第三十三話:月光
神代の景色が遠ざかっていく。
三柱の神や、蛇棲ヶ迫の人々。
そして、最後まで姿を認識することのできなかった無を司る神。
全てが白い光の中へ溶けていった。
「透くん!」
声が聞こえた。肩を揺さぶられる感覚。重い瞼を開くと、最初に飛び込んできたのは夜空だった。
満月。雲一つない夜空。静かな月明かりが、山頂へ降り注いでいる。
「大丈夫?」
声のした方へ視線を向ける。女性がいた。俺のことを心配そうに見つめている。
見覚えがあった。何度も見てきた顔だ。信頼している人だった筈だ……なのに、名前だけが出てこない。
「……え、そんなにジロジロ見て、どうしたの?」
黒縁眼鏡をかけた女性が首を傾げた。俺は答えない。いや、答えられなかった。代わりに額へ手を当てる。頭が痛い。違う、痛みじゃない。もっと嫌な感覚だった。まるで本棚から本が一冊だけ抜き取られたような感覚。そこに何かがあったことは分かる。だが、その中身だけが無い。そして、その理由にも心当たりがあった。
「そういうことか……」
小さく呟く。神の依り代となり、その力を行使するには代償が伴う。
天蛇の依り代となった千代女さんが、永遠の牢獄に囚われたように。
冥蛇の依り代となった人たちに、死が訪れたように。
月の神の依り代となった俺にも、記憶の忘却という代償が発生したという訳だ。月の記憶を抽出し、過去を観測した事によって、俺の記憶の一部が無くなっている。
「透くん?」
再び名を呼ばれる。俺は無理やり笑った。
「大丈夫」
本当は大丈夫じゃない。だが、まだ話せるし、動ける。これで終わりじゃない、俺にはまだやる事がある。
これからやる事、そしてその代償について考えると恐怖で手が震えた。それでも俺はやらなければならない。世界の正常化だとか、そんな事はどうでも良い。千代女さんを永遠の牢獄から解放し、彼女にどんな形であれ普通の幸せな人生を歩んでほしい。その想いを遂げるためにも。
「全部見た」
「え、見た? 何を?」
心配そうに俺を見つめる女性に、全てを告げるべきだと思った。だから、月の力を使って神代で見たものを語り始めた。
三柱の神がいた時代のこと。
人々が無を恐れたこと。
恐怖から無を司る神を殺したこと。
永遠を求めて円環の術を生み出したこと。
冥蛇が怒り、弁之助が冥蛇を討ち、封印されたこと。
そして、円環を完成させるためには、蛇棲ヶ迫の人間全員の死が必要だったことを。
最後まで語り終えた頃には、女性は黙り込んでいた。
「そんな……」
ようやく絞り出された声は震えていた。
「じゃあ全部、蛇棲ヶ迫の人間が始めたことだったの?」
「そうなるな」
神を恐れ、利用し、殺した。全ては人間の選択だった。
長い沈黙が落ち、やがて女性は顔を上げた。
「ねえ、無ってなんなの?」
そう、彼女には理解できない筈だ。何故なら、□□が殺された事によってこの世界では「無」という概念自体が認識できなくなっている。だから、俺も神代の記憶を見るまではその概念自体をうまく説明することが出来なかった。
でも、今なら理解できる。無とは何もないということ。それを示すための概念。
俺は満月を見上げ、神代で見た光景を思い出す。認識できない神。見えているはずなのに理解できない神。形を持たない神。
「あの神は死んでなんかいない」
黒縁眼鏡の女性が目を見開く。
「え?」
「無を与えることは、あの神にとって死なんかじゃない」
名前を消した。記録を消した。信仰を消した。存在そのものを忘れ去った。それで終わったと思っていた。だが、それは違う。
「あの神は無を司る神だ。蛇棲ヶ迫の人々は、桑田家に伝わる方法を行使することで無を司る神に更なる無を与えてしまった。それが間違いだったんだ」
女性は黙ったまま俺の話を聞いている。一言たりとも聞き漏らすまいとするように真剣な表情で。
「無を司る神は、無を取り込む事で今もなお力が増幅し続けている」
人々が忘れれば忘れるほど。記録を消せば消すほど。認識しなくなればなるほどに無を司る神の力は、抑えきれない程に増大してしまった。そして、やがて世界を無で覆いつくしてしまうほどの存在になってしまう。
「それが……恐怖の大王と呼ばれているものの正体」
女性が呟き、俺は無言で頷いた。記憶がどんどん、失われていくのが分かる。まるで泉から水が零れ落ちていくかのように。ああ……もう時間が無いのかもしれない。
「頼みがある……あの神の信仰を復活させてくれ」
「信仰を?」
「そうだ。俺が今から、その神の存在を思い出させる。だから、その忘れられた神を信仰してくれ。そして、伝えていってほしい。忘れられた神がいたことを、真実の歴史を、この蛇棲ヶ迫に」
俺は目の前の女性を見る。禁忌を追い続けた人。誰よりも蛇棲ヶ迫の歴史を知ろうとした人。この役目を託せるのは彼女しかいないと、そう思えた。
「……分かった。やってみる」
その答えを聞いて、少しだけ安心した。これで一つ、未来へ託せる。目の前の女性の顔を何度見ても、やはり名前が出てこない。それどころか、段々と彼女と交わした会話さえも思い出せなくなっている。もう時間がないと悟り、俺はもう一度満月を見上げた。
目を瞑り、月に祈りながら、胸の奥に宿る力へ意識を向ける。
「これで最後だ……頼む」
忘れてしまう前に、失ってしまう前に、全てを終わらせなければならない。
満月が、俺の祈りに呼応するように輝いた。そして、月の光が爆発するように溢れ出した。夜空を覆うほどの光。山頂を照らしていた月明かりが、一瞬で白い奔流へと変わる。
風が吹き荒れ、木々が揺れる。世界そのものが震えているようだった。
それでも俺は、目を閉じたまま立ち続ける。
もう迷いはない。俺がやるべきことは決まっている。
忘れられた神を。失われた真実を。
この世界へ取り戻す。




