第二十五話:新生
1997年、7月。
大学へ進学して、初めての夏休み。俺は愛車のスーパーカブに跨り、蛇棲ヶ迫へと続く山道を走っていた。
まだ早朝、山の澄み渡った空気の中をバイクで走るのは気持ちが良い。木々の隙間から差し込む朝日、鳥のさえずり、草木を揺らす風の音にさえも懐かしさを感じる。
いや、懐かしいという言葉だけでは足りない。ずっと忘れることなど出来なかった景色だ。何度夢に見ただろう。何度思い返しただろう。何度この場所へ戻りたいと願ったことだろう。
思わず苦笑しながら、俺は車体を傾けて緩いカーブを曲がっていく。見覚えのある分岐路、見覚えのある崖、見覚えのある道を抜けると……やがて石段が見えてくる。
逸る気持ちを抑えながら、俺はアクセルを緩める。石段の横でバイクを停め、ゆっくりとヘルメットを外し、山の空気を肺いっぱいに吸い込んでから石段の先を見つめた。
この石段を上がり、鳥居を潜ればその先には神社があり、蛇を模したと思われる注連縄が三重に巻き付けられた神木が立っている。
初めて来る場所……でも、その光景はもう瞼の裏に焼き付いている。
自然と拳に力が入る。ここへ辿り着くまで、一体どれだけの時間が掛かったのだろう。気の遠くなるような時間を歩き続けて、ようやく俺はここへ戻ってきた。
逃げた先の世界で天寿を全うした俺は、その後レーテを渡った。そして月に祈り続けたおかげか、巻き戻った世界で前回より3年も早く蛇棲ヶ迫に関連する記憶を取り戻すことが出来た。
そこから色々と準備を整え、世界が終わる年である1999年7月より2年早くこの蛇棲ヶ迫の地を訪れたという訳だ。
石段を登り始める。一段、また一段と踏みしめる度に、胸の奥に沈んでいた記憶が揺れる。
石段を登り切り、境内へ足を踏み入れ、巨大な存在感を放つ神木の前までやってくる。蛇を表現したと思われる萱で編まれた注連縄が三重に巻き付けられているその神木を懐かしい気持ちで眺めていると、背後から声が掛かった。
「あら、珍しい」
女性の声に振り返る。そこには、一人の女性が立っていた。長い黒髪に、白い肌。白衣に紫袴の神職姿で現れたその女性。
似ている……千代女さんに。その事実から、俺は彼女が千代女さんの母親である園崎摩耶であるとすぐに分かった。
「見ない顔ですね。こんな朝早くに、参拝ですか?」
「ええ、まあ。蛇棲ヶ迫に来て、最初に訪れるべき場所はここかなと思いまして」
「……不思議な事を仰いますね。それに……不思議な雰囲気……不思議な人ですね」
不思議不思議と言いながら、口元に手を当ててクスクスと笑う園崎摩耶さん。そういった仕草まで、千代女さんにそっくりだ。しかし、その目からは興味の色が隠せないように見えた。
「そういう貴方こそ、不思議な方ですね。初対面の人間に対して、まるで何かを探るような目をしている」
その言葉に、摩耶さんは僅かに目を見開く。だが、それも一瞬だった。
「この神社を預かる身ですから。見慣れない方には少しだけ敏感になるんです」
「それだけですか?」
「それだけですよ」
柔らかな笑み。けれど、その瞳だけは笑っていなかった。分かっていたことだが、この人は普通じゃない。世界の終わりを予言し、冥蛇を解放し円環の形成にも関わった人物だ。
蛇棲ヶ迫の運命を背負い続けた女性。そして、千代女さんの母親。
正体を探るような視線に居心地の悪さを感じ、俺は摩耶さんから神木へと視線を逸らす。巨大な幹へ巻き付けられた三重の注連縄。何度見ても違和感があった。
「一つ聞いても良いですか?」
「なんでしょう?」
俺は神木を指差しながら、続ける。
「この神社って天蛇を祀っているんですよね?」
「ええ……最初に訪れるべき場所、と言っていた割には良くご存じで」
含みのある言葉には、あえて何も反応を示さずに質問を続ける。
「どうして注連縄が三重なんですか?」
摩耶さんは意外そうな顔をした。初対面の人間からそんな質問をされるとは思っていなかったらしい。
「理由は分かりません」
「分からない?」
「ええ。私が生まれる前から、ずっとあの形ですから」
俺と同じように、摩耶さんも神木を見上げる。
「ただ、遥か昔に注連縄を切ろうとした人がいたそうです。ですが、それは出来なかったと聞いています」
「出来なかった?」
「神木に触れた者へ、祟りがあると言われているんです」
祟り。その言葉に、俺は少し嫌な感じを受けつつも再び神木を見上げる。
だから、この神木には誰も触れられないようにと囲いがあるのか。朝日に照らされた神木は、ただ静かにそこに立っているだけだった。
「どういった祟りなんですか?」
「縄を外そうとした人が病に伏したり、怪我をしたり、事故に遭ったり、行方不明になったり……本当かどうかは分かりませんけれど、私が生まれた頃から触れてはならないと言い伝えられています」
そう言いながらも、摩耶さん自身も神木へ手を触れる気はないようだった。
三重の注連縄。俺にはそれが、何かを意味している気がしてならなかった。
