第十三話:誘惑
千代女さんに案内された建物は、社務所が併設された住宅だった。
なんだか懐かしい気持ちにさせられた。千代女さんの生い立ちについて考えると、つい親近感を抱いてしまう。
受付や事務所らしき部屋の他に、人が生活するための設備も整えられている。
俺が通されたのは、居間と思われる和室だった。中央には、布団を取り外した炬燵机。壁際のテレビ台には、沈黙したままのブラウン管テレビ。壁に掛けられた時計の秒針だけが、静かな部屋の中で規則正しく音を刻んでいる。
どこか寂しいと感じる部屋だった。生活の気配はある。けれど、人の温度が薄い。
そういえば、前の記憶で良二さんが言っていたことを思い出す。千代女さんは数か月前に、母親を亡くしていると。この家に他の人の気配がないということは、今は一人で暮らしているのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は促されるまま炬燵机の傍にある座布団の上へ腰を下ろした。
「少し、お待ちください」
そう言って千代女さんは一度姿を消した。しばらくして戻ってきた時、彼女はもう巫女装束ではなかった。
淡い藤色のパジャマ姿。派手な柄はなく、胸元に小さな花の刺繍が一つあるだけの、清潔感のある寝間着だった。巫女装束の時とは違う。長い黒髪も少し乱れていて、神秘的な巫女ではなく、年相応の女性らしさを覗かせていた。その落差に、思わず見惚れてしまう。
「……かわいいですね」
「っ……!」
そのパジャマ、と続けるつもりだった。だが、千代女さんがすごい勢いで顔を赤くしたので、俺は思わず口を閉じる。
沈黙。
時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。
千代女さんは立ったまま、ちらちらとこちらを窺いながら、しきりに髪を撫でていた。
目が合うと、すぐにまた顔を赤くして俯いてしまう。
照れてる姿が可愛い……。
そんな様子を見ていると、前回までの敵対的な空気が嘘のように思えてしまう。
ずっとその様子を見ていたい気もしたのだが、忘れてはいけない。俺はここへ、彼女から情報を引き出すために来たのだ。
「えーっと……さっきの話の続きなんですが」
俺は意識して、声の調子を整える。
「今のこの状況について、千代女さんが知っていることを教えてもらえますか?」
その問いを聞いた瞬間、千代女さんの表情が戻った。恥じらう少女ではなく、蛇宴を司る巫女の顔へ。
彼女は静かな動作で、俺のすぐ隣へ正座した。向かい側に座るのだと思っていた俺は、縮まった距離に少し動揺する。
「先ほども申し上げました通り、すべてをお伝えすることはできません」
千代女さんは、落ち着いた声で言った。その声が、少し艶めいていると思ってしまった。
「ですが、可能な範囲であればお答えしましょう」
そこで、千代女さんが一度言葉を切る。
「ただし、条件が二つございます」
横を見ると、こちらを見る千代女さんの瞳が、スッと細くなっていた。一瞬、その目が蛇のように鋭く、妖しく見えた。
「その条件を受け入れていただけるのであれば、私が知っていることをすべて透様にお教えいたします」
「……とりあえず、その条件を聞かせてもらえますか?」
「はい」
千代女さんは静かに頷いてから続ける。
「先ず、一つ目。透様が隠していることを、私に明かすことです」
……なるほど。
彼女は何故か前回の記憶を持っている俺の素性を明らかにしたいようだ。
多分、俺は千代女さんが知りたがっている情報を明かすことが出来る。
意図的に伝えていない、俺自身の出自について。
もしかしたら、という思いがあるのは事実だ。巻き戻りについては理解できないが、記憶の継承についてはその出自が関係しているかもしれない。
だが、その情報を簡単に渡すわけにはいかなかった。前回の記憶は、今の俺が持つ唯一の切り札だ。千代女さんが敵である以上、こちらが唯一隠し持っている手札を晒すのは危険すぎる。
彼女には大量の手札があるのだ。そんな相手の前で、丸裸になるわけにはいかなかった。
「隠していること?」
俺はとぼけてみせることにした。今の俺には、それくらいしかできない。
「何のことでしょうか?」
俺の嘘に、千代女さんはくすりと笑った。お見通しだと言わんばかりに。
「あー……その一つ目の条件については、二つ目を聞いてから判断しても?」
「ええ、構いません」
千代女さんは身じろぎ一つせず、すぐ隣から俺を見つめ続けている。
「二つ目の条件は――」
そして、囁くように告げた。
「透様が、私と永遠を生きることです」
「……はい?」
理解が追いつかなかった。何を言われたのか、すぐには飲み込めない。
俺が困惑していると、千代女さんは緩慢な動作で俺の前にある畳へと右手のひらをついた。彼女が身を乗り出したことで、さらに距離が縮まり、俺の視界が千代女さんで一杯になる。わざと見せつけているのではないかと思うほど近い。視線を落とせば、胸元が見えてしまいそうな距離だった。
