で、結局何の肉なんです?
亜音速からの急減速に伴う慣性Gを、慣性制御魔術で無理やり相殺しきった。足裏が腐葉土の柔らかな感触を捉えると同時に、周囲の空間に展開していた排熱用の魔素膜を霧散させる。
人目に付かない雑木林。遮蔽物としての樹木の密度、街道からの距離、それらの熱源探知への耐性を計算し、ここを「着陸地点」に選定したのは正解だった。
視線を上げれば、冬の低い陽光を反射して白亜の城壁が鈍く輝いている。
【学園都市・グリランドール】
魔導工学の粋を集めた、この世界におけるエントロピー制御の最先端。
(あれからまだそんなに経っていないのに、少し懐かしさを感じるな)
脳内の演算リソースの数パーセントが、かつてここで過ごした記憶のログを不必要に走らせる。
(でも、何だかんだ一ヶ月は旅してましたからねえ……。ミコトさん、ここなら、『星霜の蒼』も冬服じゃなくても大丈夫そうです)
脳裏に響くクーリアの安堵した声。
彼女の意識が、外気温のログ――『スノー・フレーク』の氷点下から、グリランドールの穏やかな春の風への推移を読み取ったようだ。
彼女の思考に応じ、『星霜の蒼』のナノ構造が再構成を開始する。防寒用の重厚な断熱繊維が、瞬時に放熱効率を高めた軽やかな生地へと相転移し、彼女の——俺たちの身体を締め付けていた重圧が、ふわりと霧散した。
(ああ。だが、あまり目立ちすぎるなよ。この街の防壁システムは、高密度の魔素反応に対して過敏だ。俺たちの『色』が、ここの治安維持部隊のセンサーに引っかかれば、また面倒な論理戦を強いられることになるからな)
(……もう。せっかく戻ってきたんですから、少しは『ただいま』って気分に浸らせてくださいよ。……あ、ミコトさん! あそこの街道沿いにある屋台……! あの匂い、一ヶ月前と同じです!)
俺が都市の警備魔法陣の走査パターンを逆算している隣で、彼女の意識は早くも「燃料補給」という名の、極めて個人的な欲求へとシフトしていた。
どうやら、亜音速飛行の加速度も、彼女の旺盛な食欲という慣性には勝てなかったらしい。
(……チッ。空腹は判断力を鈍らせる、か。……いいだろう。まずはエミリオに通信魔法だ。安全性を確認しがてら、街のメインゲートへ向かうぞ。ただし、買い食いは『入市手続き』が済んでからだ)
(はいっ! そうと決まれば、行きましょう!)
彼女の弾むような足取りが、俺の——私たちの足を、あの懐かしくも騒がしい学園都市の喧騒へと向かわせる。
さて、この街の「熱量」は、俺たちがいない間にどれほど変化したのか。
俺は思考の片隅で、グリランドールの深層に眠る魔導回路の「共振」を、静かに探り始めた。
俺が周囲の「情報の解像度」を上げている間に、クーリアの意識はすでに入市手続きの先にある、揚げパンだか串焼きだかの屋台へと100%の演算リソースを割いているようだった。
(ミコトさん、エミリオさんへの通信はどうします? 驚かせちゃいますかね?)
