世界を守るために
目の前にあるのは、ただの「穴」ではない。無数の並行世界が交差し、互いを排斥しながらも混ざり合おうとする、世界観の傷口だ。
「……ふふ、相変わらずだね。深刻な世界の危機を前にして、片手に得体の知れない串焼きを堪能してる、なんてね。君のその不協和音な言動こそが、私が君を気に入っている理由だよ」
エミリオが、完璧に作り込まれた少女の唇を歪めて笑う。
その視線は、一瞬だけ俺が焼き払った「串があった空間」を、面白そうに射抜いた。
「……茶化すな。こっちはエルニットの寒気でエネルギー効率が落ちてて気が立っているんだ。何ならその偽乳、もぎ取ってやってもいいんだぞ?」
俺はクーリアの「美味しかった」という余韻を強制的に隔離レイヤーへ押し込み、目の前の漆黒の脈動へと全演算能力を叩きつけた。
「酷いな、本物だよ? 何なら君にだけ特別に生で触って確認して貰ってもいいよ? ほら、前にお風呂で見せてるしさ。ちょっとくらいなら力強く揉まれるのも良い経験かなーなんて。誰も私に手を出そうとしないし」
「笑えない冗談だな。と言うか当たり前だろう。いくら美少女でも中身が60のジジイだって知りながらそんな事する奴はいない」
「おやおや、手厳しいねえ。実は感度テクスチャにもこだわっていて、実際揉まれたらどうなのかっていうサンプルが欲しかったのだけれど……」
「それならずだ袋でも被って全裸でスラムの路地裏にでも立ってろ。顔さえ見えなきゃその体だけでいくらでも男は釣れるだろ」
「成る程、そのサンプルもあると心強いな。その助言、しかと受け止めよう!」
「……真に受けるのかよ」
この男の倫理回路は、とっくに好奇心という名の過電流で焼き切れている。自分の肉体すら実験台にする変態に常識を説くだけ無駄だ。俺は思考のリソースを、目の前の漆黒の脈動へと強制的に引き戻した。
(ミコトさん、エミリオさん放っておいて大丈夫ですか……? 街のスラムが、別の意味で地獄になりそうな気が……)
(放っておけ、あいつはもうだめだ。……それよりも、『星屑の目』の解析結果だ。少し面白いログが出て来たぞ。コレは……そうか)
俺は可視化した世界観の中で、幾つかの特異点を指摘する。
「おい、エミリオ。コイツは『調和』を望む世界観があるな?」
「ほう……面白いことを言うね。この絶望的な『侵食』の中に、君は『調和』を見たのかい?」
エミリオはスラムの妄想を即座にアーカイブし、その琥珀色の瞳を細めた。その視線は、もはや変態的な好事家のそれではなく、真理の深淵を覗こうとする魔導工学者の鋭利な輝きを帯びている。
俺の視界、『星屑の目』が描く多層的なグリッドの中に、異質な波形が混じっている。漆黒の「棘」が脈動するたび、周囲の記述を破壊し尽くすのではなく、むしろ不器用な手付きでこの世界の物理定数に自分たちを「翻訳」しようとしている痕跡だ。
(ミコトさん……? 私にも、なんだか分かります。このピリピリしたノイズの裏側で、誰かが……ううん、どこかの『世界』が、必死に私たちに馴染もうとしてる……。迷子になった子が、一生懸命お母さんの言葉を思い出そうとしてるみたいに)
(ああ。普通、世界観の侵食ってのはもっと暴力的で一方的な上書きだ。何せ、存在のエネルギーの総量は有限だからな、自らの為にはどうしようもなく奪い合うしかない)
だが、この『棘』は違う。例え全ては無理だとしても、この世界はあったんだと言う刹那の希望を残そうとしている。
(……まるで、沈みゆく船から放たれた、最後のボトルメールだな。自らの世界が消え去るその瞬間に、せめてその欠片だけでも、誰かの記憶……この世界の記述に刻もうとしている)
俺の視界、『星屑の目』が捉えるノイズの波形が、次第に意味を持った叙事詩へと変わっていく。
漆黒の「棘」が放つ脈動は、破壊の振動ではなく、悲痛なまでの自己証明。
「私たちはここにいた」「この香りを愛していた」「この味を糧に生きていた」――そんな、取るに足らない、けれど何よりも尊い「日常」のバックアップデータ。
