第二十一話:終宴
山道を歩き続け、頂上へと近づいていく程に、千代女さんの口数は減っていった。
静かな足取りで、ただ前だけを見て歩き続けている。その横顔は静かだった。けれど、その静けさが逆に不気味だった。
「ねえ、千代女ちゃん。山頂で何か見るものでもあるの?」
千代女さんは日葵の質問に答えず、黙って空を見上げた。その仕草を見て、胸の奥に嫌な予感が広がっていく。
そんな不安を抱えたまま、やがて俺たちは山頂へと辿り着いた。そこは蛇棲ヶ迫一帯を見下ろせる場所だった。眼下には集落があり、その向こうには山々が連なっている。俺が住むアパートや、大学がある麓の町まで遠くに見える程、見晴らしの良い場所だった。
今日は快晴だった。空は澄み渡っており、先ほどまで感じていた不安な気持ちを吹き飛ばしてくれるような景観が広がっている。
山頂へと到着しても、千代女さんは変わらずだった。風に靡く髪を抑えながら、ただ黙って空を見続けていた。特に、何もおかしなところはない。山頂からの綺麗な景色が見えるだけ。少なくとも、最初はそう思えた。
「……もうすぐです」
千代女さんが、空を見上げながら小さく呟く。何がもうすぐなのか、分からない。俺は日葵と目を合わせて、首を傾げるしかなかった。
しばらくすると、唐突に風が止んだ。風の音が止み、木々の葉が揺れなくなる。
先ほどまで聞こえていた、鳥の声が消えた。虫の声もない。世界から音だけが抜け落ちたような静けさに包まれる。
「……なんか、変じゃない?」
俺が感じていた事を、日葵が呟く。千代女さんは、ただ黙って空を見上げ続けている。
そして——。
「始まります」
静かにそう言った。
「始まるって……何が?」
俺が問いかけた、その時だった。急激に、空が暗くなり始めた。雲ではない、急に夜が来た訳でも、太陽が隠れた訳でもない。快晴だった空そのものが黒く染まっていく。まるで空の上から、巨大な何かが押し寄せてくるように。
「嘘……」
すぐ横にいる日葵の声が、震えているのが分かった。
「まさか、え、噓でしょ」
「日葵? どうした?」
「いや、だって……」
日葵の顔が青ざめている。
「1999年、7の月」
その言葉で、俺も思い出す。世間を騒がせている終末論。テレビでも雑誌でも、何度も取り上げられている。
「恐怖の大王が、空から降ってくる……」
日葵が掠れた声で呟いたのを聞き、千代女さんは静かに頷いた。
「ええ、その通りです」
「冗談だろ……?」
「冗談であれば、どれほど良かったでしょうね」
千代女さんは、空を見上げたまま言う。
「母は見たのです。1999年7月22日。世界が終わる未来を」
世界が終わる。その言葉が、現実の重さを持って胸に落ちた。
「世間は予言だ、迷信だ、終末論だと騒いでいました。けれど母は違いました。母は本当に見ていたのです」
千代女さんの声は淡々としていた。淡々としすぎていた。まるで何度も何度も、自分に言い聞かせてきた言葉をなぞっているようだった。
「だから母は、冥蛇様の封印を解く決断をしました」
「……どういうことですか」
俺の声が震える。千代女さんは、ゆっくりとこちらを見た。
「円環を形成するためです」
「円環……」
「天蛇様と冥蛇様。二柱の神によって形成される、内と外を分かつ境界です」
その言葉を聞いた瞬間、蛇宴殿で見た光景が脳裏に蘇る。
白き大蛇。黒き大蛇。
二匹の蛇が互いの尾を喰らいあいながら、巨大な円を形成していく光景。
「円環は世界を守るためのもの。外から訪れる終わりを、内側へ入れないための境界です。蛇宴は、やがて訪れるあの存在を世界の内側へ入れないための儀式でした」
頭が真っ白になる。
巫蛇神宴と呼ばれる儀式、冥蛇と呼ばれる黒い大蛇。
蛇の勝利と、千代女さんの嘘。
俺が止めようとしていたもの。
全部が、まるで違う意味を持っていた。
「じゃあ……俺たちが人を勝たせたから……」
言葉が続かなかった。千代女さんは目を伏せる。
「私は一度、円環を形成することに失敗しました。自分がやってしまった事に恐怖を覚え、そこで立ち止まってしまった。そして一度、この結末を迎えてしまった。透様、初めて貴方と出会った時の事です。蛇宴を終えた後、私は罪の意識に苛まれ、円環を形成できなかったのです。その結果、天蛇様に見せられたのがこの結末……そして、またしても円環は形成されませんでした」
