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最終話:残心

 日葵が運転する軽トラックが、ゆっくりと蛇棲ヶ迫と呼ばれる地へと入っていった。道中、日葵は助手席に座る俺に、この蛇棲ヶ迫という地について沢山の話を聞かせてくれた。


 過去から伝わる伝承や、祀っている三柱の神について。それから、この蛇棲ヶ迫という地に住む人々の話。そして、俺が何度も同じ時間を繰り返し、良く分からない力で蛇棲ヶ迫の人々を救ったのだという話もしてくれた。


 それらの話は、まるで小説のストーリーを聞かせられているみたいで、俺がその登場人物として関わっていたと聞かされてもあまり実感が湧かなかった。ただ、日葵の話を聞くたびに、なぜか落ち着かないような気持ちにさせられたのは事実だ。


 その中で、俺がやはり一番心を揺らされたのが、千代女という名の女性。彼女の名前を聞く度に、何故か泣きそうになってしまう。何も覚えていないというのに。


 車窓から見えるのは、見覚えのない景色の筈だった。木々の隙間から零れる光の束や、ぽつりぽつりと建つ古びた家々。長く続いていく山道。


 窓の外を流れていく景色を見ながら、俺は小さく首を傾げる。不思議な感覚だった。全てを忘れてしまっているはずなのに、どこか懐かしい。


「着いたよ」


 日葵の声で我に返る。窓の外、軽トラックが止まった先には石段が見える。


「千代女ちゃんが待ってるよ。いってらっしゃい」


 まるで俺の背を押すように、運転席に座る日葵が俺の肩をバシバシと叩く。その手に押されるようにして、俺は軽トラックの助手席から降車した。石段を見上げると、またしても不思議な感覚に陥った。何度もこの石段を上った気がする。


「日葵……本当に……ありがとう!!」


 その感謝の言葉は、自然と口を付いて出た。俺の言葉に、日葵は早く行けとでも言うように、手をヒラヒラとさせた。


 石段を上がっていく。一段、また一段と上がっていく度に胸の奥が騒がしくなっていく。何かが近付いている気がする。ずっと求めていたものが、手の届く場所へと近づいているような気がした。


 やがて境内へ辿り着くと、存在感を放つ大木が俺を見下ろしていた。蛇を表現したと思われる萱で編んだ注連縄が三重に巻き付けられた大木。その周りには、人が立ち入らぬように囲いが施されている。


 その大木を見た瞬間、何かが俺を見ているような感覚に囚われた。それは見守るようでいて、楽しむようでいて、それでいて無関心であるような不思議な感覚だった。


 境内の神聖な空気の中、蝉の声と夏の風、揺れる木々の葉音に包まれるその場所に、一人の女性が立っている。


 長い黒髪に、白い肌。朱色の袴を揺らしながら、境内を箒で掃除する巫女装束の女性。


 一歩、その背中に近づく。石畳を踏む音に、女性がこちらへと振り返る。


 目が合った瞬間、俺の目から涙が零れ落ちた。彼女を見ても、何も思い出せないのに。まるで心が覚えているかのような反応に困惑して、思わず「え?」と声が漏れる。


 そんな俺を見て、巫女姿の女性が少しだけ目を細めた。彼女も、なぜか泣きそうな顔をしていた。


「……日葵さんに、全て聞きました。透様が今まで、どんな苦難を乗り越えて、この場所へと辿り着いてくれたのか」


 まるで慈しむかのような、優しい声だった。けれど、その声は少し震えていた。


「えっと……すみません。俺、何も覚えてなくて……でも、なんか、なんだろ。涙が止まらなくて」

「良いんです。無理に思い出さなくて。こうやって、ここに来てくれただけで……」


 俺の両手を、千代女さんが包み込むようにして握る。その手の温もりは、初めて触れたはずなのに、どこか懐かしかった。


 胸の奥が熱くなる。相変わらず涙は止まらなくて、心臓は早鐘を打っている。


 千代女さんは、瞳を潤ませながら小さく笑った。その笑顔を見た時、俺はどうしようもなくこの人を傍で支えたいと思った。


「透様……私を解放してくれて、救ってくれて、ありがとうございます」


 その言葉に、俺は少しだけ困ったように笑った。


「すみません、本当に何も覚えていません」


 千代女さんの瞳が僅かに揺れる。その瞳が悲しみに染まる前に、俺は言葉を続ける。


「でも、俺も日葵から話は聞きました」


 世界の終わり。円環。神様。何度も繰り返した時間。そして、目の前にいる女性のこと。


「正直、実感なんてありません。俺がやったであろう事を聞いても、他人の話を聞いているみたいで」


 それでも、一つだけ確かなことがあった。


「でも、もしその話が本当なら、俺はきっと貴女を救いたかっただけなんだと思います」


 千代女さんの肩が小さく震える。


「世界がどうとか、神様がどうとか、そういうのはきっとどうても良くて。貴方を守りたい、傍で支えたいって……そう、思ったんだと思います。そんな気持ちだけは、今でも心に残っている気がするんです」


 風が吹き、長い黒髪が揺れる。千代女さんは俯いたまま、地面へと目を伏せる。その瞳から、ぽろりと涙が零れる。


「不思議なんです。透様をお見掛けした時から、そのお声を聞くだけで、とても安心している自分がいて……胸の奥にあった冷たさが、ゆっくり溶けていくような……怖くて震えていた心が、そっと誰かに抱きしめられているような……そんな不思議な感覚がして。そんなこと、一度も経験したはずがないのに」


 千代女さんは瞳から大粒の涙を零しながら、震える声で言葉を続ける。


「それだけじゃ、ないんです。こうやって透様の傍にいると、もう自分を犠牲にしなくても良いんだって。幸せになっても良いんだって。誰かが、そう言ってくれているような気がするんです」


 その言葉が胸の奥へ静かに染み渡っていく。


 俺は何も覚えていない。それなのに、どうしてだろう。彼女の言葉を聞いているだけで、胸の奥にあった冷たい空白が、少しずつ温もりで満たされていくような気がした。


 それは懐かしさなのか、安堵なのか、それとも、ずっと昔から抱き続けていた願いの欠片なのか、自分でも分からない。ただ一つだけ確かなのは、目の前にいる彼女には、もう悲しそうな顔をしてほしくないということだった。


 「俺も……理由は分からないけど、千代女さんには幸せに笑っていてほしいって、今もそう思っています」


 千代女さんの瞳が大きく揺れた。俯いていた顔がゆっくりと上がる。頬を伝う涙は止まらないまま、それでも唇は少しずつ綻んでいく。泣いているのに、不思議なくらい穏やかな笑顔だった。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった空白が、少しだけ埋まった気がした。


 夏の風が吹き抜ける。まるで、長い旅路の終わりを祝福するように、空には白い月が浮かんでいた。


<完>

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