第二十話:不安
1999年7月22日。
トントントンと、規則正しい音に目を覚ます。気が付けば、窓からは朝の光が差し込んでいて、小鳥の囀りが聞こえていた。
どうやら千代女さんを抱きしめたまま眠ってしまったらしいのだが、部屋の中に彼女の姿はない。その代わり、鼻孔をくすぐる良い香りが台所の方から漂ってくる。
俺は座ったまま眠ったことによって凝り固まった身体を解しながら、台所へと向かう。
「あ……おはようございます」
台所では、寝間着姿にエプロンをかけた千代女さんの姿があった。
シンクの上には、葱が置かれたまな板と沸き立つ鍋。鍋からは出汁の良い香りがしており、包丁を手に持った千代女さんが照れ臭そうな表情で小さく笑みを浮かべていた。
「朝食、もう少しでできるので、居間で待っていてください」
「え、あ……はい」
言われるがまま、俺は台所を出て居間に腰を下ろす。昨日までの事がまるで夢だったのではないかと思うほどに、穏やかな朝だった。
朝食を作り終えた千代女さんが、テキパキとした所作で料理を炬燵机の上に並べていく。
葱と豆腐のお味噌汁、大根のお漬物、アジの開きに炊き立ての白米。
「お口に合うか分かりませんが、どうぞ」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
寝起きでぼんやりとした頭のまま、俺は手を合わせてから味噌汁を啜った。
芳醇な出汁の香りと、口の中に広がる旨味。普段、自分が適当に作っているインスタントの味噌汁とは全然違った。
「美味しいです」
「良かった」
嬉しそうに顔を綻ばせる彼女の顔を、俺は夢でも見るような表情で見つめた。昨日まで身体を震わせていた女性とは、まるで別人のように見えた。
なんとも幸せな時間が流れる。向かい側に座って朝食を口に運ぶ千代女さんの姿を見て、こんなささやかな幸せを感じられる時間がずっと続けば良いのにと、そんなことを思った。
「透様……昨日は、ありがとうございました。あんな風に、安心して眠れたのは久しぶりでした」
俺が朝食を食べ終えたタイミングで、千代女さんは居住まいを正してからそんな事を言ってきた。
昨日の事を思い出しているのか、少し照れ臭そうにしている。きっと、恥ずかしい時の癖なのだろう。彼女はしきりに髪を撫でつけていた。
「いえ、ぐっすり眠れたのなら良かったです」
「透様、不躾なお願いをしてもよろしいでしょうか?」
「はい、なんでしょう?」
「私と一緒に、山頂へと行ってくださいませんか?」
「山頂?」
それは、予想していなかったお願いの内容だった。山頂に行って、何かしたいことでもあるのだろうか。
「良いですけど、体調は大丈夫なんですか?」
「はい。もう大丈夫です……覚悟を決めましたから」
なんだか含みのある言葉だった。覚悟を決めたと言った瞬間にだけ、彼女の瞳からはまた怯えのようなものを感じたのは気のせいだろうか。
身支度をするので先に外で待っていてくださいと告げ、千代女さんは自室へと戻っていった。俺は食器類をシンクの中へと置き、軽く洗い物を済ませてから言われた通り外へと出る。
夏の暑い日差しを受け、思わず目を細める。これから千代女さんと山登りだ。二人でお出かけする事になるとは思っていなかったので、少しだけ不思議な気持ちになった。
日差しを避けようと、俺は境内の中を歩き三重に注連縄が巻き付けられている神木の元へとやってきた。この神木を見るたびに、その大きさに圧倒される。神聖な雰囲気を醸し出す神木を見ているだけで、心が落ち着いていくような気がする。
ふと、ある疑問が頭を過った。神木に巻き付けられた、注連縄についてだ。
この蛇棲ヶ迫と呼ばれる地では、環世之天蛇を信仰し、環世之冥蛇が封印されていた。神社に祀られているのが天蛇であり、これが蛇を表現したと思われる萱で編んだ注連縄なのだとすれば、数が合わない。
天蛇と冥蛇?
いや、それなら二つだ。そもそも、注連縄の数と神の数はイコールではないんだっけ。
幼い頃、父に教えられた気がする。注連縄は、神道においては神様が宿る神聖な場所と、人間が暮らす日常の世界を区切り、災いや穢れが入らないようにするための結界の役割を持つ縄だと。
だが、それは一般的な注連縄の話だ。この神木に巻き付けてある注連縄は、その形状が普通ではない。一目見ただけで、蛇を表現していると分かるような見た目をしている。
「お、透くんだ。おはよー」
そんなことを考えている内に、石段を上がってきた日葵が挨拶しながら俺のもとへとやってきた。
「あれ? 千代女ちゃん、一人にして大丈夫なの?」
「ああ、それが……」
当然の疑問だったので、俺は今朝から千代女さんの様子が落ち着いていることと、これから山頂に行きたいとお願いされた事を簡単に説明する。勿論、昨日の夜にあった事は伏せた。変に邪推されても困る。
「へえ……もしかして手出した?」
「ばっ……出してねえよ!」
「あはは、初心な反応するじゃん! 良いじゃん良いじゃん、お似合いだと思うよー」
日葵にからかわれ、俺は激しく動揺してしまった。心臓がバクバクと脈打ち、顔が真っ赤になっているのが分かる。
そんなやり取りをしていると、社務所の扉から千代女さんが姿を見せた。見慣れた巫女装束に身を包み、静かな歩みでこちらへとやってくる。
「千代女ちゃん、おはよー」
「おはようございます、日葵さん。色々と、ご心配をおかけしたようで……」
「良いの良いの。色々あったけどさ、元気になったなら良かったよー。これからジックリと話を聞かせてもらおうと思ってるから、覚悟しといてね?」
「ええ……そうですね……その時間があれば」
その時間があれば……千代女さんの最後の言葉、すぐ横にいた俺には聞こえたが、その声は小さすぎて日葵には聞こえていないような気がした。
「てか、その恰好で今から山頂まで行くの? 大丈夫?」
「大丈夫です。慣れていますから」
「なら良いけど、一時間くらい歩くよね。心配だから、私も一緒に行こうかな」
「ええ、ぜひ。それでは、向かいましょう」
仲睦まじい様子で歩き始めた千代女さんと日葵。
こちらを振り返った千代女さんの目からは、感情を読み取る事が出来なかった。
その事が、俺の胸に一抹の不安を感じさせる結果となった。




