第二十九話:真実
森上家へ向かう山道を日葵と一緒に歩きながら、俺は前から気になっていたことを口にした。
「そういえばさ、禁忌の存在って、どうやって知ったんだ?」
日葵が不思議そうな顔でこちらを見る。
「どういう意味?」
「前の人生で、俺は蛇棲ヶ迫に残された文献を片っ端から読み漁ったって話しただろ」
俺は逃げた先の世界で、神社の記録、郷土史、蛇棲ヶ迫に残されていた蔵書と、集められるものは全部集めたのだ。
「でも、禁忌について書かれたものは、一つも見つからなかった」
「ああ」
日葵は納得したように頷くと、何かを思いだすかのように遠い目をする。
「そりゃあね、いくら文献を漁った所で禁忌については何も知れないよ。私も見つけられなかったし」
そう言って、日葵は苦笑する。禁忌を暴こうとする者がこう言うのであれば、それは事実なのだろう。
「じゃあ何で存在を知ったんだ?」
俺の質問に、日葵は遠くの空を見つめながら、懐かしむように語り始める。
「随分前に亡くなったじいちゃん。小さい頃にね、一度だけ聞いたことがあるんだよね、禁忌って言葉。その言葉を発したのがじいちゃんだった」
「じゃあ、お爺さんから聞いたその言葉だけを追い求めてきたのか?」
「いや、それだけじゃないよ。じいちゃんが禁忌って言葉を口にした瞬間、ばあちゃんが凄く怒ったんだよ」
「冨喜さんが?」
「うん。私、ばあちゃんが怒るところなんて、その時しか見たことない」
あの穏やかな冨喜さんが怒る姿。確かに、想像が出来なかった。
「じいちゃんを叱りつけてさ。その話を子供の前でするんじゃないって」
日葵は当時を思い出しているのだろう。少し遠くを見るような目をしていた。
「そんな事があったから、余計に気になっちゃったんだよねー。そこまでして隠したいものって、何なんだろうって」
それが始まりだったようだ。日葵はその印象に残る記憶から、今でも禁忌というものについて追い求めるようになったのだろう。
「その後、じいちゃんはすぐに亡くなっちゃって、ばあちゃんに何度聞いても教えてくれない。だから自分で調べ始めたんだけど……ようやくここに来てその正体の輪郭が見えてきたってわけ」
蛇棲ヶ迫の歴史。森上冨喜の秘密。そして禁忌。何年も追い続けてきた答えが、ようやく見えてきたという事か。日葵にとってそれは、目的の達成となるのだろう。
そんな話をしながら歩いていると、一軒の古民家が見えてきた。
森上家が住む平屋。庭先には色とりどりの花が咲いていて、その手入れをしていたのは一人の女性だった。白い半袖シャツ。グレーのチノパン。首元にはピンク色のスカーフ。そして麦わら帽子。
真実を知る者――森上冨喜、その人だった。
「あら」
冨喜さんがこちらに気付く。
「おかえり、日葵」
「ただいま」
日葵が軽く手を挙げる。その後に、冨喜さんの視線が俺へと向いた。相変わらず、七十代を超えているとは思えない程の若々しい見た目に驚かされる。
「そちらの方は?」
「大学の知り合い」
「そうなのね」
冨喜さんは穏やかに微笑んだ。
「なら、お茶でも飲んでいきなさいな」
そう言われ、俺は森上家へと招待された。通されたのは、縁側に面した和室だった。冷たい麦茶を出してもらい、俺と日葵は座布団に腰を下ろし、和室の中央にある机を挟んで冨喜さんと向かい合った。
麦茶をグイっと飲み干した後、日葵はもう待てないとでも言うように本題を切り出した。
「ばあちゃん」
「なんだい?」
「禁忌について教えて」
麦茶をチビチビと飲んでいた冨喜さんの手が止まる。だが、それも一瞬だった。彼女はいつも通り穏やかな表情のまま、小さく息を吐いた。
「またその話なのね」
「うん」
「諦めが悪いわねえ」
「私の性格知ってるでしょ? 一度湧いた好奇心は抑えられないの。それに、自分で調べれば良いやって、悠長に構えていられる状況でもなくなったし」
日葵の視線が俺へと向けられる。それに合わせて、冨喜さんも俺をじっと見つめた。まるで、心の奥底を覗こうとするかのように。
「不思議な雰囲気をしているわねえ……まるで、私よりも歳を重ねているような、若者とは思えない空気を纏っているように見えるわ」
流石は、年の功というやつだろうか。そこまで言い当てられてしまうとは思っていなかったので、正直度肝を抜かれた。と言っても、俺は今回の繰り返しで前回の記憶全てを思い出している訳ではない。思い出せたのは蛇棲ヶ迫に関連する記憶のみだ。
自分がどうやって死んだのかとか、どういう人生を歩んだのかとか、そういった所を事細かくは思い出せない。なので、七十五年も生きている冨喜さん以上の経験と記憶を積み重ねているかと言われれば、そういう訳でもないのだが。
「まあ、日葵が連れてきたのがどんな人なのであれ、話せないものは話せないよ」
