2.しとやかな令嬢の意外な夢
自分が聞いた言葉が信じられず、そのまま動きを止める。
「……あの、ジョゼフィーヌ様。今、なんと……?」
「ですからわたくしは、王太子ロジェ様との婚約を、なかったことにしたいんですの」
思いもかけない、そしてとんでもない言葉に呆然とする。当の本人は可愛らしく恥じらって、両手を頬に当てていた。
「ニネット、このことは内緒にしてくださいまし。その、恥ずかしいですし……」
「え、ええ、もちろん秘密にいたします。でもどうして、そんなことを……」
普段の私は、かなり冷静なほうだと思う。でもさっきから、ジョゼフィーヌ様のせいで動揺しっぱなしだ。
令嬢のかがみにして未来の王妃たる彼女が、こんなにも妙な一面を持っていたなんて、誰が思うだろうか。
半ばぽかんとしたまま、彼女の次の言葉を待つ。彼女はためらいながら、そっと打ち明けてくれた。
「事の始まりは、五歳の時に、他国の外交官の方とお話ししたことでした。凛として美しい、若い女性で……しかもとても知的な方でした。あなたはあの方にちょっと似ていますわね」
「は、はあ」
ジョゼフィーヌ様のきらきらした目がまぶしくて、あいまいにそんな返事をする。彼女はまったく気にしていない様子で、懐かしそうな顔で話を続けている。
「そうしてわたくしは、あの女性にすっかり憧れてしまいました。あんな女性になりたいと、心から願うようになりました。外交官として外国をめぐり、様々な国の様々な文化を目にしてみたい、そんな夢を抱くようになってしまいました。……大それた夢だと、笑ってくださいませ」
その言葉に、ようやく納得した。確かにそれは大それた夢だ。特に、彼女にとっては。
伯爵家の傍系でしかない私ですら、教師になりたいと言ったら親戚たちに渋い顔をされた。
ずっと上位の家である公爵家の令嬢である彼女が外交官として働きたいなどと言い出したら、一族みな腰を抜かすだろう。
「でもその直後に、わたくしとロジェ様との婚約が決まってしまいました。もとよりかなわぬ夢なのだと分かっていましたし、いったんはあきらめることにしたんですの」
小さく息を吐いて、ジョゼフィーヌ様は続ける。教室の中を見渡しながら。
「でもわたくしは、あの時の外交官の方への憧れを捨てることはできなかったのです。そうしてわたくしは悩み考えて、この学び舎に入ることにしたんですの」
彼女とロジェ様は同時期に入学してきた。私が入学した一か月後のことだったから、よく覚えている。あれからもう、二年近く経っている。
「ここでなら、様々なことを学ぶことができます。外交官にはなれなくとも、外交官の仕事について知ることができる、あの時の彼女に近づくことはできる。そう考えましたの」
確かに、ここで学べる内容の中には、外交官の仕事に直結するものもある。ジョゼフィーヌ様の考えは、そう外れてはいないように思えた。
「けれど……ここで他の貴族の方々と交流しながら学ぶうちに、わたくしの胸にはある思いが生まれていました。他のみなさまは自分の道を自分で選べるのに、どうしてわたくしは夢見ることすら許されないの、と」
この学び舎は貴族たちが集う場だ。しかし同時に、自分の立場に不満のある者にとっては、それ以上の意味を持つ場所でもあった。
ここでしっかりと学べば、卒業後に文官となったり、学者や教師となったり、あるいはその能力を見込んだ他の家の養子となることができる。
男爵家などの下位の家の者や、私のように傍系の者にとって、ここは新たな未来をつかみとるための場所となっていたのだ。
けれど当然ながら、貴族でも最上位の公爵家の娘であり、しかも王太子の婚約者であるジョゼフィーヌ様には関係のない話だ。それは彼女にも、分かっているだろうに。
「……わたくしだって、夢をかなえたい。一日だけでもいい、外交官になりたい。そう思ってしまったら、もういても立ってもいられなくって……」
「それで、婚約破棄されたいなどと考えられたのですね。……少々、論理が飛躍しているような気はしますが……」