(驚くどころか、あいつのことだ。また面倒な計算機資源の貸し出しでも要求してくるだろう。……起動。指向性通信魔法、暗号化プロトコル『E-01』。対象、エミリオ。……聞こえるか、エミリオ。不法投棄されたジャンクパーツのような騒がしい街の入口まで戻ってきたぞ)
脳内に展開した通信回路が、グリランドールの防壁を静かに潜り抜け、特定の波長へと接続される。
数秒の静寂の後、耳の奥で完璧なまでに調整された、美少女の声が響いた。
『ん? あれ、もう帰ってきたのかい? おかえり、どうだったエルニット山脈は?』
その甘い小鳥の囁きのような声の持ち主……中身が女子高生が好きすぎて自ら肉体を弄りまくった六十歳の変態である事に目を瞑れば、まあ、一流の魔法使いであり、科学者と言えるだろう。
「相変わらず、出力される音声データの周波数だけは完璧だな。……ああ、エルニットの山脈はエントロピーの吹き溜まりだったよ。おかげでこちらの個体保持も限界に近い。今からゲートを通過する」
耳の奥で響く、可憐な女子高生の皮を被った六十歳の怪物の声。
学園の教鞭を執り、図書館の司書を隠れ蓑にしているこの男は、その変態的な美学を貫くために「若さの固定」と「外見の変質」という、生命倫理を無視した高効率な術式を組み上げている。その一点においては、俺もエンジニアとして認めざるを得ないのが癪なところだ。
『ふふっ、相変わらず冷たいね。でも無事で何より。検問のID照合は私の方でバックドアを開けておいたから、そのままスルーしていいよ』
(別に白金の冒険者として何一つ後ろめたい事はしてないんだがな……まあ、無用に時間を割かなくて良い分、多少はマシか)
俺たちの手にある「白金の紋章」は、この大陸でも数えるほどしか存在しない最高位の証明書だ。
だが、それをまともに提示すればどうなるか。
衛兵の硬直、上官への報告、仰々しい儀礼的な出迎え……。
熱力学的に見て、それらは目的(入市)に対してあまりに不必要なロスが多すぎる。
(紋章見せるのも相手から見られる目が変わるあの瞬間、気まずいですもんね……)
内側から漏れるクーリアの苦笑まじりの念話。
彼女の繊細な情緒リソースにとって、白金ランクに向けられる「畏怖」や「好奇」の視線は、極寒の吹雪よりも体力を削るものらしい。
俺は歩調を緩めず、中央ゲートの脇にある、事務連絡用の小型魔導端末に指先を触れさせた。
エミリオが仕込んだバックドアが、俺の魔素波形を瞬時に認証する。
『――認証完了。個別コード:E-01よりリクエスト。ゲートを非公開モードで開放します。特殊メッセージを再生します。『お帰りなさいませ、特待生殿』。以上』
律儀に余計な一言を無機質に再生する合成音声と共に、石造りの壁の一部が音もなくスライドし、人一人が通れるほどの隙間を作った。
一般の入市希望者が長蛇の列を作っている表門を尻目に、俺たちは文字通り「ノイズ」として処理され、街の内部へと滑り込む。
(……ふむ、相変わらずの隠蔽精度だ。エミリオの奴、女子高生への変身願望をこじらせた結果、空間の位相をズラす隠蔽魔術に関しては、大陸で右に出る者がいないレベルまで到達してやがる)
(そんな感心しちゃダメですよ、ミコトさん。……でも、助かりました。これでやっと、落ち着いて歩けますね)
一歩踏み出せば、そこは『スノー・フレーク』の静寂とは対極にある、魔法使い達の過剰なまでの熱量の集積地。
立ち並ぶ魔導燈、飛び交う学生たちの議論の声、そして石畳を打つ無数の足音。
俺は、『星霜の蒼』の明度を街の雑踏に馴染むレベルまで落とし、図書館の深層で待ち構えているであろう「美少女(60歳)」の元へ向けて足を速めた。
街のメインストリートに一歩足を踏み入れた瞬間、全身を叩くのは情報の奔流。
スノー・フレークの静寂が「無」だとするなら、ここは「過剰」だ。空中に漂う希薄な魔素でさえ、ここでは高度な術式によって制御され、街を彩る魔導燈や広告用の幻像へと変換されている。まあそれも、ここが学びの地、学園都市としての姿と捉えるならば当然のことだが。
(……相変わらず、エントロピーの吐き出し口が多すぎる街だ。これだけの高密度魔導ネットワークを維持するだけで、本来なら周辺に魔物がゴロゴロ現れても不思議じゃないってのに、高度に計算された魔力波の相殺がそれを凝りなく調整されている。周辺の生態系にどれだけの気を配っているのか、計算するのも馬鹿らしいな)
(でもミコトさん、見てください! みんな楽しそうですよ。あの学生さんたちなんて、浮遊魔法の効率についてパンを片手に議論してます。……ああ、あのパン、美味しそう……)
(……お前のセンサーは、常に食料に優先順位を振るようにプログラムされているのか? だが、確かにこの街の空気は『ノース・ゲート』や『スノー・フレーク』とは違う。あそこには常に魔物の存在に怯え、食料の自給自足に追われ、ルナリア教や翼人族の思想にさらされ、環境的な死への恐怖があったが、ここには生の飽和がある。学び、消費し、排熱する……この循環こそが都市の生命維持装置というわけか)
俺が思考の渦に沈んでいると、どうやらクーリアは何時の間にか両手に串焼きを持っていた。
(……おい、なんだその一つ一つがアホみたいにデカい肉の串焼きは? と言うか、何の肉だ?)
