第二十二話:逃避
カーテンを開けた瞬間、窓の外に月が見えた。その瞬間に脳裏を焼くような激痛が走った。
「がはっ――!」
息を詰まらせながら、俺はその場に蹲る。割れそうになるくらい痛い頭を押さえながら、早送りで記憶が再生されていく。
崩壊する空。黒く染まる世界。視認できない存在。
泣き崩れる日葵。静かに空を見上げる千代女さん。
そして、世界の終わり。大量の記憶が一気に流れ込んでくる。
「はぁ……はぁ……」
荒い呼吸を繰り返しながら、俺は床へ手をついた。またしても、俺は全部を思い出していた。
窓の外を見ると、まだ夜だった。見慣れたアパートの一室は、相変わらず狭苦しい。日めくりカレンダーが示すのは、俺が蛇棲ヶ迫へと向かう日付だった。
俺はベッドへ腰を下ろし、そしてすぐに絶望が押し寄せてきた。
人が勝っても意味がない。蛇が勝たなければ世界は終わる。だが、蛇が勝てば蛇棲ヶ迫のみんなが死ぬ。どちらを選んでも地獄だ。
「どうしろっていうんだよ……」
誰に向けるでもなく呟いても、返事はない。今までの俺なら、すぐにでも蛇住ヶ迫へと向かった。何か方法があるはずだ。何かを変えられるはずだ。そんな希望を抱いて、突き進む事が出来た。
だが、今は違った。世界が終わる光景を見てしまった。円環の形成に失敗し、世界を救えないと絶望する千代女さんの姿を見てしまった。使命を全うするという決意、絶望する時の涙、人々を救うという覚悟。彼女の全部を、知ってしまった。
俺はその場から動けなかった。夜がどんどん深まり、時計の針が回り続けてもバイクを走らせる気にはなれなかった。
翌朝になっても、俺はそのまま部屋にいた。今から蛇棲ヶ迫へ行ったところで、どうにもならない。そんな諦念した思いだけが募っていった。
すでに冥蛇の毒霧は神野山を覆い始めているだろう。今更言った所で死ぬだけだ……そんな言い訳ばかりを考えて、全てから目を背けた。
日を跨ぎ、大学へ行き、講義を受ける。アルバイトには行かず、コンビニで弁当を買って帰る。そんな日常を繰り返しながら、浮かんでくる人たちの顔を思い出さないようにだけ努める。
ただ逃げているだけだと、自分でも分かっていた。でも、どうすれば良いのか分からない。もう、考えることも疲れてしまった。何も考えたくない。ただ普通に生きていたい。だから、俺はもう関わること自体を放棄してしまった。
そして、7月22日がやってきた。俺は大学にも行かず、家に引き込まったまま、黙ってテレビを眺め続けていた。
俺が何もしなくても、時は止まってくれない。時計の針はどんどん進んでいく。空が茜色に染まっていき、やがて夜空へと変わっていく。
何も起きない。根源的な恐怖も感じない。世界は……終わらずに続いていく。テレビの中では、バラエティー番組が放送されている。出演者達の笑い声が、俺にはただの雑音にしか聞こえなかった。
「……千代女さん」
自然と口を付いて出た名前。胸が締め付けられ、思わず顔が歪んだ。
今朝方、郵便ポストに届いていた新聞。俺は、震える手で机の上に置いてあったそのページを開く。
【山間集落で住民十数人が死亡 警察が死因を調査】
21日午前、河原内地区にある山間の集落で、住民十数人が死亡しているのが発見された。
警察によると、遺体には共通した症状が見られるものの、現時点で死因は特定されていない。
また、一人には刃物による外傷が確認されているという。
現場は住民数の少ない山間部の集落で、外部との往来も限られていたという。
警察は事件と事故の両面から慎重に捜査を進めている。
なお、死亡が確認された住民は以下の通り。
・園崎千代女さん(二十五)
・桑田弁一さん(五十六)
・桑田良二さん(三十二)
・森上日葵さん(二十一)
・森上登紀さん(七十五)
・その他住民数名
その記事をみた瞬間、俺は言いようのない感情で頭が一杯になった。
こうなることは、分かっていた事なのに。みんなが死んでしまったという事実に直面し、今更になって後悔の念が押し寄せてくる。こんなことなら、俺もみんなと一緒に死んでしまえば良かった……そんな考えまで浮かんできてしまう。
千代女さんは、蛇棲ヶ迫に俺が来ないと知ってどう思っただろうか。
そんなの分かり切ってることだ!
失望した筈だ!
傍にいるとか、守るだとか言っていた癖に、俺は彼女を見捨てた!
新聞を握る手に力が入り、紙がぐしゃりと潰れる。
視界が滲み、気付けば俺は情けなく咽び泣いていた。
どれだけ後悔しても、もう遅い。みんなの死を犠牲にして、世界はもう救われてしまった。
ふと、シンクの上に放置されたまま置いてある包丁が目に入る。このまま死んでしまおうかという考えが頭を過る。死んでしまえば、また巻き戻れるのではないか。円環が形成されたこの世界でレーテを渡り、次の世界でまた記憶を思い出すことができれば……。
そんな考えを否定するかのように、急に携帯電話から着信メロディ―が鳴った。
携帯電話を開くと、そこには母親の名前。俺は事務的な動作で、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『透?』
母さんの声だった。聞き慣れた声のはずなのに、今はひどく遠く感じる。
『元気にしてる?』
「……まあ」
嘘だった。元気なはずがない。けれど、本当のことを説明する気力も湧かない。
『そう』
母さんはそれ以上追及してはこなかった。少しだけ沈黙が流れる。
『もうすぐ夏休みなんでしょう?』
「うん」
『だったら、一度帰ってこない?』
「帰らない」
即答した。俺は半ば、父と喧嘩別れするような形で家を出たのだ。今更帰った所で、父に合わせる顔はない。
『でもね、お父さんが話したいって言ってるのよ』
「親父が?」
『ええ』
その言葉に眉をひそめる。仲直りでもしたいと言うのだろうか。
『月の加護について、透に話しておきたいって』
「……え?」
月の加護……その言葉を聞き、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
まさか、父さんは何かを知っている?
『透、私も心配なの。いまの貴方、酷い声よ。このままほっておいたら、消えちゃいそうなくらい。だからね、帰っておいで』
母さんは、優しいだけではない、少しだけ真面目な声になって続ける。
『たぶん、今のあなたには必要だから』