「ええ。他者をいじめたせいで王太子から婚約破棄されたとなれば、わたくしは家の恥となりますわ。わたくしがどこで何をしていようと、お父様もお母様もとがめなくなるはずです。あとは死ぬ気で勉強して、外交官となれば」
しかしどうにも、ジョゼフィーヌ様の考えは甘いとしか思えなかった。そんな家の恥をさらした娘を、親たる公爵はこの学び舎に置いておくだろうか。
きっと、そうはいかないと思う。貴族でも最上位の家として、周囲に示しがつかないからだ。
ほとぼりが冷めるまでどこかに軟禁するか、あるいははるか遠くに嫁がせてしまうか。少なくとも、彼女の望む未来にはたどりつけそうもない。
けれどその可能性に、どうやら彼女は気づいていない。彼女はたくさんの人に愛されて育った、よく言えば人を疑わない、悪く言えば世間知らずなのだろう。
ああ、面倒なことになった。どうやら私は、彼女を説得しなければならないようだった。
こんな事情を知った上で放置して、そうして彼女が破滅に突き進んでいったら、たいそう寝覚めの悪いことになりそうだから。
こっそりとため息をかみ殺している私のほうを見ることなく、ジョゼフィーヌ様はしょんぼりとした顔でさらに言う。
「……けれど困ったことに、もう時間がないんですの。ロジェ様は、わたくしたちが十八歳になったらすぐに、婚礼を上げたいとおっしゃっていて……」
ロジェ様とジョゼフィーヌ様は私と同じ十七歳。ならば猶予は、あと一年弱といったところか。その焦りが、彼女をこんな奇行に走らせてしまったのだろう。
でもそういうことなら、見知らぬ私を捕まえて訳の分からない宣言をするよりも、もっと簡単な方法がありそうに思えるのだけれど。
「あの、ロジェ様はこのことをご存じなのでしょうか……あの方に協力していただくのが、一番早いような……婚礼を延期してもらうなり、なんなり……」
私はロジェ様のことをほとんど知らない。たまに同じ講義を受けていることがあるけれど、接点はそれくらいだ。真面目で立派な好青年、そんな印象しかない。
しかしジョゼフィーヌ様は、うるんだ目で首を横に振るだけだった。
「駄目ですわ。外交官の地位にある王妃なんて、聞いたこともありません。それに、そのような理由で婚礼が延期なんてことになったら、わたくしはともかく、ロジェ様がどのように思われてしまうか……」
この国では、王と王妃、そして王太子は王都を離れることはほとんどない。それは、特に根拠のない慣習でしかないけれど。
けれどみな、長きにわたってその慣習を守っていたし、疑うこともなかった。今のこの国では、王妃の座と外交官という立場とは、まるで相いれないものなのだ。
どうにもジョゼフィーヌ様は、すっかり行き詰ってしまっているようだった。最善の手は、彼女に夢をあきらめるよう、説得することなのだけれど。
「……分かりました。私でよければ、手を貸します。ただ、うまくいくとは限りませんよ」
なぜか私の口は、そんな言葉を紡ぎだしていた。言ってしまってから自分で驚く。あまりにも哀れな彼女の様子に、同情してしまったのだろうか。
しかしジョゼフィーヌ様はぱっと顔を輝かせた。まだその目は涙に濡れているけれど、それでも彼女の顔には喜びのかけらが芽生えていた。
「ありがとう、ニネット!」
「あ、あの、そのように喜ばれても、困ってしまいます……確かに力を貸すとは言いましたが、それでもあなたの夢がかなうとは限りません。むしろ、かなわない可能性のほうがはるかに高いのですが」
「いいのよ、それでも。誰かをいじめて婚約破棄に持ち込もうなんて破れかぶれの手しか浮かばなくなっていたわたくしよりも、あなたのほうがずっとずっと頼りになりますもの」
ジョゼフィーヌ様が立ち上がり、私の両手をしっかりとつかむ。花がほころぶような愛らしい笑みを浮かべて、彼女はしとやかに言った。
「これからよろしくお願いいたしますわね、ニネット!」
どうして、こんなことになってしまったのだろう。困惑と嘆きを押し殺して、静かにうなずいた。




