第三十一話:天蛇
冥蛇の祠を後にした時には、既に太陽は西へ傾き始めていた。洞窟の外へ出ると、夕暮れの光が山々を赤く染めている。木々の隙間から差し込む橙色の光が、地面へ長い影を落としていた。
思った以上に時間が経っていたらしい。俺は振り返り、洞窟の入り口奥を見つめる。もうその奥から、冥蛇の存在を感じられない。
どうしてだろう。俺はあの死を司る神に何かを託されたような、そんな気もしていた。
「これからどうするの?」
ようやく冥蛇の恐怖から解放された日葵が、俺の隣を歩きながら尋ねる。俺は少しだけ空を見上げた。東の空には丸い月が浮かび始めている。
「山頂へ行こう」
「山頂?」
「ああ」
日葵は俺の顔を見ながら、少し考えるような顔をした。
「吹っ切れたような顔してるじゃん……何かするつもりなんだ?」
図星だった。冨喜さんから聞いた禁忌の内容。冥蛇との会話。頭の中では、確かに一本の線が見え始めている。
「何をするつもりなの?」
真っ直ぐな問い。だが、俺はすぐには答えなかった。
「そうだな……山頂に付いたら話すかも」
そう答えると、日葵は少しだけ不満そうな表情で俺を見つめる。何か文句の一つでも言ってきそうだと思ったのだが、意外な事に日葵は「分かった」と素直に頷いて見せた。
「好奇心旺盛な日葵が珍しい。聞かないのか?」
「透くんがいま言わないなら、何か理由があるんでしょ」
そう言って日葵は俺の半歩先へと歩いていく。山頂までは距離がある。俺はその背中に、言葉を投げかけた。
「なあ、日葵は永遠って欲しいか?」
「欲しくないよ」
即答だった。俺の話を聞いて、きっと日葵はもう答えを用意してあったのだろう。
「透くんが話してた、円環に守れていた世界の話でしょ?」
「うん。円環の中では、人は死ぬと魂がレーテという川を渡って記憶を流し、再び還って同じ生を繰り返す。そんな永遠の世界」
「つまんないよねー、それ。いくら世界を守るためって言ってもさ、ずーーーーーっと同じことの繰り返しとか、考えるだけでつまらないよ」
「同感だ」
本当に、俺も同じ考えだった。そんな世界はこちらから願い下げた。ただ、もし死の先にあるものが……。
「俺も同じなんだけど、もし死の先が……いや、うまく言えないな。つまり、行き止まりだったら? また生を繰り返すのではなくて、そこで終わりなんだとしたら、それでも日葵は永遠を望まない?」
「うん、望まない」
力強い声だった。終わり……それは、考えると恐ろしいことの筈だ。それでも、日葵は永遠なんてものは望まないと力強い言葉で言った。
「精一杯生きて、何でも良いから、この世界に生きた証を残して、死んで……それで終わりで良い。死ぬのも終わるのも考えると怖いけど、永遠なんて私はいらない」
日葵の言葉は、俺の背中を強く押してくれるようだった。
森上日葵……彼女のような存在が、この蛇棲ヶ迫にいてくれて良かったと心の底から思う。彼女がいなければ、ここまで来れなかっただろう。
俺は何度も頼もしいと感じた友の背中を記憶に焼き付けながら、山頂へと続く道を登り続けた。
山道を登るにつれ、空の色は少しずつ変わっていく。昼と夜の境界が、ゆっくりと世界を塗り替えていた。昼に比べて、風は涼しい。蝉の声もいつの間にか遠ざかっている。
月の輝きが徐々に増していく。俺の中にある力が増していく感覚が分かる。やがて木々が途切れ、視界が開けた。あの日、世界の終わりを見届けた場所である山頂へと到着した。
既に辺りは夜の闇に包まれている。眼下には麓の町や集落に灯る明りがポツポツと浮かび、遠くに見える山々は黒く、巨大な存在感を放っている。
夜空には煌々と光る満月が、まるで世界を照らす灯火のように輝いている。
眼下の夜景を見下ろし、長い時間を酷使した足を少し休めようとした——その時だった。
風が止み、山全体が静まり返る。虫の声すら聞こえない、不自然な静寂。
月明りの下、白い光の集約と共に、一つの巨大な影が現れた。神々しい光を纏った巨大な白蛇。生を司る神。環世之天蛇がそこにいた。
日葵が隣で、息を呑むのが分かった。俺は黙って、その姿を見つめた。天蛇は何も語らない。ただ、蒼く光る瞳で、静かにこちらを見つめているだけだった。
この神は何も語らない。今までだって、そうだった。冥蛇と違い、ただ見ているだけ。まるで人が何を成し、どこへ辿り着こうとしているのかを見守っている、そんな存在だった。
このタイミングでここに顕現したということは、今から俺がやろうとしていることに興味を抱いたということなのだろう。もしかしたら姿こそ見えないが、冥蛇もどこからか俺の事を見ているのかもしれない。
俺は小さく息を吐く。そして、満月を見上げた。
今なら出来る。俺がやるべきことが何なのか、今なら分かる。
俺は両手を合わせ、静かに目を閉じ月に祈る。胸の奥で、月の神の力が脈打ったのが分かった。今までになく強く。今までになく鮮明に。
満月の光が、俺を包み込んでいく。
依り代の力——記憶と観測を司る神の力を用いて、俺は月の記憶を抽出する。
次の瞬間、光が溢れるのと同時に、俺の意識は遥か過去へと引きずり込まれていった。




