4.しょんぼりしている王子が一人
「ラファエル、私は何か、取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか……」
王宮の一室で、王太子ロジェは落ち込んでいた。椅子にぐったりと腰かけ、うつろに遠くを見つめている。まるで生ける屍のような、そんな姿だ。
そんな彼の向かいに座った青年、ラファエルと呼ばれた彼は、こっそりと苦笑していた。
「またずいぶんと落ち込んでるようですが、いったいどうされたんですか? 俺でよければ話を聞きますよ。……まあ、見当はついてますけどね」
ロジェに対して気安く口をきく彼はラファエル、ロジェの乳兄弟にして側近だった。つまり彼はロジェに最も近く、ロジェのことを一番知る人物なのだ。
ジョゼフィーヌがこの学び舎に入学した時、当然ながらロジェも入学した。
王太子を一人でこんなところに通わせる訳にはいかなかったので、ラファエルも入学することとなった。
そうしてジョゼフィーヌは、この学び舎で何やら一生懸命に勉強しているようだった。
ロジェもせっかくの機会なのだからと、次の王として必要になりそうなことをたいそう真面目に学んでいた。
一方のラファエルは、肩の力を抜いて気楽に学んでいた。彼は軽薄そうな見た目とは裏腹に大変優秀だったし、それほど必死にならずとも学問はこなせていた。
それよりも彼は、王太子たるロジェの身の回りで問題が起こらないか、そちらに目を光らせるのに忙しかったのだ。
当然ながらラファエルは、ジョゼフィーヌの態度がおかしくなっていることにも気づいていた。
「……ジョゼフィーヌが、冷たいのだ……何か言いたげにしているというのに、近寄ってこない……ならばと私から近づいていったら、逃げられてしまった……」
目の前の美しいテーブルに、ロジェはごんと額をつく。テーブルの上に置かれていたお茶のカップが揺れて、ソーサーにお茶が少しこぼれた。
「どうにか追いついて声をかけても、やけにそっけないし……何か気分を損ねるようなことをしたかと尋ねても、『何もありませんわ』と取りつく島もないし……」
テーブルに突っ伏したまま、ロジェは泣きそうな声でつぶやき続ける。ジョゼフィーヌの言葉を反復する時に、律義に声音をまねていた。
ラファエルが唇を引き結んで、必死に笑いをこらえている。
「ならば気晴らしに観劇にでもいかないかと誘ったら、『今忙しいんですの』と断られた……彼女が一番好きな演目だったというのに……」
普段は真面目で堂々としていて、王太子にふさわしい気品を備えているロジェだったが、今の彼はまるでべそをかいている子供のようでしかなかった。
「昨日だって、王宮の書庫にいるらしいと聞いて急ぎ足を運んでみたというのに、既にもぬけの殻だった……会いたい……ジョゼフィーヌに会いたい……」
放っておいたらどんどん落ち込んでいきそうなロジェを、ラファエルがあわてて励ます。ロジェとは長い付き合いのラファエルだったが、ロジェがここまで落ち込んでいるのは初めてだった。
「きっと昨日は、たまたま入れ違っただけですよ。最近ジョゼフィーヌ様には、新しいご友人ができたようですし、きっとそのせいですって」
「……『鉄の女』ニネットだな。この学び舎でも特に優秀で、しかし孤高を貫いていた彼女ですら友人としてしまうとは……さすがはジョゼフィーヌだ」
ロジェがばっと起き上がって、一転して嬉しそうに微笑む。そんなロジェを見ながら、ラファエルはしみじみとお茶を飲んでいた。感心しているような、あきれているような、そんな顔だ。
「本当にロジェ様は、ジョゼフィーヌ様しか見えていないんですねえ」
「ああ。彼女を一目見た時に、私は悟ったのだ。私の生涯の伴侶は、彼女を置いて他にないのだと」
「でもそれ、ロジェ様とジョセフィーヌ様が六歳の時のことですよね。俺もお二人と同い年ですけど、あの頃は伴侶だなんだって、そんなこと考えもしませんでしたよ」
「それはきっと、君がまだ運命の相手にめぐりあっていないからだ。運命の相手に出会えた時、まるで雷に打たれたような衝撃が走り……」
「はいはい、それはもう聞き飽きましたよ、ロジェ様。俺はもう十一年間それを聞いてるんですから」