(んー、分かりません。ただ、メニューの名前がなんか前に行ったお店っぽかったのでつい……)
(前に……? 因みにその名前は?)
(えーと、『お母さん! お母さんはどこ!?』でしたね)
……絶対あの店だろ!
(そのメニュー名、どう考えてもあの狂気なコンセプトの店だろうが! まさか出店まで出すほど繁盛してやがったのか……!)
俺の演算回路が一瞬、呆れと戦慄でスパークした。
かつて訪れた、客の精神衛生を逆撫でするようなネーミングセンスで一部の好事家に絶大な支持を得ているあの飲食店。まさか、魔導工学の最先端を行くグリランドールの、それもこの神聖な図書館へと続く道すがらで出くわすとは。
(あ、でもミコトさん! 相変わらず味は最高ですよ? ほら、この脂のノリ……凄く濃いのに、スパイスがちゃんと効いてて口の中でエネルギーが爆発してます!)
(……おい、歩きながらそんな高質量の熱源を摂取するな。ただでさえ情報の飽和で周囲の魔素が不安定なんだ、お前の代謝熱で余計なノイズが出るだろ! ……まあ、そのスパイスが完璧な仕事をして、脂のくどさをしっかり中和してるのは認めるが)
そう毒吐きながらも、俺はクーリアが咀嚼するたびに幸福そうに細める琥珀色の瞳を、意識の端で冷ややかに、しかし正確にモニタリングしていた。
『お母さんはどこ!?』――。
そんな不謹慎な名前を付けられた肉が一体何の種族のものか、分子レベルの解析をかければ一秒で判明するだろうが、俺はあえてそのログを遮断した。知らない方が、この後のエミリオとの論理戦に集中できるというものだ。
(……しかし、この香り、カレーっぽいな……クミンに似たスパイスがあるのか、後で調査しなければ。もしこれが、別位相の世界から流入した『異物の混じり合い』による副産物だとしたら、洒落にならん調査結果が出そうだな)
俺は鼻腔をくすぐる食欲をそそる香りを、あえて無機質なデータとして処理した。
クーリアが最後の一口を咀嚼し、幸せそうに喉を鳴らすのと同時に(ちなみに串はクーリアが捨てようとする前に俺が焼き払っている)、俺たちはエミリオの研究室の最深部、物理法則が悲鳴を上げている「臨界点」へと足を踏み入れた。
視界の端で『星屑の目』が、演算限界に近い速度で警告ログを吐き出し続ける。
空間の曲率が一定ではない。まるで熟しすぎた果実の皮が弾ける直前のように、この世界の記述が内側からの圧力で薄く引き伸ばされている。
(ミコトさん……。これ、心臓の音みたいです。ドクドクしてて、すごく苦しそう……)
(……生物的な心臓じゃない。因果の逆流だ。プラネという制御装置が、もう誤差を吸い込みきれなくなって、システム全体が異常発熱を起こしている)
俺は、一歩。
物理的に歩み寄るだけで、全身の皮膚を構成する『星霜の蒼』がチリチリと静電気を帯びるのを感じた。




