「どうか……彼女が幸せになれますように」
「透くん!! ねえ、一体どうしたの!?」
必死な声だった。泣きそうな声だった。聞き慣れているはずなのに、倒れた俺の肩を揺らしながら叫ぶこの人の名前が思い出せない。
この人の事も忘れてしまう……その事に申し訳なさを募らせながら、俺は最後にもう一度だけ空を見上げる。
月が輝いている。優しく、静かに、全てを見守るように。
その光を瞳に映しながら、俺は静かに意識を手放した。




