第9話 できていた仕事
電話の呼び出し音が三回鳴り、通話が繋がった。
『はい、ネクストゲートキャリアの山本です』
受話器の向こうから、柔らかく落ち着いた声が聞こえてくる。任三郎は手元のキャンパスノートに目を落としながら、静かに口を開いた。
「『逆転帳』の佐藤です。今、少しお時間よろしいですか」
『あ、佐藤さん。はい、大丈夫です。佐々木さんの件で何かありましたか?』
「佐々木さんの件ではありません。現在、新しい相談を受けているところです」
任三郎は、対面の席で肩をすくめている中村航平へ視線を向けた。紘子は少し離れたデスクで、気まずそうにパソコンの画面を見つめている。先ほどの紘子の厳しい追及と、中村の萎縮。そして、中村が見せたエンジニアとしての意地。それらを時系列へ組み込むためには、任三郎たちには欠けている専門性が必要だった。
「中村さん。あなたの技術的な主張が正しいかどうか、そして会社での実績が転職市場でどう評価されるものなのか、俺たちだけでは判断できません。客観的に職務価値を整理できる専門家に協力を求めたいのですが、よろしいですか」
任三郎が確認すると、中村は少し戸惑いながらも小さく頷いた。
「……はい。僕の話を、ちゃんと聞いていただけるなら」
本人の同意を得て、任三郎は再びスマートフォンへ意識を戻した。
「山本さん。ルミナスコード株式会社という企業に勤める、二十代後半のエンジニアの案件です。試用期間での本採用拒否について調査していますが、彼の技術的な実績と、会社側の評価が大きく食い違っています。案件の初期段階ですが、職務実績と市場価値の整理をお願いできないでしょうか」
電話の向こうで、ゆき子が小さく息を吸う気配がした。まだ退職すら確定していない、会社と戦うための事実整理の段階。転職エージェントである自分に声がかかるタイミングとしては、明らかに早すぎる。その異例の依頼に、彼女が戸惑い、任三郎の意図を測りかねているような短い沈黙が流れた。
『……分かりました』
少しの間を置いて、ゆき子ははっきりと答えた。
『私でよければ、お話を聞かせてください。ただ、技術的な仕様の正しさそのものを判定することはできません。あくまで、どんな業務を担当し、どんな成果を出したかという、職歴としての整理になりますが』
「それで十分です。近いうちに時間をいただけますか」
『明日の夕方でしたら、そちらへ伺えます』
「助かります」
通話を切り、任三郎は中村へ向き直った。
「明日の夕方、彼女を交えてもう一度話を整理しましょう。あなたの五月までの成果と、仕様変更の具体的な内容について、分かる範囲で資料をまとめておいてください」
中村は真剣な顔つきで頷いた。
★★★★★★★★★★★
翌日の夕方。
神田の古い雑居ビルにある「逆転帳」に、山本ゆき子が訪れた。淡いブルーのブラウスにライトグレーのカーディガンという、柔らかく清潔感のある装いだ。
事務所の棚には、同意書や時系列表が項目ごとに美しく整理されている。紘子が案件管理担当として整備したものだ。
来客用のテーブルについたゆき子は、名刺を差し出しながら中村に穏やかに微笑みかけた。
「初めまして、ネクストゲートキャリアの山本と申します」
彼女の控えめで、決して相手を急かさない空気に、中村の強張っていた肩が少しだけ下がる。
同席している任三郎は、中村が新たに追加で持参した資料――記憶を頼りに書き出した担当案件の詳細と、仕様変更の指示メールのプリントアウト――をテーブルに広げた。
紘子は静かに応対の準備を整えると、少し離れた席からじっと面談の様子を窺っている。前日の自分の対応が中村を激しく萎縮させたことを自覚している彼女は、いつもより口数が少なく、自身の感情を持て余しているように見えた。
「中村さん。佐藤さんから、技術面では成果を出されていたと伺いました。五月までの間、具体的にどのような業務を任されていたのか、教えていただけますか」
