第二十三話:故郷
最低限の荷物だけをボストンバッグへ詰め込み、アパートを後にする。部屋の鍵を閉める、たったそれだけの動作が妙に重かった。
臼杵駅から電車へ乗り込み、大分へ向かう。車窓の向こうを流れていく景色を眺めながら、俺はぼんやりと座席へ身を沈めていた。窓の外に映る景色全てが、まるで別世界の出来事のようだった。
大分駅で特急へ乗り換える。小倉から新大阪、名古屋、東京。新幹線は容赦なく距離を飲み込んでいく。窓の外では、景色が次々と入れ替わる。それなのに、俺の中だけは時間が止まったままのように感じた。
東京駅で山形新幹線へ乗り換える。気付けば、窓の外には見慣れた景色が広がっていた。田んぼや山々。そして、どこまでも続く青空。幼い頃から見てきた、故郷の風景。
生まれ育った場所である山形駅へ到着した頃には、日が傾き始めていた。
「透ー!」
改札を抜けると、聞き慣れた声が飛んできた。こちらへ向かって手を振る母、月代千鶴の姿があった。思わず足が止まる。母さんは駆け寄ってくると、俺の顔を見て少しだけ目を細めた。
「久しぶりね」
「……うん」
「元気にしてた?」
「まあ」
そんな何気ない家族のやり取りに、不意に胸の奥が熱くなる。けれど、それを悟られたくなくて視線を逸らした。
「それじゃあ、帰りましょうか」
母さんに促されるまま、俺は駅のロータリーに停めてあった見慣れた青い乗用車の助手席に乗り込む。運転席に座った母さんがエンジンを吹かし、すぐに車が走り出した。
見慣れた街並みが窓の外を流れていく。母さんは運転中、他愛もない話をしていた。神社のこと。近所のこと。そして父さんとの間にあった日々の出来事。俺は曖昧に相槌を打つだけだった。それでも母さんは、気にした様子もなく話を続けている。
きっと、俺が何かを抱えていることくらい気付いているのだろう。それでも、特に突っ込んで何かを聞いてくることはなかった。
車が市街地を抜け、徐々に山道へ入っていく。窓を開けると、涼しい風が頬を撫でた。大分の蒸し暑さとは違う。どこか懐かしい空気。
しばらくすると、見慣れた石段が見えてくる。苔むした石灯籠が並び立ち、長く続く参道が視界を過ぎる。その先に立つ大きな鳥居。月代神社。俺が生まれ育った場所だ。
母さんが、社務所横の駐車スペースへ車を停める。
「着いたわよ」
その言葉を合図に、俺はゆっくりと車を降りた。見上げると、夕日に照らされた鳥居が静かに佇んでいる。
変わらない。何一つ変わっていない。世界が終わろうとしていたことも。千代女さん達が死んだことも。俺が全てから逃げ出したことも。まるで何も知らないかのように、ただそこに在った。
「透」
振り返ると、母さんが優しく微笑んでいた。
「お父さん、待ってるわよ」
その言葉に、俺は黙って頷いた。
◇ ◇ ◇
出羽三山は、三つの山を指す総称だ。その内の一つである月山の麓にひっそりと佇むのが月代神社だ。決して大きな神社ではない。けれど、この場所では古くから月の神を祀る社として知られていた。
鳥居を潜ると長い石段が続き、境内へと足を踏み入れたその先には拝殿が建っている。拝殿の奥には本殿。そして、その脇には俺の生まれ育った家である社務所兼住居が建っている。
俺はこの場所で生まれ、この場所で育った。幼い頃は境内を走り回り、石段で転び父さんに怒られたこともある。そんな思い出が詰まった場所だった。なのに、今はどこか他人の家へ来たような感覚があった。
俺は母さんの後をついて社務所へ入る。中へ入ると、木の匂いが鼻をくすぐった。
「お父さん。透を連れてきたわよ」
母さんがそう声を掛けると、奥から足音が聞こえた。現れたのは、見慣れた男。白髪混じりの短髪に、白い肌。神主装束ではなく作務衣姿。
月代神社の宮司であり、俺の父親である月代正宗だった。
父さんと目が合う。喧嘩別れしたこともあり、とても居心地が悪い。
「帰ったか」
父さんは、俺を見て短く言った。
「ああ……ただいま」
俺も短く返すと、父さんは小さく頷くだけだった。昔から寡黙な父だ。こういった反応にも慣れている。
「ご飯にしましょうか」
母さんの言葉で、居心地の悪かった空気が和らいだ。
その後、既に準備が整えてあったようで、すぐに夕食となった。山菜の煮物に焼き魚。味噌汁と漬物。ホカホカの白ご飯。豪華ではないが、どれも母さんの手料理で、美味しかった。
ここ最近はコンビニ弁当ばかりだったので、手作りの温かい食事というだけで、少しだけ胸が軽くなる。食卓では主に母さんが話しており、俺と父さんは相槌を打つだけで口数は少なかった。
それでも、不思議と居心地が悪くないのはやはり家族だからだろう。
食事が終わる頃には、すっかり夜も更けた。食器を片付ける母さんへ軽く礼を言い、俺は縁側へと出る。
夏とは思えない程に、涼しい風が吹いていた。見上げれば、夜空には満月が浮かんでいる。その満月の美しさに思わず魅入っていると、背後で障子の開く音がした。