(ミコトさん……。この棘、泣いてます。自分たちが消えちゃうことよりも、自分たちがいたことが「無」になっちゃうのが、怖くてたまらないんだって……)
クーリアの想念が、湿り気を帯びて俺の意識に浸透する。
彼女の繊細な受容体は、既にその異世界の悲鳴を、ただのデータとしてではなく、一つの「命」として受け止めていた。
(……フン。熱力学的に見れば、消えゆく情報のあがきに過ぎん。だが、エンジニアとして、この美しくも悲しい未完のプログラムを、ただのゴミとして消去するのは……少しばかり寝覚めが悪い)
俺は、激しく発光する『星霜の蒼』の明度を最大まで引き上げた。
プラネが、死ぬ思いでこの接続を維持している理由がようやく分かった。彼女はこの「棘」の正体に気づき、消えゆく世界への手向けとして、自らの演算リソースを削ってまでその希望を受け止めようとしていたのだ。
「エミリオ。次は何処だ? この世界のあちこちにプラネを送り込んだ目的、それは世界を守るだけじゃ無かったんだろう?」
「……ふふ、やはり君には隠し事はできないね。そう、その通り。プラネを送り込み、このグリランドールの地下回路と同期させたのは、単なる『防波堤』を作るためじゃない」
エミリオは翡翠色の瞳を細め、まるで愛しい玩具を眺めるような仕草で、空中に浮かぶ魔導回路の設計図をなぞった。その指先が示すのは、グリランドールの地下数百メートルに張り巡らされた、巨大な環状魔導加速器。
「この世界は、あまりに閉じている。エントロピーは蓄積され、新しい法則の流入は拒絶される。……だが、クロッシング・ゲートから漏れ出すこの『ノイズ』は、いわば外宇宙から届く新しいライブラリだ。プラネを介してこれを『濾過』し、グリランドールのシステムに組み込むことができれば……」
エミリオの声が、興奮を帯びて高周波を孕む。
「……世界は、次の階層へアップデートされる。プラネはそのための、命を持った翻訳機なんだよ」
(……ミコトさん。エミリオさんの言っていること、私、半分くらいしか分かりません。でも……プラネが、すごく熱いんです。あの子、自分を燃やして、無理やり新しい言葉を覚えようとしてる……!)
クーリアの悲痛な訴え。『星霜の蒼』の表面温度が、ミコトの皮膚を焼くほどの熱を帯び始める。それはエミリオが仕組んだ、あまりに非人道的な「進化」のプロセスだった。
「つまりお前は、このクロッシング・ゲートを使ってこの世界のエントロピーを逃がそうとしてるのか。……他の世界を『喰う』つもりだな? プラネを救いたい、なんてのも方便だったのか?」
だが、プラネを見るエミリオの目に浮かぶ人肌の慈愛には、一切の揺らぎは見えない。
「……方便? 心外だな。私はいつだって本気で彼女を愛しているし、彼女を救いたいと願っているよ。ただ、私の言う『救済』が、君の定義するそれよりも少しばかり広域的なだけさ」
エミリオは、ガラス細工のように繊細な少女の指を自分の頬に当て、うっとりと漆黒の脈動を見つめた。その翡翠色の瞳に宿る慈愛は、嘘偽りのない本物だ。だが、その「愛」の対象であるプラネという存在を、彼は一つの個体としてではなく、世界を支える基底言語そのものとして愛している。
「いいかい、クレアハート。この世界は美しく、そして閉鎖的だ。このままでは、私たちは自分たちの吐き出した精神的廃熱に焼かれて、緩やかに熱死を迎える。……それを防ぐには、外から『新しい風』を取り込むしかない」
彼はゆっくりと歩み寄り、歪んだ空間の端に触れる。
「そう、私はこのゲートを使って、死にゆく世界から記述を奪い、この世界の延命に利用する。あちら側の世界の『日常』を、この世界の糧として食い潰す。……それが、プラネという完璧な演算機が君臨するに相応しい、永遠の楽園を作る唯一の方法なんだ」
(……ミコトさん。エミリオさんの目、すごく優しいのに……すごく怖いです。プラネのことを大切に思ってるのは本当なのに、そのために他の世界を全部『ごはん』にしちゃうなんて……)