淡い藤色の袖が畳の上を滑り、彼女の黒髪がさらりと肩から落ちる。右手が、そっと俺の膝元へ触れる。その仕草は静かだった。けれど、逃げ場を奪われるような感覚があった。
「透様は、私にとって特別な御方です」
千代女さんが耳元で囁く。
「暗い、暗い牢獄に差した、優しい月明かりのような存在」
熱を帯びた吐息が、肌に触れる。俺は蛇に睨まれた蛙のように、その場から動けない。
「ですから、この先ずっと、どうか私の側にいてください」
千代女さんの指先が、俺の膝の上で静かに動く。
「今回だけではなく」
彼女の瞳が、妖しく光る。
「その次の夜も」
言葉が絡みつく。
「その次の次の次の次の次の次の夜も」
逃げ道を塞ぐように。
「ずっと……永遠に」
彼女が妖しく微笑み、心臓が大きく跳ねる。儚く、柔らかく、それでいて底の見えない笑みだった。
「透様」
その声は甘かった。甘すぎて、毒のようだった。
「私と共に、永遠の時を歩んでくださいませんか」
息が詰まる。頭の奥がぼんやりと霞む。彼女に触れたい。その手を取ってしまいたい。そんな衝動が一瞬、確かに胸の奥をよぎった。
だが——この誘惑に身を任せてはいけないと、本能がそう告げていた。
俺は理性をかき集め、千代女さんの肩に手を置いた。そして、ゆっくりと距離を取る。その瞬間、彼女の表情に寂しさのようなものが浮かび、胸の奥が重くなった。
けれど、俺は彼女から目を逸らさなかった。
冷静になって考えるべきだ。
今、彼女は俺に何をしようとした?
俺を必要としているのか。それとも、俺を取り込もうとしているのか。少し考えれば、答えは明白だった。
「永遠に繰り返せって言ってるんですか? この巻き戻しみたいな現象を」
「はい」
千代女さんは否定しなかった。
「レーテを渡っても記憶を保てる透様と、依り代の代償によって永遠の時を繰り返す私。二人で、終わりのない時間を共に歩むのです……永遠に」
彼女はうっとりと目を細めながら続ける。
「それは、とても素敵なことだと思いませんか?」
素敵。
そう言えるのか。この死の繰り返しを。
毒霧に呑まれ、人々が血を吐いて倒れる地獄を。
「……それ、本心で言ってますか?」
「ええ。本心です」
即答だった。けれど、その言葉をそのまま信じることはできなかった。
「違いますよね、千代女さん。俺を取り込もうという魂胆が、透けて見えていますよ」
その瞬間、空気が変わった。花びらが鋭い刃へと変わるように。柔らかく甘い雰囲気が、一瞬で鋭く冷たいものへ変質する。
千代女さんは変わらず俺を見つめていた。だが、先ほどまでの熱は消えている。そこにあるのは、蛇宴を取り仕切る巫女としての、冷ややかな目だった。
「私と共に、永遠を生きてはくださらないのですね」
「千代女さんが心の底から俺を好きでいてくれて、そう言ってくれていたなら話は別だったかもしれません」
自分で言いながら、胸が少し痛んだ。
彼女の言葉すべてが嘘だったとは思わない。暗い牢獄に差した月明かり。その言葉には、僅かにでも本音が混じっていた気がする。けれど彼女を信じるには、あまりにも多くの嘘が見えてしまった。
「貴方は蛇宴で、みんなに嘘を吐きました。蛇宴を遂行すれば、みんな助かると。でも実際には違った。蛇が勝った瞬間、冥蛇による毒で全員が死んだ」
そう。彼女はすべてを知っていたはずだ。その上で、俺たちを蛇宴へ誘導した。
彼女が嘘を吐いたということは、蛇を勝たせようとしているということだ。そして前回の記憶を持った俺は、彼女にとって邪魔な存在だろう。蛇を勝たせるうえで、俺の存在は脅威になる。だから取り込もうとした。その魂胆が、見えてしまった。
「明日の蛇宴、俺は人が勝つように全力を尽くします」
宣戦布告だった。そして、彼女に対して鎌を掛ける言葉でもあった。
俺の言葉を受け、千代女さんは口元へ手を当てる。くすり、と小さな笑い声がその手の奥から聞こえた。楽しそうに、妖しく、その瞳に天蛇と同じ蒼い光が灯る。
「ふふ……」
笑みが深くなる。
「楽しい」
心の底から喜ぶように、彼女は囁いた。
「透様。私、貴方のことがどんどん好きになっていきます」
その声に、先ほどの甘さとは違う熱が宿る。
「これから永遠に続くと思っていた地獄のような退屈を、こんな形で愉悦へと変えてくださるなんて」
千代女さんはゆっくりと目を細めた。
「ええ……ええ」
そして、優雅に微笑む。
「どうぞ。できるものなら、やってみてください」
その声は穏やかだった。だが、底にあるものは冷たかった。
その言葉で、俺は確信した。彼女は、蛇を勝たせるために動き、そのためなら蛇宴の参加者が死ぬことも厭わないと思っている。
俺の説得など届かないだろう。少なくとも今の彼女は、俺の敵だった。




