その気になれば半日掛からないのです
「……そうですか。昨日いらしたばかりでは、把握しきれないこともありますよね」
私は努めて穏やかに言葉を返しました。
けれど、レイルさんの瞳の奥に、ほんの一瞬、探るような光が走ったのを私は見逃しませんでした。
「ええ。ですが、あちらの『未開発区域』には、最近になって中央から派遣された過激な方々……いわゆる『革新派』の人々が陣取っておりましてね。我々のような穏健な神官には、なかなか立ち入りを許してくれないのですよ」
(……過激派ね。既存の『信仰』という制御系を無視して、エネルギーを一次生産的に引き抜こうとする強硬派ってところか。……おいクーリア、面白くなってきた。神官が『知らない』って言うなら、俺たちが直接、物理的に証明してやるまでだ)
(ええっ、乗り込むつもりですか!? 私、髪を毟られるのは本当に嫌ですよ……?)
不安に駆られて、私はまた腰まで届く黒髪を無意識に指先で弄んでしまいました。
そんな私……私たちの様子を見て、レイルさんは小さく肩を竦めます。
「もし、あちらへ向かわれるのでしたら、これをお持ちなさい。少なくとも、私が『招いた客』であるという証明にはなるでしょう」
差し出されたのは、小さな氷の結晶が埋め込まれた銀の徴章。
ミコトさんの解析によれば、それ自体に特殊な術式はないものの、特定の波長の魔素を微弱に反射する「パッシブ・タグ」のような機能を持っているようです。
「……ありがとうございます、レイルさん。少し、散歩がてら覗いてみることにしますね」
私は徴章を受け取ると、丁寧にお辞儀をして本堂を後にしました。
(散歩、か。……いいぜ、精々その『散歩道』の果てに、俺の興味を引くような巨大なエントロピーの塊があることを期待してるぞ、クーリア)
(……安心しろ、クーリア。万が一奪われたとしても、この『蒼の憧憬』はお前と俺の波長に合わせて極限までチューニングされている。そもそも、膨大な魔素エネルギーを受け止めるための特注媒体だ。並の人間が触れたところで、起動シーケンスすら通らないさ)
(……それなら少しは安心ですけど。でも、力ずくで引っ張られたりしたら痛いじゃないですか……。このドレスも夜色に近いですし)
不安を隠しきれず、私は歩きながら何度も自分の長いドレスの裾を指先で確認してしまいます。
集落の外れへと向かうにつれ、建物は疎らになり、代わりに雪原のあちこちに奇妙な「杭」が打ち込まれているのが見えてきました。
その一本一本に、あのルナリア教の聖印が刻まれています。
(……チッ、古代文明を解析、流用している割には余りに杜撰な設計だな。周囲のエントロピーを無視して、強引に特定地点へ魔素をバイパスさせてやがる。この先の『開発区域』とやら、相当な熱汚染が起きてるはずだぞ)
(熱汚染……? でもミコトさん、周りはこんなに凍えるほど寒いですよ?)
(表面上の温度に騙されるな。エネルギーを無理やり引き抜けば、その反作用でどこかが歪む。過激派とやら、余程切羽詰まっているのか?)
雪煙の向こう側に、不自然に黒ずんだ巨大なテント状の構造物が現れました。
そこには、昨日の見習いさんたちが着ていた質素な法衣とは対照的な、極彩色で塗り潰されたような法衣を纏った男たちが屯しています。
「……止まれ。黒髪に琥珀色の瞳……それに、その蒼。しかも、その蒼の内に純白と赤も持っている。随分と『純度の高い』色を連れているな」
一人の男が、品定めをするような厭らしい視線を私――私たちの全身に走らせました。
その視線は私の顔ではなく、流れるような黒髪と、朝の光を吸い込んで深く沈むドレスの「蒼」に釘付けになっています。
(……クーリア、言った通りだろ? 奴らにとって『色』は単なる視覚情報じゃない。高密度のエネルギーが固定化された『資源』に見えてるんだよ。……クソ、胸糞悪いな)
(うう……ミコトさん、やっぱり帰りたくなってきました……)
私はレイルさんから預かった銀の徴章を握りしめ、強張る足に力を込めました。
(……クーリア、落ち着け。こいつらの視線が向いているのは『波長』だ。可視光スペクトルの純度が高いほど、高効率な伝導体だと盲信してやがる。熱力学的なエントロピーの増大を、色の鮮やかさで誤魔化しているだけだ)
(……そう言われても、そんな風に見られるのは怖いです……。ミコトさん、あの杭の周り、雪が黒ずんで溶けてませんか……?)
