第三十話:冥蛇
森上家を後にした俺と日葵は、神野山内にある洞窟へと足を進めていた。
目的地は、冥蛇が封印されている祠だ。冥蛇が封印されている場所に行きたいと言った俺に、日葵は嫌そうな顔をしながらも案内してくれた。
禁忌の内容を知ったいま、俺にはやるべき事が何なのかがなんとなく理解できていた。ただ、それを成す前に、どうしても冥蛇とは話がしておきたかった。月に導かれた先で、俺が最初に出会った存在。そして、俺をこの運命へと引きずり込んだ神と対話したかった。
「透くん、本気で冥蛇に会いにいくの?」
「ああ、そのつもりだけど……もしかして怖いのか?」
「そりゃあ、怖いに決まってるじゃん! 蛇棲ヶ迫の人間にとって、冥蛇は畏怖の対象だよ? その神に自ら会いに行くとか、正気の沙汰じゃないって思っちゃうよ」
「うーん、俺は蛇棲ヶ迫の人間じゃないからなあ……」
「いや、それでも! 普通怖いでしょ! 死を司る神だよ! 何回も同じ時間を繰り返して頭おかしくなったんじゃないの?」
随分な言いようだった。だが、日葵の言葉は言い得て妙だ。確かに俺は、最初の頃に比べたら冥蛇という存在に恐怖心を抱かなくなっている。それは、何度も死というものを経験したからだろうか。
「そんなに怖いなら、洞窟の入り口で待ってれば? 俺だけ行ってくるから」
「……私も行く。どんな話するつもりなのか気になるし」
好奇心を抑えられない猫……日葵はそんなイメージだった。よく観察したら、耳と尻尾が生えてくるかもしれない。
無言で洞窟内を進み続ける。洞窟の中は、夏とは思えない程にひんやりとしている。外で鳴いていた蝉の声も届かない。聞こえるのは、水滴が落ちる音と反響する足音だけだった。
足元を照らす懐中電灯の光だけを頼りに、俺たちは奥へと進んでいく。洞窟の道は複雑ではなく、一本道だった。それなのに、進むほど圧迫感が増していく。まるで、この場所そのものが人を拒絶しているようだった。
やがて、最深部へ辿り着く。そこには小さな祠があった。古びた石造りの祠。周囲には、無数のお札が張り巡らされている。封じるための結界。そう呼ぶのが最も相応しい光景だった。
俺は祠の前へ立つ。
「いるんだろ、冥蛇」
静かに呼び掛けた。返事はない。だが、洞窟内の空気が揺れた。ひやりとした冷気が吹き抜ける。次の瞬間だった。祠の奥から黒い靄が滲み出す。それは煙のように広がり、やがて巨大な蛇の形を取った。
紅く光る瞳。漆黒の鱗。人知を超えた存在感。
環世之冥蛇。死を司る蛇神の瞳が俺を見下ろす。
『久しいな、月に導かれし者よ』
背後で、日葵が息を呑む音が聞こえた。低く響く声を受けながら、俺は冥蛇を見上げる。
『ほう……見違えたぞ。お主……依り代となったか』
どうやら、この神にはすべてお見通しらしい。そう、俺は月の神の依り代となっている。その事実は、神である冥蛇にはすぐ分かってしまうようだった。
「そんなことはどうでも良い。冥蛇、聞きたいことがある」
『なんだ?』
「軽トラックをパンクさせたの、お前だろ。なんで俺を蛇宴に引き入れた?」
紅く光る瞳が細くなる。俺との対話を心から愉しんでいるように見えた。
『あのまま下山されては退屈だったのでな』
「退屈?」
『そうだ。我にとっては、人の一生など瞬きにも満たぬ。生まれ、足掻き、死ぬ。それを何千年も見続ければ飽きもする』
あまりにも神らしい答えだった。つまりこの神は、ただ楽しそうだからという理由だけで俺を引き込んだという訳だ。
「随分勝手な理由だな」
『ククク』
笑うだけで、悪びれる様子もない。その返答に、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
ふと隣を見ると、日葵は俺の半歩後ろに立っていた。顔色が悪い。両手を強く握り締め、視線だけが冥蛇へ向いている。何か言いたそうに口を開くが、声にならないらしい。
無理もない。目の前にいるのは神話の存在だ。しかも、蛇棲ヶ迫の人間が代々畏れてきた死の神。好奇心だけで踏み込める領域ではない。
俺が視線を向けると、日葵は小さく首を振った。大丈夫、そう言いたいのだろう。けれど、その顔はまったく大丈夫そうには見えなかった。
俺は小さく息を吐き、再び冥蛇を見上げる。
「長話する気はない。どんな理由であれ、お前は俺を蛇宴へと引き込んだ。なら、責任をもって最後まで見届けてもらう」
紅い瞳が細くなる。まるで値踏みするように。
『何が言いたい?』
「もう円環は必要ない。俺が全部終わらせる。神を利用する時代も、依り代を生み出す仕組みも、千代女さんを縛り続ける運命も――全部終わらせてやる。」
洞窟内へ静寂が落ちる。冥蛇は何も言わない。ただ、その紅く光る瞳だけが、静かに俺を見つめていた。
しばらくの沈黙。やがて冥蛇は小さく笑ったように見えた。そして、黒い身体が少しずつ靄へと崩れていく。
『ならば見届けよう。お主の結末を』
最後に残った紅い瞳だけが、真っ直ぐ俺を映した。
『月に導かれし者よ、お主が何を犠牲にし、何を成すのか、退屈凌ぎに楽しませてもらおう』
そう言い残し、冥蛇の姿は闇へ溶けるように消え去った。残されたのは静寂だけだった。
俺はしばらく祠を見つめる。そして、未だ恐怖に震えている日葵の肩に手を置いた。
「行こう」
俺がそう呟くと、日葵はこくりと頷いた。




