第十九話:融心
神社の境内に建つ、社務所兼住宅。千代女さんの現住居であるその場所に、俺は今日も滞在していた。
人側が勝利した蛇宴の終了から、翌日になっても千代女さんは塞ぎこんだままだった。
蛇宴が終了した後、彼女は自室から出てこなくなった。神社の仕事にも手を付けずに食事も最低限。ただ布団へ横になり、天井を見つめている。まるで、生きる理由そのものを失ってしまったかのようだった。
心配だと様子を見に来た日葵と一緒に、襖の隙間から千代女さんの部屋を覗く。今日も同じだった。窓から差し込む淡い光。薄暗い部屋の中で、布団の上に身体を横たえた千代女さんだけが時を止めたように動かない。
呼吸をしているから生きていると分かる。それがなければ、人形だと言われても信じてしまいそうだった。そんな状態が、蛇宴が終わってからずっと続いている。
「……思ったより酷いね」
俺と一緒に居間へと戻った日葵が、机の上をトントン叩きながら言った。いつもの軽い調子ではないので、本気で千代女さんの様子を心配しているのだろう。それは、俺も同じ気持ちだった。このままずっと、彼女は絶望の淵に沈んだままなのだろうか。
「ご飯は?」
「少しだけなら食べるかな」
「眠れてる?」
「分からないけど……夜中に、すすり泣く声が聞こえた」
蛇宴が終了した夜、自害しようとした彼女を一人にしておけないという理由で、俺は千代女さんの家で泊まることにしたのだ。一応、家主である千代女さんの許可を得た上でだ。それくらいの応答はしてくれた。
夜中、居間で体を横たえていると、千代女さんがいる部屋からすすり泣く声が聞こえた。心配になって様子を見ると、彼女は布団の上で自分の身体を抱きしめるように震えながら、静かに涙を流していた。胸が痛くなるような、悲痛な光景だった。
「透くん」
「ん?」
「千代女ちゃんには、誰かの支えが必要だと思う。そしてその役目は、私じゃなくて透くんが担うべきだと思うんだよね。なんとなくなんだけど」
このまま彼女を放置すれば、彼女は衰弱していく一方だろう。また魔が差して、命を絶つ可能性だって十分に考えられる。誰かが傍にいてあげないといけない。その役目は俺が適任だと目の前の日葵は言っていた。
俺は、何も言わずに頷いた。元からそのつもりだったからだ。何度も繰り返す死から抜け出したいが為に、千代女さんとは敵対していた。でも、いまの彼女は使命に突き動かされる巫女ではなく、ただ何かを恐れて震えている女性にしか見えない。
千代女さんを傍で支えてあげたい……その想いは強まっていく一方だった。
「ちなみに蛇宴が終わってから透くんは千代女ちゃんに付きっ切りだったから知らないだろうけど、一応報告しておく。霧は収まってたよ。みんなの安否を確認しに弁爺と良二さんが蛇棲ヶ迫一帯を調べたけど、死人は出ていない」
「霧に覆われていたのに、誰も死んでなかったのか?」
「うん、不思議だよね。私たちが蛇宴を始めた時には、この周辺以外は既に冥蛇の毒霧に覆われているみたいだったから、誰か死んでてもおかしくないよなーって思ってたんだけど。まあ、もしかしたら伝承の通り天蛇様が今回も守ってくれたのかもね」
人側が勝つことで蛇棲ヶ迫の住人が死ぬという未来は回避できたようだ。天蛇の守護か、または蛇が勝つという条件そのものが死へのトリガーとなっていたのか、理由は定かではない。
でも、少なくとも今回は誰も死んでいない。千代女さんはあんな状態だが、自分にとってはこれが最良の未来だと思えた。
その夜、日葵は千代女さんの為にキッチンで簡単な料理を作ってくれた。キャンプが趣味の彼女は、料理も手慣れたものだった。湯気の立つ鳥雑炊は、見るだけでお腹が空いてくる程に美味しそうだった。
日葵が家から去った後、俺は彼女が作ってくれた鳥雑炊と匙をお盆に乗せ、千代女さんの部屋へ行くことにした。
「失礼します」と一言挨拶してから、襖を開ける。布団に横たわっていた千代女さんは、力ない顔で俺に視線を寄越すと静かに体を起こした。
「夕飯です。食べられますか?」
声を掛けながら布団の横に正座して、その横にお盆を置く。少し間があってから、千代女さんは「ありがとうございます」と小さな返事を返してきた。
「少しで良いので食べてください」
「……はい」
返事だけは素直だった。けれど、その声には何の感情も乗っていない。
俺は思わず、彼女の横顔を見つめた。そこにいるのは、蛇宴で俺と対峙した巫女でも、妖しく俺を誘惑してきた女性でもない。ただ、酷く疲れ果てた一人の人間だった。
蛇宴が終わり、短刀を握り締めながら泣いていた姿は、今でも脳裏にこびりついている。あれは、ただ敗北した人間の顔ではなかった。もっと深い、どうしようもない程の絶望を抱えた人間の顔だった。
「千代女さん……何があなたを、そこまで追いつめているんですか?」
聞かずにはいられなかった。彼女をここまで追いつめている原因が何なのかを、知らなければいけない気がした。
千代女さんは、何も言わない。夜虫の鳴き声と、時計の針が進む音だけがその場を支配している。
しばらく待っていると、何かを思い出したかのように千代女さんは頭をガクリと下げ、自身の体を両腕で抱きしめた。その体が、小さく震え始める。呼吸が浅くなっていき、彼女の口から荒い息が漏れ始める。
尋常じゃないその様子に、俺はどうして良いのか分からなくなり、その震えを止めようと彼女の細い肩へと手を置いていた。
「透様……申し訳ありません……私、怖くて……」
体の震えが止まらない。恐怖に震えるその姿は、見ているだけで胸が締め付けられるくらいに痛々しい。どうにかしてあげたい……その想いから、俺は震える彼女の身体を強く抱きしめていた。
「あっ……」
耳元で、か細い声が落ちる。細い身体だった。驚くほどに華奢で、守ってあげたくなる程に弱々しい。
千代女さんは俺の胸元へ顔を埋めたまま、小さく震えている。
しばらくすると、服の裾を握る感触が伝わってきた。まるで離されるのを恐れるかのように、彼女の手が俺の服を強く握り締めているのが分かった。
敵だと思っていた。怖い存在だと思っていた。信用もしていなかった。だけど、今は違う。この人を放っておけない。守りたいと……本気でそう思った。
「大丈夫ですよ、千代女さん。俺がずっと傍にいます。あなたを……守りますから」
「……ありがとう……ございます」
震えが少しずつ収まっていくのを感じる。それから、どれくらいそうしていたのかは分からない。気付けば、千代女さんは腕の中で静かに寝息を立てていた。俺はその寝顔を、ただ黙って見つめた。
どうか、彼女が何に恐れることもなく、安らかに眠れますように。
そう願いながら、俺は壁に背中を預け、千代女さんの寝息を聞きながら目を瞑った。




