3.なんとも奇妙な秘密の特訓
「それでは、ひとまず当面の方針を決めてしまいましょう」
次の日の朝早く、私とジョゼフィーヌ様は校舎の裏手の木陰でこっそりと話し合っていた。
向かいに立つジョゼフィーヌ様は、わくわくしたような顔でじっと私の話を聞いている。
まるで講義をしている教師のような気分になりながら、一晩かけて考えたことを話し始めた。
「ジョゼフィーヌ様は、どうしても外交官の夢をあきらめたくない。けれど、王太子の婚約者、未来の王妃という立場ではそれもうまくいかない。それが、この問題の要点ですね」
うんうんとうなずく彼女に、思い切って尋ねる。一つ、どうしても確認しておきたいことがあったのだ。
「ところで、ぶしつけなことを聞きますが……ジョゼフィーヌ様は、ロジェ様に嫁ぎたくないと、そう思っておられたりは……?」
婚約破棄のほうが本当の目的で、外交官うんぬんは後付けの理由ではないか。その可能性も捨てきれないなと思っていたのだけれど、彼女はきっぱりと首を横に振った。
「いいえ。わたくしとロジェ様は幼い頃から仲良くしておりますし、とても素敵な方だと思っておりますわ。……ただ、わたくしの夢にかける熱意が、あの方に対する思いを上回ってしまっているだけで」
「……そうですか。分かりました。ならば今打てる手は、一つしかないでしょうね」
この状況をどうにかできる方法は、一つしか思い浮かばなかった。それはかなり難しく、しかもめちゃくちゃな手ではある。
でも、既に完全に詰んでしまっているこの状況をひっくり返すには、それくらいしないと無理なのだと、そう思えてならなかった。
「この国では、官吏となるにはいくつかの方法があります。一つ目は、前任者からの推薦をもらうこと。一族が代々同じ役職についているような場合は、この方法をとっていることが多いですね。ジョゼフィーヌ様のご家族の協力が得られない限り、この方法は無理です」
「そうですわね。お父様にもお母様にも、この夢のことは告げていませんし……立場上、きっと無理ですわ」
唐突に違う話を始めたにもかかわらず、ジョゼフィーヌ様は戸惑うことなくうなずいている。彼女の目を見て、さらに続けた。
「二つ目は、この学び舎を卒業すること。在学中からあちこちの省庁に打診して、先方から許諾をもらえればそこに勤める、といった感じになりますね。しかしジョゼフィーヌ様が外交官になりたいと打診しても、おそらく先方は断ってくるでしょう」
しょんぼりとしているジョゼフィーヌ様を見つめながら、ゆっくりと最後の言葉を紡ぐ。
「そして、三つ目なのですが……年に一度、各省庁で官吏を採用するための試験があります。年齢も性別も、なんなら素性も不問、ただ能力と人格を備えていればそれでいい、そんな試験です」
私の言葉に、ジョゼフィーヌ様があっ、と小さく声を上げた。
「それゆえに、元の身分を隠して、偽名で試験を受けている者も少なからずいるとか」
「ねえニネット、もしかしてその試験に合格すれば……」
「はい。あなたが名も素性も隠して、別の身分でその試験に合格できれば……外交官への道が開かれます。王妃ジョゼフィーヌと、若き外交官。一人でその二役を演じ切ることができれば、あるいは……」
「まあ、素敵」
「ただし、そうやって暮らしていくには、ロジェ様や周囲の人間の協力が必要不可欠です。あなたが実力で外交官の地位を手に入れたという実績があれば、みなさまの協力を得られる可能性も上がるでしょう」
というか、ジョゼフィーヌ様が必要な能力を備えていなければ、どうあがいたところで外交官という夢がかなうことはない。彼女が能力を有しているかどうかを見極めるにおいて、その試験はまさにうってつけのものだった。
「次の試験は半年後です。我こそはという者たちが集う試験ですので、どれだけ勝機があるかは分かりませんが……」
「半年……あまりにも短いですわね。でしたら、やっぱり婚約破棄してもらったほうがいいかしら……」
「いえ、婚約破棄は最後の手段です。いったん忘れてください。もしその手を使うことになったら、私のほうから指示しますので」
隙あらば婚約破棄に持ち込もうとするジョゼフィーヌ様にしっかりと釘を刺し、それからひと言付け加える。
「ただ、ロジェ様についても手を打ちましょう。ロジェ様との距離を少し空けてください。ほんの少しだけ、よそよそしい空気をかもしだすのです」
「分かりましたわ。ただ離れていればいいのかしら?」
「そうですね……何かに悩んでいるような、思い詰めているような、あらぬ方を見つめて切なげにため息をついている、そんな姿を遠くからロジェ様に見せてもいいかもしれません」
「演技をする、ということですわね」
「はい。ただし、絶対にロジェ様に声をかけられないように。どうしてそんな表情をしているのかと、尋ねられることのないように」
「気をつけますわ。ところで、その演技をするとどうなりますの?」
「あなたの様子がおかしくなれば、ロジェ様はきっと心配されます。ロジェ様があなたのことを好いておられるのであれば、あなたが落ち着くまで結婚を延期しようと考えてくださるかもしれません」
心の中で、話したことすらないロジェ様に謝罪する。私が余計な入れ知恵をしたせいで、おそらくこれからあなたを悩ませてしまいます、申し訳ありません、と。
「……あるいはつれないあなたに冷めてしまって、あちらから婚約破棄を申し出てくるかもしれません」
私の説明を聞いたジョゼフィーヌ様は、目を真ん丸にして、それから満面の笑みを浮かべた。
「まあ、さすがはニネットですのね。そんなに色々なことを考えていただなんて」
