第十二話:慈愛
気が付くと、また川の中にいた。
大勢の人々が川を渡っている。
誰も言葉を発さない。ただ静かに前へ進んでいる。
俺もその流れに身を任せながら、ぼんやりと歩いていた。
何か大切なことを忘れている気がする。
何かを思い出さなければならない気がする。
だが、それが何なのか分からない。
ふと、俺は顔を上げた。空には、白く輝く月が浮かんでいた。
その光から目を逸らせない。まるで、忘れてはいけない何かを繋ぎ止めるように。
俺はただ、月を見上げ続ける。
◇ ◇ ◇
バイク事故を起こした山道で、藪の中にいる蛇と目が合った。その瞬間、頭上に浮かぶ月が視界の端を横切る。
そして――脳裏に、膨大な記憶が流れ込んできた。
蛇宴。
神託。
毒霧。
死。
忘れていたはずの光景が、まるで堰を切ったように蘇っていく。
もう疑う余地はない。俺はズキズキと痛む頭を押さえながら、考えを巡らせる。
これで前回の記憶を思い出すのは二度目だ。時間そのものが巻き戻っているのか。それとも、同じ時間を繰り返しているのか。それは分からない。だが、一つだけ確かなことがある。
俺は既に二度、この蛇棲ヶ迫と呼ばれる場所で死んでいる。
この後、俺は神社へ向かう。そこで、園崎千代女という巫女に出会う。
その後、紆余曲折があり巫蛇神宴と呼ばれる儀式に参加して、蛇役を暴くことができず毒霧によって死亡した。
死んだはずなのに、なぜか時間は日葵と出会う直前まで巻き戻った。そして、二度目の蛇宴に参加した。その蛇宴では神託が記憶と異なっており、またも蛇役を暴けずに死亡した。
そして、現在。今度はバイクが転倒した直後にまで、時間が巻き戻っている。
一体、俺の身に何が起きているのか……なぜ時間が巻き戻っているのかいくら考えても分からない。
そもそも、今回は三度目で合っているのか?
俺が思い出せていないだけで、既に何度も同じ時間を繰り返している可能性はないのか?
それすらも定かではない。どういう理由かは分からないが、記憶を呼び起こすことができたのが前回で、さらに前の巻き戻しでは俺が単純に気付けていなかっただけの可能性もある。
ただ、なんにせよ、前回と前々回の記憶から分かることが一つだけある。
前回以前の記憶を持っているのは、俺だけじゃない。
その様子や言動から、千代女さんもまた、俺と同じく巻き戻りのような現象を経験しているのは間違いない。
俺はすぐに立ち上がった。バイクの事故により全身は痛むが、それでも構わないと痛む身体を引きずりながら、千代女さんが居る筈の神社へと向かう。
千代女さんと話をしなければならない。そうしなければ、この状況から逃れることはできない。そんな予感があった。
辿り着いた石段を上り、もう何度目かも分からない鳥居を潜る。やがて境内へ辿り着き、注連縄が三連に巻き付けられた神木と対面する。そのさらに向こう、社務所の前には一人の巫女が立っている。
白い狩衣。朱の袴。夜風に揺れる黒い髪。千代女さんはまるで俺が来ることを知っていたかのように、静かに佇んでいた。
俺を見るその瞳に驚きはない。それも予想通りだった。
「来るのは分かっていた――そんな目をしていますね」
俺の言葉に、千代女さんは静かに目を細めた。
「そうですか」
そして小さく息を吐く。
「やはり、レーテを渡っても透様には前回の記憶が残っているのですね」
「そのレーテって何なんですか?」
前回も聞いた問いだ。その時は答えてもらえなかった。でも、今回は違った。
「忘却の川です」
千代女さんは迷いなく答える。
「人が死に、その魂が円環へと回帰する際に渡る川のことです」
あまりにもあっさりとした回答に、逆に拍子抜けしてしまった。
「前は教えてくれませんでしたよね」
「説明している時間がありませんでしたから」
淡々とした返答だった。彼女の目には、最初に会った時とは別人のような冷たさが宿っていた。
「じゃあ今なら、俺の質問には答えてくれるんですか?」
「何でも、というわけにはいきません。ですが、明日の儀式までにはまだ時間があります。答えられる範囲であれば、お答えします」
それは願ってもないことだった。この異常な現象について知るための手掛かりを掴めるかもしれない。そう思い口を開こうとした時だった。
「っ……!」
ズキリと全身が痛んだ。事故で負った傷の痛みだ。身体中の傷が悲鳴を上げている。
思わず顔をしかめた俺を見て、千代女さんが静かに近付いてきた。
「それより先に、傷を癒す必要がありますね」
「え?」
千代女さんの細く白い指先が、俺へと伸びてくる。そして、そっと俺の胸に触れた。
「何を――」
言葉が途中で止まる。触れられた場所から、温かな熱が広がったからだ。まるで春の日差しのような柔らかな熱。それが胸から広がって、身体全体へ染み込んでいくような感覚。
その熱が引いていくのと同時に、先ほどまであった身体の痛みが消えていった。バイク転倒で負った痛みが、まるで最初から存在しなかったかのように消えたという事実に、俺は言葉を失った。
奇跡——そう表現する以外にない。
「……驚きすぎて、何を言えばいいのか分からないんですが」
「私は天蛇様の依り代です。天蛇様は生と癒しを司る神です。これくらいはできます」
その声音には誇張も、自慢もない。ただ事実を述べているだけだった。
千代女さんの手は俺の胸元から離れない。既に痛みは消えていた。それなのに、彼女はゆっくりと俺の胸元をなぞるように手を動かしていく。
何かを確かめるように、撫でるような手の動きは止まらない。その仕草はどこか蠱惑的で、俺と千代女さんの距離感を狂わせるものだった。
思わず鼓動が速くなる。だが同時に、妙な違和感も覚えた。
「あの……もう大丈夫ですよ」
「え?」
千代女さんの動きが止まった。我に返ったかのように目を丸くして、勢いよく手を引いた。
「あ……」
一瞬だけ見えた千代女さんの表情は、ひどく困惑していた。彼女はすぐに目を伏せる。
「申し訳ありません」
小さな声だった。前回の記憶では見られなかった、彼女の恥じらうような様子を見ていると、こちらまで落ち着かない気持ちになった。
使命のためなら誰に恨まれても構わない。そんなことを言い切った人間が、今はどこか落ち着きを失っている。その姿を見て、妙に胸の奥がざわついた。
「もうこんな時間ですね」
千代女さんが、気持ちを切り替えるように言った。
「話は中でしましょう」
そして、社務所の扉へ歩き出す。
「どうぞ、こちらへ」
俺は頷き、その後を追った。
夜風が吹く。それでも、彼女に触れられていた場所だけは妙に熱を帯びたままだった。
その熱が治癒の名残なのか。
それとも別の感情なのか。
今の俺には分からなかった。




