第二十六話:約束
石段を降りた先で、俺はスーパーカブのシートに腰を預けながら空を見上げた。
この後にやるべきことは決まっている。
禁忌。
終わりを迎えた世界で、千代女さんと日葵が口にしていた言葉。その、禁忌という言葉を意味するものだけが、どの文献を探しても見つからなかった。
そう……神託が告げた、日葵が暴こうとしていた禁忌。【禁忌を暴こうとする者】、その答えに辿り着こうとしていた日葵の所へ行くべきだ。
俺はその目的を果たすためバイクに乗ろうとした、その時だった。石段から、パタパタと駆け下りてくる足音。振り返ると、朱色の袴を揺らし、長い黒髪を風に靡かせる姿がそこにあった。
「あの!」
石段を下りてきた千代女さんが、俺の前に立つ。少しだけ息を切らしながら、こちらを見ている。
「どうかしましたか?」
俺が尋ねると、千代女さんは少し視線を彷徨わせた。だが、やがて意を決したように口を開く。
「貴方が泣いていた理由が気になって」
やはり、それかと俺は苦笑する。目の前で男が突然泣き出したのだから、気にするなと言われても無理だろう。
「変な人だと思いました?」
「えっと……少しだけ」
千代女さんは申し訳なさそうに、少しだけ笑いながら言う。
「でも、それ以上に悲しそうに見えたんです」
その言葉に胸が痛んだ。自分を犠牲にして、世界を救おうとしている彼女の優しさが逆に辛い。会えたことが嬉しくて、会えなかった時間が長すぎて、そして何より、この人がこれから背負う運命を知っているから。
「千代女さん」
「はい」
「貴女には使命がありますよね」
千代女さんの表情が固まる。
「どうして、それを」
「知っているからです。千代女さんが天蛇の依り代になろうとしていることも」
千代女さんは言葉を失った。目を見開き、ただ俺を見つめている。
その反応だけで十分だった。やはりまだ記憶はない。前回のことを覚えているなら、こんな顔はしない。
「母から聞いたんですか?」
「違います」
「では、どうして……」
「今は言えません」
それ以上は話せなかった。話したところで信じられないだろうし、今の俺には証明する術がない。
千代女さんは困惑したまま俯く。そんな彼女に向けて、俺は少し意地悪な提案をする。
「ねえ、千代女さん。自分を犠牲にしてまで世界を救うような真似はやめて、今から二人でこのバイクに乗って、どこか遠くに逃げちゃいませんか?」
「……私はいま、ナンパされているのでしょうか?」
「そうですね。はい、ナンパしてます。一度で良いから殿方にナンパされてみたいと思っていたのでは? 願いが叶いましたね」
「な、ななな、何を言ってるんでしょうか。わ、私はそんなこと……ね、願ってませんよ?」
顔を赤くして否定する千代女さんの姿が面白くて、俺はつい吹き出してしまう。そんな俺を見て、いじけるような顔をする千代女さんが可愛かった。
「私の事をからかっているのですね。意地悪なお方です」
「はは、ごめんなさい。でも、千代女さんが望むなら俺はそんな結末でも良いと思ってます。世界を救うことなんて忘れて、終わりの日まで一緒にいられるなら」
そんな事、千代女さんは絶対に望まないと分かっていて口にする。案の定、彼女は少し驚いた顔をしたものの、すぐに小さく口元に笑みを浮かべ、首を左右に振った。
「出来ません。私には、世界を救うという使命があります。私はきっと……その為に生まれてきたのだから」
「……それは違う」
俺はそう言って、一歩だけ彼女との距離を詰めた。これで何度目か、驚く彼女の目をまっすぐに見つめる。
千代女さんの言葉を否定したかった。世界を救う為、何度も自らを犠牲にしてまで円環を形成し、それを永遠に繰り返す。そんな事の為だけに生まれてきたなんて、絶対に思ってほしくなかった。
「世界なんてどうでも良い。千代女さんが永遠の牢獄から解放されて、幸せな人生を歩む為なら俺はなんだってする。絶対に貴方を救い出して見せる」
「え……え、な、何を……言って……」
「俺はあなたが好きです」
「……え?」
千代女さんが固まる。
「え?」
もう一度。
「え?」
三度目。顔が見る見る赤くなっていく。
「す、好きって……え? ええ?」
「好きです」
「いや、今日会ったばかりですよね!」
「そうですね」
でも、この募った想いは人の一生という時を超えている。
「そうですねじゃないですよ!」
完全に混乱している。けれど、その反応を見て少しだけ安心した。今の彼女はまだ、普通の女性だ。永遠の牢獄に囚われた巫女じゃない。
「今は信じなくて良いです。でも、千代女さんが好きだという想いは本物です。だからこそ、自分を犠牲にして世界を救うような真似はさせません」
俺は静かな声で、想いの丈を彼女にぶつけるとともに、その決意を口にする。
「すべてが終わったら、いつか迎えに来ますから」
彼女の瞳が揺れた。
「迎えに……?」
「ええ、約束します。だから、それまで待っていてください」
千代女さんは何も言わなかった。ただ呆然と俺を見つめている。
俺はバイクのヘルメットを手に取った。これ以上ここにいると、今すぐにでも彼女を抱きしめてしまいそうだったから、もうこの場を離れようと思った。
「また会いましょう」
そう告げて、スーパーカブへ跨る。エンジンをかけ、俺は最後に一度だけ呆然と立ち尽くす千代女さんを視界に収めてから、アクセルを回した。
向かう先は決まっている。森上日葵。禁忌を暴こうとしていた少女。真実へ辿り着くため、最後の欠片を求めて、俺は再び走り出した。