尊敬のまなざしを私に向けていたジョゼフィーヌ様が、得意げに胸を張った。
「それではわたくしも頑張らなくてはなりませんわね。大丈夫ですわ、わたくしはロジェ様がどの講義を受けていて、どの道を歩くのが好きなのかということまで、きちんと把握しておりますから。ロジェ様に会うことなく、でも遠くから姿を見せるくらいなら簡単ですわ」
「は、はあ……では、そちらも頑張ってください」
自信たっぷりに妙なことを言っている彼女に、私はそんな間の抜けた返事をすることしかできなかった。
それから二人で、人目を避けながらの勉強会が始まった。学び舎の図書室で本を借りて、人目につかない空き教室でこっそりと学ぶ。外交官になるための試験勉強だ。
我が国及び周囲の国々の地形、名産品、交通網。そこに住む人々の文化や言語。
私もジョゼフィーヌ様も基本的なことは知っていたけれど、改めて調べてみると、次から次へと知らないことが出てきた。そのたびに二人で目を丸くして、笑い合う。
「……未来の王妃として、外国についての基礎は教わっていましたけれど……こうしてしっかりと学ぶのはとても面白いですわね」
ジョゼフィーヌ様はふんわりとした雰囲気とは裏腹に、かなり利発なようだった。彼女は驚くほどの速さで、次々と知識を吸収して自分のものにしていたのだ。
これだけ賢いのに、どうして私をいじめて婚約破棄などという珍妙な考えにたどり着いてしまったのやら。
そうして数日、一緒に学び続けた。この調子で進めていけば、周囲の国々についての知識の習得は間に合うかもしれない。
しかしそれとは別に、一つ問題があった。勉強の合間に、ジョゼフィーヌ様に尋ねてみる。
「外交官の試験には、交渉術……といいますか、話術ですね……も含まれます。そろそろ、並行してそちらについても学んでおいたほうがいいでしょう。ただ、この図書室には良い教本がありません。ジョゼフィーヌ様は、何か心当たりなどありませんか?」
「だったら、王宮の書庫に行きましょう。あそこの本は持ち出しができませんが、とても様々なものがありますわ。きっと、交渉術の参考になるようなものもあると思いますの」
そうして王宮の書庫に足を運び、手分けして書棚を探して回る。じきに、過去の外交官たちが外国に出向いた時の記録を見つけることができた。
いつどこで、どのような条件で交渉を開始し、どんな風に交渉が進んでいって、どういう結末を迎えたのか。そういったことが事細かに記されている。
それを一緒に読んでいると、ジョゼフィーヌ様がふとこちらを向いて可愛らしく笑った。
「こうしていると、五歳の時に会ったあの方のことを思い出しますわ。彼女は若い女性だというのに、我が国の外務大臣と互角に渡り合っていて……その姿がとても凛々しくて、格好良くて、とてもときめいたのを覚えていますわ」
うっとりとしていた彼女が、ふと何かに気づいたようにこちらを向く。
「ねえニネット、交渉をもって自分の、自国の要求を穏便に相手にのませる、それが外交官の仕事なのですよね?」
そうですね、と答えると、彼女はとても嬉しそうに笑った。
「でしたら、わたくしがこうやってあなたを巻き込めたのは、交渉に成功したということになりません?」
「……そう、とも言えます……ね。たぶん」
「ふふ、なんだかちょっぴり自信が出てきましたわ」
そう言って、ジョゼフィーヌ様は心底幸せそうに笑う。彼女が自信を持ってくれたのはいいことだけれど、少し納得いかないものを感じなくもない。
あれは交渉というか、危なっかしいジョゼフィーヌ様を放っておけなかっただけで……いや、その危なっかしさも交渉の道具と言えなくもない……のだろうか?
考え込んでいると、ジョゼフィーヌ様がふと真顔になった。そのまま、遠くをじっと見つめている。
どうしましたか、と言いかけた私を、彼女は唇の前で人差し指を立てて制した。静かに、ということらしい。
「ニネット、ここから逃げますわよ。さあ、早く」
やけにあわてた様子で、ジョゼフィーヌ様は私の手を取った。そのまま、書庫の裏口に向かって引っ張っていく。机の上に置いた本を片付けることすらできずに、彼女に手を引かれるまま歩き出した。
訳も分からないまま連れ出されて、そのまま王宮の廊下をしばらく進む。人気のない一角にたどり着いて、ようやくジョゼフィーヌ様は立ち止まった。
「ここまでくれば、大丈夫ですわね。ふう、どうにか間に合いましたわ」
「あの……一体、どういうことなのでしょうか」
「ええ、ロジェ様の足音が聞こえましたの。わたくしたちが試験のための勉強をしているところをあの方に見られるのは得策ではないのでしょう?」
ジョゼフィーヌ様は、さらりとそんなことを答えている。書庫はとても静かだから、廊下を行く人々の足音もかすかに聞こえる。しかしさすがに、それが誰の足音かなんて分からない。
「……その、それは本当にロジェ様の足音だったのでしょうか?」
「間違いなくってよ。わたくし、もう十年以上あの方のそばにおりますもの。ロジェ様の足音だけはしっかりと覚えておりますわ」
どことなく得意げに語るジョゼフィーヌ様を見ながら、また思う。やっぱり彼女には、婚約破棄などさせてはいけない、と。
ロジェ様がどう思っておられるかは分からないけれど、少なくともジョゼフィーヌ様にとってロジェ様は、特別な相手だ。
だからジョゼフィーヌ様には、外交官になってもらって、その上でちゃんとロジェ様とも結ばれてほしい。ああもう、さらに最終目的がややこしくなってしまった。
本当にどうして、こんなことに巻き込まれたのだろう。彼女に気づかれないように、これで何度目になるのか分からないため息をついた。