日葵の顔は恐怖に染まっている。きっと、俺も同じような顔をしている。
「そんな……そんなの聞いてない!」
この事実が受け入れられないような、日葵の叫び。それを、千代女さんは感情のない目で受け止める。
「言えませんでした」
「なんで! 言ってくれれば、こんなことには」
「言ったところで、信じられましたか?」
千代女さんの声は静かだった。
日葵が言葉を失う。俺も何も言えなかった。
信じられただろうか。蛇宴は世界を救うための儀式です。蛇を勝たせなければ世界が終わります。そんな話を……いや、信じられたとして、蛇が勝つ事で蛇棲ヶ迫の住人が全員死ぬという結末を受け入れらただろうか。
「私は世界を救いたかっただけなんです。母から託された使命を果たし、円環で世界を守る。そのためなら、私がどれだけ繰り返しても構わないと思っていました」
黒く染まった空から、何かがこちらへ近づいているのが分かった。その何かは、目に見えない。ただ、その存在からは人が持つ根源的な恐怖を感じてしまう。
「天蛇様の依り代となり、その代償として永遠の牢獄へ囚われることになっても」
その言葉に、胸が締め付けられた。永遠の牢獄。千代女さんはそう言った。繰り返す時間と、死ぬ人々。終わらない蛇宴。その全てを、彼女は一人で背負っていた。
世界を守るという、使命を果たすために。
「嫌だ……どんどん近づいている……嫌だ! 怖い! なんなのあれ!」
日葵はもう、立っていられないようだった。足がガクガクと震え、その場に泣き崩れる。俺だって、先ほどから身体の震えが収まらない。今すぐここから逃げ出してしまいたい。でも、どこに逃げたところで、あの目視できない存在からは逃げられないという事も分かっている。
「日葵さん、分かりませんか? あの存在が何なのか」
「え……どういうこと?」
「私は天蛇様の依り代となることで、あの存在が何かを理解しました。日葵さん、あれこそが、あなたの追い求めていた禁忌ですよ?」
「……嘘」
会話の意味を、俺は理解できない。ただ、脳裏に浮かんだのは神託だ。
【禁忌を暴こうとする者】
日葵が蛇役だった時に、蛇宴で告げられた神託。
「円環が形成されなかったこの世界では、もうレーテを渡ることも出来ません」
「レーテ……」
忘却の川。死者が渡る川。何度も死の先で見た、あの川。
「円環が形成されなかったことで、魂の回帰も途絶えます。円環のない世界では魂は流れを失い、忘却へ至ることすら出来ない」
「それって……終わりってこと?」
「はい。終わりです。この世界では、人は死に終わりを迎えるだけです」
空が震えはじめる。目視できない存在が近づくに連れて、世界が徐々に形を失っていくのが分かる。
「千代女さん……」
もう、何をしてもダメだと悟った俺は、掠れた声で彼女の名前を呼んだ。
「千代女さんは、それでもまだ繰り返すんですか?」
俺の疑問に、千代女さんは頷いた。
「はい」
「世界がこのまま終わっても?」
「私は天蛇様の依り代ですから。天蛇様の依り代となる代償は永遠。天蛇様の依り代となった時間から永遠を繰り返すだけです」
それがどれほどに残酷なことなのか、俺には分かってしまう。
この絶望的な結末を迎えてもなお、彼女は世界を救う為にまた繰り返すというのか。
この絶望を抱えたまま、何度も何度も何度も……永遠に?
「そんなの……地獄じゃないですか」
俺の言葉に、千代女さんは少しだけ笑った。
「神に仕え、人を導く。それが、巫女である私の使命ですから」
俺は……何も言えなかった。彼女の恐ろしい程の決意を前にして、自分がとても矮小な存在だと思えてしまった。
「すみません……俺は……何も知らずに……」
「謝らないでください。透様は、目の前の命を救おうとしていただけです」
「でも、こんな結末を迎えるなら……」
「透様の行動は間違いではありません。ただ、世界はそれだけでは救えなかった」
世界が輪郭を失っていく。もう、時間が残されていないことだけは分かった。
「生を司る天蛇、死を司る冥蛇、生と死を繰り返す円環、禁忌……そうか、そういうことだったんだ! 全部分かった!!!!」
唐突に、日葵が叫んだ。驚く俺と、日葵の視線が交差する。
「透くん!! 千代女ちゃん!! もし、また繰り返すのなら次の私に伝えて!! 禁忌とはつまり神を——」
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