私の指摘通り、男たちが屯するテントの周囲に打ち込まれた聖印の杭は、周囲の雪を不自然に侵食していました。それは温かな融解ではなく、エネルギーを無理やり引き抜かれた末の「崩壊」に近い質感です。
「……ほう、その銀の徴章……レイルの差し金か。あのアマチュアめ、余計な『素材』を送り込んできおって」
先頭に立つ男が、吐き捨てるように言いました。彼の法衣は、幾重にも塗り重ねられた原色が混ざり合い、見る角度によってはどす黒い影を落としています。
「いいか、小娘。我ら革新派は、祈りなどという非効率な儀式には興味がない。必要なのは『高純度の色』と、それを定着させる『強固な個体』だ。……お前のその蒼、そしてその黒髪。忌まわしいが、なかなかの安定度だな」
(……はっ、笑わせるな、色の狂信者が。いつだって力で教義をねじ曲げやがる。……こうなると話にならん、ここはまくぞ)
(えっ、まくって……! ミコトさん、穏便に済ませるんじゃなかったんですか!?)
(相手はエネルギーの『略奪者』だ。交渉の余地はない。それに、この杭に繋がれた不安定な回路をこれ以上放置するのは、物理学的に見て不愉快すぎる!)
男の杖が、私の髪の先端を捉えようと空を切ります。
その瞬間、私の――私たちの内側で、ミコトさんの冷徹な計算が臨界点を超えました。
「……悪いな。あんたらの『低効率な奉納』に付き合ってやる義理はないんだ」
私の口から漏れたのは、クーリアとしての柔らかな声ではなく、ミコトさんの傲岸不遜なまでの響き。
一歩踏み込むと同時に、『星霜の蒼』の裾が、内側から溢れ出す圧倒的な魔素の圧力にバサリと大きく波打ちました。
(『星屑の目』《スター・ビット》、展開! 杭の聖印へ向けたバイパス回路を強制遮断、エネルギーを逆流させるぞ!)
周囲に浮遊していた銀色の小さな輝きが、瞬時に杭へと突き刺さります。
男たちの足元で、不自然に黒ずんでいた雪が、今度は白銀の火花を散らして爆ぜました。
「なっ、聖印が……吸い込まれた魔素が、戻って……!? 馬鹿な、そんな制御ができるはずが――!」
「熱力学の基本だ。無理やり引き抜けば、必ず反作用が生じる。あんたらの言う『色』の力、その過負荷で自壊させてやるよ」
男たちの極彩色の法衣が、逆流したエネルギーに耐えきれず、パラパラと色の破片を撒き散らして色褪せていきます。
混乱する彼らを尻目に、ミコトさんは私の脚を迷いなく動かし、新雪を蹴って一気に「開発区域」の奥へと駆け出しました。
(……ミコトさん! 後ろから何か飛んできます!)
(わかってる。追っ手は『星屑の目』で足止めする。それよりクーリア、前方だ。……見ろ、あれがこの地の『熱汚染』の正体か)
雪煙の向こう側、テントの群れを抜けた先に現れたのは、周囲の空間さえ歪んで見えるほどに巨大な、剥き出しの「大穴」でした。
そこからは、もはや「色」などという生易しいものではない、昏い、底なしのエネルギーの脈動が溢れ出していたのです。
(無様なもんだな。白を信仰する余り、白に見捨てられたか……)
ミコトさんの冷徹な呟きが、私たちの共有する意識に深く沈み込みました。
目の前に広がる巨大な「大穴」――それは単なる地形の欠損ではなく、この世界の理が物理的に破綻し、エネルギーが際限なく虚無へと零れ落ちていく傷口のようでした。
「……あ、あ、ああ……!」
後ろから追いかけてきた過激派の男たちが、その穴を前にして膝を突きます。
彼らが必死に集め、奉納しようとしていた「色」の奔流は、この大穴に吸い込まれた瞬間にその輝きを失い、ただの無機質な情報の死骸へと成り果てていました。
(……クーリア、見ろ。あの大穴の底部だ。周囲の魔素を強引に吸い込み、エントロピーを強制的に排出し続けている。あいつらが『白』と呼んでいたのは、光の三原色が混ざり合った調和じゃない。すべてのエネルギーが極限まで励起され、もはや『熱』としてさえ機能しなくなった、究極の熱死の光だ)
(……そんな……。じゃあ、このスノー・フレークの寒さは、この穴が周りの命を吸い込んでいるから……?)