ゆき子の問いかけは、詰問ではなく、純粋に相手の仕事を知ろうとするものだった。中村は手元のメモを見ながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……四月に入社してすぐ、顧客管理システムのバックエンド開発にアサインされました。既存のコードがかなり古くて、データベースの設計から見直さないといけない状態だったんです。僕が一部を書き直して、処理速度を改善しました」
「入社してすぐに、そこまでの改修を任されたんですね」
「はい。だから、技術的には期待されていたと思うんです。でも……五月の中旬になって、突然、営業側から仕様の追加要望が来ました」
中村の声に少しだけ熱がこもる。任三郎がペンを走らせる音が響いた。
「その追加要望というのが、問題になった『仕様変更』ですか」
任三郎の確認に、中村は頷いた。
「そうです。システムの中核に関わる部分なのに、納期は元のままで実装しろと。営業側は『画面に入力欄をひとつ増やすだけ』という認識でしたが、それを実現するにはデータベースの構造自体に手を入れなければならず、技術的に無意味なうえに、そんな継ぎ接ぎのコードを追加すればシステム全体の安定性が損なわれます。最悪の場合、稼働後にデータが欠損するリスクすらありました。だから僕は、この仕様変更は愚策だと反対しました」
中村は、テーブルに置かれた自分が送った社内チャットのプリントアウトを見つめた。そこには『相手の提案を納期を遅らせる愚策と断じる』攻撃的な文面が残されている。自分の正しさを主張するあまり、他者の理解度を配慮しない言葉の羅列だった。
「結果として、納期はどうなったんですか」
ゆき子が静かに尋ねた。中村は少し目を伏せた。
「……無理やり間に合わせました。残業もしましたし、徹夜に近い日もありました。コードは汚くなりましたけど、指定された期日までに、要求された仕様で動く状態にはしたんです。なんとか安定性も保てるように、見えないところで調整を重ねて……」
ゆき子は小さく頷き、手元のメモへ視線を落とした。
「中村さん。会社からの簡易評価フィードバックでは、六月以降に『協調性の欠如』や『スケジュール管理の甘さ』といった低評価が集中しています」
「……はい」
「でも、今の話が事実なら、中村さんは納期を破ったわけではありません。突然の仕様変更という無理な要求に対して、システムを破綻させずに期日までに稼働させた。それは『納期を守れなかった』のではなく、『厳しい条件下でタスクを完遂した』という立派な実績です」
中村が弾かれたように顔を上げた。
これまで会社から「和を乱す無能」として扱われ、前日には紘子からも厳しく指摘されて萎縮していた彼にとって、自分の仕事が「実績」として客観的に評価されたのは初めてのことだった。
「……実績、ですか」
「ええ。転職市場において、急な仕様変更に対応してシステムを納品した経験は、十分なアピールポイントになります。会社がどう評価しようと、あなたが実際にやり遂げた仕事の価値は消えません」
ゆき子の言葉に、中村の目がわずかに潤んだ。
ゆき子は彼の反応を静かに見守り、それから、テーブルの上に置かれたチャット記録へと視線を落とした。穏やかな微笑みは崩さないまま、細い指先でトゲのある文面をそっと指し示す。
「ただ、中村さん。このチャットの言葉は……少し、相手を怖がらせてしまうかもしれません」
中村の肩がビクッと跳ねた。ゆき子は急かさず、彼が言葉を受け止めるのを待ってから続けた。
「中村さんの技術的な判断は正しかったのだと思います。ですが、どんなに正しいことでも、相手を否定するような強い言葉を使ってしまえば、反発を生みます。その結果、あなたの技術や努力が正当に評価されなくなってしまうのは、中村さんご自身にとっても損なことではないでしょうか」
「……」
「会社との争いに決着がついた後も、中村さんのキャリアは続きます。次の職場で同じように評価を落とさないためにも、伝え方は少し見直す必要があると思います。どうでしょうか」