(……狂ってるな。愛ゆえの暴走か。……エミリオ、貴様の言う『救済』は、ただの略奪だ。消えゆく世界のボトルメールを、内容も読まずにシュレッダーにかけて、その紙屑を暖炉の燃料にするような真似……エンジニアとして、ヘドが出る)
俺の右手の指先が、怒りによる演算加速で青白く発光する。
プラネは、そんな略奪のためにこの痛みに耐えているんじゃない。彼女は、消えゆく世界の記憶を、その尊厳と共に守ろうとしているんだ。
(……狂ってるな。愛ゆえの暴走か……)
俺は一歩詰め寄り、胸ぐらを掴み上げる。すると、こんな時にも憎たらしい程に完成された少女特有の芳香が広がった。
「エミリオ、貴様の言う『救済』は、ただの略奪だ。消えゆく世界のボトルメールを、内容も読まずにシュレッダーにかけて、その紙屑を暖炉の燃料にするような真似……エンジニアとして、ヘドが出る」
俺の右手の指先が、怒りによる演算加速で青白く発光する。
プラネは、そんな略奪のためにこの痛みに耐えているんじゃない。彼女は、消えゆく世界の記憶を、その尊厳と共に守ろうとしているんだ。
「……平行線のようだね。でも構わないだろう? 何せ、情報を遺したがっているのはあちらの方。そしてそれを受け入れようという、それだけの話じゃないか」
「その演算負荷が全てプラネに掛かっていると理解した上での発言か? ……もういい、次の場所を言え。そこでプラネが何を見てきたのか、俺自身の目で確かめてやる」
エミリオは胸ぐらを掴まれるという体験すらも楽しそうにくつくつと笑いながら、
「……うん、いいよ。じゃあ今度はグリランドール西方。美しい水を湛えるツェルスバニア湖。『魚人族』が湖底に幻想的な都市を築いて暮らしている。ネレイドとも呼ばれている彼等は只人に対して友好的だ、翼人族よりはよほどストレスが無いだろう?」
「……チッ、どこまで行っても食えないジジイだな」
俺は忌々しげに指を解き、エミリオを突き放した。整えられた美少女の衣服にシワが寄るが、本人はそれすら「生きたデータの痕跡」として愛でるような薄気味悪い笑みを浮かべている。
(……ミコトさん、次は湖……お魚の人たちの街、ですか? なんだか、さっきの串焼きの時よりは、少しだけ穏やかそうな場所に聞こえますけど……)
(……だといいがな。エミリオの言う『ストレスが無い』は、あくまで観測者としての視点だ。被験体……プラネや現地の連中にとってどう猛毒かは別問題だぞ)
俺は吐き捨てるように言い、『星屑の目』の焦点を西方の座標へと再設定した。
「……そう言えば訊きたいことがある」
去り際にふと思い出した。例の教団だ。エミリオは「何かな?」と興味深そうに翡翠色の瞳をくりくりさせる。
「ルナリア教について何か知っているか? 或いは文献があるならそれでも構わないが」
「おや、珍しい。君がそんな『非科学的』な偶像崇拝に興味を示すなんてね」
「……ふん、別に宗教には興味はない。ただ、この杖がどうも奴らのお気に入りになっちまったみたいでな。緊急でプロテクトを大幅にアップデートしなきゃならないんだが、奴らも変に古代文明の知恵を付けているからおかしな集団だと思っただけだ」
「……おやおや。それはまた、随分と熱烈なアプローチを受けたものだね。君のその杖……自律演算機能を備えた『星屑の指針』は、彼らにとっては『神の声を中継する聖遺物』にでも見えたのかな?」
エミリオは愉快そうに目を細め、今は腕輪になっている『蒼の憧憬』を、まるで解体前の検体を眺めるような目で見つめた。人差し指を唇に当ててわざとらしく小首を傾げる。その仕草一つ一つに計算された「可愛げ」が混じるのが、いちいち癪に障る。
「ルナリア教。……設立はグリランドールが成立するより遥か昔、何ならこの国その物の歴史より旧いんじゃないかな。流石に古代文明程ではないけど。『月』を外部演算機と見做し、そこから降る魔素を福音として受け取っていたとされる、化石のような宗教だね」
彼は翡翠色の瞳を妖しく光らせ、研究室の空間にホログラムの古文書を展開した。