ジョゼフィーヌに一目ぼれしたロジェは、周囲の大人たちを説き伏せて彼女にプロポーズした。彼らがまだ、六歳の時だった。
当時のジョゼフィーヌは、王太子の婚約者となるということが何を意味するのか、まだはっきりとは理解していなかった。それに彼女も、ロジェのことを一目で気に入っていた。だから、彼女は笑顔でプロポーズを受けたのだった。
「あれから十一年、私はただジョゼフィーヌと結ばれる日を夢見て生きてきた。……それなのに」
幸せそうな顔で思い出語りをしていたロジェが、また暗い顔になる。もう一度、ごんとテーブルに額を打ちつけた。さっきより勢いよく。
「……まさかと思うが、彼女は誰かよその男に心変わりしてしまったのだろうか……」
「ジョゼフィーヌ様に限って、それはないと思いますよ?」
「だが彼女はあの通り、この上なく魅力的な女性だ。万が一ということもある。……ラファエル、調べてはくれないだろうか……こっそりと」
「それはまあ、いいんですけど……もし、仮にですよ。間男がいたら……どうするつもりなんです?」
ラファエルがおっかなびっくり尋ねると、ロジェは突っ伏したまま力なくつぶやいた。
「私は彼女の思いを尊重する。だが……悲しくて、祝福することはできない……そうなったら、いっそ旅にでも出ようか……何もかも捨てて、ただ一人……」
王太子とは思えないその言葉に、ラファエルはぐりんと目を回して天を仰ぐ。思いっきりあきれている表情だ。
「はいはい、でしたら今からすぐに調査にかかりますよ。ロジェ様がそうへこんでいたら、この国の未来にも関わりますからね。ひとっ走り、ジョゼフィーヌ様の潔白を証明してきます。俺に任せてください」
お茶を一気に飲み干して、ラファエルが立ち上がる。それから機敏な身のこなしで、部屋を飛び出していった。
「頼んだぞ、ラファエル。君だけが頼りだ……」
すがるようなロジェの言葉を、背中で聞きながら。
ラファエルが迷うことなく向かっていったのは、王宮の書庫だった。
「さて、昨日見かけた本はどれだったか……」
昨日、彼はロジェと共にここを訪ねた。そこにジョゼフィーヌの姿はなかったが、大机の上には、本が数冊置きっぱなしになっていた。
きっと、彼らが近づいていることに気づいたジョゼフィーヌが、書庫の裏口から出ていったに違いない。ラファエルはそうあたりをつけていた。
ちょっとした調べものなら、学び舎の図書室でも事足りる。わざわざ王宮の書庫までやってきたのには、きっと訳がある。もしかしたら、そこから何かつかめるかもしれない。
「あったあった。これと……これ、それにこれだな」
ロジェの側近として、普段から周囲を観察する癖がついていたラファエルは、置きっぱなしになっていた本についてもしっかりと見ていた。書棚を探し、目的の本を取り出す。
「外国の地理や文化について書かれた本だな。ジョゼフィーヌ様、旅行にでも行きたいのか? でもそれなら、ロジェ様に内緒にする必要がないしな」
ぱらぱらと一冊目を流し読みしたラファエルが、残り二冊の表紙に目を止めて眉をひそめる。
「なんだ、これ……過去の外交記録? どう考えても、ジョゼフィーヌ様には必要のない本じゃないか。未来の王妃に、外交なんて……」
そうしてラファエルは、三冊の本を交互に見る。しばらく難しい顔で考え込んでいたが、ふと小声でつぶやいた。
「……ジョゼフィーヌ様が何をしようとしているのか、うっすら分かったような気がする。だがあくまでも、仮説の域を出ない」
自分の仮説をロジェに話すのはまだ早いと、ラファエルはそう判断していた。最悪の場合、ロジェはジョゼフィーヌ愛しさに暴走してしまう可能性もある。
大きく頭を振って、ラファエルはため息をついた。
「だったらもう、当事者に聞くしかないだろうな。ジョゼフィーヌ様を問い詰める訳にはいかないが、幸い、事情を知っていそうなのがもう一人いるし」
ラファエルは二冊の本を手に、すたすたと書庫を出ていった。
「ま、ロジェ様の命令を遂行するためだし、持ち出し禁止の決まりはこの際大目に見てもらうとするか」
静かな書庫に、彼のそんな独り言だけが静かに響いていた。