中村はチャットの文面を見つめたまま、深く息を吐き出した。そして、ゆっくりと頷いた。
「……おっしゃる通りです。僕は、自分の技術が正しいからと、相手の立場を無視していました。チームの和を乱したというのは……事実です。言い方が悪かったせいで、僕の努力まで『反抗的な態度』として処理されてしまったんだと、今なら分かります」
「分かりました」
任三郎は手元のノートにペンを走らせた。
「技術的な成果と、コミュニケーション上の問題。この二つを明確に分けて記録します。中村さんに改善すべき点があることと、会社側が適正な手続きを踏んだかどうかは別問題です」
少し離れた席で聞いていた紘子が、立ち上がって中村の席へ近づいた。彼女の手には、温かいお茶の入った湯呑みが握られている。
「……温かいお茶、淹れました。どうぞ」
紘子は少し不器用な手つきで湯呑みを置いた。彼女の顔には、生来の自尊心の高さと、前日の自分の対応への気まずさが入り混じっている。
「私も……昨日から、少し言い過ぎました。すみません」
紘子は短く頭を下げた。自分と似た欠点を持つ中村のチャットに過剰に反応してしまった自分。だが、任三郎が紘子自身の欠点と会社の不正を分けてくれたように、中村の問題と会社の処理も分けなければならない。彼女はようやく、支援する側としてのスタンスを取り戻しつつあった。
「でも、手ぶらで戦えないのは事実です。これからは、証拠になるものは全部出してください」
不器用な謝罪と、変わらない管理欲。任三郎は小さく鼻を鳴らして笑いそうになるのをこらえ、ノートの時系列に目を戻した。
「時系列を統合しましょう」
任三郎の言葉に、場が引き締まる。
「四月、入社。五月中旬、営業側からの急な仕様変更の指示。中村さんはこれに反発しつつも、期日までにシステムを納品。そして五月末、プロジェクトの打ち上げで、上司から『お前みたいなタイプはうちには合わない』と排除を匂わされる発言を受ける」
任三郎は、ペンの先で時系列の六月の欄を叩いた。
「そして六月に入り、週一回の面談という『業務改善指導』が急に始まる。同時に、簡易評価フィードバックの点数が最低点へと急落する」
「……後付け、ですね」
ゆき子が静かに呟いた。
「ええ。伊藤先生も指摘していましたが、改善計画の期間としては不自然なほど短い。会社側は、五月中旬の仕様変更で強く反発した中村さんを煙たがり、五月末の時点ですでに『本採用拒否』の結論を出していた。六月からの面談と低評価は、彼を適性不足として切り捨てるための、書類上の体裁を整えるための台本にすぎません」
任三郎の言葉に、中村は拳を強く握りしめた。自分の性格に問題があったから切られたのだと思い込んでいた事実が、会社の都合で作られたシナリオだったと気づいたのだ。
「戦える形にはなりました。あとは、会社側の正式な決定日と、この評価を作った人間を特定するだけです」
任三郎はそう言いながら、中村が追加で提出した仕様変更の指示メールのプリントアウトへ目を落とした。内容自体は先ほどの聞き取りで確認した通りだ。だが、そのメールがプリントアウトされた用紙のヘッダー部分に、不自然な文字列が印字されていることに、任三郎は気づいた。
宛先や日付とは無関係な、英数字の羅列。
『TC-O-2026-05…』
それは、単なるシステムの管理番号には見えなかった。
かつて任三郎が桐和ヒューマンキャピタルに在籍していた頃、退職勧奨支援や組織適性改善支援のプロジェクトで、顧客ごとに割り振られていたフォーマットの識別番号と酷似している。
(……やはり、桐和が絡んでいるのか?)
任三郎の胸の奥で、冷たい怒りが静かに頭をもたげ始めた。
襟華の忠告通り、憶測だけで会社へ踏み込むわけにはいかない。似た文言や番号だけでは法的な証拠にはならない。だが、この案件の背後で、あの鷺沢征司へ繋がる承認経路が動いているとしたら。
任三郎は感情を押し殺し、キャンパスノートを静かに閉じた。




