第十七話:守護
目を開くと、そこには懐かしいとさえ感じる天井があった。
六畳一間のアパート。壁際には大学の教科書や文庫本が雑多に積まれ、小さな本棚には読みかけの小説が並んでいる。シンク付きの簡素なキッチン。脱ぎっぱなしのジャケットは床に放ったままだ。
「……ここは」
神野山の麓にある町。俺が大学へ通うために借りている、1Kのアパートの一室だった。
軋むシングルベッドからゆっくりと身体を起こす。心臓が妙に騒がしい。何か、嫌な夢を見ていたような気がする。だが、その内容だけがどうしても思い出せない。
額に手を当てながら立ち上がり、何気なく窓へと近づく。そして、俺はカーテンを思い切り開き、窓の外へと視線を向けた。夕焼けに染まり始めた空。その向こう側に見える山の端、煌々と光る月が俺の視界に入る。
その月を見た瞬間、一気に記憶の奔流が脳裏をかき乱した。
「――っ!」
脳を杭で貫かれたような衝撃。
蛇宴。
毒霧。
日葵。
千代女。
天蛇。
冥蛇。
死、死、死、死死死死死。
失われていた記憶が一気に脳内へと流れ込んできた。
「はぁっ……!」
思わずその場に膝をついてしまう。頭が割れそうになるくらい痛かった。
俺は戻ってきたのだ。蛇棲ヶ迫へ向かう前の時間に。
震える手で、机の上に置いてある日めくりカレンダーを見る。7月19日。同棲していた彼女の荷物がすべてなくなっていた事に気付き、自棄になって目的地も定めずバイクを走らせた日だ。
「戻った……」
ここまで巻き戻ったということは、もう事故に遭う必要はない。蛇棲ヶ迫へ入る前に準備を整えることも出来る。
なぜ、前回よりも前の時間に戻れたのかは分からない。考えられるとしたら、月の守護が強まっているからだろう。
月の守護——そう考えた時だった。ふと、机の引き出しが目に入る。なぜだろう……そこに、何かがあるような気がした。
俺はまるで何かに導かれるようにして、机の引き出しを開く。大学で配られた書類、教科書。さらにその奥、長い間触れていなかった小さな布袋が姿を現した。
紺色のお守り。月の刺繍が施されたそれを見た瞬間、俺は思わず苦笑する。
「……そうだ、ここに入れておいたんだっけ」
進路について父と大喧嘩したまま口も利かなくなり、喧嘩別れするような形で家を出た時に母から渡されたものだった。
『あなたを守ってくれますようにと、願っておいたわ。ちゃんと持っていなさい』
いつも俺の身を案じてくれていた、優しい母がそう言って渡してくれたものだ。だが俺は、それを引き出しの奥へ押し込んだままにしてあったのだ。実家の神社を継げと言い続ける父への反発もあったし、神頼みなんて性に合わないと思っていたから。
俺の実家は代々、神職を務める家系だった。父は当然のように、俺が跡を継ぐものだと思っていたらしい。だが、俺は嫌だった。成長するにつれやりたい事が増えてきて、神職を継ぐための修行よりも外へ出て自由に生きる事を選んだ。
大学進学を機に一人暮らしを始め、それ以来ほとんど実家には帰っていない。それでも、このお守りだけは捨てられなかった。優しい母から貰ったものだったから。ただ、それだけの理由だ。
「まさか、今さら役に立つとか言わないよな……」
半ば自嘲気味に呟きながら、お守りを手に取ったその瞬間だった。じわりと、お守りが熱を帯びた気がした。
「――え?」
驚き、思わず手を離しそうになる。だが次の瞬間、脳裏に浮かび上がったのは、あの蒼い光を放つ蛇の瞳だった。
千代女の蛇眼。そして、自らの身体に絡みついていた黒い大蛇。
冥蛇……前回の記憶では、俺はあの神の依り代にされていた。だが、このお守りを握った瞬間、それらから自分を守ってくれるような力を感じた。
「……持っていこう」
思わず呟く。これはただのお守りじゃない。根拠なんて何もない。それでも、これを持っていれば今度は何かが変わる。そんな予感があった。
俺はお守りを握ったまま、決意を新たにバイクの鍵を持って外へと出た。
◇ ◇ ◇
もう見慣れてしまった道を、愛車のスーパーカブで走る。
風が頬を撫でていき、町中の景色が流れていく中、俺は首から胸元へと掛けたお守りへと手を添える。
母から貰った、月の刺繍が施された小さなお守り。今まで引き出しの奥へ押し込んでいたそれは、不思議なほどの安心感を与えてくれていた。
空はまだ茜色だった。西の空では太陽が山の向こうへと沈み始めている。夕焼けに染まった田畑や住宅街を抜け、バイクは徐々に人気の少ない山道へと入っていく。
やがて空から赤色が失われていった。群青色から、紺色へ。世界が少しずつ、夜へと塗り替えられていく。
バイクのヘッドライトだけが、アスファルトを照らしていた。山の稜線の向こう側に、月が姿を現す。やがて山道が大きくカーブを描いていき、俺は自然とアクセルを緩めた。
俺が何度もバイクで転倒した場所。道の中央、一匹の蛇が鎌首をもたげている。前回までは、この蛇を避けようとして転倒した。だが、今回は違う。俺はゆっくりとバイクを減速させ、その場に停車させた。
エンジン音が止み、辺りが静寂に包まれる。蛇は逃げない。ただじっと、こちらを見つめている。まるで、俺が来るのを待っていたかのように。
俺はヘルメットを脱いで、バイクから降りる。そして、一歩ずつ蛇との距離を詰めていった。
蛇に近づくにつれ、胸元のお守りが熱を帯びていった。同時に、蛇の身体がぴたりと動きを止める。風が止んだ。木々が揺れる音すら聞こえない。世界から音が失われたような静寂。
蛇がゆっくりと、頭を持ち上げる。その瞳が俺を見据える。そして、蛇の輪郭が黒い靄へと崩れはじめた。
小さな蛇だったはずの姿が膨れ上がり、山道を覆い尽くさんばかりの巨大な影へと変貌していく。
漆黒の鱗。紅く輝く瞳。見る者の魂を凍り付かせるような威圧感。
俺はその存在を知っていた。死の直前に、何度も見た存在。
「冥蛇……」
その名を口にした瞬間、巨大な蛇の口元が僅かに歪んだ。
笑ったように見えた。巨大な蛇の紅い瞳が、じっと俺を見つめている。
その視線が俺の胸元へと落ちた。
『……ほう』
冥蛇が低く唸る。その声には、わずかな驚きが混じっていた。
何かを確かめるように俺を見下ろしたまま、ゆっくりと首を傾げる。
『やはり、面白い存在だ。お前を引き入れて正解だった』
まるで獲物を見るような目だった。
『足掻いてみせよ』
その声に怒りはない。失望もない。ただ純粋な興味だけがあった。
『どこまでやれるか、見せてもらおう』
最後にそう告げると、黒い靄がゆっくりとその身体を包み込んでいき、冥蛇の姿は夜の闇へと溶けるように消えていった。