会話が途切れる。このまま、二人で神木を見上げ続けていては何も進まない。俺は一度だけ息を吐いてから、再度口を開いた。
「園崎摩耶さん」
「……名乗った覚えはありませんが、なぜ私の名前を?」
「知っているからですよ。この先何が起こって、貴方が何をしようとしているか」
空気が止まった。鳥の鳴き声だけが遠くで聞こえ、その中で摩耶さんの笑みが消える。
「……面白い。まるで、本当に全てを知っているかのようですね」
「ええ。貴方が良二さんを利用して冥蛇の封印を解除し、実の娘である千代女さんを天蛇の依り代にして、円環を形成しようとしている事も知っています」
「……何者ですか?」
「ただの大学生ですよ」
「ただの大学生が、未来の事を予知などできませんよ」
摩耶さんの視線が鋭くなる。俺を危険な存在だとでも認識したのか、その顔からはもう笑みが完全に消えている。
「俺の素性はどうでも良いんですよ。俺が貴方に言いたいことはひとつだけです。千代女さんを解放してください」
「それは出来ない相談です。貴方が何者かは知りませんが、私が円環を形成しようとしている理由を、お知りなのですよね? なら、円環の形成が世界を終わらせない為に必要である事も分かっている筈です」
「天蛇の依り代となって、その代償に娘が永遠の牢獄に閉じこまれることを、あなたは良しとするんですか?」
「私たちは神に仕える身であり、人を導く存在です。己が身を犠牲にし、世界を救うこと。それは、あの子の願いでもあります」
摩耶さんの言葉に、俺は辟易とした気持ちで目を閉じる。
知っている。千代女さんはそういう人だ。自分のためではなく、誰かのために生きる人だ。だが、それを自らの意思で臨んでいたとしても、俺はそれを許容しない。絶対に。
「貴女は円環を完成させたい」
「はい」
「そのためなら娘の人生も差し出せる」
「そのためなら、私自身も差し出します。冥蛇様の封印を解除すれば、私はかの神の怒りをその身に受けて命を落とします。その未来も視えてますから」
摩耶さんが死亡した原因には、冥蛇の封印解除が関わっていたのか。
「自らの命と、娘を犠牲にしてまで世界を守ろうとしているんですか?」
「ええ。それが私たち、園崎家の使命だと思っています」
その言葉が嘘には見えなかった。だからこそ、厄介だった。この人は狂っているわけじゃない。本気で己が身を犠牲に世界を救おうとしている。
ここで摩耶さんを説得することは出来ない。そもそも、ここで摩耶さんの説得が成功し、千代女さんが天蛇の依り代にならなかったとして、このままでは世界が終わるのも事実だ。
千代女さんを永遠の牢獄から救い、世界も救う。その為の方法を、考えなければならない。
俺が様々な想いに頭を巡らせている、その時だった。
「あれ?」
聞き慣れた声がして、反射的に振り返る。
鳥居の下、朝日に照らされながら、一人の女性が立っていた。
その姿を見た瞬間—— 時間が止まったような気がした。
千代女さん……会いたいと願い続けたその人が、そこにいた。
千代女さんは、俺の姿を見てキョトンとした顔で首を傾げる。その反応を見て、俺は確信する。
千代女さんはまだ、天蛇の依り代になっていない。
俺が月の加護によって、月を見ることで前回の記憶を思い出していたように、彼女は天蛇の依り代となる事で前回の記憶を思い出すのだろう。
今回、俺は世界が終わる時よりも二年早くこの地を訪れている。彼女が天蛇の依り代となるまで、いつまで猶予があるかは分からない。ただ、もう依り代になどなってほしくないというのが俺の本音だった。そうすれば、彼女はもう苦しい記憶を思い出すこともないのだから。
「お母様?」
俺たちの元へと小走りで駆け寄ってきた千代女さんが、不思議そうに首を傾げる。
「お知り合いですか?」
摩耶さんは答えない。俺も答えられなかった。ただ、目の前にいる彼女を見ているだけで胸がいっぱいになる。
「……あ」
頬を何かが伝った。気付いた時には、涙が零れていた。千代女さんが驚いた顔をする。
「え?」
「……すみません」
俺は慌てて目元を拭った。先ほどまで鋭い表情を見せていた摩耶さんですら、困惑した表情を浮かべている。当然だ、大の男が急に涙を流しはじめたのだから。
「初めまして」
泣いた事をごまかすように、俺は千代女さんにそう言った。
千代女さんは戸惑いながらも、小さく頭を下げる。
「は、初めまして」
その姿を見て、俺は改めて決意した。絶対に、この人を救う。永遠の牢獄から。使命という呪いから。
「摩耶さん、俺は諦めませんから」
静かな声で告げ、彼女をまっすぐに見つめた。
摩耶さんは何も言わなかった。ただ、その瞳だけが僅かに揺れていた。それが、俺には救いを求めているようにも見えた。
俺は一礼してから、その場を後にした。
やるべき事は決まっている。
どれだけ時間を費やしても、俺一人では辿り着くことが出来なかった真実へと辿り着くこと。
全ては、そこからだ。