「それが、森上家の役目だから?」
「そうだよ。代々守り通してきたものだからね」
日葵は不満そうだった。だが、それ以上何を言っても答えが変わらないことを知っているのだろう。そこで俺は口を開いた。
「もし、その役目が世界を終わらせることになったとしてもですか?」
冨喜さんが俺を見る。穏やかな目だった。だが、その瞳の奥で何かが揺れた気がした。
「どういう意味かしら?」
「俺は未来を知っています」
この人に語らせるには、こちらも全てを明かすべきだろう。そう思った俺は、日葵に話したのと同じように全てを話し始めることにした。
話し終えた頃には、部屋の中は静まり返っていた。冨喜さんは何も言わない。ただ縁側の向こうに広がる庭を見つめていた。少し開いた窓の隙間から風が流れ込み、窓に掛けられた風鈴がちりん、ちりんと小さな音を鳴らす。
「……そうなのね」
やがて、冨喜さんはぽつりと呟いた。驚いている様子はなかった。むしろ、何かが繋がったような表情だった。
「目を見れば分かるわ。あなたが真実を語っていることはね……だとしたら、私たちは、大きな間違いをしてきたのかもしれないわね」
「間違い?」
日葵が聞き返すと、冨喜さんはゆっくりと目を閉じた。
「森上家はね……それが蛇棲ヶ迫に住む人たちにとって正しいと信じて、誰にも口外せず、禁忌を守ってきたのよ。それが世界の為に必要な事でもあると信じて」
静かな声で話しながら、冨喜さんは少しだけ笑う。とても寂しそうな笑みで。
「疑ったことなんて、一度もなかったわ。だけど、あなたの話を聞いてすべてが繋がってしまった。禁忌をこのまま放置すれば、世界は終わる。なら私は……役目よりも孫の命を優先するわ」
その言葉には、長年守ってきた役目を手放す覚悟が滲んでいた。日葵が目を見開いている。森上家の役目より、孫の命を選ぶ。それがどんなに嬉しい言葉なのか、日葵の表情を見ればすぐに分かった。
そして、冨喜さんが静かに語り始める。
「園崎家、桑田家、森上家にはそれぞれ、口伝されてきた情報があるわ。園崎家には円環の術法、桑田家には神殺しの方法、そして森上家には禁忌……私が森上家の使命として守ってきた禁忌の内容は……」
そう言って、ひとさし指を立てた後に冨喜さんは言葉を続けた。
「一つ、□□の名を口にしてはならない」
その瞬間、俺は眉をひそめた。聞こえなかった。いや、違う。聞こえていた。確かに冨喜さんは、いま何かを口にした。それなのに、その部分だけが頭に残らない。
「二つ、□□について語ってはならない」
……また聞こえない。
「三つ、□□の姿を描いてはならない」
何度聞いても、聞き取れない部分がある。
「四つ、□□を祀ってはならない」
隣を見ると、日葵も俺と同じように困惑した表情を浮かべている。
「五つ、□□を記してはならない」
全てを聞き終えても、違和感は消えなかった。何か大切な部分が抜け落ちている、そんな感覚。
「……待って」
最初に声を上げたのは日葵だった。
「最初の方、なんて言ったの?」
「最初の方?」
「だから最初のやつ」
日葵が困惑した顔で言う。
「□□の部分」
俺も同じだった。□□の部分だけ、どうしても聞き取れない。聞いたはずなのに、認識できない。そんな怪現象に、俺は背筋が震えた。
「俺も同じです。一部分だけ、どうしても聞き取れません」
そう言うと、冨喜さんは寂しそうに笑った。
「そうなるだろうねえ」
「どういうこと?」
「それが禁忌だからだよ」
冨喜さんは静かに頷いてから、禁忌についての説明を続ける。
「昔、この地には三柱の神がいた」
その言葉に、部屋の空気が変わった気がした。
「生を司る天蛇、死を司る冥蛇、そして……□□」
やはり認識できない。名前だけが、綺麗に頭から滑り落ちていく。
「人々はその神を恐れたのよ。冥蛇様が司る死よりも、病よりも、その神が司るものを恐れた。だから弁之助によって唱えられた、今では桑田家に伝わっている神殺しの方法で、その神を殺した」
それが何を司る神だったのかが、上手く想像できない。考えようとすると頭に霧が掛かる。まるで、概念そのものが欠けているようだった。
「神を殺した結果、その神の名前は認識できなくなった。それだけではなく、その神が司っていたものまで、この世界から薄れてしまったのよ」
だから考えられない。だから理解できない。だから名前を認識できない。
「つまり、禁忌とは……蛇棲ヶ迫の人達が□□という神を、この世界から消し去ったという事実そのものなんだよ」
外から聞こえる蝉の声が大きくなった気がした。俺も日葵も、すぐには言葉が出なかった。何百年も隠されてきた真実。その重さだけが、静かに胸へとのしかかっていた。