私は震える手で、自身のドレス|『星霜の蒼》プラネ』の裾を握りしめました。
ミコトさんの解析が示す現実は、あまりにも救いがありません。
過激派の彼らが信じていた「進化」や「革新」は、ただこの世界の寿命を切り刻み、自分たちの足元を凍りつかせているだけだったのです。
(さて……こんだけ派手にやったんだ、すぐにずらかるぞ。混乱に乗じれば今なら訳もなく離脱出来る筈だ。飛行魔法を一時解禁する!)
(えっ!? ど、どこに行くんですか!?)
(グリランドールだ。飛行魔法なら昼前には辿り着けるだろう)
(グリランドール!? ここからじゃかなりの距離があるんじゃ……!)
(計算上、亜音速に近い巡航速度を維持すれば問題ない。このままここに居て、あの欠陥回路の爆発に巻き込まれるのは御免だからな。高度一万二千まで一気に加速するぞ、舌を噛むなよ!)
ミコトさんの思考が鋭い収束を見せた瞬間、私の――私たちの足元から、雪を蒸発させるほどの高密度な魔素が噴き上がりました。
重力制御と流体力の最適化。生活魔法の延長線上にあるとは思えない、物理法則を力ずくで書き換えるような圧倒的な推力が、私の体を天高くへと押し上げます。
「……きゃああああっ!? ミコトさん、速すぎますってば!」
(問題ない。『星霜の蒼』の張る気圧シールドが正常に作用している今は、ちょっと強めの風にしか感じないだろう?)
(速いのがこわいんですってば!)
地上で呆然と立ち尽くす極彩色の男たちが、瞬く間に豆粒のような点になり、ついには吹雪の雲海の下へと消えていきました。
突き刺すような成層圏の冷気。けれど、『星霜の蒼』が瞬時に断熱モードへと構造を変え、私の肌を優しく、そして強固に保護してくれます。
雲を突き抜け、眼下に広がる白銀の世界が湾曲し始めます。
地上でのドタバタが嘘のように、成層圏の空は深く、宇宙の淵を思わせる藍色に染まっていました。
(ひっ……、ミコトさん! 下を見たら意識が飛びそうです! 雲があんなに遠いなんて……!)
(騒ぐな、クーリア。視覚情報に惑わされるな。今の俺たちは慣性系の内側にいる。お前の平衡感覚が悲鳴を上げているのは、単なる脳のバグだ。呼吸を整えて、魔素の循環に意識を向けろ)
ミコトさんの声は、亜音速の轟音の中でも驚くほど冷静に脳内へと響きます。
私の――私たちの背後からは、超音速飛行に伴う衝撃波を魔力で中和する際に出る、薄桃色の翼状の燐光が美しく尾を引いていました。
(……それにしても、グリランドールまでこの速度で? 魔法をそんなに使い続けて、ミコトさんの計算回路は大丈夫なんですか?)
(ふん、昨夜のスープの熱量と、蓄積した魔素のポテンシャルエネルギーを考えれば、これくらいの出力維持は造作もない。むしろ、あの欠陥だらけの集落で無駄な熱交換に付き合わされる方が、よっぽどリソースの無駄遣いだったな)
相変わらずの言い草ですが、ミコトさんが私の……私たちの体を、この絶対零度の高度でも凍えさせないよう、細心の注意を払って『星霜の蒼』を制御しているのは伝わってきます。
(……でも、レイルさん、驚くでしょうね。私たちがこんな風に空へ消えていくなんて)
(あいつはあいつで、あのボイドをどうにかする算段があるんだろうさ。……よし、前方にグリランドールの魔導防壁の反応をキャッチした。減速プロセスに入るぞ。クーリア、少しだけGがかかる。耐えろよ)
(ええっ、またっ!? ……もう、ミコトさんの『少し』は全然信じられませんからねっ!)
急激な減速と共に、私の琥珀色の瞳には、遥か彼方の地平線にそびえ立つ魔導都市グリランドールの白亜の尖塔が見え始めていました。
吹雪の集落『スノー・フレーク』での出来事が、まるで遠い夢のように思えるほどの、圧倒的な速度によるフライト。
私たちの新しい物語が、また一つ、高い空の上で加速していくのを感じていました。




