第三十二話:神代
意識が沈んでいく。
満月の光の中へ。
深く。
深く。
深く。
やがて白い光が晴れた時、俺は見知らぬ場所へ立っていた。
月明りの眩しい夜。俺には、その場所が過去の蛇棲ヶ迫である事が分かった。山の斜面には無数の家々が建ち並び、人々の営みの灯りが夜の闇を照らしている。
畑があり、田があり、子供たちの笑い声が聞こえる。今では限界集落となったこの土地が、かつては多くの人々が暮らしていたことが分かった。
依り代の力によって、ここが蛇棲ヶ迫で神代と呼ばれていた時代なのだと理解する。俺はただの観測者。月が記録した過去を見ているだけに過ぎない。
ふと、人々が山の奥へ向かって頭を垂れていることに気付く。俺も視線を向けた。そして、息を呑んだ。
三柱の神がいた。
一匹は巨大な白き蛇——環世之天蛇。
一匹は巨大な黒き蛇——環世之冥蛇。
そして――認識できない何かがいる。
確かにいる。だが認識できない。目を向ければ存在は分かる。けれど、次の瞬間にはどんな姿だったのか思い出せなくなる。ただ一つだけ分かる。それは確かに、神だった。
人々は三柱へ祈りを捧げていた。
生を司る天蛇。
死を司る冥蛇。
そして、俺は月の力で過去を観測したことで、ようやく理解する。
その神を殺す事で、現代では無くなってしまっている概念を司る神。
無を司る□□。
三柱は均衡を保っていた。生があるから死がある。死があるから無がある。無があるから新たな生が生まれる。
それが、この世界の理だった。だが、人はその理を受け入れられなかった。死を恐れ、別れを恐れ、老いを恐れた。そして何よりも、無となることを恐れた。何も残らなくなることを。忘れ去られることを。存在そのものが消えることを。
だから、蛇棲ヶ迫の人々は考えた。無さえ無くなればいい。終わりさえ無くなればいい。そして生と死だけが循環する世界を作れば、永遠に生きられる。
人々は□□を殺した。剣ではなく、火でもなく、戦いですらない。
ただ、名前を呼ばなくなった。
語ることを禁じた。
姿を描くことを禁じた。
祀ることを禁じた。
記録することを禁じた。
神の存在そのものを、歴史から消した。
すると、本当に□□が消えていった。
信仰を絶ち、認識を失うことで人々の記憶から存在自体が零れ落ちていった。
その光景に、俺は背筋が凍った。神殺し。桑田家に伝わる、神を殺す方法。
やがて、無を消した人々は歓喜する。これで終わりはない。これで無は訪れない。
そう信じていた。だが、人間の欲望はそこで止まらなかった。
次に彼らが求めたものこそが、永遠だった。生と死が終わりなく循環する世界。永遠に魂が巡り続ける世界。
円環。
人々は、その術を生み出そうとした。生を司る天蛇と、死を司る冥蛇。二柱の神の力を利用し、生と死を循環させる術。そうすることで永遠が手に入ると、人々はそう考えた。
だが、その行いは神への冒涜だった。理そのものを歪める行為。神の怒りに触れる行為だった。
霧が山を覆い、蛇棲ヶ迫の人々が咳き込む。血を吐き、倒れる何十人の人々。疫病と恐れられたそれこそが、死を司る神の怒りだった。
だが人々は、自らの過ちを認めなかった。冥蛇を災厄の神と決めつけた。そして、一人の男が立ち上がる。
弁之助。神殺しを提唱し、火縄銃の名手でもあった彼は、火縄銃を手に取り冥蛇を討ち倒した。
山に響く銃声。黒蛇の身体が地へ落ちていく光景。
人々は歓喜した。災厄を討った。そう信じた。だが、冥蛇は死ななかった。死を司る神が死ぬはずもない。畏怖の対象であるその存在には、神殺しさえも通じない。
だから、人々は冥蛇を封印した。山の奥深く、暗い洞窟にある祠の中へと。神の怒りも、その存在に対する恐怖も、全て押し込めるように。
そして、人々は無を司る神を殺し、死を司る神を封印し、人々の願いを受け入れ癒しを施した天蛇を祀った。
それから人々は、懲りることなく再び円環の完成を目指した。だが、円環は完成しなかった。そこで初めて人々は知ったのだ。生だけでは循環しない。死だけでも循環しない。円環とは、生と死の両方が存在して初めて成立する術。
天蛇と冥蛇。二柱の神の協力が必要不可欠だったのだ。だから人々は自らが封印した冥蛇へ協力を求めた。
封印された冥蛇は『ククク』と楽しそうに答えた。協力してやってもいい。だが条件がある。
その条件を聞いた瞬間、蛇棲ヶ迫に住む人々の顔から血の気が引いた。蛇棲ヶ迫に住む、全ての人間の死。それが円環形成の条件だった。
永遠を得るためには、蛇棲ヶ迫の人間全員が死ななければならない。何という皮肉だろうか。死を恐れ、無を恐れ、永遠を求めた人々が全員死ななければならない。
結局、誰もその代償を受け入れられなかった。円環は発動されなかった。術だけが残された。いつの日か、誰かが永遠へ辿り着くことを夢見て。園崎に受け継がれる秘術として。
景色が滲み始める。
神代が終わる。
人々が消える。
灯りが消える。
最後に見えたのは、三柱の神だった。
白蛇。
黒蛇。
そして□□。
その姿を見つめながら、俺は全てを理解した。
蛇棲ヶ迫の悲劇は、神が始めたものではない。
始まりは、無を恐れ、永遠を求めた蛇棲ヶ迫の人間たち。
全ては、彼らの傲慢な願いから始まったのだった。