振り返ると、父さんがそこに立っていた。右手には一升瓶、左手にはお盆があり、その上には徳利と二つの猪口が載っている。父さんは何も言わず俺の隣へ腰を下ろして、徳利から猪口へ日本酒を注ぎはじめる。とくとく、と静かな音が夜気に溶けていった。
「飲むか」
差し出された猪口を、俺は何もいわずに受け取った。父が自分の分も徳利から猪口へ日本酒を注ぎ、俺達は杯を合わせる。
「色々と、あったような顔をしているな」
一口酒を飲んだ父から出たのは、そんな言葉だった。
「まるで、全部を知っているような口ぶりだけど」
そう返しながら、俺も酒を一口含む。芳醇な香りが鼻を通る、キレの良い透き通った味。
「まさか……全部は知らん。ただ、虫の知らせならぬ、月の知らせという奴だな。月を見ていたら、お前と話をすべきだと強く感じた。これも月の加護だ」
月の加護……昔から、父さんがよく口にする言葉だ。神職として長年、月の神に仕えてきた父は、月というものを神聖視している。その影響もあってか、俺も月というものには少なからず特別な何かを感じているのは事実だ。
「何かあったなら、話してみろ」
「話したところで、信じられないと思うけど」
「俺が息子の話を信じないと思うのか?」
父のまっすぐな視線に晒され、俺は少し気恥ずかしくなり、それを誤魔化すように酒を煽る。
それから俺は、今まであった出来事全てを、包み隠すことなくすべて父に話した。
話していて自分でも、本当に信じられないような話だよなと思いながらも、父は真剣な表情で俺の話を聞いていた。
全てを話し終える頃には、猪口の酒はすっかり温くなっていた。父さんはしばらく何も言わなかった。ただ、静かに満月を見上げている。
「……そうか」
やがて、低い声でそう呟いた。
「レーテを渡ったにも関わらず、お前の記憶が継がれているのは、おそらく月の加護によるものだろう」
「月の加護……」
「ああ。この月代神社で祀っている月の神は、記憶と観測を司る神だ。月は、ただ照らすだけではない。見届ける、忘れずに残す。人が見落としたものも、失ったものも、静かに覚えている」
その言葉に、胸の奥がざわついた。俺が死んでも記憶を失わなかった理由。レーテを渡っても、全てを覚えていた理由。そうなのではないかと思っていたが、やはり月の加護によって俺は巻き戻っても前回の記憶を思い出すことが出来たんだ。
なら、俺はいますぐにでも……。
「馬鹿なことを考えてないだろうな?」
急に、落ち着いていた父さんの声が鋭くなった。
「……馬鹿なこと?」
「死んで、もう一度やり直そうなどと考えていないか」
息が止まった。見透かされたと、そう思った。父さんは猪口を置き、俺を真っ直ぐに見る。
「自ら死を選ぶ者に、月の加護はない」
「……え?」
「円環が形成されたこの世界でレーテを渡って巻き戻ったとしても、記憶は継がれん」
その言葉に、背筋が冷えた。
「どうして……?」
「月が照らすのは、夜道を歩く者だ。夜に呑まれ、自ら目を閉じる者ではない」
何も言えなかった。さっきまで頭の隅にあった考え。死ねばまた戻れるのではないか。そんな浅ましい逃げ道を、父さんは言葉で断ち切った。
「透」
父さんの声が少しだけ柔らかくなる。
「精一杯生きろ。今のお前に出来ることをやれ」
「でも……何をすれば良いのか分からない」
「なら知れ。知って、考えろ。それでも分からないなら、月の神に祈れ」
「祈れば、答えが分かるのか?」
「分からん」
「……分からないのかよ」
「神は便利屋ではない」
父さんは少しだけ、口元を緩めた。
「だが、祈ることで見えるものはある。自分が何を願っているのか。何を恐れているのか。何を守りたいのか。何を成したいのか」
夜風が吹いた。庭木が揺れ、月明かりが縁側に落ちる。
「お前が自分の意思でかの地に赴いたのではないという事は、月に導かれたということだ。それはつまり、そこでお前にやれることがあるということだ」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。蛇棲ヶ迫で出会った人たちの顔が、次々と脳裏に浮かんだ。目頭が熱くなって、鼻の奥がツンとする。気が付けば、俺は涙を堪えられなくなっていた。
俺は逃げた。彼女達を見捨てた。けれど、まだ俺にはできることが残っているのだろうか。この逃げた先の世界で、父の言うように精一杯生き続ければ、彼女達にまた会える未来があるのだろうか。
会いたい……千代女さんに会いたい。彼女を救いたい! 地獄のような、永遠の牢獄から!
「父さん」
「なんだ」
「俺、もう少しだけ足掻いてみる」
父さんは静かに頷いた。
「それでいい」
俺は夜空を見上げた。満月が、変わらずそこにあった。
何も語らず。ただ、俺たちを見下ろしている。
その光を見つめながら、俺は心の中で誓った。
もう逃げない。死に逃げることもしない。精一杯生きる。
そして、俺に出来ることを探すのだ。




